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30.思い出のスープ

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 懐かしい匂いがして、また目を開けた。これはそうだ。うちの、食堂の匂いだ。

「食べられるか?」
 トレイの上にあたたかなスープが置かれている。その匂いを嗅いだら、少し位なら食べられそうな気がしてきた。

「食べます」
 ひとさじ、掬って口に入れる。

 ああ、そうだ。この味だ。新鮮な魚介を煮込んで作った味。ドーレブールではあまり魚料理は食べないから、本当に久しぶりだった。

「美味しいです……」
 母が作ってくれた味に、とてもよく似ている。

「なんで、この味を知っているんですか」

 いつものこの屋敷の味ではない。ハーブやバターをふんだんに使った貴族の食卓の味付けとは全く異なる、これは庶民の家庭の素朴な味だ。
 おそらくこれは、自分の為に特別に作られた料理だ。

「お前の出自を調べた」
 なんてことないことのように、シャルルは言った。

「母は、マリエット=ロロー。父親は不明。出生地は南方の漁師町、ベルフルーレ。お前の母は、そこで小さな食堂を営んでいた」

 何も見ていないというのに、全ての内容が頭に入っているかのようだ。彼はよどみなく言葉を紡いでいく。

「いや、正確には店を借りていたと言うべきだな。女手一つで娘を育てるマリエットを不憫に思った所有者オーナーは賃料を相場より安くしていた。彼女の料理は評判で、店は繁盛していたらしいな」

 湯気の向こうに、あの頃の風景が見えるようだった。母が料理を作って、自分が給仕をして。常連のお客さんがいて、笑顔が溢れていて。そんな日々がずっとこの先も続くのだと、アネットは露ほども疑わなかった。

 けれど、もう、帰れない。帰る家もないし、待っている人もいない。
 母はもう、この世にはいないのだ。

 強い懐かしさと同時に、その事実が胸を突きさすようで、途端に食事が進まなくなった。

 かちゃん、と皿にスプーンがぶつかる音がした。食事中に音を立てるのはいけないと習ったのに、やってしまった。また、怒られるだろうか。

 ぽたりと、雫が敷布に落ちた。泣きたくなんかなかったのに。

 事あるごとに彼はアネットのことを、野良猫と呼んだが、正しくそうだ。アネットは、どこにも行き場のない、薄汚れた野良猫でしかなかった。

 シャルルは何も言わずに、窺うような目を向けてくるだけだ。けれど調べたと言っていたなら、きっとこの先に何が起こったかも、知っているのだろう。

「店を貸してくれていたおじいさんが亡くなって、その権利が息子さん達に相続されて。でも、お子さんたちはそんな利益も大して出ない食堂なんかに興味がなかったんです」

 だから、その権利を売り渡した。そして、その相手が悪かった。

 ある日、新しい所有者が店にやって来た。やたらとにこやかな顔をした男は、貸主が変わるので再契約となるが、賃料は今まで通りでいいと説明した。言われるがまま、母は新しい契約書にサインをした。このまま店を続けていけると二人で安堵したものだった。

 そうして、一年が過ぎた頃、男はまた現れた。契約更新料を頂戴すると言って。

「あなたにすれば、ほんの端金はしたがねかもしれないけれど」

 それは高額で、とてもアネットと母が払えるようなお金ではなかった。

「見ると、契約書の一番下にとても小さな字で書いてあるんです。毎年契約更新料を払う必要があるって」

 そんなところまで見なかった自分達が悪かったのかもしれない。けれど、どんな時も契約書に書いてあることは絶対だ。アネットの奴隷契約と同じ。

 そして、母がそれに署名をしたことは事実なのだ。

 ぽろぽろと、涙が溢れてくる。拭っても拭っても、止まらない。

「母は必死でお金を払おうとして他の仕事もしたりして、それで体を壊して……」
 挙句の果てに、亡くなった。最期まで、アネットに「ごめんね」と謝っていた。

「母の払えなかった契約更新料がそのまま借金になって、わたしは奴隷になりました」

 そうして、この悪魔に買われたのだ。
 嗚咽を堪えると喉が焼けるように痛い。いつの間にかスープは冷めきっていた。もう、食べられる気はしなかった。
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