2 / 10
血と水の濃さ
しおりを挟む
とても眺めの良い鉄橋だ。トニーは新しい妻を連れだって、今は廃線となったトロッコ列車用の線路の上から、景色を楽しんでいた。
離婚してからだいぶ経った。性の不一致から前妻と別れたトニーは、旺盛なムスコを受け入れてくれるジェニファーとの不倫が明るみに出る前に、なんとか離婚協議を成立させ、新婚旅行の運びとなったのだ。
財産分与などで多額の資産を失ったが、38歳という若さもあって、経済力の回復は不可能ではないだろう。AI開発をするSEの身だ。何の心配もいらない。
そんな幸せな門出をした矢先だった。
「おい! あれ見ろ! 人がいるぞ!! あっちから電車が来ているのに、何てことだ!!」
この鉄橋の下は、新しい線路が敷かれていて、貨物列車が運行されている。トニーと新妻が見ると、高速で坂を上ってくる鉄道が見えた。
反対側を見ると、川に向かって下って行く坂の中央に、探検家の様なカーキ色をした服に、スカーフをつけた子供たちがいる。どこかの子供たちの集まりが、この近くでキャンプでもしていたのだ。
ツアーに参加していたみんなは、急いで知らせようと、大声を張り上げたり、手を振ったりして、子供たちに電車の接近を知らせようと奮闘した。
もちろんトニーもそうしていたのだが、不意に何かに気が付いたトニーは、叫ぶのをやめて、子供たちを見た。そして、左隣にいた太った大柄の男を見やった。
下を見ると、ちょうど線路の真上だ。
(この男を突き落せば、あの子供たちは助かる。
コイツを突き落せば、何人もの命を救えるんだ)
1歩さがったトニーは、恐怖に震える。全身が脱力したようになって、今にも吐きそうだ。当然だ。殺人を犯そうとしているのだから。
トニーはためらった、子供たちを救うためとはいえ、目の前の、何の罪もない男を鉄橋の下に突き落とすなんて、とてもじゃないが出来やしない。
(そうだ、運命なんだ、あの子たちは死ぬ運命だったんだ)
そう自分に言い聞かせて、目を瞑った。
「あのエンブレム、貴方のアルバムのに似てるわね」
ジェニファーの声が脳に突き刺さる。目を見開いたトニーは、ジェニファーが持っていた双眼鏡を奪って、子供たちを覗く。
倍率を上げて愕然とした。テッドだ。息子のテッドがいたのだ。着ている服は前妻に取られた旧自宅の近所の子供たちで作った、お揃いのユニホームだった。昔からある活動で、チームに所属する子供たちを連れて、年に何度かキャンプをしているのだ。
だが、トニーは絶望しなかった。自分の息子が轢かれ死ぬことになっているのに。
左を見ると、さっきと同じ男が頑張って声を張り上げている。もはや、この男の命など関係ない。
初めは、1つの命と複数の命を天秤に掛けたり、突き落とすことで発生する罪悪感から、どちらを選ぶか躊躇した。その決断の重大さに押しつぶされそうになった心は絶えられなくなって、脳が思考停止してしまったのだ。
彼にとって一番大事だったのは、自らの意思で殺人を犯さなければならないという罪の意識からくる重圧から逃れることだった。
あの子供たちが死んだところで、自分の責任ではないし、何も失うものは無いはずだった。
大学で経済学を学んでいたトニーは、瞬時に損得を弾いた。
(この男を突き落せば、確実に自分は罪に問われるだろう。
ジェニファーとの新婚生活も破綻をきたす。
仕事も失って、牢屋の中だ、前科もつく。
損害に対して、得る物は何なのだろう)
すぐに息子の顔が浮かんだ。
(テッドの命、ただそれだけだ。
だが、失えば、もう2度と戻らない。
子供を救うためなのだから、罪は酌量の余地があるかもしれない。
新婚生活の破綻は不確定だし、確定しても婚活サイトでまた見つければ良い。
仕事を失うと言っても塀の中なのだから、食うには困らない。
前科はつくが隠せるし、もし無理でも子供たちを救った英雄という側面もある。
テレビ出演だって出来るだろうから、出所後の収入はある程度確保できるかもしれないし、この経験をもとに行動経済学の本を出せば、鳴り物入りで売れるかもしれない)
目先のことを考えると大変な損失だが、長い目で見ると、意外にプラスかもしれない。
(子孫を残せるという本能は満たせる。
この男の家族に損害賠償を請求されるかもしれないが、破産してお終いだ。
すでに離婚できていたのは運が良いぞ! 持っていた財産の半分は、メラニーにあげてしまったからな。
マシュマロだ! マシュマロを考えろ!! 昨日避妊していないんだから、もしかしたらが有りうるぞ!!
