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鬼胎
脳が死んでいる
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「右手を出せ、左手をあげろ、左足を左へ、左足を前へ」
地平線の長い筋も見えない白い天と大地の何もない空間に、とても小刻みにビブラートした誰かの声が響く。とても無感情で、その言葉には抑揚がなく、とても平坦で生身がないような声だった。
その声は反響もせず木霊もしない。だがどこまで遠くにいる者にも聞こえている様子だった。それでいて、どこかはうるさく聞こえて、どこかは小さくしか聞こえない、といった様子もない。
男は、その声を天の声と名付けた。いつからこの空間があるのか、いつから自分はここにいるのか、男には皆目見当がつかない。
白い大地には、縦横棒立ちで並んだ男女が死んだ魚のような目で黙りこくっていた。みんなの顔には血の気がなくて蒼白としており、憂身をやつすと言ったふうでもないのに、一心不乱に、それでいて退屈そうな表情をして俯いている。
男は、指示もないのに顔を動かすことにためらいを覚えた。それで目だけで周りを見渡す。みんな言われるがままにおんなじ動きをしている。男も女も例外なく、天から、大地から聞こえてくる声を鼓膜で受け止めて、それを脳髄に伝え、指示通りに手足を動かした。
男の中に、なぜ僕はここにいるのか、そういう意識がふと湧き起こることがあったが、沸き起こったそれは湯気の如く一瞬白んで、大気に消える。それは、脳内で思考したと言うよりも、心から“成った”ものであるかのようだった。
その“成った”何かは度々起こったが、心に沸き起こることもだんだんとなくなって、さざ波どころか水波紋も、一瞬の揺らぎも起きなくなった。
なぜかよく分からないが、うっすらとした満足感のようなものがある。小さな子供でもできるような、糞どうでもいい体操にもならない動きなのに。
ただそれでもよく見ると、指示についてこられないやつがいる。他を見ると、てきぱきこなしているやつがいる。
上手くやるやつは、天の声に言われもしていないのに、周りのやつに見せつけるように大げさに動く。喋りはしないが、「ほら、こうやるんだ」と言わんばかりにやって見せる。苦しそうにしているけれど、その苦しさが楽しそうだ。
下手なやつが大半を占めていたが、下手なやつらは周りの下手なやつらと動きをそろえて、それなりにやっている。
何だ? と男は気がついた。隣のやつがにやけ顔で自分を見ていた。一心不乱に全身全霊を傾けて、天の声に言われるがまま、右足のかかとをお尻につけ、上げた左手を下げ、前ならえを自分に見せつける。
目障りだとは思わなかった。どうすれば良いか分からない。男も、ただただ天の声に言われるがまま、体を動かす。
そう言えば出来ないやつがいなくなっている。どこに行ったのだろう。
男は探した。だが見つからなかった。
男はふと気がついて、辺りを目玉だけで見渡した。
あっちにも出来ないやつがいる。汗をだらだら流して苦しそうだ。
なんだ、どうしたんだ、急に膨れてきたぞ、あ、弾けた。周りに肉片が飛び散り、赤く染まっている。死んだのか? 出来ないと死ぬのか? また遠くで弾けた。頑張らなきゃ、一生懸命やらなきゃ。
男はそればかりを繰り返し考えた。
パシュ、と音がして、男が微かに視線を向けると、右斜め後ろに血の海が広がっている。なぜか血は、周りのやつらにかかっていない。自分も距離が近いのに、かかった感じがしない。男はそう思った。
男はそう思いながらも、肩に背中に太ももに意識を向けて、血がついていないか感じようとする。ついていないことを確信して、男は深めに息を吸って吐いた。
パシュ、パシュ、と音がする。時折聞こえてくる音に、男はなにも思わなくなったし、視線を向けることもなくなった。しばらくしたある日……と言っていいのだろうか。気がついた。昼も夜もないこの空間で。
――男の目の前にいるやつは全く出来ていない。ああ、コイツも弾けていなくなるのだろう。そう無味乾燥した考えが浮かぶ。そして消える。
気がつくと出来ていたやつがいない。いた場所は血の海だ。
あいつも弾けたんだ。何故だ、出来ていたのに。
男の中に恐怖が芽生えたが、いつしか消えて無くなった。
そういえば、いつからいない? 目の前にいたやつ。本当に分からない。昨日今日いなくなったわけではないだろう。思い返す記憶の中にある目の前は、ずっと空いている。ずっと前からいなかった気がする。肉片も血もない。あそこだけ汚れていない。一人分の白い空間だ。何故だ、あいつは苦しそうじゃなかった。
