Kaddish

緒方宗谷

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母親としてしたかった事

14ー3

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 妻は、新しい我が子を日本語発音の『春人』と呼んでいた。私はこの子を妻が我が子として育ててくれる、と信じていたが、私を裏切ったのは私自身であった。私は実の息子の事を『春人』、この子の事をドイツ語発音で『ハルト』と呼んでいる事に気が付いたのだ。
 ドイツ語を喋っているのだから、発音の流れ上、ベルリン時代は2人共、実の子を『ハルト』と発音していたが、この町に引っ越してきてから妻は、ドイツ語で話していても、息子の名の正しい発音で、この子を呼んだ。
 「すごい! 1枚の紙で、なんで鳥が出来るの?お母さんは魔法が使えるみたい」
 この町に引っ越してきて以来、ハルトはここまで子供らしくはしゃぐ事は無かった。家事の最中も時折ハルトの部屋を訪れて、一緒に絵を描いたり、話をしたりしていた。
 「いつか戦争が終わったら、本当のご両親をみんなで探しましょうね。
  でも、約束してほしいの、ご両親が見つかっても、わたし達の子供でいてくれるって。
  お母さんが2人もいたら、嬉しいでしょう?」
 「うん、お母さんはとても優しいから、大好き。
  僕を殺そうとする大人とは違うよ。だって、折り紙を折ってくれるもの」
 「そうだ! 日本に旅行に行きましょうよ。
  とても素敵な所なのよ、妖精のお家の様な小さな木のお家が沢山あって、お庭には小さな森があるの、春人位の木ばかりで、とても小さな森よ。
  それに、植木鉢に入った松のミニチュアもあるのよ、とても可愛いんだから」
 実の息子は日本語を母国語としていて少しドイツ語ができたが、ハルトはドイツ語しかできない。妻は、本当に我が子として育てる気でいた。口にはしなかったが、もうこの子の実の両親は死んでしまっている、と思っているように思える。
 この様な狭い部屋に閉じ込められて、現実への絶望から心が苛まれるのではないか、と心配していた妻は、なんとかハルトに希望を持たせよう、と将来の楽しい事を思わせる様に心がけていた。
 ハルトは、なんとか平仮名50音を覚えよう、と毎日古くなった店のポスターの裏に繰り返し繰り返し字を書く。
 死んだ息子と同じ様に育てたい、と思うその心境は、時折まだ現実を受け入れられていないのではないかと思わせた。1人になる事を極端に嫌っているかのように、必ず事務所か私やハルトのもとにやって来る。
 私が、彼女の傷ついた精神が、あの日のままである事を知ったのはつい最近で、使われていない階段の右にある建物前側の1室で、椅子に座って呆けている彼女を見た時だった。
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