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piece1 雨の放課後に出会った優しさは、恋の予感か波乱の幕開けか
相合傘と渡された黒い傘
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ザアッと激しい音を立てて、雨は次々と地面へ突き刺さっていく。
自分を抱きとめている、大きな腕。
反射的にしがみついてしまった、広い胸。
彼の着ている制服のネクタイが、目の前にある。
突然のことに、頭が働かなかった。
自分の顔が、カアっと熱くなっているのがわかる。
ドキドキと暴れる心臓を持て余し、彼女はただ、茫然としていた――
11月初旬の放課後は、冬の気配が近づいていた。
彼女の名は、橘悠里。聖マリアンヌ女学院高校の1年生だ。
遡ること、10分前。
彼女は駅までの道すがら、突然の雨に見舞われていた。
「……うわぁ」
悠里は大きな瞳を空に向け、溜め息を漏らした。
激しい雨粒が、瞬く間に彼女の柔らかな茶色の長い髪と、キャメルの制服を濡らしていく。
いつもは折り畳み傘を鞄に入れているのに、今日に限って忘れてしまっている。
悠里は、ふうっと息を吐いた。
――駅まで、走れば5分。
「……がんばろ」
悠里は走り出した。
雨粒を蹴るように全速力で走り、交差点に出たときだ。
「やっ……!」
悠里は、出会い頭に大きな人影とぶつかってしまった。
衝撃で鞄を取り落とし、悠里自身も大きくバランスを崩してしまう。
転ぶのを覚悟して、ぎゅっと身体を強張らせた悠里を、人影が力強く引き寄せる。
その人のさしていた折り畳み傘は雨の道路に横たわり、代わりに悠里の身体が、勢いよく腕の中に飛び込んでいた――
「……ごめん。大丈夫か?」
低い声が、頭上で聞こえた。
ハッとして、悠里は彼の胸から身を離す。
切れ長の黒い瞳が、少し心配そうに彼女を見つめていた。
雨は容赦なく彼の上にも降り注ぎ、あっという間に髪と制服を濡らしていく……
「……ご、ごめんなさい!」
我に返り、悠里は慌てて頭を下げた。
「俺の方こそ」
対象的に、彼の方は落ち着いた声で応えた。
そうして悠里の鞄を拾い上げ、手渡してくれる。
「本当に、すみませんでした」
もう一度、悠里は深々と頭を下げ、雨脚が強まる中を走り出そうとする。
「あ、待てよ」
「え?」
足を止め、悠里は、きょとんと振り返る。
彼は、地面に転がったままだった自分の折り畳み傘を拾いあげると、悠里に差し出した。
「持ってけ」
驚きに目を瞬かせ、悠里は彼を見上げる。
「え? でも、それじゃ貴方が……」
「いいよ」
自分が濡れてしまうのを厭わず、長い腕がそっと、悠里に傘を差し掛ける。
綺麗な黒い髪が、ぐっしょりと額に張り付いていくのを、彼は無造作に掻き上げた。
悠里は慌てて傘に手を添え、彼の方に押し戻す。
「だ、だめです、風邪引いちゃいますよ!」
「だから大丈夫だって」
ムッとしたような声とともに、再び傘が悠里の頭上にやって来る。
「だめ、だめです!」
激しさを増す雨の中、ひとつの傘を巡って押し問答をするうちに、2人は自然と相合い傘のような格好になっていた。
滑稽な状況で見つめあい、しまいには、どちらからともなく吹き出してしまう。
「……駅、だよな?」
緊張が解けたように、彼は微笑を浮かべる。
厳しく見えた切れ長の瞳は、笑うと一転して、柔らかな光を帯びた。
「じゃあ、一緒に入るか」
つられて悠里の顔も、ほころんだ。
「……はい!」
***
――勇誠学園の人だ……
濃紺のブレザーに、赤と白の差し色が入った深緑のネクタイ。
彼の制服は、悠里の通う聖マリアンヌ女学院に程近い、有名男子校のものだった。
「……まったく。人の厚意は、素直に受け取れよな」