1人授かっても1人失っているなら変わらない。
どうせなら、2人共手に入れてしまおう)
トニーは、ごく一般的な男だったから、今にも腰を抜かして失禁してしまいそうだったが、自分はサイコパスだと言い聞かせて、太った男に狙いを定めた。
「ああっ!!」
背中にタックルを喰らった男が仰け反ると同時に、その光景が視界に入った多くのツアー客が叫ぶ。
「あああああ!!」
叫ぶ男の声がすぐに小さくなったかと思った瞬間、鉄橋の真下を通過した貨物列車に撥ねられて、木端微塵に吹き飛んでしまった。
急停止をした車両は坂道を登り切り、下り坂に差し掛かってからだいぶ走った後に、ようやく止まった。
ブレーキ音に気が付いた子供たちの視界に車両が入って、みんな一斉に逃げたが、車両は子供たちがいた場所まで到達することなかった。
賛否両論あると思う。だが、トニーは満足だった。離婚協議で年に1回しか会うことの許されなくなった息子と、毎月面会できるようになったからだ。
離婚してからだいぶ経った。性の不一致から前妻と別れたトニーは、旺盛なムスコを受け入れてくれるジェニファーとの不倫が明るみに出る前に、なんとか離婚協議を成立させ、新婚旅行の運びとなったのだ。
財産分与などで多額の資産を失ったが、38歳という若さもあって、経済力の回復は不可能ではないだろう。AI開発をするSEの身だ。何の心配もいらない。
そんな幸せな門出をした矢先だった。
「おい! あれ見ろ! 人がいるぞ!! あっちから電車が来ているのに、何てことだ!!」
この鉄橋の下は、新しい線路が敷かれていて、貨物列車が運行されている。トニーと新妻が見ると、高速で坂を上ってくる鉄道が見えた。
反対側を見ると、川に向かって下って行く坂の中央に、探検家の様なカーキ色をした服に、スカーフをつけた子供たちがいる。どこかの子供たちの集まりが、この近くでキャンプでもしていたのだ。
ツアーに参加していたみんなは、急いで知らせようと、大声を張り上げたり、手を振ったりして、子供たちに電車の接近を知らせようと奮闘した。
もちろんトニーもそうしていたのだが、不意に何かに気が付いたトニーは、叫ぶのをやめて、子供たちを見た。そして、左隣にいた太った大柄の男を見やった。
下を見ると、ちょうど線路の真上だ。
(この男を突き落せば、あの子供たちは助かる。
コイツを突き落せば、何人もの命を救えるんだ)
1歩さがったトニーは、恐怖に震える。全身が脱力したようになって、今にも吐きそうだ。当然だ。殺人を犯そうとしているのだから。
トニーはためらった、子供たちを救うためとはいえ、目の前の、何の罪もない男を鉄橋の下に突き落とすなんて、とてもじゃないが出来やしない。
(そうだ、運命なんだ、あの子たちは死ぬ運命だったんだ)
そう自分に言い聞かせて、目を瞑った。
「あのエンブレム、貴方のアルバムのに似てるわね」
ジェニファーの声が脳に突き刺さる。目を見開いたトニーは、ジェニファーが持っていた双眼鏡を奪って、子供たちを覗く。
倍率を上げて愕然とした。テッドだ。息子のテッドがいたのだ。着ている服は前妻に取られた旧自宅の近所の子供たちで作った、お揃いのユニホームだった。昔からある活動で、チームに所属する子供たちを連れて、年に何度かキャンプをしているのだ。
だが、トニーは絶望しなかった。自分の息子が轢かれ死ぬことになっているのに。
左を見ると、さっきと同じ男が頑張って声を張り上げている。もはや、この男の命など関係ない。
初めは、1つの命と複数の命を天秤に掛けたり、突き落とすことで発生する罪悪感から、どちらを選ぶか躊躇した。その決断の重大さに押しつぶされそうになった心は絶えられなくなって、脳が思考停止してしまったのだ。
彼にとって一番大事だったのは、自らの意思で殺人を犯さなければならないという罪の意識からくる重圧から逃れることだった。
あの子供たちが死んだところで、自分の責任ではないし、何も失うものは無いはずだった。
大学で経済学を学んでいたトニーは、瞬時に損得を弾いた。
