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33.わたしだけの秘密
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「お嬢様、お加減はいかがですか」
「はい、もうすっかりよくなりました」
現れたロイクの顔も心配そうだった。
「ご不調に気がつきませんで、申し訳ございません」
そう言って深々と頭を下げる。慌ててアネットはばたばたと手を振った。
「いえ、そんな、ロイクさんが謝ることでは」
みんなに余計な心配をかけてしまった。そんなつもりではなかったのに。
「私は、今日行くところがある。お前は大人しく寝ていろ、いいな」
シャルルはいくらか乱れたシャツを整えると、寝台から立ち上がった。
「だから、もう平気ですってば」
肩の上に手が置かれる。ぐっと、その手に力がかかって、眇められた目が咎めるような光を宿す。
「いいか、お前は風邪と過労で倒れたんだ。少しは自覚しろ」
「かろう……?」
アネットはきょとんと首を傾げた。果たしてそんなに疲れていたのだろうか。毎日何不自由のない暮らしをしているというのに。
一日が過ぎるのが早いな、とは思っていたけれど。
「環境が変わると、思っているよりもお心とお体に負荷がかかるものです。しばらくはゆっくり、お過ごしになってください」
「そういうことだ。必要なものがあれば、なんでもロイクに言えばいい。ロイク、こいつがきちんと寝ているか見張っていろ、いいな」
今までなら、何か言い返したくなるようなシャルルの物言い。けれど、もう分かってしまったのだ。
肩に置かれている手はほんの僅かだけれど、震えている。己の目が届かぬ間のことを、ただただ本気で彼は案じている。
その手にそっと自分の手を重ねた。
「ちゃんと、寝ています」
それぐらいのことしか、今はできないけれど。握ったシャルルの手はやはり大きかった。
「ここで、お帰りをお待ちしております、旦那様」
もうこれ以上心配をかけたくなかった。精一杯笑ってみせたら、
「分かったなら、いい」
それだけ答えてシャルルはくるりと、アネットに背を向けた。
「着替えてくる」
そのまま彼は隣の部屋へとすたすたと歩いていって、追いかける様にロイクが続く。
「旦那様」
手伝いを申し出たロイクを、シャルルは素気なく返す。
「いい。自分でやる。お前はアネットに食事でも持って来てやれ」
「はい、それでしたら」
一礼したロイクがこちらに向き直る。
「あの、わたし」
主たるシャルルよりも優先してもらういわれはない。アネットの言葉に、ロイクは首を横に振った。
「旦那様は、お体に触れられるのがとても苦手なので。お声かけだけはさせて頂きますが、ご自身でお着替えをなさることがほとんどです」
「そうなんですか?」
「はい。私以外の者でも、同様です」
ロイクは少しだけ、寂しそうに眉を下げた。
「お食事は何をお持ちしましょう」
「あの、昨日のスープ、まだありますか?」
あまり食べられなかったのが申し訳なかった。何か口に入れるなら、あれがいい。
持って来てもらったスープを掬って、焼き立てのパンをそのままぱくりと齧る。
「本当にようございました。お嬢様は丸二日眠っておられたのですよ」
あ、パンは一口ずつ千切って食べる様に言われたのだった。怒られるかと思ったけれど、ロイクはただにこにこと見守ってくれるだけだ。
「わたし、そんなに寝ていたんですか?」
「はい」
「その間ずっと」
ちらりと、隣の部屋の方を見れば、ロイクは静かに肯定する。
「旦那様は一睡もせずに、お嬢様を介抱しておられました。私が代わると申し上げても聞き入れて頂けず」
ずっと、彼は付き添ってくれていたのだ。二日も徹夜をすれば、さすがのシャルルも天使のように眠るはずだ。
いや、待て。
わたしはそんな、誰かに触れられるのを厭う人に、一晩中抱き着いて寝ていたのか。
勿論、シャツ越しではあったけれど。ぴたりとシャルルに寄り添うようにして、自分は眠っていた。
それに何より、先に触れてきたのは彼の方だというのに。
またスープを一さじ掬って考える。澄んだ水面に煮え切らない顔をした自分が映っていた。
「あの、ロイクさん」
どうしてシャルルはあんなことをしたのか。ロイクは彼を幼い頃から知っているという。理由を訊ねたら、この執事は教えてくれるだろうか。
でも、それは少し違う気もする。
「どうされました、お嬢様」
これは多分、他の誰かに聞いてはいけないものだ。たとえロイクが答えを知っていたとしても。アネットが自分で、答えを見つけなければならない。
――アネット。
名前を呼んでくれた、少し掠れた声を思い出す。春に降るあたたかな雨のような、そんな声。
もう少し、あのシャルルを自分だけの秘密にしていたかった。
「おかわり、まだありますか?」