頭上から、苦笑混じりの声が降りてきた。
「だ、だって……私のせいで、貴方が風邪を引いたら、大変ですから……」
しどろもどろになりながら、悠里は彼の横顔を見上げる――
目鼻立ちの整った端正な顔立ちに、意志の強そうな切れ長の瞳。
その瞳に、濡れた黒い髪が映える。
背が高く、長い手足が印象的な男子生徒だ。
悠里とは、頭ひとつ分くらいの身長差があるだろうか。
傘にバタバタと打ち付ける雨を聞きながら歩いていると、程なく駅に辿り着いた。
「すみません、お世話になりました」
悠里は彼を見上げてから、丁寧にお辞儀をした。
「私、聖マリアンヌ女学院の橘悠里といいます。本当にありがとうございました」
「……たちばな、ゆうり」
驚いたように、彼が自分の名前を復唱する。
「え?」
悠里が、きょとんと首を傾げると、彼は応えた。
「あ、いや……悪い」
彼は、話をはぐらかすかのように首を振った。
そして、小さな笑みを浮かべる。
「俺は、勇誠学園2年、柴崎剛士」
「シバサキ、ゴウシさん……」
何となく、彼の名を復唱した悠里に、彼――剛士の目は、ふっと和らいだ。
剛士は悠里の手に、先程までさしていた自分の折り畳み傘を握らせる。
「えっ?」
「今度こそ、受け取れよ?」
目を丸くする悠里に悪戯っぽく笑いかけ、剛士は軽やかに走り出した。
「じゃあな」
悠里が乗る電車とは、反対のホームだ。
悠里はあたふたと、持たされた黒い傘と、遠ざかっていく彼を交互に見る。
剛士は既に、ホームへと続く階段の近くまで行ってしまっていた。
「あ……」
今から悠里が走っても、彼には到底追いつけない。
意地でも彼女に傘を持たせようとする、強引な作戦だった。
有無を言わせぬ親切の差し出し方に、悠里は、笑ってしまう。
「ありがとうございます! あの、お借りしますね!」
せめてもと、悠里は、懸命に声を掛けた。
人混みに紛れていきながらも、剛士が、ひらりと片手を上げて応えてくれたのが見えた。
「ふふ……」
悠里は、彼が階段を昇り、その背中が見えなくなってしまうまで、じっと目で追いかけた。
濡れてしまった髪と制服の冷たさが気にならなくなるくらい、気持ちが温められた気がする。
悠里は、彼の黒い傘を大切に持ち直し、自分の乗る電車のホームへと歩き始めた。
***
「悠里、おはよう!」
翌朝、教室に続く廊下を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
石川彩奈。ダークカラーのロングヘアに赤いメガネが似合う、姉御肌の親友だ。
悠里は彼女を見上げ、微笑んだ。
「おはよう、彩奈!」
「昨日の雨、すごかったねえ。悠里が出てからすぐに降り出したから、心配してたんだよ!」
彩奈が大げさに天を仰いでみせた。
彼女は昨日、所属する写真部のミーティングがあり、悠里は先に下校したのだった。
「ありがと、大丈夫だったよ」
彩奈の言葉に、悠里は笑顔で応える。
「途中で勇誠学園の人とぶつかっちゃったんだけど、その人が傘に入れてくれて……」
彩奈の目の色が、変わった。
「勇誠!?」
悠里の言葉を遮り、素っ頓狂な声を上げる。
「勇誠って男子校じゃん! すごい! 悠里、意外と積極的い!」
「え? や、やだ! 違うよ」
頬を染め悠里は慌てて否定するが、彩奈は好奇に満ちた目を輝かせた。
「ぶつかったって、マンガみたいな展開じゃん! 運命の出会いってヤツだ!」
「ち、違うってば」
ニヤニヤ笑いを浮かべた彩奈を振り切るように教室に入り、悠里はあたふたと椅子に腰掛ける。
めげずに彩奈は付いて行き、前の席に陣取った。
「それでそれで? どうしたの?」
「どうもしないよ。駅ですぐ別れたし、電車も反対方向だったし……」
そこで昨日のやり取りを思い出し、悠里は首を傾げる。
