ホラー短編集

緒方宗谷

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鬼胎

寄生

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 峰岸隆一。二十八歳。アルバイト。住み慣れた部屋を出て、新しいマンションに引っ越してきた。五〇五号室。今までやっていたコンビニのバイトも飽きていたし、新たな仕事に転職して生活していこう、と面接をした。結果は採用。別のコンビニのレジスタッフとして。
 高校を出てから住んでいたマンション。十年経てば生活臭が沁み入って、汗臭いやらおなら臭いやらで堪らなかった。自分の匂いだというのに我慢できない。だがそれももう終わり。今日からは新築のマンション生活だ。
 2R、風呂トイレ洗濯場別。相場十三万から十五万くらいの下目黒の一角で、なぜか十万円きっかりの破格の家賃。不動産屋に訊くと、オーナーが土地持ち、無借金現金一括で建築費用を払ったかららしい。ローンがない分安くできたのだと言う。なんて良心的なオーナーなのだろう。
 外観は濃紺の大理石風の壁で十階建て。内装は賃貸マンションによくある量産型の壁紙とフローリングだ。午後三時。今の時点で家具はまだない。前の部屋で使っていたものは全部捨てた。今着ているものも含めて持っているものに、前の家の物は一切ない。未使用の部屋、未使用のキッチン、未使用の風呂。そして何よりも未使用のトイレ。
 築五カ月。何もかも俺が初めて使うのだと、峰岸は喜びに沸く胸に、鼻から大きく部屋の空気を吸い込む。
 何か気配がした。天井を見上げて悦に浸っていた峰岸は、急に現実に引き戻されて、寝ているところをたたき起こされて布団を剥がされた子供のように、しかめっ面をした。そして、気配の原因を目で捉えると、その顔は更に醜く歪んだ。
 人差し指くらい長い体の大きなゴキブリが歩いていた。堂々と悪びれる様子もなく俺の目の前を、と憤った峰岸は、気取られないように右足を後ろにあげて、履いていたスリッパを手に取る。ゴキブリは気がついていない。悠々としたものだ。我が物顔で歩いている。
 峰岸は許せなかった。誰も使ってはいないはずの新築マンションの部屋。何もかもを最初に使うのはこの俺だ、と思っていたのに、何たることか。既に使用されていたのだ。しかもゴキブリなんぞに。沸々と怒りがこみ上げてくる。沸騰しつつある鍋の湯のように、細かい気泡が一つ、また一つと湧きおこって、みるみる間にぐつぐつと煮えたぎった。
 殺意で心臓が収縮した。同時に中に溜まっていた血液が全身に噴出して、毛細血管まで駆け巡る。甲高い凄い衝撃音が木霊する。直撃を喰らったゴキブリの体液が、再度掲げられていくスリッパと共に二、三滴飛ぶ。ゴキブリ自身は、自分の体液で床に張り付いていた。
 なんて気色の悪いさまだろう。油光する黒い死体の潰れて裂けた割れ目から、気持ちの悪い見た目とは裏腹に、乳白色の綺麗なワタが溢れ漏れてこんもりと膨らんでいる。いやたらしいのは、赤い血だ。血なのか? 滲んでいるこれは。虫唾がこみ上げてくる。受け入れられない光景を目の当たりにしてゾワゾワと沸き起こった感情と一緒に。
 せっかくの気分が台無しだ。もう何もかも嫌だ。引っ越してしまいたい。更新はしない。そう考えながら、峰岸は玄関ドアについたポストに入っていたチラシをとってきて、それで潰れたゴキブリをすくい取って、丸めて床の上に捨てた。幸い、リュックの中にポケットティッシュがある。それを一枚水で濡らす。溶けた。トイレで流せるやつなのだろう。もう一枚重ねて、少量の水で湿らせた。
 濡れたティッシュでこびりついたゴキブリの体液と一本の大きな足が落ちている床を拭く。畳みなおしてまた拭く。溶ける柔らかいティッシュだから、途中で破れて、内側に滲みたゴキブリの体液が指先についた。もげた足もついた。何もかも投げ出したい気持ちになった。
(そうだ、ゴミ箱がない)ティッシュをシンクの上に置いて指先を洗いながら、峰岸はそう思った。(タオルもない)目の前に『ななまーと』というコンビニがある。でもたぶんゴミ箱は売っていない。権之介坂の手前にお店が集まった商店街があるから、そこまで行くしかないだろう。ほぼほぼ登り道。しかも十五分以上もある。面倒くさいから行かない。
 その時、突如として音がした。ガサガサガサ、と。峰岸は咄嗟に振り返った。神経を研ぎ澄まして、部屋中を見やる。家具も何もないがらんどうの部屋。濡れティッシュで拭いた床も渇いている。そばに丸めたチラシが落ちているだけだ。(生きているのか?)峰岸は、丸めたチラシを凝視する。揺れ動く気配はない。チラシを開いてみようか、と思ったけれども、それは出来なかった。記憶を辿って思い出す。スリッパで叩かれてつぶれたやつを包み、それをさらに押し潰した。プチッと音が鳴った。今でも鮮明に思い出せる感触。潰れる瞬間プチッと鳴った。
 生きているわけがない。峰岸は、加熱式タバコのカートリッジを買った際に貰った小さなコンビニ袋を思い出した。それにティッシュを入れて、丸めたチラシも入れる。そして口を堅く縛って、シンクの上に放った。
 引っ越し初日にベッドが届き、日に日に小物が増えていく。近くの家具屋で買ったゴミ箱。木製のテーブルとチェア。目黒駅の方で買った食器類。まだ万全ではないけれど悠々自適、新築の匂いのする部屋を満喫していた。
 そんな毎日が続いていたある日のことである。初日のゴキブリ撲殺事件のことも完全に忘れ去られた夜に、峰岸は目を覚ました。木製の横に開くドアの向こう。キッチンのある部屋から、何やら物音がする。ガサガサガサ、と。明らかにゴキブリが這う音だ。丸めて床に放ったチラシかレシートの下を歩いているようだ。
 ありえない。一階は自分と契約をした不動産屋の事務所だし、他の部屋はファミリータイプと1K、2Rの住宅があるだけだ。築一年未満であるにもかかわらず、ゴキブリが出るなんて信じられなかった。明日殺虫剤と粘着シートを買ってこよう。峰岸はそう心に誓って、もう一度寝た。
 翌日レジのバイトが終わるや否や、遠回りしてドラッグストアによって殺虫剤と粘着シートを買った。家に戻ってすぐに開封してシートを一つ冷蔵庫下に設置し、テレビ台の端に殺虫スプレーの缶を置く。だが感づかれた。それから一向にゴキブリは出てこない。よくある事だ。蚊がうるさくて、スプレーを用意すると寄ってこない。ハエもそうだ。スプレー缶の赤い色が警戒色だからかもしれない。
 またもゴキブリのことなんか忘れて、安心できる日々が戻ってから暫くした頃。陽が昇る前、顔の上を何かが這っていて、峰岸は目を覚ました。一瞬にしての覚醒だった。飛び上がって四つん這いになって、ゴキブリを探した。見たわけではないが、ゴキブリで間違いない。しかもすこぶるでかいやつ。急いで隣の部屋のテレビのそばまでいってスプレー缶を掴み、戻ってそこら中に殺虫剤をまいた。ベッドの上も、掛け布団とマットの間も、マットと寝台の間も、壁とベッドの間も。
 殺虫剤は半分くらい噴出したと思う。そう考えたら、もうどこぞでもがき苦しんで仰向けになっていることだろう、と峰岸には思えた。
 それからまた数日が経った。コンビニでのバイトを終えて帰る時、店長が日切れ商品を分けてくれた。峰岸は、おにぎり二つと菓子パン二つをもらって帰ることにした。おにぎりはたらこと鮭だった。菓子パンは、マーガリンとジャムが塗られたコッペパンと、チーズたっぷりのピザを包んだようなやつ。
 家についた峰岸は、さっそくソファに座って三十インチのテレビをつけ、第三のビールをプシュッと開けてぐびぐび飲む。それからコンビニ袋からおにぎりを出した。
 まず初めに食べたのは昆布だ。黒光りする細かい粒粒がまぶしてあってしっとりとしていながら、カリカリした歯ごたえがある。甘辛く煮ていて美味だった。食べ終わってビールで甘さを喉に流して、次々と食べていく。それで夕食はお終いだ。風呂に入って寝た。

つづく

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