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北池の里と小学生
しおりを挟むいつの間にか、鳥島が退職していた。しかも連絡もなしにだ。そのことに佳代は、1カ月以上も気づかないでいた。
朝、更衣室から出てきて5階に行くためにエレベーターを待っていた時、入所者と話す事務の小竹が言っているのを聞いて、そういえば最近鳥島と会っていないことに気が付いた。
記憶を探ると、最後に見たのは風邪が蔓延していた時期だ。当時、スタッフの多くはビクビクしていて、手洗いやアルコール消毒を頻繁に行い、常にマスクとゴム手袋をはめていた。
佳代も毎日次亜塩素酸の希釈液を使って、施設内を拭いて回っていた。特にみんなが集まって密になる5階は、念入りに行う。本来は水拭きシートをつけて使用する長い柄のついた清掃用具に、乾いた紙タオルをつけ、床に希釈液を散布しながら拭いた。食べこぼしから感染するのではないか、と心配したからだ。
家に帰ると、上着にアルコールスプレーを吹きかけ、玄関より内側に菌が入らないように心掛けたし、この時期2週間くらい千里とも会わないようにした。
休憩中に、スタッフルームに張り出されている1か月分の出勤表を見ると、確かに鳥島の名前はない。まさか鳥島が辞めるとは思わなかった。佳代は、内心鳥島は心根の弱い人だと思っていた。だが、表に見せる言動は強気で自分の考えがはっきりしていて、ちょっとトラブルがあっただけで無断退職してしまうとは信じられなかった。
確かに、みんな病気を怖がっていたし、自分が感染したらと思うと、精神的なストレスは計り知れないのかもしれない。だがよく考えてみると、おう吐や下痢をした入所者に、重症化して病院に運ばれた人はいない。
症状が出た高齢者でこの程度なら、まだ若いスタッフが、感染したらとか、重症化したらとか、死んでしまったらとかを考える必要は全くなかったのではないだろか、と今になって佳代は思う。
幸い、施設内が荒んでいくようなことはなかったが、当時、死にたくないと思い詰めていた、と言うスタッフもいたくらいだから、職員への影響も大きかった。
猛獣のような人だったが、辞めてしまうとさみしいものだ。佳代は、お昼のヨーグルトを食べながら、こういう辞め方はしてほしくなかったと、少し悲しい気持ちになった。
それから暫く、しんみりお茶をすすっていた佳代だったが、休憩時間が残り5分だと気づくと、私は頑張らなきゃ、と気持ちを入れ替え、13時半に1階ロビーへと降りた。
今日は、ボランティア団体の企画で、小学生が高齢者と交流するイベントの日だ。既に、外には子供の一団が、ボランティアスタッフの説明を体育座りで聞いていた。
土日祝日を利用して、区内にある幾つかの介護施設を分かれて訪問して、高齢者と子供に遊んでもらうのが目的だ。年齢もまちまちなので、施設では、5階で遊んでもらう低学年の班と、1階2階で過ごす方々を訪問する高学年の班に分かれてもらった。
大抵5階を担当する佳代は、低学年班を引き連れて5階に上がった。ワイワイガヤガヤとエレベーターを降りる子供たちに、あら、なぁに? 何かしら? と興味津々のおばあちゃんたち。総勢15人の小さな子たちをみんなの前に集め、佳代は大きな声で5階の説明を始めた。
高齢者が間違って飲食してしまわないように、お菓子やジュースは振る舞えないが、帰りにお土産のお菓子を配ることを伝えると、やったぁ、という歓声が上がる。事前に用意された低学年用の玩具がテーブルに準備され、5階担当者が入所者に子供たちがみんなと遊びたがっていることを伝えていく。
もし、雄太と過ごすことがあるのなら、このような感じだろうか。今年9歳だから、小学校3年生だ。女の子は、お絵かきや人気キャラクターのパズルをおばあちゃん達と行い、男の子はオセロして遊んでいる。
この年齢の子供たちは、無条件に可愛い。それは、痴ほう症が大分進行した方にも共通するらしい。普段はお絵かきをしない菊池さんが、自らの意思で子供が書いた人気モンスターの絵に色を塗っている。アニメの設定上の色と違う色を塗るので、子供たちがげらげらと声を上げて笑うと、菊池さんもニコニコしながら塗り進む。