「でも……」
「でも?」
すかさず彩奈が食いつく。
「私の名前を聞いて、何か驚いてたな……」
「驚いてた?」
悠里の疑問に呼応し、赤メガネの奥の瞳が怪訝そうに瞬く。
彼の少し驚いたような瞳と声が、脳裏によみがえってきた。
悠里は首を傾げ、眉をひそめる。
「どうしてだろ……」
「まあまあ、いいじゃん。レアな出会いができたんだし! で? そんなことより、その人イケメン? 今度紹介してよ!」
悠里の疑問を吹き飛ばすように、彩奈が豪快に笑った。
彼女にとっては、取るに足りない違和感だったらしい。
溜め息をつき、悠里は親友の悪ふざけをあしらった。
「そんな。名前しか知らないよ」
言いながら悠里は、袋に入れて持参してきた黒の折り畳み傘を、チラリと見た。
そう。名前と学校しか知らない。
お借りします、とは言ったものの、どうやって彼に返したらいいのだろう……
彩奈にお願いすれば、ついて来てくれると思う。
しかし、男子校に直接行き、彼を呼び出して貰うというのは、悠里にはいささかハードルが高かった。
登下校で、また偶然会えたらいいなと思い、悠里は暫くの間は傘を持ち歩こうと決めていた。
どうしても会えなかったら、本当に勇誠学園まで行くしかないかも知れない。
悠里は、彼の印象的な切れ長の瞳を思い返した。
パッと見は厳しそうに見える、強い瞳。
けれど、笑うと柔らかく輝く、優しい瞳。
『今度こそ、受け取れよ?』
そう言うと、悠里に傘を渡した。
電車から降りたら、彼もまた、雨の中を歩くはずなのに。
悠里に傘を握らせると、さっと駆け出してしまった。
少し強引で、真っ直ぐな親切。
彼の優しい声と、悪戯っぽい笑顔は、まだ鮮明に悠里の胸に残っている――
「悠里? どうしたー?」
「えっ?」
「勇誠の人のこと、考えてたんでしょー」
感慨に浸ってしまっていた悠里の顔を覗き込み、彩奈は笑う。
「もしかして、一目惚れした?」
「し、してないよ!」
悠里は慌てて、首を左右にブンブンと振る。
「あっはは! 悠里、顔真っ赤じゃーん!」
彩奈が手を叩いて言った。
「その人に会いたいなら、勇誠まで付いてってあげようか?」
「ま、まだいい!」
「まだ?」
彩奈がお腹を抱えて、本格的に笑い始める。
「じゃあ、心の準備ができたら、いつでも言ってね!」
悠里は恥ずかしさに口をつぐみ、またチラリと、折り畳み傘の入った袋に目をやった。
これを彩奈に見せれば、早速今日の放課後に行こうと言い出すに違いない。
――今日は、まだ……
悠里は、トクトクと弾む胸を押さえた。
まだ、心の準備は、できそうもない。
早く返さなくちゃと思う気持ちと、妙にドキドキしてしまう心。
2つの相反する衝動に挟まれ、何だか落ち着かない悠里だった。
***
それから、1週間後の夜のことだった。
自宅の電話が、けたたましく鳴り始めた。
またか、と悠里は肩を落とす。
そして形式的に受話器を取り耳に当てた後、そのまま何も言わず本体に降ろした。
「……また、無言電話?」
弟の悠人が、不安げに問うた。
悠里の2つ年下、中学2年生だ。
「うん。もう、嫌んなっちゃうね」
努めて軽い口調で悠里は答える。
「姉ちゃんさあ……」
振り返ると、弟の険しい瞳にぶつかった。
「大丈夫なの? これゼッタイ、姉ちゃん狙いで掛けてきてんじゃん」
悠里が答えに窮していると、弟は更に質問を投げつけてくる。
「ホントに心当たりないの? イタ電の犯人。ヤバイよこれ」
弟の苛立ちに負い目を感じながら、悠里は微かに首を横に振り、俯いた。
この1週間、毎晩のように悠里たち姉弟を悩ませているのは、不気味なイタズラ電話だった。
大半は無言だが、時折、男の荒い息遣いが聞こえる。
悠人が、『姉ちゃん狙いだ』と断言するのは、これに起因していた。
