肖像

恵喜 どうこ

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親子の肖像

千佳

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「それからどうなったんですか?」

 空になったグラスにワインを注ぎながら、今年入ったばかりの宇津木は身を乗り出すように尋ねた。彼はこういう奇妙な体験談を聞くのが好きらしく、怪談イベントなどにもよく顔を出しているという。また彼はいつか怪談師になりたいようで「不思議な体験をしたことないですか?」としきりに聞いて回っていた。今回、誰にも話せなかった――実際には話をしたけれど信じてもらえず、いつしか話すこともやめてしまった――話をしたのも、こいつなら笑うことなく最後まで聞いてくれるのではないか……と思ったからだった。

「どうもこうもない。それでお終いだ」

 宇津木が注いだ赤ワインを煽る。彼は「ええ、そんなあ」と切なげに訴えた。

「井田親子はどうなったんですか? やっぱり千佳ちゃんは化け物だったんですか?」
「そんなわけあるか」と吐き捨てるように答えた。

「千佳は人間だったよ」
「そんなのおかしいじゃないですか! 片山さんの話だと、千佳は巨大な蜘蛛だったわけでしょ?」
「だから、それこそおかしいだろ。なんで人間が蜘蛛になんてなるんだ。それに切断された手が勝手に動くなんてファンタジーもいいところだ」
「ええ! じゃあ、主任の体験は夢の中のことだったってことですか?」
「夢というよりは、俺の脳が見せた幻影なんだろうな」
「幻影?」

 宇津木はますますわからないと両目をキョトンとさせた。

「本当のところを言えば、俺にもよくわからないんだ」

 七年前のあの日、たしかに井田親子の住むアパートに行ったのだ。ただ、到着したあとの記憶と、香奈枝や後からやってきた梶山から聞かされた事実に大きな差異がありすぎて、未だになにが真実だったのか曖昧なのだ。曖昧ゆえに、あの体験が夢だったとも、現実だったともつかない。
 そう続けると、宇津木は「ははあ」と顎を撫でた。

「主任はおそらく狭間の世界に迷い込んじゃったんですよ!」
「狭間の世界?」
「そうです、そうです。だって夢にしては生々しいけど、現実にしては突飛すぎるわけでしょ? 臨床体験と言えばわかりやすいでしょうかね。そういう狭間の世界は現実にももちろんリンクしてますから、現実で起こっていることがそこでは形を変えて登場しているはずなんです」
「形を変えて……か」

 なるほどな――と思った。そう解釈すると納得できる。
 香奈枝が千佳に連れられてアパートに行ったときにはもう、千鶴子は虫の息だった。頭を鈍器で殴られたらしい。倒れた千鶴子の頭のすぐ近くに、血まみれのハンマーが落ちていた。手に掛けたのは千佳だ。千鶴子にきつく叱られたことが原因だった。

『おまえなんて産まなければ、今も梶山の家で幸せに暮らせていたのに』
『バケモノ』
『おまえなんて死ねばいい』

 そう悪しざまに罵られることに耐えられなかった。だから殴った。自分は寂しかっただけなのに、母親は理解を示してくれなかった。心配させたかった。許されたかったと、千佳は香奈枝に告白した。
 しかし香奈枝は母親を見て、千佳のウソに気づいた。母親の体は傷だらけだった。いたるところに痣があったし、切り傷も、やけどもたくさんあった。見えないところにも見えるところにも、古いのも、新しいのも。
 子供が母親を虐待していたという証拠だった。千鶴子は千佳をなんとしても更生させようと試みただろう。どんなに傷つけられようと、自分に向いている内はまだ大丈夫だと。

 だが、千佳が隣のひとり暮らしの老女を手に掛けたことで、彼女の張り詰めていた糸が切れてしまった。そのせいで、本来なら言わないようなことを言ってしまった。
 逆上した千佳にひどく痛めつけられている間、千鶴子はなにを思っていたことだろう。その虚ろな瞳を見た瞬間、香奈枝はえも言われぬ恐怖に駆られた。
 ここで千佳の神経を逆なでるようなことをしでかしたら、なにをされるかわからない。千鶴子のようになるのは目に見えていると考えた彼女は大人しく千佳に従うことにした。警察官が訪問してきたときも片山のことを知らないとウソをついた。そうすれば、恋人はなにかおかしいと勘づいてくれるに違いないと信じたからだ。
 千佳は香奈枝が味方についたと子供らしく無邪気に喜んだ。香奈枝は千佳をまんまと騙せたと思って、ホッとした。

 が、千佳は賢かった。香奈枝の考えなど百も承知だった。彼女が喜んだ本当の理由は、香奈枝がウソをついたことで、恋人の片山がより一層躍起になって乗りこんでくるだろうと踏んだためだ。使える駒は多いほうがいい。そして互いを大切に思い合っている恋人同士なら尚更、互いの命のためにすんなりと千佳の要求を飲むだろうとも思った。

 片山を待つ間に千鶴子は死んだ。そこで千佳は母親の遺体を解体することにした。香奈枝に逃げられないように、彼女をビニール紐でグルグルにして自由を奪った。居間に香奈枝を置き去りにして台所へ向かう。
 手始めに首と手首を切ってみることにした。どうしたら上手に切断できるのかはすでに学習済みだったが、実際に人の体を解体するのは初めてで、千佳は興奮した。夢中になった。
 首と手首は思ったよりも労せずに切断することに成功した。それらを冷蔵庫にしまったところで、作業に飽きてしまった千佳は香奈枝とでも遊ぼうと居間に戻ってきた。
 しかし、そこに香奈枝はいなかった。代わりに下の階の老人がベランダに立っていた。
 居間には見慣れない赤いポリタンクが転がっていて、そこから透明な液体がこぼれていた。独特の臭いが漂っている。灯油だ。

