上 下
1 / 25
piece1 雨の放課後に出会った優しさは、恋の予感か波乱の幕開けか

相合傘と渡された黒い傘

しおりを挟む
ザアッと激しい音を立てて、雨は次々と地面へ突き刺さっていく。
自分を抱きとめている、大きな腕。
反射的にしがみついてしまった、広い胸。
彼の着ている制服のネクタイが、目の前にある。

突然のことに、頭が働かなかった。
自分の顔が、カアっと熱くなっているのがわかる。
ドキドキと暴れる心臓を持て余し、彼女はただ、茫然としていた――


11月初旬の放課後は、冬の気配が近づいていた。
彼女の名は、橘悠里。聖マリアンヌ女学院高校の1年生だ。

遡ること、10分前。
彼女は駅までの道すがら、突然の雨に見舞われていた。

「……うわぁ」
悠里は大きな瞳を空に向け、溜め息を漏らした。
激しい雨粒が、瞬く間に彼女の柔らかな茶色の長い髪と、キャメルの制服を濡らしていく。


いつもは折り畳み傘を鞄に入れているのに、今日に限って忘れてしまっている。
悠里は、ふうっと息を吐いた。

――駅まで、走れば5分。
「……がんばろ」
悠里は走り出した。


雨粒を蹴るように全速力で走り、交差点に出たときだ。
「やっ……!」
悠里は、出会い頭に大きな人影とぶつかってしまった。
衝撃で鞄を取り落とし、悠里自身も大きくバランスを崩してしまう。

転ぶのを覚悟して、ぎゅっと身体を強張らせた悠里を、人影が力強く引き寄せる。
その人のさしていた折り畳み傘は雨の道路に横たわり、代わりに悠里の身体が、勢いよく腕の中に飛び込んでいた――


「……ごめん。大丈夫か?」
低い声が、頭上で聞こえた。
ハッとして、悠里は彼の胸から身を離す。
切れ長の黒い瞳が、少し心配そうに彼女を見つめていた。

雨は容赦なく彼の上にも降り注ぎ、あっという間に髪と制服を濡らしていく……


「……ご、ごめんなさい!」
我に返り、悠里は慌てて頭を下げた。
「俺の方こそ」
対象的に、彼の方は落ち着いた声で応えた。
そうして悠里の鞄を拾い上げ、手渡してくれる。

「本当に、すみませんでした」
もう一度、悠里は深々と頭を下げ、雨脚が強まる中を走り出そうとする。

「あ、待てよ」
「え?」
足を止め、悠里は、きょとんと振り返る。


彼は、地面に転がったままだった自分の折り畳み傘を拾いあげると、悠里に差し出した。
「持ってけ」
驚きに目を瞬かせ、悠里は彼を見上げる。
「え? でも、それじゃ貴方が……」
「いいよ」
自分が濡れてしまうのを厭わず、長い腕がそっと、悠里に傘を差し掛ける。
綺麗な黒い髪が、ぐっしょりと額に張り付いていくのを、彼は無造作に掻き上げた。

悠里は慌てて傘に手を添え、彼の方に押し戻す。
「だ、だめです、風邪引いちゃいますよ!」
「だから大丈夫だって」
ムッとしたような声とともに、再び傘が悠里の頭上にやって来る。
「だめ、だめです!」


激しさを増す雨の中、ひとつの傘を巡って押し問答をするうちに、2人は自然と相合い傘のような格好になっていた。
滑稽な状況で見つめあい、しまいには、どちらからともなく吹き出してしまう。


「……駅、だよな?」
緊張が解けたように、彼は微笑を浮かべる。
厳しく見えた切れ長の瞳は、笑うと一転して、柔らかな光を帯びた。

「じゃあ、一緒に入るか」
つられて悠里の顔も、ほころんだ。
「……はい!」  


***


――勇誠学園の人だ……

濃紺のブレザーに、赤と白の差し色が入った深緑のネクタイ。
彼の制服は、悠里の通う聖マリアンヌ女学院に程近い、有名男子校のものだった。


「……まったく。人の厚意は、素直に受け取れよな」
頭上から、苦笑混じりの声が降りてきた。
「だ、だって……私のせいで、貴方が風邪を引いたら、大変ですから……」
しどろもどろになりながら、悠里は彼の横顔を見上げる――


目鼻立ちの整った端正な顔立ちに、意志の強そうな切れ長の瞳。
その瞳に、濡れた黒い髪が映える。
背が高く、長い手足が印象的な男子生徒だ。
悠里とは、頭ひとつ分くらいの身長差があるだろうか。  