1日にかかってくる頻度も、だんだん増えていく。
昨夜は、夜中にまで電話のベルが鳴り響き、悠里たちは飛び起きる羽目になった。
「……ねえ。やっぱ、父さん母さんに相談した方が良くない?」
悠人が懸念を眉間に刻み、小さく問いかけてくる。
悠里は少し沈黙したのち、ゆっくりと首を横に振った。
「今、お母さんたちは忙しい時期だもの。心配かけたくないよ、イタ電くらいで」
''くらい''という言葉を強調し、悠里は言った。
悠里たちの両親は、同じ会社で働いている。
2人は現在、海外に長期出張中だった。
海外出張自体は、年に数度あることだ。
その度に悠里と弟は、家事などを協力し合って留守を守ってきた。
今回の出張は、大型のプロジェクトを進行していると聞いている。
そのためいつもの出張よりも長く、3か月間、両親は家を空けることになっていた。
母の方は何度か一時帰国するものの、両親揃っての帰国は、年末になる予定である。
悠里は、互いを尊敬し合い、協力して仕事をこなしていく両親のことを尊敬し、自慢に思っていた。
だからこそ、2人の邪魔をしたくない。
こんな、つまらないイタズラ電話なんかで――
悠里は内心で、その決意を新たにする。
「……でもさあ、姉ちゃん」
「大丈夫、大丈夫!」
まだ不満げに食い下がってくる弟に、悠里は無理に口角を上げてみせた。
「ほっとけば、そのうち掛かってこなくなるって!」
――しっかりしなきゃ。弟に心配かけちゃダメだ。
不安をぎゅっと押さえ込み、悠里は、にっこりと微笑んでみせた。
自分を抱きとめている、大きな腕。
反射的にしがみついてしまった、広い胸。
彼の着ている制服のネクタイが、目の前にある。
突然のことに、頭が働かなかった。
自分の顔が、カアっと熱くなっているのがわかる。
ドキドキと暴れる心臓を持て余し、彼女はただ、茫然としていた――
11月初旬の放課後は、冬の気配が近づいていた。
彼女の名は、橘悠里。聖マリアンヌ女学院高校の1年生だ。
遡ること、10分前。
彼女は駅までの道すがら、突然の雨に見舞われていた。
「……うわぁ」
悠里は大きな瞳を空に向け、溜め息を漏らした。
激しい雨粒が、瞬く間に彼女の柔らかな茶色の長い髪と、キャメルの制服を濡らしていく。
いつもは折り畳み傘を鞄に入れているのに、今日に限って忘れてしまっている。
悠里は、ふうっと息を吐いた。
――駅まで、走れば5分。
「……がんばろ」
悠里は走り出した。
雨粒を蹴るように全速力で走り、交差点に出たときだ。
「やっ……!」
悠里は、出会い頭に大きな人影とぶつかってしまった。
衝撃で鞄を取り落とし、悠里自身も大きくバランスを崩してしまう。
転ぶのを覚悟して、ぎゅっと身体を強張らせた悠里を、人影が力強く引き寄せる。
その人のさしていた折り畳み傘は雨の道路に横たわり、代わりに悠里の身体が、勢いよく腕の中に飛び込んでいた――
「……ごめん。大丈夫か?」
低い声が、頭上で聞こえた。
ハッとして、悠里は彼の胸から身を離す。
切れ長の黒い瞳が、少し心配そうに彼女を見つめていた。
雨は容赦なく彼の上にも降り注ぎ、あっという間に髪と制服を濡らしていく……
「……ご、ごめんなさい!」
我に返り、悠里は慌てて頭を下げた。
「俺の方こそ」
対象的に、彼の方は落ち着いた声で応えた。
そうして悠里の鞄を拾い上げ、手渡してくれる。
「本当に、すみませんでした」
もう一度、悠里は深々と頭を下げ、雨脚が強まる中を走り出そうとする。
「あ、待てよ」
「え?」
足を止め、悠里は、きょとんと振り返る。
彼は、地面に転がったままだった自分の折り畳み傘を拾いあげると、悠里に差し出した。
「持ってけ」
驚きに目を瞬かせ、悠里は彼を見上げる。
「え? でも、それじゃ貴方が……」
「いいよ」
