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38.期限
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「まずはお前の父親についてだ。誰だか知っているか?」
「知らないです」
「調べてみたことは? 気にならなかったのか?」
全く気になかったといえば、嘘になるだろうけど。
「物心ついた時から二人で暮らしていましたし、いないのが普通だったので。考えてみたこともなかったんです」
「店のことで困った時に頼ろうとは、思わなかったのか。法律上マリエットとそいつの婚姻関係はなかったようだが、お前が娘と認知されていたなら、相手には養育する義務がある。少しぐらい金を請求したっていいはずだ」
少しだけ、シャルルの声が鋭くなる。
なるほど。そういう方法があったのか。本当に、自分は世間知らずだ。
「全然、考えませんでした」
「そうか」
ただ目の前のことしか見えていなかったのだなと思う。もっとも、知っていたところで一度もあったことのない父が「はいどうぞ」とお金を渡してくれると考えにくいけれど。
「次に、母親についてだが。ベルフルーレに来る前、どこで過ごしていたか知っているか?」
ああ、それなら知っている。
「確か、王都にいたらしいです」
母は多くを語らなかったけれど、王都から来た行商人の話に相槌を打っていたし、時々懐かしむような目を見せた。
「王都か……」
ドーレブールからも、王都はそこまで離れてはいない。だからこそ、この町が栄えたとも言える。
「何をしていたかは?」
「それは、分からないです」
訊ねても、微妙にはぐらかすだけでそれは教えてくれなかった。ただ無性に器用な人で料理も裁縫もなんでも如才なくこなしていた。少しはそういうところが似ればよかったのに。
「あのネックレスはお前の母の形見か?」
「……ええ、そうです」
母が最期に自分に託したもの。それがあのネックレスだ。
「わたしは最初にお金に困った時、売ってしまおうって言ったんです。うちにあるものの中で一番きれいで、価値がありそうだったから。でも、母はこれだけはだめだと」
あれが母にとってどういう意味を持つ品なのかは分からない。ただ、
「とても大切な人に頂いたもの、だそうです。わたしは恋人にでももらったのかなって、勝手に思ってました」
けれどそういえば、一度も着けているところを見たことはなかった。
「母は言っていました。『いつかきっと、このネックレスがあなたを在るべきところへ導いてくれる』と。何のことだかわたしには分からないんですけど」
「導いてくれる、か」
いつの間にか、シャルルがアネットを見上げていた。すっと細められた紫水晶と見つめ合う。いつも見下ろされるばかりの長身に見上げられるというのは、不思議な気分だ。
頭を撫でようとして宙に留まったままだった手を握られた。
もう片方の手は、アネットの顔と伸びてくる。
「だ、旦那様」
長い指はするりと頬を撫で上げる。急に心臓の鼓動が早くなる。
どうしよう。ここから先を、何も考えていなかった。
さっきはああ言ったが、シャルルもやはり倒錯的嗜好とやらをお望みなのだろうか。
頭の中で凄まじい勢いで考えを巡らせていたら、大きな手でぎゅっと頬を潰された。そのまま、頬をぷにぷにと弄ばれる。
「ひどい顔だな」
そう言うと彼は、ふんと鼻を鳴らす。その顔はこれまた涼やかなものだ。
「何するんですか!」
ひどいのは、シャルルその人である。凹んだ頬を膨らませて、アネットは反論した。
「あそこまで言われて、ほいほい手を出すほど私は鬼畜じゃない」
シャルルはアネットの膝から起き上がったかと思うと、わしゃわしゃと赤毛を撫でる。子犬にするような、この手つき。
「もういい。大丈夫だ。仕事に戻る」
そう言って、立ち上がってしまう。大丈夫だと言うわりにシャルルの顔は、膝枕をする前よりも険しくなった。何かを考え込んでいるように見える。これではお気に召さなかったのだろうか。やはりもっと、大人の色気が必要なのだろうか。
「なあ、アネット」
扉の前で何かを思い出したように立ちどまったシャルルが、背中を向けたまま訊ねてくる。
「はい」
「お前の誕生日は、いつだ?」
「誕生日ですか」
そんなことを聞いてどうするのだろう。
「何かくれるんです?」
悪魔がどっさりと両手に余るような誕生日プレゼントをくれるとは思えなかったけれど。
「いいから、答えろ」
有無を言わせない鋭い声が言う。こういうところは本当に尊大だなと思う。
「五月一日です」
母がそう教えてくれた。新緑の頃、あなたは生まれたのよ、と。
「そうか。ありがとう」
それだけを言ってシャルルは部屋を出て行った。
そういえば、もうすぐ誕生日だ。
それはつまり、ここに来てからもう、一ヶ月と少しが経ったことを意味する。存外の居心地のよさと、見ないふりをしている気持ちの影で忘れていた。