男の中に不安が芽生えたが、いつしか消えて無くなった。天も地もない白い空間で男は思った。目の前のことに気がつく前のことを思い続けた。天の声通りに動き続けた。目の前のやつがどこかに行ったことには気がついていたが、彼がどこに行ったのかを考えもせずに。
おわり
地平線の長い筋も見えない白い天と大地の何もない空間に、とても小刻みにビブラートした誰かの声が響く。とても無感情で、その言葉には抑揚がなく、とても平坦で生身がないような声だった。
その声は反響もせず木霊もしない。だがどこまで遠くにいる者にも聞こえている様子だった。それでいて、どこかはうるさく聞こえて、どこかは小さくしか聞こえない、といった様子もない。
男は、その声を天の声と名付けた。いつからこの空間があるのか、いつから自分はここにいるのか、男には皆目見当がつかない。
白い大地には、縦横棒立ちで並んだ男女が死んだ魚のような目で黙りこくっていた。みんなの顔には血の気がなくて蒼白としており、憂身をやつすと言ったふうでもないのに、一心不乱に、それでいて退屈そうな表情をして俯いている。
男は、指示もないのに顔を動かすことにためらいを覚えた。それで目だけで周りを見渡す。みんな言われるがままにおんなじ動きをしている。男も女も例外なく、天から、大地から聞こえてくる声を鼓膜で受け止めて、それを脳髄に伝え、指示通りに手足を動かした。
男の中に、なぜ僕はここにいるのか、そういう意識がふと湧き起こることがあったが、沸き起こったそれは湯気の如く一瞬白んで、大気に消える。それは、脳内で思考したと言うよりも、心から“成った”ものであるかのようだった。
その“成った”何かは度々起こったが、心に沸き起こることもだんだんとなくなって、さざ波どころか水波紋も、一瞬の揺らぎも起きなくなった。
なぜかよく分からないが、うっすらとした満足感のようなものがある。小さな子供でもできるような、糞どうでもいい体操にもならない動きなのに。
ただそれでもよく見ると、指示についてこられないやつがいる。他を見ると、てきぱきこなしているやつがいる。
上手くやるやつは、天の声に言われもしていないのに、周りのやつに見せつけるように大げさに動く。喋りはしないが、「ほら、こうやるんだ」と言わんばかりにやって見せる。苦しそうにしているけれど、その苦しさが楽しそうだ。
下手なやつが大半を占めていたが、下手なやつらは周りの下手なやつらと動きをそろえて、それなりにやっている。
何だ? と男は気がついた。隣のやつがにやけ顔で自分を見ていた。一心不乱に全身全霊を傾けて、天の声に言われるがまま、右足のかかとをお尻につけ、上げた左手を下げ、前ならえを自分に見せつける。
目障りだとは思わなかった。どうすれば良いか分からない。男も、ただただ天の声に言われるがまま、体を動かす。
そう言えば出来ないやつがいなくなっている。どこに行ったのだろう。
男は探した。だが見つからなかった。
男はふと気がついて、辺りを目玉だけで見渡した。
あっちにも出来ないやつがいる。汗をだらだら流して苦しそうだ。
なんだ、どうしたんだ、急に膨れてきたぞ、あ、弾けた。周りに肉片が飛び散り、赤く染まっている。死んだのか? 出来ないと死ぬのか? また遠くで弾けた。頑張らなきゃ、一生懸命やらなきゃ。
男はそればかりを繰り返し考えた。
パシュ、と音がして、男が微かに視線を向けると、右斜め後ろに血の海が広がっている。なぜか血は、周りのやつらにかかっていない。自分も距離が近いのに、かかった感じがしない。男はそう思った。
男はそう思いながらも、肩に背中に太ももに意識を向けて、血がついていないか感じようとする。ついていないことを確信して、男は深めに息を吸って吐いた。
パシュ、パシュ、と音がする。時折聞こえてくる音に、男はなにも思わなくなったし、視線を向けることもなくなった。しばらくしたある日……と言っていいのだろうか。気がついた。昼も夜もないこの空間で。
――男の目の前にいるやつは全く出来ていない。ああ、コイツも弾けていなくなるのだろう。そう無味乾燥した考えが浮かぶ。そして消える。
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あいつも弾けたんだ。何故だ、出来ていたのに。
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男の中に不安が芽生えたが、いつしか消えて無くなった。天も地もない白い空間で男は思った。目の前のことに気がつく前のことを思い続けた。天の声通りに動き続けた。目の前のやつがどこかに行ったことには気がついていたが、彼がどこに行ったのかを考えもせずに。
おわり
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