誤魔化すように殊更明るい調子で言うと、ロイクはにこりと微笑んだ。
「はい、すぐにお持ちいたしますね」
「はい、もうすっかりよくなりました」
現れたロイクの顔も心配そうだった。
「ご不調に気がつきませんで、申し訳ございません」
そう言って深々と頭を下げる。慌ててアネットはばたばたと手を振った。
「いえ、そんな、ロイクさんが謝ることでは」
みんなに余計な心配をかけてしまった。そんなつもりではなかったのに。
「私は、今日行くところがある。お前は大人しく寝ていろ、いいな」
シャルルはいくらか乱れたシャツを整えると、寝台から立ち上がった。
「だから、もう平気ですってば」
肩の上に手が置かれる。ぐっと、その手に力がかかって、眇められた目が咎めるような光を宿す。
「いいか、お前は風邪と過労で倒れたんだ。少しは自覚しろ」
「かろう……?」
アネットはきょとんと首を傾げた。果たしてそんなに疲れていたのだろうか。毎日何不自由のない暮らしをしているというのに。
一日が過ぎるのが早いな、とは思っていたけれど。
「環境が変わると、思っているよりもお心とお体に負荷がかかるものです。しばらくはゆっくり、お過ごしになってください」
「そういうことだ。必要なものがあれば、なんでもロイクに言えばいい。ロイク、こいつがきちんと寝ているか見張っていろ、いいな」
今までなら、何か言い返したくなるようなシャルルの物言い。けれど、もう分かってしまったのだ。
肩に置かれている手はほんの僅かだけれど、震えている。己の目が届かぬ間のことを、ただただ本気で彼は案じている。
その手にそっと自分の手を重ねた。
「ちゃんと、寝ています」
それぐらいのことしか、今はできないけれど。握ったシャルルの手はやはり大きかった。
「ここで、お帰りをお待ちしております、旦那様」
もうこれ以上心配をかけたくなかった。精一杯笑ってみせたら、
「分かったなら、いい」
それだけ答えてシャルルはくるりと、アネットに背を向けた。
「着替えてくる」
そのまま彼は隣の部屋へとすたすたと歩いていって、追いかける様にロイクが続く。
「旦那様」
手伝いを申し出たロイクを、シャルルは素気なく返す。
「いい。自分でやる。お前はアネットに食事でも持って来てやれ」
「はい、それでしたら」
一礼したロイクがこちらに向き直る。
「あの、わたし」
主たるシャルルよりも優先してもらういわれはない。アネットの言葉に、ロイクは首を横に振った。
「旦那様は、お体に触れられるのがとても苦手なので。お声かけだけはさせて頂きますが、ご自身でお着替えをなさることがほとんどです」
「そうなんですか?」
「はい。私以外の者でも、同様です」
ロイクは少しだけ、寂しそうに眉を下げた。
「お食事は何をお持ちしましょう」
「あの、昨日のスープ、まだありますか?」
あまり食べられなかったのが申し訳なかった。何か口に入れるなら、あれがいい。
持って来てもらったスープを掬って、焼き立てのパンをそのままぱくりと齧る。
「本当にようございました。お嬢様は丸二日眠っておられたのですよ」
あ、パンは一口ずつ千切って食べる様に言われたのだった。怒られるかと思ったけれど、ロイクはただにこにこと見守ってくれるだけだ。
「わたし、そんなに寝ていたんですか?」
「はい」
「その間ずっと」
ちらりと、隣の部屋の方を見れば、ロイクは静かに肯定する。
「旦那様は一睡もせずに、お嬢様を介抱しておられました。私が代わると申し上げても聞き入れて頂けず」
ずっと、彼は付き添ってくれていたのだ。二日も徹夜をすれば、さすがのシャルルも天使のように眠るはずだ。
いや、待て。
わたしはそんな、誰かに触れられるのを厭う人に、一晩中抱き着いて寝ていたのか。
勿論、シャツ越しではあったけれど。ぴたりとシャルルに寄り添うようにして、自分は眠っていた。
それに何より、先に触れてきたのは彼の方だというのに。
またスープを一さじ掬って考える。澄んだ水面に煮え切らない顔をした自分が映っていた。
「あの、ロイクさん」
どうしてシャルルはあんなことをしたのか。ロイクは彼を幼い頃から知っているという。理由を訊ねたら、この執事は教えてくれるだろうか。
でも、それは少し違う気もする。
「どうされました、お嬢様」
これは多分、他の誰かに聞いてはいけないものだ。たとえロイクが答えを知っていたとしても。アネットが自分で、答えを見つけなければならない。
――アネット。
名前を呼んでくれた、少し掠れた声を思い出す。春に降るあたたかな雨のような、そんな声。
もう少し、あのシャルルを自分だけの秘密にしていたかった。
「おかわり、まだありますか?」
誤魔化すように殊更明るい調子で言うと、ロイクはにこりと微笑んだ。
「はい、すぐにお持ちいたしますね」
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