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親子の肖像
不安
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帰庁する道中も、頭の中を老人の言葉が行ったり来たりを繰り返した。
――いったい、どういう意味なのか。
身動きが取れなくなると老人は言った。だから深く関わるなと。それほどまでにあの親子には問題があるのだろうか。身動きが取れなくなるとはどういうことか。老人はなにかあの親子に弱みでも握られているのか。判然としないにしても、前回よりもずいぶんと老人は話をしてくれたとは思う。
しかし、これ以上あのアパートに通い詰めたとして、今回以上に話をしてくれるとは考えにくい。彼がどうして重い口を開いたのか。おそらく警告を与えるためだ。それゆえに情報をくれたのだ。物言いは粗野だが、決して悪人ではない。その証拠に、地域猫を保護する活動をしている。むごい遺体も丁寧に埋葬している。彼の精一杯の親切を無駄にすることもない。
――わかってるさ。
ここで引くのが一番いいことくらいよくよく理解している。できるなら手を引きたい。そうできないのは、自分が『一番大切な人』を巻き込んでいるせいだ。根拠がほしい。香奈枝を千佳から引き離す材料がほしい。老人の話だけでは足りない。事実、彼女は自分の目を信じるだろう。耳を信じるだろう。キャリアを信じるだろう。それを覆すには、彼女が納得しうる根拠を提示してやることだ。
だが、どうする?
――最も身近だった人間に話を聞くまでだ。
千鶴子の元夫。千佳が小学二年生までは一緒に暮らしていたはずだ。その夫なら、誰よりも詳しく母子の話をしてくれるに違いない。離婚に至ったのも、夫の暴力だけだったのかもいささか疑わしい。
そうなると、どうやって接触すればいいのか。千佳の戸籍を追えれば、父親の名前を知ることはできる。戸籍課に頼むか。個人情報の取扱いに厳しくなっている状況で、そんなことが可能なのか。支援に必要だからと言っても、千鶴子の承諾なしには無理だと言われるだろう。だいたい、後で露呈したら面倒なことになりかねない。それは避けたい。やはり父親には接触はむずかしいか。
――いや、手はある。
千鶴子は元夫にひどい暴力を受けていたという。視力が落ちていたり、顎関節症になっていたりと、体に相当なケガを負っている。そんなひどい状況下で怒号や悲鳴が近所に轟かなかったか。警察の介入がなかったのか。親子が以前住んでいた近所に聞いてみるだけの価値はあるような気がした。
千鶴子の住民票から従前住所を調べると、市外から転居してきたことがわかった。急いで翌日の有給を取った。相当慌てて見えたらしく、班長から「ついに親御さんへ挨拶か」と揶揄された。
「そのほうがよっぽどよかったですよ」
吐き捨てるようにこぼした言葉に班長は驚いて勘ぐるように見てきたが、それ以上なにか言われることはなかった。
その日の仕事は早々に切り上げて帰宅した。午後七時前であったため、香奈枝はまだ来ていなかった。夕食はどうするかとメッセージを入れたが既読にならなかった。
仕事が忙しいのか。いろいろと困難ケースを抱えているとは言っていた。保健師の仕事も多岐にわたるし、七時頃くらいまでの残業はざらにある。打合せ中であれば、スマホを簡単に見られないのは自分も同じはずではないか。
――どうして既読にならないんだよ?
