ホラー短編集

緒方宗谷

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鬼胎

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 僕は会いたかった。天井裏を開けると、暗闇よりもさらに暗い影が動いていた。影は、お風呂場の上の天井にいた。僕は、声にならない声を出そうとして出せず、涙を流しながら喉を鳴らした。こっちを向いた。僕は天井裏に上って、のたのたと這ってそばまでいく。優しく伸ばされた両手にすがって、僕は頬を寄せた。すぐに抱きしめてくれた。暖かくて柔らかい胸のふくらみが顔を包む。とても癒される気がする。そのままももとももの間に顔をうずめて、僕は声を押し殺しもせずに泣いた。「お姉ちゃん、お姉ちゃん」僕は、初めてお姉ちゃんをお姉ちゃんと呼んだ。お姉ちゃんは何も言わなかったけれど、優しく背中をさすってくれた。
 それから僕は、みんながいない時間はずっと天井裏に入り浸るようになった。学校の友達とも遊ばない。いつもお姉ちゃんに抱きしめられながら、お姉ちゃんのひざまくらの上で過ごした。
 初めの内お姉ちゃんは、みんなを殺すように何度も催促してきた。でも僕は全部断った。しばらくしてお姉ちゃんが何も言わなくなったある日の晩、僕がお風呂に入っている時に事件は起こった。
 湯船に浸かっていると、妙な感触が内ももやお腹を撫でる。お湯に沈めた手ぬぐいが肌を撫でた時のような気持ちの悪いむずがゆさ。僕が目を開けると、そこには見ず知らずの裸の女の人が沈んでいた。フグの様に目を見開いて、口を半開きにしている。まさに手ぬぐいのように湯船の中を漂っていた。
 僕は悲鳴をあげて立ち上がろうとしたけれど、立ち上がれない。足に絡まった長い髪の毛で滑って、お湯の中にしりもちをつく。全身に髪が絡まる。お湯よりも温かい気色の悪い肌触りが、僕の体になめるようにまとわりつく。ぬめるわけでもなく、さらりとしているわけでもない。お姉ちゃんに抱きしめられている時とは全く違った裸の女の人の温もり。本当に気持ちが悪い。
 髪の毛にまみれた浴槽が滑って、僕は水面に顔を出していられなかった。何度も顔が沈んで水を飲む。とても苦しい。
 天井から擦れる音がした。見上げると、四角い蓋がずれていて、そこからお姉ちゃんが見下ろしている。
 「助けて」僕は叫んだ。
 「どう? 苦しいでしょう? それがお母さんが受けた苦しみ。いいえ、そんなものじゃなかったわ。だってほとんど息継ぎできなかったんですもの。無理やりに押さえつけられて、鼻からも口からも水が入ってきて、ああ・・・息ができない。苦しい。お母さん・・・」
 僕が湯船から這い出して天井を見上げた時、もうお姉ちゃんはいなかった。蓋も閉じていた。
 「どうしたの、大きな声出して」母を名乗る女が、脱衣所から僕を呼んだ。
 僕は咄嗟に嘘をついた。
 「ううん、なんでもない。ごっこ遊びをしていたの」
 それからしばらくの間、お姉ちゃんの所にはいかなかった。夜ふと目を覚ますと、ネズミが走りまわる足音を追うように、お姉ちゃんが這いまわって着物をこする音が聞こえる。昔は怖いと思っていた音。でも今はとても胸が苦しくなる音だ。お姉ちゃんは、この十年間ずっと天井裏で息をひそめて過ごしてきたんだ。もし自分が逆の立場だったらと思うと、とても耐えられない。早くお姉ちゃんを解放してあげなくちゃ。僕はそう思った。
 ある時、いつものようにお姉ちゃんの膝に頭を乗せてうつ伏せに寝ていると、お姉ちゃんが言った。
 「北側のお庭の倉庫の下に、隠し階段があるの。わたしたちがお母さんたちの恨みを晴らすことが出来る物が眠っているわ。わたしはここから出られないから、あなたに行って取ってきてもらいたいの」