自分が濡れてしまうのを厭わず、長い腕がそっと、悠里に傘を差し掛ける。
綺麗な黒い髪が、ぐっしょりと額に張り付いていくのを、彼は無造作に掻き上げた。
悠里は慌てて傘に手を添え、彼の方に押し戻す。
「だ、だめです、風邪引いちゃいますよ!」
「だから大丈夫だって」
ムッとしたような声とともに、再び傘が悠里の頭上にやって来る。
「だめ、だめです!」
激しさを増す雨の中、ひとつの傘を巡って押し問答をするうちに、2人は自然と相合い傘のような格好になっていた。
滑稽な状況で見つめあい、しまいには、どちらからともなく吹き出してしまう。
「……駅、だよな?」
緊張が解けたように、彼は微笑を浮かべる。
厳しく見えた切れ長の瞳は、笑うと一転して、柔らかな光を帯びた。
「じゃあ、一緒に入るか」
つられて悠里の顔も、ほころんだ。
「……はい!」
***
――勇誠学園の人だ……
濃紺のブレザーに、赤と白の差し色が入った深緑のネクタイ。
彼の制服は、悠里の通う聖マリアンヌ女学院に程近い、有名男子校のものだった。
「……まったく。人の厚意は、素直に受け取れよな」
頭上から、苦笑混じりの声が降りてきた。
「だ、だって……私のせいで、貴方が風邪を引いたら、大変ですから……」
しどろもどろになりながら、悠里は彼の横顔を見上げる――
目鼻立ちの整った端正な顔立ちに、意志の強そうな切れ長の瞳。
その瞳に、濡れた黒い髪が映える。
背が高く、長い手足が印象的な男子生徒だ。
悠里とは、頭ひとつ分くらいの身長差があるだろうか。
傘にバタバタと打ち付ける雨を聞きながら歩いていると、程なく駅に辿り着いた。
「すみません、お世話になりました」
悠里は彼を見上げてから、丁寧にお辞儀をした。
「私、聖マリアンヌ女学院の橘悠里といいます。本当にありがとうございました」
「……たちばな、ゆうり」
驚いたように、彼が自分の名前を復唱する。
「え?」
悠里が、きょとんと首を傾げると、彼は応えた。
「あ、いや……悪い」
彼は、話をはぐらかすかのように首を振った。
そして、小さな笑みを浮かべる。
「俺は、勇誠学園2年、柴崎剛士」
「シバサキ、ゴウシさん……」
何となく、彼の名を復唱した悠里に、彼――剛士の目は、ふっと和らいだ。
剛士は悠里の手に、先程までさしていた自分の折り畳み傘を握らせる。
「えっ?」
「今度こそ、受け取れよ?」
目を丸くする悠里に悪戯っぽく笑いかけ、剛士は軽やかに走り出した。
「じゃあな」
悠里が乗る電車とは、反対のホームだ。
悠里はあたふたと、持たされた黒い傘と、遠ざかっていく彼を交互に見る。
剛士は既に、ホームへと続く階段の近くまで行ってしまっていた。
「あ……」
今から悠里が走っても、彼には到底追いつけない。
意地でも彼女に傘を持たせようとする、強引な作戦だった。
有無を言わせぬ親切の差し出し方に、悠里は、笑ってしまう。
「ありがとうございます! あの、お借りしますね!」
せめてもと、悠里は、懸命に声を掛けた。
人混みに紛れていきながらも、剛士が、ひらりと片手を上げて応えてくれたのが見えた。
「ふふ……」
悠里は、彼が階段を昇り、その背中が見えなくなってしまうまで、じっと目で追いかけた。
濡れてしまった髪と制服の冷たさが気にならなくなるくらい、気持ちが温められた気がする。
悠里は、彼の黒い傘を大切に持ち直し、自分の乗る電車のホームへと歩き始めた。
***
「悠里、おはよう!」
翌朝、教室に続く廊下を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
石川彩奈。ダークカラーのロングヘアに赤いメガネが似合う、姉御肌の親友だ。
悠里は彼女を見上げ、微笑んだ。
「おはよう、彩奈!」