「これで終わりだ」

 老人がマッチを擦って、ポリタンクの近くに放り投げた。老人が撒いた灯油に火が燃え移った。メラメラと音を立て、畳が大きな炎をあげて燃え始めた。老人がベランダ伝いに隣の部屋へ移動したので、千佳も玄関へ向かった。
 だが、玄関は動かなかった。玄関の前になにか重たい物が置かれている。そのせいで開かなかった。炎の勢いが増していく――

「俺が到着したのは、まさにその最中だったんだ。井田親子の部屋の扉からは黒煙が上がっていたんだと思う」
「それが狭間の世界では、ヘドロになっていたんですねえ。それに影の猫たちはきっと千佳がこれまでに手に掛けてきた野良猫たちでしょうね。無残に殺されて成仏できなくて仲間を欲しがっていたのかもしれません」
「そうだな。俺は極度の脱水症状と熱中症でアパートの前で倒れちまったんだが、夢の中のスマホのアラーム音は現実だと、駆けつけてくる消防車の音だったのかもしれないな」

 ふむふむと宇津木はうなずいた。

「それじゃあ、あっちの世界で主任を救ってくれたのも一階のじいさんってことですかねえ」
「いや、あの人じゃなかった。そもそも、一階には老人なんて住んでなかったんだよ」
「で、で、でも、主任も彼女さんもその人に会っていますよね? 話だってしたんじゃないんですか?」

 宇津木は顔を蒼白にさせて訊いた。

「ああ、そのとおりだ。でも、いなかった。転居したわけでもなんでもなかった。初めから、あの親子の下の部屋には誰も住んでいなかったんだよ、四年も前からな」
「四年前って……親子が引っ越してくる前からじゃないですか。なら、なんでそのじいさんは……」

 そこで宇津木はハッと目を見開いた。なにかに気づいた様子だった。

「もしかして……梶山元二郎だったんじゃ……」
「たぶん、な」

 そう答えてワインを飲み干すと立ち上がった。

「どこ行くんすか、主任!」
「ちょっとトイレ行ってくるわ」

 早く戻ってきてくださいよお、まだまだ聞きたいんですから――という宇津木の声を聞き流しながら、トイレに向かった。週末の居酒屋は混雑していて、活気に満ち溢れているが、さすがに店の一番奥ともなると、その喧騒もずいぶんと遠ざかる。

 あのとき、千佳の罠から助けてくれたのはまちがいなく元二郎その人だった。梶山から借りた写真を検めてみて気づいたのだが、それまでは千佳の傍で屈託なく笑う写真の中の彼とはまるで別人だったから、気づくことができなかった。
 おそらく元二郎も死してなお死にきれず、この世に留まっていたのだろう。孫娘がこれ以上、他人に危害を加えないように。仮にそうなった場合には、どんなに嫌われようとも、罵られようとも全力で彼女を止める気だった。そして事実、彼はそれを成し遂げた。

 今でも時々、元二郎の『行けえええ』という叫び声を思い出す。彼の後押しがなければ、今こうして悠長に酒など飲んでいられなかった。彼のおかげで悪夢から覚め、現実に戻ってこられた。
 そして、今日、宇津木に催促されるまで井田親子の話は思い出さないようにしていたが、話してよかったと思う。
 話したことによって、あの親子との間の出来事をしっかりと過去にできたのだと確信した。そうだ。もう過去のことだ。忘れても、誰にも咎められない。
 用を足し、手を洗ったところでポケットの中のスマホがぶるぶると震えた。

 『香奈枝』と表示されている。

 香奈枝とは六年前に結婚した。四年前に長女が生まれ、来月には二人目が生まれる予定だ。お腹の中の赤ん坊の性別は聞いていない。生まれてくるまでの楽しみにしておこうと、香奈枝と娘の栄美と約束をしている。
 スマホに表示された時間を見て、しまったと思った。話し込んでしまって、少し長居をしすぎていた。香奈枝が帰りが遅いことを心配したのだろう。
 急いで電話に出るとすぐに「ごめん」と告げた。
 「もうすぐ帰るから……」と続けようとして、電話の向こうの様子がおかしいことに気が付いた。

 けけけけけ……けけけけけけ……
 
 子供の嗤い声。

「栄美? どうしたんだ? ママは? なんかあったのか?」

 なあんにもないよお。それより鬼ごっこしよ? まえはとちゅうでおわっちゃったでしょ。

 その途端、ぞわりと全身が粟だった。首がすうすうと寒い。膝がしらがカクカクと震えはじめた。
 そんなはずはない。あの日、あの子は焼け焦げた死体となってアパートから出てきた。梶山の手によって手厚く供養されているはずだ。
 だが――と嫌な予感が脳をかすめた。


 元二郎が死にきれなかったように、あの子もまた死にきれなかったとしたら?


 お手洗いの電気が不規則に明滅する。
 頬の肉が緊張でブルブルと痙攣した。ごくりとつばを飲み込む。嗤い声はまだ続いている。

「千……佳……なのか?」

 そうだよ……ちかだよ……やあっと……おもいだしてくれた……

 灯りに照らされた自分の影の中から、ぬうっと少女が顔を出した。彼女は小さな手を伸ばすと、ぎゅうっとズボンのすそを握りしめて嗤った。





「ずうっと、ずうっとまってたよ。おにいちゃん」
 
 
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