傘にバタバタと打ち付ける雨を聞きながら歩いていると、程なく駅に辿り着いた。

「すみません、お世話になりました」
悠里は彼を見上げてから、丁寧にお辞儀をした。
「私、聖マリアンヌ女学院の橘悠里といいます。本当にありがとうございました」


「……たちばな、ゆうり」

驚いたように、彼が自分の名前を復唱する。
「え?」
悠里が、きょとんと首を傾げると、彼は応えた。
「あ、いや……悪い」

彼は、話をはぐらかすかのように首を振った。
そして、小さな笑みを浮かべる。
「俺は、勇誠学園2年、柴崎剛士」
「シバサキ、ゴウシさん……」

何となく、彼の名を復唱した悠里に、彼――剛士の目は、ふっと和らいだ。


剛士は悠里の手に、先程までさしていた自分の折り畳み傘を握らせる。
「えっ?」
「今度こそ、受け取れよ?」
目を丸くする悠里に悪戯っぽく笑いかけ、剛士は軽やかに走り出した。
「じゃあな」

悠里が乗る電車とは、反対のホームだ。
悠里はあたふたと、持たされた黒い傘と、遠ざかっていく彼を交互に見る。
剛士は既に、ホームへと続く階段の近くまで行ってしまっていた。


「あ……」
今から悠里が走っても、彼には到底追いつけない。
意地でも彼女に傘を持たせようとする、強引な作戦だった。

有無を言わせぬ親切の差し出し方に、悠里は、笑ってしまう。
「ありがとうございます! あの、お借りしますね!」
せめてもと、悠里は、懸命に声を掛けた。

人混みに紛れていきながらも、剛士が、ひらりと片手を上げて応えてくれたのが見えた。


「ふふ……」
悠里は、彼が階段を昇り、その背中が見えなくなってしまうまで、じっと目で追いかけた。

濡れてしまった髪と制服の冷たさが気にならなくなるくらい、気持ちが温められた気がする。
悠里は、彼の黒い傘を大切に持ち直し、自分の乗る電車のホームへと歩き始めた。



***



「悠里、おはよう!」
翌朝、教室に続く廊下を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。

石川彩奈。ダークカラーのロングヘアに赤いメガネが似合う、姉御肌の親友だ。
悠里は彼女を見上げ、微笑んだ。
「おはよう、彩奈!」
「昨日の雨、すごかったねえ。悠里が出てからすぐに降り出したから、心配してたんだよ!」
彩奈が大げさに天を仰いでみせた。


彼女は昨日、所属する写真部のミーティングがあり、悠里は先に下校したのだった。
「ありがと、大丈夫だったよ」
彩奈の言葉に、悠里は笑顔で応える。
「途中で勇誠学園の人とぶつかっちゃったんだけど、その人が傘に入れてくれて……」

彩奈の目の色が、変わった。
「勇誠!?」
悠里の言葉を遮り、素っ頓狂な声を上げる。
「勇誠って男子校じゃん! すごい! 悠里、意外と積極的い!」
「え? や、やだ! 違うよ」
頬を染め悠里は慌てて否定するが、彩奈は好奇に満ちた目を輝かせた。
「ぶつかったって、マンガみたいな展開じゃん! 運命の出会いってヤツだ!」
「ち、違うってば」

ニヤニヤ笑いを浮かべた彩奈を振り切るように教室に入り、悠里はあたふたと椅子に腰掛ける。
めげずに彩奈は付いて行き、前の席に陣取った。
「それでそれで? どうしたの?」
「どうもしないよ。駅ですぐ別れたし、電車も反対方向だったし……」


そこで昨日のやり取りを思い出し、悠里は首を傾げる。
「でも……」
「でも?」
すかさず彩奈が食いつく。

「私の名前を聞いて、何か驚いてたな……」
「驚いてた?」
悠里の疑問に呼応し、赤メガネの奥の瞳が怪訝そうに瞬く。

彼の少し驚いたような瞳と声が、脳裏によみがえってきた。
悠里は首を傾げ、眉をひそめる。
「どうしてだろ……」
「まあまあ、いいじゃん。レアな出会いができたんだし! で? そんなことより、その人イケメン? 今度紹介してよ!」