「昨日の雨、すごかったねえ。悠里が出てからすぐに降り出したから、心配してたんだよ!」
彩奈が大げさに天を仰いでみせた。
彼女は昨日、所属する写真部のミーティングがあり、悠里は先に下校したのだった。
「ありがと、大丈夫だったよ」
彩奈の言葉に、悠里は笑顔で応える。
「途中で勇誠学園の人とぶつかっちゃったんだけど、その人が傘に入れてくれて……」
彩奈の目の色が、変わった。
「勇誠!?」
悠里の言葉を遮り、素っ頓狂な声を上げる。
「勇誠って男子校じゃん! すごい! 悠里、意外と積極的い!」
「え? や、やだ! 違うよ」
頬を染め悠里は慌てて否定するが、彩奈は好奇に満ちた目を輝かせた。
「ぶつかったって、マンガみたいな展開じゃん! 運命の出会いってヤツだ!」
「ち、違うってば」
ニヤニヤ笑いを浮かべた彩奈を振り切るように教室に入り、悠里はあたふたと椅子に腰掛ける。
めげずに彩奈は付いて行き、前の席に陣取った。
「それでそれで? どうしたの?」
「どうもしないよ。駅ですぐ別れたし、電車も反対方向だったし……」
そこで昨日のやり取りを思い出し、悠里は首を傾げる。
「でも……」
「でも?」
すかさず彩奈が食いつく。
「私の名前を聞いて、何か驚いてたな……」
「驚いてた?」
悠里の疑問に呼応し、赤メガネの奥の瞳が怪訝そうに瞬く。
彼の少し驚いたような瞳と声が、脳裏によみがえってきた。
悠里は首を傾げ、眉をひそめる。
「どうしてだろ……」
「まあまあ、いいじゃん。レアな出会いができたんだし! で? そんなことより、その人イケメン? 今度紹介してよ!」
悠里の疑問を吹き飛ばすように、彩奈が豪快に笑った。
彼女にとっては、取るに足りない違和感だったらしい。
溜め息をつき、悠里は親友の悪ふざけをあしらった。
「そんな。名前しか知らないよ」
言いながら悠里は、袋に入れて持参してきた黒の折り畳み傘を、チラリと見た。
そう。名前と学校しか知らない。
お借りします、とは言ったものの、どうやって彼に返したらいいのだろう……
彩奈にお願いすれば、ついて来てくれると思う。
しかし、男子校に直接行き、彼を呼び出して貰うというのは、悠里にはいささかハードルが高かった。
登下校で、また偶然会えたらいいなと思い、悠里は暫くの間は傘を持ち歩こうと決めていた。
どうしても会えなかったら、本当に勇誠学園まで行くしかないかも知れない。
悠里は、彼の印象的な切れ長の瞳を思い返した。
パッと見は厳しそうに見える、強い瞳。
けれど、笑うと柔らかく輝く、優しい瞳。
『今度こそ、受け取れよ?』
そう言うと、悠里に傘を渡した。
電車から降りたら、彼もまた、雨の中を歩くはずなのに。
悠里に傘を握らせると、さっと駆け出してしまった。
少し強引で、真っ直ぐな親切。
彼の優しい声と、悪戯っぽい笑顔は、まだ鮮明に悠里の胸に残っている――
「悠里? どうしたー?」
「えっ?」
「勇誠の人のこと、考えてたんでしょー」
感慨に浸ってしまっていた悠里の顔を覗き込み、彩奈は笑う。
「もしかして、一目惚れした?」
「し、してないよ!」
悠里は慌てて、首を左右にブンブンと振る。
「あっはは! 悠里、顔真っ赤じゃーん!」
彩奈が手を叩いて言った。
「その人に会いたいなら、勇誠まで付いてってあげようか?」
「ま、まだいい!」
「まだ?」
彩奈がお腹を抱えて、本格的に笑い始める。
「じゃあ、心の準備ができたら、いつでも言ってね!」
悠里は恥ずかしさに口をつぐみ、またチラリと、折り畳み傘の入った袋に目をやった。
これを彩奈に見せれば、早速今日の放課後に行こうと言い出すに違いない。
――今日は、まだ……
悠里は、トクトクと弾む胸を押さえた。
まだ、心の準備は、できそうもない。
早く返さなくちゃと思う気持ちと、妙にドキドキしてしまう心。