(この男を突き落せば、確実に自分は罪に問われるだろう。
ジェニファーとの新婚生活も破綻をきたす。
仕事も失って、牢屋の中だ、前科もつく。
損害に対して、得る物は何なのだろう)
すぐに息子の顔が浮かんだ。
(テッドの命、ただそれだけだ。
だが、失えば、もう2度と戻らない。
子供を救うためなのだから、罪は酌量の余地があるかもしれない。
新婚生活の破綻は不確定だし、確定しても婚活サイトでまた見つければ良い。
仕事を失うと言っても塀の中なのだから、食うには困らない。
前科はつくが隠せるし、もし無理でも子供たちを救った英雄という側面もある。
テレビ出演だって出来るだろうから、出所後の収入はある程度確保できるかもしれないし、この経験をもとに行動経済学の本を出せば、鳴り物入りで売れるかもしれない)
目先のことを考えると大変な損失だが、長い目で見ると、意外にプラスかもしれない。
(子孫を残せるという本能は満たせる。
この男の家族に損害賠償を請求されるかもしれないが、破産してお終いだ。
すでに離婚できていたのは運が良いぞ! 持っていた財産の半分は、メラニーにあげてしまったからな。
マシュマロだ! マシュマロを考えろ!! 昨日避妊していないんだから、もしかしたらが有りうるぞ!!
1人授かっても1人失っているなら変わらない。
どうせなら、2人共手に入れてしまおう)
トニーは、ごく一般的な男だったから、今にも腰を抜かして失禁してしまいそうだったが、自分はサイコパスだと言い聞かせて、太った男に狙いを定めた。
「ああっ!!」
背中にタックルを喰らった男が仰け反ると同時に、その光景が視界に入った多くのツアー客が叫ぶ。
「あああああ!!」
叫ぶ男の声がすぐに小さくなったかと思った瞬間、鉄橋の真下を通過した貨物列車に撥ねられて、木端微塵に吹き飛んでしまった。
急停止をした車両は坂道を登り切り、下り坂に差し掛かってからだいぶ走った後に、ようやく止まった。
ブレーキ音に気が付いた子供たちの視界に車両が入って、みんな一斉に逃げたが、車両は子供たちがいた場所まで到達することなかった。
賛否両論あると思う。だが、トニーは満足だった。離婚協議で年に1回しか会うことの許されなくなった息子と、毎月面会できるようになったからだ。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
私、事務ですけど?
フルーツパフェ
経済・企業
自動車業界変革の煽りを受けてリストラに追い込まれた事務のOL、霜月初香。
再就職先は電気部品の受注生産を手掛ける、とある中小企業だった。
前職と同じ事務職に就いたことで落ち着いた日常を取り戻すも、突然社長から玩具ロボットの組込みソフトウェア開発を任される。
エクセルマクロのプログラミングしか経験のない元OLは、組込みソフトウェアを開発できるのか。
今話題のIoT、DX、CASE――における日本企業の現状。
経営者を目指し、経営者になってからの男の道のり
ムーワ
経済・企業
筆者がまだ若かりし頃に出会った「経営者を目指し、経営者になってからの男の道のり」を描いた小説です。筆者が20代の頃、見た目は眼鏡をかけている細くて一見、真面目そうな風貌の男性でしたが、自信過剰なぐらいに年上の人に対しても自分の意見を主張する個性豊かな男でした。
学生の頃、予備校の講師のビデオを何千回も見てそのノウハウを取得しているとのことで、実際、彼が教える英語の授業は常に満員になるほど人気がありました。
だから彼は生徒からは人気があったものの、先輩講師には目をつけられていたし、いろいろトラブルもありたった1年で退職しました。
そんな彼が経営者になるまでの道のりや経営者になってから成功するまでの道のりを小説にしてみました。
主な登場人物
大山、経営者であり、この物語の主人公。
筆者、大山と一緒に仕事をしてきた男。
この小説の写真は当時、問題を作成していてまだ手元に残っていたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる