Kaddish

緒方宗谷

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Haruto

26ー2

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 ハルトは2人の心境を察していた。祖父母達本人から、過酷な収容所の話を聞いていたからだ。
 戦時中、ドイツから逃れて隠れ家生活を送っていた2人は、戦争中盤に摘発されて、現地の通過収容所へ連行されたらしい。後に2人はダッハウ収容所に送られて、夫は石切り場での過酷な重労働をさせられ、妻はハーブ園で香辛料の栽培に従事させられていた。
 1944年後半、妻はポーランドのビルケナウ収容所に送られて選別された。ガス室へ送る者達として。同じ時期にアウスヴィッツ側に移送された人々は、既にガス室に送られ虐殺されていた。
 45年1月17日、ソ連によってアウスヴィッツが開放された時、ビルケナウにいた妻は救出されたが、極度の栄養失調と不衛生な生活環境のせいで、チフスにかかって放置されていて、死を待つばかりだった。
 4月29日連合国軍によってダッハウが開放されて、祖父も生き延びる事が出来たが、妻と同様栄養失調に陥り、救出がもう少し遅ければ死んでいたかもしれない。
 この2人と共に渡米した当初、ハルトは祖父の親戚のお屋敷で何不自由なく生活させてもらえた。アメリカで成功した親戚は、王侯貴族の様な邸宅を構えた大富豪だったのだ。
 アメリカに渡る事を決意した時、ハルトの実年齢は15歳だったが、2歳年長の春人の齢を我が齢として、老人に伝えていた。
 お屋敷に着いて間もなく、学力の調査が行われたが、学校に行っていなかったにもかかわらず、アメリカ人の17歳とほぼ同水準であった為、幾つかの試験が行われた後に、地元の高校に入る事が許された。
 何不自由なく養われたハルトは、大学にも進学させてもらって、とても幸せだと毎日思う。
 ドイツ時代に、メラによって施された教育が功を奏したのだ。メラも幸助も、ドイツはアメリカに勝てないと考えていたし、世界で通用する英語を覚えておけば、戦後何処でも生活できる、と考えていた。
 日々、閉ざされた空間の中にあったが、沢山の本を読み、言葉を教わり、世界共通の数学を学ばせてもらえた事は、アメリカでの生活に大きく役に立った。彼にとって最も役に立ったのは、絵であったと思う。
 幸助から、紙とペンを与えられて以降、絵を描かなかった日は1日も無い。夜寝る時に聞かせてくれた物語を描くのが楽しい思い出となって、心に刻まれていたのだ。
 彼の絵好きは、メラの合流で拍車がかかる。幸助と違って、感情豊かに絵を褒めちぎる母の姿を見るのに喜びを感じたハルトは、毎日多くの絵を描き続けた。ピクニックに行くようになってからは、自然の絵を描く事も覚えて、表現力は更に広まる。
 その甲斐あってか、彼の絵は学友から高く評価された。だが、ハルトは少し距離を置いた。アメリカの学校で、ハルトが体験したナチスの残酷な仕打ちを絵にするように度々求められていたからだ。
 ハルトは、第二次世界大戦に関する経験を誰にも話さなかった。自分を引き取った2人の老人以外に、ドイツ人として生きていた時代がある事を誰も知らない。
 ハルトが学生だった時代、ナチスによる民族絶滅計画が世界の知るところとなってから、ドイツへの批判は最高潮に達していた。生きるためとはいえ、一時でもドイツ人として生活していた時期があるなどと知れれば、民族の裏切り者のレッテルを張られかねない風潮であったからだ。 
 ただ、話さなかった本当の理由は違う。境遇に対するハルトの心境は、里親の2人とは違っていた。
 血も繋がらず民族も違う自分に本当の我が子と変わらない愛情を注いでくれた2人との思い出を話したとしても、誰も何も理解できないだろう、と思ったからだ。
 ハルトが日々書き続ける絵の殆どは、美しい母親の絵と、父親と走り回った川と橋のある草原の風景だった。
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