悠里の疑問を吹き飛ばすように、彩奈が豪快に笑った。
彼女にとっては、取るに足りない違和感だったらしい。
溜め息をつき、悠里は親友の悪ふざけをあしらった。
「そんな。名前しか知らないよ」
言いながら悠里は、袋に入れて持参してきた黒の折り畳み傘を、チラリと見た。


そう。名前と学校しか知らない。
お借りします、とは言ったものの、どうやって彼に返したらいいのだろう……


彩奈にお願いすれば、ついて来てくれると思う。
しかし、男子校に直接行き、彼を呼び出して貰うというのは、悠里にはいささかハードルが高かった。

登下校で、また偶然会えたらいいなと思い、悠里は暫くの間は傘を持ち歩こうと決めていた。
どうしても会えなかったら、本当に勇誠学園まで行くしかないかも知れない。


悠里は、彼の印象的な切れ長の瞳を思い返した。
パッと見は厳しそうに見える、強い瞳。
けれど、笑うと柔らかく輝く、優しい瞳。


『今度こそ、受け取れよ?』

そう言うと、悠里に傘を渡した。
電車から降りたら、彼もまた、雨の中を歩くはずなのに。
悠里に傘を握らせると、さっと駆け出してしまった。

少し強引で、真っ直ぐな親切。
彼の優しい声と、悪戯っぽい笑顔は、まだ鮮明に悠里の胸に残っている――


「悠里? どうしたー?」
「えっ?」
「勇誠の人のこと、考えてたんでしょー」
感慨に浸ってしまっていた悠里の顔を覗き込み、彩奈は笑う。
「もしかして、一目惚れした?」
「し、してないよ!」
悠里は慌てて、首を左右にブンブンと振る。

「あっはは! 悠里、顔真っ赤じゃーん!」
彩奈が手を叩いて言った。
「その人に会いたいなら、勇誠まで付いてってあげようか?」
「ま、まだいい!」
「まだ?」

彩奈がお腹を抱えて、本格的に笑い始める。
「じゃあ、心の準備ができたら、いつでも言ってね!」

悠里は恥ずかしさに口をつぐみ、またチラリと、折り畳み傘の入った袋に目をやった。
これを彩奈に見せれば、早速今日の放課後に行こうと言い出すに違いない。


――今日は、まだ……

悠里は、トクトクと弾む胸を押さえた。
まだ、心の準備は、できそうもない。

早く返さなくちゃと思う気持ちと、妙にドキドキしてしまう心。
2つの相反する衝動に挟まれ、何だか落ち着かない悠里だった。


***


それから、1週間後の夜のことだった。
自宅の電話が、けたたましく鳴り始めた。

またか、と悠里は肩を落とす。
そして形式的に受話器を取り耳に当てた後、そのまま何も言わず本体に降ろした。


「……また、無言電話?」
弟の悠人が、不安げに問うた。
悠里の2つ年下、中学2年生だ。
「うん。もう、嫌んなっちゃうね」
努めて軽い口調で悠里は答える。

「姉ちゃんさあ……」
振り返ると、弟の険しい瞳にぶつかった。
「大丈夫なの? これゼッタイ、姉ちゃん狙いで掛けてきてんじゃん」
悠里が答えに窮していると、弟は更に質問を投げつけてくる。
「ホントに心当たりないの? イタ電の犯人。ヤバイよこれ」
弟の苛立ちに負い目を感じながら、悠里は微かに首を横に振り、俯いた。


この1週間、毎晩のように悠里たち姉弟を悩ませているのは、不気味なイタズラ電話だった。
大半は無言だが、時折、男の荒い息遣いが聞こえる。
悠人が、『姉ちゃん狙いだ』と断言するのは、これに起因していた。 
1日にかかってくる頻度も、だんだん増えていく。
昨夜は、夜中にまで電話のベルが鳴り響き、悠里たちは飛び起きる羽目になった。

「……ねえ。やっぱ、父さん母さんに相談した方が良くない?」
悠人が懸念を眉間に刻み、小さく問いかけてくる。
悠里は少し沈黙したのち、ゆっくりと首を横に振った。
「今、お母さんたちは忙しい時期だもの。心配かけたくないよ、イタ電くらいで」
''くらい''という言葉を強調し、悠里は言った。


悠里たちの両親は、同じ会社で働いている。
2人は現在、海外に長期出張中だった。
海外出張自体は、年に数度あることだ。
その度に悠里と弟は、家事などを協力し合って留守を守ってきた。