いつまでも既読がつかないスマホを握りしめる手が汗ばんだ。不安がせり上がる。高い砂の山の上に立っている気分だ。大丈夫と思っている傍から、周囲の砂を削られる感覚。見る見る足場がなくなって、今にも奈落の底に落ちていくような――
「あっれえ? 祐くん、もう帰ってたんだ?」
居間のソファに、膝に顔をうずめて座っていた自身の耳に、そんな明るい香奈枝の声が飛び込んできた。反射的に顔を上げ、声の下ほうを見る。よいしょっと肩から掛けたバッグを揺すって香奈枝が入ってきた。彼女の動きに合わせて、黒々としたカラスの羽根がくるんと揺れた。
途端に体中から力が抜けた。ぐったりとソファにもたれかかる。香奈枝はそんな姿に驚き、すぐに「ごめんね」と謝った。
「メッセージ入ったのはわかってたんだけど、既読つけなかったんだ。もう、近所まで来てたからさ」
「そっか……それならいい」
無事ならよかったという言葉は飲み込んだが、言わなくても伝わったのだろう。香奈枝は困ったように眉を八の字にさせ、隣にちょこんと腰を下ろした。そのまま片山の肩に香奈枝は頭を預けた。しばらく沈黙が流れた。片山にも何を切り出していいかわからなかった。ただじっとしていると、おずおずと香奈枝が切り出した。
「あのさ、祐くん」
「ん?」
「そんなに心配?」
心配? たしかに心配している。
でも、この不安はそれだけなのか。
――俺は……怯えている? 会ったこともないのに? 千佳の顔も知らないのに? 小学四年生の少女に? まさか……
流れる沈黙が答えになった。香奈枝は「じゃあ」と言った。
「あの親子に係るのはもうやめる。祐くんにそんな顔させてまで、ボランティアでするようなことじゃないから。ごめんね。私が出しゃばりすぎたせいで」
香奈枝を見た。目に涙を浮かべていた。その涙を隠してほほ笑んでいる。自分を気遣って、無理やり笑顔を作ったのだ。それがわかって慌てた。
「ごめん。ちがうんだ。香奈枝は悪くない。俺が悪かったんだ、ごめん」
そっと香奈枝を抱き寄せて、口づけした。そのままソファに押し倒す。
彼女の甘い香りに、堰を切るように不安な気持ちがあふれ出た。貪るように唇を奪った。自分でも止められなかった。勢いづき、荒々しく抱いても、香奈枝は抵抗しなかった。むしろ包み込むように受け入れてくれた。
香奈枝は心底、自分を思ってくれている。それなのにひどく身勝手なことをしている。彼女を気持ちの掃き溜めにした己に対する嫌悪感はもちろんあった。
けれどそれ以上に正直に打ち上げることができなかったことが後ろめたい。
『明日、井田親子が以前住んでいた町に行ってみる』
どうしても言えない一言を飲み込むように強く香奈枝を抱きしめた。
――いったい、どういう意味なのか。
身動きが取れなくなると老人は言った。だから深く関わるなと。それほどまでにあの親子には問題があるのだろうか。身動きが取れなくなるとはどういうことか。老人はなにかあの親子に弱みでも握られているのか。判然としないにしても、前回よりもずいぶんと老人は話をしてくれたとは思う。
しかし、これ以上あのアパートに通い詰めたとして、今回以上に話をしてくれるとは考えにくい。彼がどうして重い口を開いたのか。おそらく警告を与えるためだ。それゆえに情報をくれたのだ。物言いは粗野だが、決して悪人ではない。その証拠に、地域猫を保護する活動をしている。むごい遺体も丁寧に埋葬している。彼の精一杯の親切を無駄にすることもない。
――わかってるさ。
ここで引くのが一番いいことくらいよくよく理解している。できるなら手を引きたい。そうできないのは、自分が『一番大切な人』を巻き込んでいるせいだ。根拠がほしい。香奈枝を千佳から引き離す材料がほしい。老人の話だけでは足りない。事実、彼女は自分の目を信じるだろう。耳を信じるだろう。キャリアを信じるだろう。それを覆すには、彼女が納得しうる根拠を提示してやることだ。
だが、どうする?