童話を原作とするアニメを子供たちと一緒に見ていた佐々木さんも、何かずっと話しかけている。意外に子供たちと意思疎通が取れているようだ。
興味を持った森川が会話を聞くと、佐々木さんが話していることは、いつもと変わらない。
「家に帰って、鍵を忘れたの、だから帰って行かなきゃ」
「ふぅ~ん、そうなの? 帰るの?」
佐々木さんの言葉に何の抵抗もせず無警戒に答える少女、その子の返答にうなずいて、家の人が忘れ物をした、と伝える佐々木さん。ボケているから聞き流して良いと森川がフォローすると、あはははは、と子供たちが笑う。
分からないけど楽しいと話す子供に、佐々木さんは、ねっ、と伝える。
その隣には、ニコニコしながら女の子と人形を愛でる佐竹さんの姿がある。この女性の可愛いものに対する興味は尋常ではなく、傍に人形やぬいぐるみを置いておくと、笑顔を絶やさず、ずっと抱きかかえて撫でている。
本当に心から子供が好きなのだろう。いつもは周りに興味を示さない彼女が、今日はキョロキョロと周りを見渡しては、子供とアイコンタクトを交わし、にっこりとほほ笑む。
人形に興味津津の女の子がやってくると、待っていましたとばかりに震える手を伸ばして、女の子の持つ人形を撫で始める。言葉は交わさないが、女の子には、一緒にお人形さんと遊びましょう、という気持ちが伝わり、イベントが終わるまで二人で過ごしていた。
女の子は、他に人形がないかあたりを見渡して、何度か発見してはその都度取ってきて、佐竹さんに見せてあげた。そのうち、棚を開けて中を探ってぬいぐるみを探し当て、全ての人形とぬいぐるみが佐竹さんの前に集められた。
佐竹さんは色白で白髪、髪の毛はほとんどなく、可愛らしい雪だるまのような輪郭、満面の笑顔を湛えると、顔中がシワシワになる。誰が見ても心が安らぐ表情をする人で、何を語るわけでもなく、にっこりとほほ笑むだけのコミュニケーションを人と取る人だ。
それが良かったのか、内気そうな人形好きの少女も心を開いて打ち解け、積極的に人形を集めてきたのだ。
それを目撃したスタッフは皆、入所者にも良い刺激になったけど、子供たちにも良い刺激になった、と口をそろえて話し、数日の間はその話題が続いた。
月に2、3回コンパが開催されていたが、面子が変わらないので、ただの飲み会に代わっていた。このメンバーで会うのが恒常化して、必ず佳代と小柳が1次会で抜けて、短い帰り道を会話しながら帰って行く。
殆どの場合、施設での出来事を佳代が話していた。
今日のこの出来事を話せば小柳は喜んでくれるだろうと思い、次の飲み会が待ち遠しくなった。佳代にとって、渋谷駅までの短い時間が唯一小柳とのデートの時間だったから、その日までに親子関係に役立つ話を施設で仕込んでおきたい、と毎日おじいちゃんおばあちゃんを観察するようになっていた。
子供たちより勝っているところもあり、劣っているところもある。子供たちから見れば、本来、自分たちより全てにおいて勝っているはずの大人が、幼い自分たちの手も借りたいほど相手の思いやりを必要としている。
子供たちにとっては、不思議な存在だろう。大人なのに、友達のようでもあり、弟や妹のようでもある。子供ながらに、父性や母性的な面が出たようでもあり、自分たちが守ってあげなければ、といったような責任が芽生えたようにも見えた。それは男の子よりも女の子の方が顕著に思える。
5階の人たちと比べて自立した1,2階の入所者を訪問した子供たちにも、同じような現象が出ていた。中でも土屋さんは人気者で、みんなで庭に出て絵を描いている。折り紙に興じるグループもあれば、習字に興味を持つ子供も数人いた。
入所者が若かったころの話に耳を傾ける子供たちは、どうやってご飯を炊いたのかや、テレビは何を見ていたのか、スマホやゲーム機がない中でどう過ごしたのかなど、質問が絶えない。聞いているうちに、「俺じゃ生きていけない」と深く息を吐く男子までいた。
イベントが終了して、入り口前に集められた子供たちは、僕はこれを体験したとか、私はこれができるようになったとかを自慢し合っている。入所者も名残惜しそうに玄関まで出てきて、見送ろうとしていた。
今日1日の出来事は、飲み会の帰り道では、とても語りつくせないだろう。
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