2つの相反する衝動に挟まれ、何だか落ち着かない悠里だった。
***
それから、1週間後の夜のことだった。
自宅の電話が、けたたましく鳴り始めた。
またか、と悠里は肩を落とす。
そして形式的に受話器を取り耳に当てた後、そのまま何も言わず本体に降ろした。
「……また、無言電話?」
弟の悠人が、不安げに問うた。
悠里の2つ年下、中学2年生だ。
「うん。もう、嫌んなっちゃうね」
努めて軽い口調で悠里は答える。
「姉ちゃんさあ……」
振り返ると、弟の険しい瞳にぶつかった。
「大丈夫なの? これゼッタイ、姉ちゃん狙いで掛けてきてんじゃん」
悠里が答えに窮していると、弟は更に質問を投げつけてくる。
「ホントに心当たりないの? イタ電の犯人。ヤバイよこれ」
弟の苛立ちに負い目を感じながら、悠里は微かに首を横に振り、俯いた。
この1週間、毎晩のように悠里たち姉弟を悩ませているのは、不気味なイタズラ電話だった。
大半は無言だが、時折、男の荒い息遣いが聞こえる。
悠人が、『姉ちゃん狙いだ』と断言するのは、これに起因していた。
1日にかかってくる頻度も、だんだん増えていく。
昨夜は、夜中にまで電話のベルが鳴り響き、悠里たちは飛び起きる羽目になった。
「……ねえ。やっぱ、父さん母さんに相談した方が良くない?」
悠人が懸念を眉間に刻み、小さく問いかけてくる。
悠里は少し沈黙したのち、ゆっくりと首を横に振った。
「今、お母さんたちは忙しい時期だもの。心配かけたくないよ、イタ電くらいで」
''くらい''という言葉を強調し、悠里は言った。
悠里たちの両親は、同じ会社で働いている。
2人は現在、海外に長期出張中だった。
海外出張自体は、年に数度あることだ。
その度に悠里と弟は、家事などを協力し合って留守を守ってきた。
今回の出張は、大型のプロジェクトを進行していると聞いている。
そのためいつもの出張よりも長く、3か月間、両親は家を空けることになっていた。
母の方は何度か一時帰国するものの、両親揃っての帰国は、年末になる予定である。
悠里は、互いを尊敬し合い、協力して仕事をこなしていく両親のことを尊敬し、自慢に思っていた。
だからこそ、2人の邪魔をしたくない。
こんな、つまらないイタズラ電話なんかで――
悠里は内心で、その決意を新たにする。
「……でもさあ、姉ちゃん」
「大丈夫、大丈夫!」
まだ不満げに食い下がってくる弟に、悠里は無理に口角を上げてみせた。
「ほっとけば、そのうち掛かってこなくなるって!」
――しっかりしなきゃ。弟に心配かけちゃダメだ。
不安をぎゅっと押さえ込み、悠里は、にっこりと微笑んでみせた。
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2人のなれそめに、ご興味を持ってくださったら、
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★1
『私の恋はドキドキと、貴方への恋を刻む』
ストーカーに襲われた女子高の生徒を救う男子高のバスケ部イケメンの話
★2
『2人の日常を積み重ねて。恋のトラウマ、一緒に乗り越えましょう』
剛士と元彼女とのトラウマの話
★3
『友だち以上恋人未満の貴方に甘い甘いサプライズを』
2/14バレンタインデーは、剛士の誕生日だった!
親友たちとともに仕掛ける、甘い甘いバースデーサプライズの話
★4
『恋の試練は元カノじゃなく、元カノの親友だった件』
恋人秒読みと思われた悠里と剛士の間に立ち塞がる、元カノの親友という試練のお話
2人の心が試される、辛くて長い試練の始まりです…
よろしくお願いします!
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