――最も身近だった人間に話を聞くまでだ。
千鶴子の元夫。千佳が小学二年生までは一緒に暮らしていたはずだ。その夫なら、誰よりも詳しく母子の話をしてくれるに違いない。離婚に至ったのも、夫の暴力だけだったのかもいささか疑わしい。
そうなると、どうやって接触すればいいのか。千佳の戸籍を追えれば、父親の名前を知ることはできる。戸籍課に頼むか。個人情報の取扱いに厳しくなっている状況で、そんなことが可能なのか。支援に必要だからと言っても、千鶴子の承諾なしには無理だと言われるだろう。だいたい、後で露呈したら面倒なことになりかねない。それは避けたい。やはり父親には接触はむずかしいか。
――いや、手はある。
千鶴子は元夫にひどい暴力を受けていたという。視力が落ちていたり、顎関節症になっていたりと、体に相当なケガを負っている。そんなひどい状況下で怒号や悲鳴が近所に轟かなかったか。警察の介入がなかったのか。親子が以前住んでいた近所に聞いてみるだけの価値はあるような気がした。
千鶴子の住民票から従前住所を調べると、市外から転居してきたことがわかった。急いで翌日の有給を取った。相当慌てて見えたらしく、班長から「ついに親御さんへ挨拶か」と揶揄された。
「そのほうがよっぽどよかったですよ」
吐き捨てるようにこぼした言葉に班長は驚いて勘ぐるように見てきたが、それ以上なにか言われることはなかった。
その日の仕事は早々に切り上げて帰宅した。午後七時前であったため、香奈枝はまだ来ていなかった。夕食はどうするかとメッセージを入れたが既読にならなかった。
仕事が忙しいのか。いろいろと困難ケースを抱えているとは言っていた。保健師の仕事も多岐にわたるし、七時頃くらいまでの残業はざらにある。打合せ中であれば、スマホを簡単に見られないのは自分も同じはずではないか。
――どうして既読にならないんだよ?
いつまでも既読がつかないスマホを握りしめる手が汗ばんだ。不安がせり上がる。高い砂の山の上に立っている気分だ。大丈夫と思っている傍から、周囲の砂を削られる感覚。見る見る足場がなくなって、今にも奈落の底に落ちていくような――
「あっれえ? 祐くん、もう帰ってたんだ?」
居間のソファに、膝に顔をうずめて座っていた自身の耳に、そんな明るい香奈枝の声が飛び込んできた。反射的に顔を上げ、声の下ほうを見る。よいしょっと肩から掛けたバッグを揺すって香奈枝が入ってきた。彼女の動きに合わせて、黒々としたカラスの羽根がくるんと揺れた。
途端に体中から力が抜けた。ぐったりとソファにもたれかかる。香奈枝はそんな姿に驚き、すぐに「ごめんね」と謝った。
「メッセージ入ったのはわかってたんだけど、既読つけなかったんだ。もう、近所まで来てたからさ」
「そっか……それならいい」
無事ならよかったという言葉は飲み込んだが、言わなくても伝わったのだろう。香奈枝は困ったように眉を八の字にさせ、隣にちょこんと腰を下ろした。そのまま片山の肩に香奈枝は頭を預けた。しばらく沈黙が流れた。片山にも何を切り出していいかわからなかった。ただじっとしていると、おずおずと香奈枝が切り出した。
「あのさ、祐くん」
「ん?」
「そんなに心配?」
心配? たしかに心配している。
でも、この不安はそれだけなのか。
――俺は……怯えている? 会ったこともないのに? 千佳の顔も知らないのに? 小学四年生の少女に? まさか……
流れる沈黙が答えになった。香奈枝は「じゃあ」と言った。
「あの親子に係るのはもうやめる。祐くんにそんな顔させてまで、ボランティアでするようなことじゃないから。ごめんね。私が出しゃばりすぎたせいで」
香奈枝を見た。目に涙を浮かべていた。その涙を隠してほほ笑んでいる。自分を気遣って、無理やり笑顔を作ったのだ。それがわかって慌てた。
「ごめん。ちがうんだ。香奈枝は悪くない。俺が悪かったんだ、ごめん」
そっと香奈枝を抱き寄せて、口づけした。そのままソファに押し倒す。
彼女の甘い香りに、堰を切るように不安な気持ちがあふれ出た。貪るように唇を奪った。自分でも止められなかった。勢いづき、荒々しく抱いても、香奈枝は抵抗しなかった。むしろ包み込むように受け入れてくれた。
香奈枝は心底、自分を思ってくれている。それなのにひどく身勝手なことをしている。彼女を気持ちの掃き溜めにした己に対する嫌悪感はもちろんあった。
けれどそれ以上に正直に打ち上げることができなかったことが後ろめたい。
『明日、井田親子が以前住んでいた町に行ってみる』
どうしても言えない一言を飲み込むように強く香奈枝を抱きしめた。
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