今回の出張は、大型のプロジェクトを進行していると聞いている。
そのためいつもの出張よりも長く、3か月間、両親は家を空けることになっていた。
母の方は何度か一時帰国するものの、両親揃っての帰国は、年末になる予定である。


悠里は、互いを尊敬し合い、協力して仕事をこなしていく両親のことを尊敬し、自慢に思っていた。
だからこそ、2人の邪魔をしたくない。
こんな、つまらないイタズラ電話なんかで――


悠里は内心で、その決意を新たにする。
「……でもさあ、姉ちゃん」
「大丈夫、大丈夫!」
まだ不満げに食い下がってくる弟に、悠里は無理に口角を上げてみせた。
「ほっとけば、そのうち掛かってこなくなるって!」  

――しっかりしなきゃ。弟に心配かけちゃダメだ。
不安をぎゅっと押さえ込み、悠里は、にっこりと微笑んでみせた。







しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

秘密 〜官能短編集〜

槙璃人
恋愛
不定期に更新していく官能小説です。 まだまだ下手なので優しい目で見てくれればうれしいです。 小さなことでもいいので感想くれたら喜びます。 こここうしたらいいんじゃない?などもお願いします。

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

これ以上ヤったら●っちゃう!

ヘロディア
恋愛
彼氏が変態である主人公。 いつも自分の部屋に呼んで戯れていたが、とうとう彼の部屋に呼ばれてしまい…

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

R18 溺愛カレシと、甘い甘いエッチ♡ オトナの#秒恋 〜貴方と刻む、幸せなミライ〜

ReN
恋愛
♡R18 ラブラブな2人の激甘エッチ短篇集♡ 愛溢れる幸せなエッチ短篇集♡ 互いを思い合う、2人の気持ちが伝わりますように。 本編 #秒恋(学園ものラブコメ)もよろしくお願いします! ・第1章は、2人の初エッチ♡ 前半は、2人で買い物をしたりお料理をしたりする、全年齢OKの甘々エピソード。 後半は、愛し合う2人の、初めてのエッチ♡ 優しい言葉をかけられながら、たくさん愛される、R18エピソードです。 ・第2章 初エッチから、2週間後の2人。 初めて、舌でイかされちゃったり、愛の証をつけられちゃうお話♡ ・第3章 まだまだ初々しい悠里。 でも、だんだん剛士に慣らされて? 無意識に、いやらしく腰を振っちゃう可愛い悠里に、夢中になってしまう剛士のお話♡ ・第4章 今回は、攻守交代。 クラスメイトと、彼の悦ばせ方の話をした悠里は、剛士に「教えて?」とおねだり。 剛士に優しく教えられながら、一生懸命に彼を手とお口で愛してあげる…… 健気でエッチな悠里、必見♡ ・第5章 学校帰り、初めて剛士の家にお呼ばれ♡ 剛士の部屋で、剛士のベッドで組み敷かれて…… 甘い甘い、制服エッチ♡ ・第6章、11/18公開! いわゆる、彼シャツなお話♡ 自分の服を着た悠里に欲情しちゃう剛士をお楽しみください♡ ★こちらは、 #秒恋シリーズの、少し未来のお話。 さまざまな試練を乗り越え、恋人になった後の甘々ストーリーになります♡ 本編では、まだまだ恋人への道のりは遠い2人。 ただいま恋の障害を執筆中で、折れそうになる作者の心を奮い立たせるために書いた、エッチな番外編です(笑) なので、更新は不定期です(笑) お気に入りに登録していただきましたら、更新情報が通知されますので、ぜひ! 2人のなれそめに、ご興味を持ってくださったら、 本編#秒恋シリーズもよろしくお願いします! #秒恋 タグで検索♡ ★1 『私の恋はドキドキと、貴方への恋を刻む』 ストーカーに襲われた女子高の生徒を救う男子高のバスケ部イケメンの話 ★2 『2人の日常を積み重ねて。恋のトラウマ、一緒に乗り越えましょう』 剛士と元彼女とのトラウマの話 ★3 『友だち以上恋人未満の貴方に甘い甘いサプライズを』 2/14バレンタインデーは、剛士の誕生日だった! 親友たちとともに仕掛ける、甘い甘いバースデーサプライズの話 ★4 『恋の試練は元カノじゃなく、元カノの親友だった件』 恋人秒読みと思われた悠里と剛士の間に立ち塞がる、元カノの親友という試練のお話 2人の心が試される、辛くて長い試練の始まりです… よろしくお願いします!

処理中です...