残りの期間でアネットは、自分を買い取るなりなんなりを、本気で考えなければならないのだ。
「知らないです」
「調べてみたことは? 気にならなかったのか?」
全く気になかったといえば、嘘になるだろうけど。
「物心ついた時から二人で暮らしていましたし、いないのが普通だったので。考えてみたこともなかったんです」
「店のことで困った時に頼ろうとは、思わなかったのか。法律上マリエットとそいつの婚姻関係はなかったようだが、お前が娘と認知されていたなら、相手には養育する義務がある。少しぐらい金を請求したっていいはずだ」
少しだけ、シャルルの声が鋭くなる。
なるほど。そういう方法があったのか。本当に、自分は世間知らずだ。
「全然、考えませんでした」
「そうか」
ただ目の前のことしか見えていなかったのだなと思う。もっとも、知っていたところで一度もあったことのない父が「はいどうぞ」とお金を渡してくれると考えにくいけれど。
「次に、母親についてだが。ベルフルーレに来る前、どこで過ごしていたか知っているか?」
ああ、それなら知っている。
「確か、王都にいたらしいです」
母は多くを語らなかったけれど、王都から来た行商人の話に相槌を打っていたし、時々懐かしむような目を見せた。
「王都か……」
ドーレブールからも、王都はそこまで離れてはいない。だからこそ、この町が栄えたとも言える。
「何をしていたかは?」
「それは、分からないです」
訊ねても、微妙にはぐらかすだけでそれは教えてくれなかった。ただ無性に器用な人で料理も裁縫もなんでも如才なくこなしていた。少しはそういうところが似ればよかったのに。
「あのネックレスはお前の母の形見か?」
「……ええ、そうです」
母が最期に自分に託したもの。それがあのネックレスだ。
「わたしは最初にお金に困った時、売ってしまおうって言ったんです。うちにあるものの中で一番きれいで、価値がありそうだったから。でも、母はこれだけはだめだと」
あれが母にとってどういう意味を持つ品なのかは分からない。ただ、
「とても大切な人に頂いたもの、だそうです。わたしは恋人にでももらったのかなって、勝手に思ってました」
けれどそういえば、一度も着けているところを見たことはなかった。
「母は言っていました。『いつかきっと、このネックレスがあなたを在るべきところへ導いてくれる』と。何のことだかわたしには分からないんですけど」
「導いてくれる、か」
いつの間にか、シャルルがアネットを見上げていた。すっと細められた紫水晶と見つめ合う。いつも見下ろされるばかりの長身に見上げられるというのは、不思議な気分だ。
頭を撫でようとして宙に留まったままだった手を握られた。
もう片方の手は、アネットの顔と伸びてくる。
「だ、旦那様」
長い指はするりと頬を撫で上げる。急に心臓の鼓動が早くなる。
どうしよう。ここから先を、何も考えていなかった。
さっきはああ言ったが、シャルルもやはり倒錯的嗜好とやらをお望みなのだろうか。
頭の中で凄まじい勢いで考えを巡らせていたら、大きな手でぎゅっと頬を潰された。そのまま、頬をぷにぷにと弄ばれる。
「ひどい顔だな」
そう言うと彼は、ふんと鼻を鳴らす。その顔はこれまた涼やかなものだ。
「何するんですか!」
ひどいのは、シャルルその人である。凹んだ頬を膨らませて、アネットは反論した。
「あそこまで言われて、ほいほい手を出すほど私は鬼畜じゃない」
シャルルはアネットの膝から起き上がったかと思うと、わしゃわしゃと赤毛を撫でる。子犬にするような、この手つき。
「もういい。大丈夫だ。仕事に戻る」
そう言って、立ち上がってしまう。大丈夫だと言うわりにシャルルの顔は、膝枕をする前よりも険しくなった。何かを考え込んでいるように見える。これではお気に召さなかったのだろうか。やはりもっと、大人の色気が必要なのだろうか。
「なあ、アネット」
扉の前で何かを思い出したように立ちどまったシャルルが、背中を向けたまま訊ねてくる。
「はい」
「お前の誕生日は、いつだ?」
「誕生日ですか」
そんなことを聞いてどうするのだろう。
「何かくれるんです?」
悪魔がどっさりと両手に余るような誕生日プレゼントをくれるとは思えなかったけれど。
「いいから、答えろ」
有無を言わせない鋭い声が言う。こういうところは本当に尊大だなと思う。
「五月一日です」
母がそう教えてくれた。新緑の頃、あなたは生まれたのよ、と。
「そうか。ありがとう」
それだけを言ってシャルルは部屋を出て行った。
そういえば、もうすぐ誕生日だ。
それはつまり、ここに来てからもう、一ヶ月と少しが経ったことを意味する。存外の居心地のよさと、見ないふりをしている気持ちの影で忘れていた。
残りの期間でアネットは、自分を買い取るなりなんなりを、本気で考えなければならないのだ。
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