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Lesson 17 お仕置き

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「あー、すみません」

 私たちのテーブルの横を通り過ぎる店員さんに葵が声をかけた。

「デザート持って来てもらってもいいですか? 『三人分』」

 私の皿にはまだ思いっきりお肉が残っているのに、葵はそう店員さんに告げた。
 店員さんがちらりと私の皿を見たが、空になった皿だけを下げて戻って行った。

「柏木さんはまだこの後仕事があるんだよ、陽菜子ちゃん。だから早く食べちゃわないとねえ」

 少なくなったとはいえ、まだまだ残るきのこと私を交互に見つめながら葵がそう意地悪く笑んで見せた。

 ――なんか……いつもの葵に戻った気がする。


「私はいいのよ、葵君」
「いえいえ、コイツも帰ってテスト勉強しないといけないんで。ねえ、陽菜子ちゃん?」

『遊んでいる暇なんかないよねえ』

 という葵の声にならない声が飛んで来たような気がした。

「そう……ですね」

 きのこの山をじっと見つめた。
 自分でまいた種である以上、自分で刈り取らなければならない。
 それにしても、久しぶりに食べたけれど、感触も味もまったく好きになれない。

 きのこの山に手を伸ばそうとした瞬間、スマホが震える。
 LINEの通知を確認して葵を見ると、にっこり笑顔のままの彼からは『見れば?』という声なき返事がやって来た。

 通知を確認して、目が点になった。
 なぜなら、LINEは隣にいる葵から送信されたものだったから。

 ハッとして葵を見る。
 机の下に隠すようにスマホを持った彼は机に肘をつきながらニコニコしている。

『降参すれば許してあげる』

 ――なにを降参しろと? 許すってなによ? っていうか、なによ! この染み出るいやらしさは!

 もう一度葵を見る。
 彼は普段通り余裕の笑みを浮かべている。

 ――絶対に負けたくない!

 降参もしたくなければ、許してもらうなんてもってのほか。
 きのこの山とお肉を口の中に無理やり押し込んで思いっきり強く噛む。

 ――きのこの感触がなによ! 味がなによ! 負けない! 絶対に負けてなんかやらないもの!

 そう思って食べていると、またしてもスマホに通知のお知らせがやってくる。
 見たくない。
 ちらりと横目で見た葵の顔が『見ろ』とばかりにスマホを示している。
 嫌々ながら見てみれば、やっぱり送信者は葵で。

『意地っ張り』

 ――誰がこんなふうにさせてるのよ!

 そうして無理やり詰めたお肉たちが口の中からいなくなる頃、デザートが運ばれてきた。
 4種類の盛り合わせデザートは色とりどり鮮やかで、自然にほほが緩んでしまった。
 だけど食べようとしたそのとき、横から伸びてきたフォークに大好きなチョコケーキをかっさらわれる。
 見上げれば葵が一口でそれを飲み込んでいた。

「あー!」
「『お子様』にここの『大人』なビターチョコの味は早すぎますよねえ、柏木さん」

 美人さんに同意を求める葵。

 ――顔面殴りたい!

 お子様と大人を強調してくるあたりが大人げない。

 ――これが許さないってことなのね! バカ葵!

 チョコケーキを取られたことがあまりに腹立たしくて、他のケーキの味がさっぱりしなかった。

 甘いのか?
 苦いのか?
 すっぱいのか?

 ぜんぜんわからない。

 なにが食事だ。
 なにが美味しいイタメシだ。

 嫌いなきのこの味が残っているだけで、楽しくなかったし、美味しくなかった。
 次から次にケーキを口に放り込み、オレンジジュースを一気飲みして期待していたはずの食事は幕を閉じる。

 こんなことなら母親の作った料理のほうが何十倍も良かった。

「それじゃ、またね。陽菜子ちゃん」
「こちらこそ、ありがとうございました」

 ぺこりとお辞儀をする。
 葵と美人さんはその後二人でこそこそなにかを話し合っていたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。

 ――好きにすればいい、葵なんて。あの美人さんとよろしくやったらいい。食べ物の恨みが一番恐ろしいんだって葵にわからせてやるんだから!

 そう思って葵の車の助手席に乗り込むと、ぶすっとしたまま肘をついて窓の外を眺めていた。

 美人さんと笑顔で別れた葵が戻ってくる。
 エンジンをかけながら、葵が「さて、やっとふたりになれたね」と言った。

「あの自撮り写真はなぁにかな?」

 助手席の私に向きあうように上半身をこちら側に思いっきり向けながら、葵が嫌な笑みを浮かべている。
「なにって……別に葵には関係ないことじゃない」
「そう?」

 と葵が首を傾げる。

「俺には関係ないんだあ。へえ、そうなんだ」
「なによ?
「まあ、そうだよなあ。俺はヒナの『恋人』でも『彼氏』でもないもんなあ。ただの『隣の家に住むカテキョのお兄さん』だもんなあ」

 そのとおりじゃない。
 あんたがそう柏木さんに言ったんじゃない!