 古い木造の倉庫。あそこはオバケが出そうであまり行かない。ほこりまみれのゴザや木材。大きな木の臼や石の灯ろうが置いてある。床下に部屋があるなんて、思いもよらなかった。
 次の日、仮病を使って学校を休んだ僕は、お姉ちゃんに言われるがままに倉庫に行って、厚くて大きな木の床を、テコにした竹竿で持ち上げた。驚いたことに、本当に地下室がある。真っ暗な底へと続くハシゴのような階段が、斜めについている。懐中電灯を照らす。あまり広くない。土の壁がむき出しで、壁際に木箱が並んでいる。樽もあった。
 僕は、恐る恐る下りてみる。脆くなっていた階段が崩れて、そのまま地下室の中に落ちた。痛みを堪えて立ち上がると、倉庫の床が、僕が手を高く伸ばしたくらいの高さに見える。大人の身長と同じくらいの高さだ。
 懐中電灯を探すが見当たらない。落した拍子に壊れてしまったようだ。明かりを発してはいない。でもロウソクが散らばっているのが見えた。探すとマッチもすぐに見つかった。僕は、ロウソクに火をともして辺りを窺う。
 僕は驚いた。なにがあるんだろう、と思って覗いた横長の木箱には、木と鉄でできた鉄砲が入っていた。昔の軍隊が使っていたたくさん赤い線が引かれた日の丸の旗もある。防空壕だ。
 戦争中、親戚の男子はみんな二等兵だった、と聞いていた。おじいちゃんだけは偉い人で、戦争にはいかなかったけれど軍人だったらしい。僕が住むこの地域には、もしアメリカ軍が日本に来たら、ここに政府が逃げてくる予定だった、と本で読んだことがある。小三の時大好きだったUFOや心霊写真の本と同じような、嘘のような本当の話を扱った写真ばかりの本だ。
 「これだ」僕は呟いた。防空壕の隅に『除草剤』、と古めかしい角ばった漢字で描かれた茶色い瓶がある。この瓶が、お姉ちゃんが取ってきてほしい、と言っていた物だ。コーラの一リットルペットボトルくらいの大きさの瓶で、除草剤と書いた紙が巻いていなかったら、ビール瓶に見えなくもない。
 そう言えば、と思い出した。お姉ちゃんはこう言っていた。
 「果物のパイナップルの缶詰みたいな缶に棒がついたものがあったら、バケツの中に入れておいて」と。
 探すとすぐには見つからなかった。乾パンやドロップの入った錆びた缶がたくさんあって、僕はその中を探していたからだ。すぐに知ることになるそれは、食べ物ではない。隣には空の袋が何枚も重なっていた。たぶんお米が入っていたのかもしれない。そんな袋だ。
 腐りかけた引き出しがあったので、開いてみる。取っ手のついた前側は脆くなっていて、板ごとはずれた。おがくずみたいになっていた。引き出しの上の板を剥がすと、中に黄ばんだ灰色に変色した布に包まれた何かがある。開いてみると、お姉ちゃんが言っていた缶詰に棒がついた物だった。
 僕は、それが何かすぐに分かった。手りゅう弾だ。前に読んだ漫画で見たことがある。ピンがついていて、それを引っこ抜くと爆発するんだ。漫画では、追い詰められたもんぺ姿の女の人や子供と一緒にいる軍人ぽい独特の濃い黄土色の服を着た男の人がピンを抜いて、みんなで自爆して死ぬ。
 全体が錆びてはいたが、まだ使えるのかもしれない。僕は怖くなった。お姉ちゃんは、手りゅう弾が危ないから分けて置いておくように言ったんだ。僕はそう思ってバケツを探した。ボコボコになった古めかしいバケツを見つけて、手りゅう弾をその中に入れる。そして、ろうそくやマッチがある階段下から離して隅に置いた。
 僕は、除草剤の瓶を持って自分の部屋に戻った。それをどうすればいいのか分からなかったけれど、あの人たちに見つかったらまずいと思って、本棚に並んでいる本の後ろに隠した。大きな漫画雑誌が並べられるほどの奥行だったから、コミックを前に引き出せば後ろに隙間が作れたからだ。
 僕は漫画越しにあるその瓶を見つめて、たぶんああするんだろうな、と思った。

つづく
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