 そう言いたいのに……目を細めた先の葵の目があまりにも真っすぐに私を見るから、言いたい言葉が喉の奥に詰まったままになってしまう。

「あ……葵には……柏木さんみたいな人がお……お似合いだと思うわよ」
「本当にそう思う?」

 尋ねた葵の瞳に火が宿ったように見えて、ゴクリと喉が鳴った。

「ねえ、本当にそう思うの?」

 真っすぐに熱を帯びた視線が私を射抜く。

 答えられない、なにひとつ。

 お似合いだと思ったのはウソじゃない。
 だけど。本当にそう思うのかと問われたら『YES』とは答えられない。

 言葉を失ったままの私へ葵の手が伸びてくる。
 そっと頬に触れられ、顎に触れられ、唇をなぞられる。

「ちょっとお仕置きが必要かな?」


 そう言って、葵はニッと意地悪く笑って見せた。

 その顔があまりに色っぽくて、私の胸が大きく跳ね上がる。
 触れた葵の指先に灯る熱が、一気に全身へと走って行く。
 潤む瞳に混ざり込む赤く燃えたぎる炎に、心臓が鷲掴みされる――!

 葵はそんな私の顔から手を離すと、いつの間にか膝の上に落ちてしまった私の手をやんわりと握った。
 正面に向き直り、残った手でハンドルを握りしめると車を走らせる。

 すっかり日の落ちて暗くなった夜道を葵の車はなめらかに走って行く。
 いくつも、いくつも、光るヘッドライトとすれ違う。

 葵は何も言わない。
 真っすぐに前を見たままで私の顔さえ見ない。

『お仕置き』の言葉と異様なまでの緊張感に息もできなくなるくらい私の身は張り詰めて、ちょっとしたことでも糸が切れてしまいそうだった。
 車は見慣れた道を走っているはずなのに気持ちが悪くなるほど緊張していた。
 かすかに指が震えるのを知られたくなくて力を込めたら、同じくらいの力加減で葵が握ってきた。

 心臓の音が耳元でうるさくて仕方がない。
 葵に聞こえてしまいそうで、そのことにもドキドキしている私がいる。

 これが『お仕置き』なのだろうか?
 ううん、これは『お仕置き』というより『拷問』だ。

 言葉でもっといじられたほうがよっぽど反抗できるのに、このまま黙っていられてはどう出ていいのかわからない。

 なにを考えて、なにをしようとしているのかを少しでいいから教えてほしい。
 ヒントでいいから教えてほしい。
 葵はいつも私の先を考えていて、私よりも先回りしてイジワルしたり、優しくしたり。

 ――イヤだイヤだイヤだイヤだ!

 こんな自分も、黙ったまんまも、全部消え去ってしまえばいいのに!

 外を見るのもなんだか怖くなって俯いてしまう。
 目をつぶれば車のエンジン音の中に葵の息遣いが混ざって聞こえる。

「ねえ」

 と葵が言った。
 嫌な予感がゾワリとして、私は葵のほうを見ないようにした。

 ――この言葉はダメ。この言葉は絶対にダメ。この言葉だけは絶対に聞いちゃダメ!

「ねえ、陽菜子」

 ――ズルいズルいズルいズルい!

 甘い声で、囁くように耳元で、溶けてしまうほど甘い声で葵は言った。
 踏切でとまる車の運転席から息がかかるほど近くに顔を寄せた彼が私の髪をそっとすくって耳にかけなおしながら。

『ねえ、陽菜子』

 そう囁く声は悪魔みたいなのに魅惑的で、必死にこらえているものすべてを一気に崩壊させる。

 パッと葵のほうを見てしまう。

 鼻と鼻がぶつかってしまうほど近くに葵の顔がある。

「ここ」

 葵は自分の指先で頬をツンツンと指差した。
「キス」

 ドキン。
 ドキン。

 鳴るな、心臓!
 止まれ、この音!
 これは何?
 これがお仕置き?

 ――ねえ、葵!

 にっこりとほほ笑む。

「してくれたら許してあげる」
「許してもらうようなこと……」
「してないの?」

 じっと見つめてくる葵の目に後半の言葉を飲み込んだ。

 ――ねえ、葵。いったいなにに怒ってるの?

 でも葵には聞けないし、聞きたくない。
 葵が怒っているのが『ヤキモチをやいているから』だと……そんなことを『期待』している私が心の中にいることを葵には知られたくない。

 壊れそうで怖い。
 ギリギリ保っている葵とのラインを壊してしまうのが、壊れてしまうのが怖い。
 私はまだ覚悟ができていないから……

 葵にキスをしようか、それともしないままでいるか。
 決めかねている私のすぐ前で葵は小さくため息をつくと「仕方ないな」と呟いた。

「今日の俺は優しくできないからな」

 グッと強く両頬を大きな手で挟まれた。

 引き寄せられる。
 いつもと違う大人な葵ではなくて、知っている顔をしてはいるけれど違うひとりの『男』の顔をした葵がそこにいて、あの夏の日みたいに体が固まって動かなくなる。

「あお……」

 最後まで名前は呼べなかった。
 葵の顔が近づいてきて、私の口を塞ぐ。
 優しいキスなんかではなくて荒く猛々しい。
 強引な激しいキスに、息をするのもできない。
 葵が言ったように、優しさはない。
 ただ、葵の感情が流れ込んでくるかのように、激しく揺さぶられるようなキスが何度も何度も口を塞ぐ。

 重なるたびに濡れる唇。
 甘噛みされる下唇がかるい痺れを訴える。

「あお……い……」

 漏れる吐息すら飲み込んで、葵のキスに痺れて行く私。
 まるでクラゲの触手にでも当たってしまった小魚のように、全身から力が抜けて行く。

 首をもたげるこの想いはなんだろう?
 愛しさ?
 恋しさ?
 それとも……欲望?

 逃げても逃げても追いかけるように、葵はキスをした。

 その激しいキスの嵐の中で、もう二度とこの男に喧嘩は売るまいと心底思いながらも私は甘い感覚に酔いしれていた。
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