上 下
13 / 19
第2章

02-6 若菜先生

しおりを挟む
 若菜単語わかな先生。身長は160cmほど。30代半ばの男性にしては小さなほうだ。
 その小柄な若菜単語わかな先生が、おれの弟の瑠皆単語るみなくんの制服の襟元をつかんで引きずりながら廊下を進んでいるのと出くわしたのは、瑠皆くんと下校の待ち合わせをしていた校門へと向かう途中のことだった。

「お、お兄ちゃん、助けてぇ~」

 おれを見つけた瑠皆くんが助けを求めてくる。
 おれは若菜先生の前に移動して、

「すみません先生。弟が何かしましたか」

 若菜先生は去年のおれの担任で、今年は瑠皆くん担任らしい。

「弟? おまえは田中だろう。こいつは緋水緑単語ひすいろく瑠皆というバカだ。兄は優秀だったんだがな、弟は出がらしだ」

 兄って、若菜先生、翼咲単語つばさ兄さんのことも知ってるのか。

「おれ、母さんが再婚して緋水緑になったんです。瑠皆くんはおれの弟です」

 若菜先生は下から睨むようにおれを見上げ、

「こいつは二回連続で、週小テストで赤点を取った」

 そう吐き捨てた。
 週小テストで赤点? それも二連続で?
 それは……まずいな。
 若菜先生は、ちゃんと勉強しない生徒には厳しい。
 それに週小テストは、復習してれば赤点を取るようなものじゃないし。

「瑠皆くん、勉強しなかったの?」

「し、したよ? でもわからなかったんだもん」

「勉強しているやつがわからないテストを出すか。バカが」

 それは、おれもそう思う。
 実際どの先生であろうと、授業でやっていない内容が週小テストで出題された例をおれは知らない。

「生徒指導室でお説教だ。具体的には全問正解するまで小テストを繰り返す」

 それはお説教とはいわないと思うけど、若菜先生のやりたいことは理解できた。
 視線で助けを求める瑠皆くん。

「そう……ですか。頑張ってね、瑠皆くん。おれ、先に帰るから」

 それ以外どうしろと? これは、瑠皆くんが悪いんだしな……。
 話は終わったというように、瑠皆くんをたぶん生徒指導室へ引きずっていく若菜先生。
 若菜先生は、30代半ばと思えないほどに若々しい見た目をしている。20代後半か、もしくは半ばにも見える感じだ。
 数学の教師だけど運動神経が並じゃなくて、低身長なのに信じられないくらい走るのが速いし、球技もめちゃくちゃ上手だ。
 サッカー部の顧問の先生よりもサッカーが上手で、野球部の紅白試合に参加して三打席連続ホームランでエースをボコボコにし、校長に怒られたこともあるらしい。
 厳しい先生なのは間違いないんだけど、生徒には慕われていると思う。
 見た目が可愛いく、というか身長が低く女性的な容貌で男性アイドルみたいな外見をしているから、女子だけでなく男子にもファンがいる。
 言葉づかいは教師と思えないほど乱暴で、真面目に勉強しない生徒には容赦がない。
 でも、できない生徒を見捨てるというわけじゃなく、できないことができるように。わからないところをわかるように。生徒にはそんな指導をする、「本人のためになる厳しさ」を与える人だと思う。
 おれは勉強できるほうだから、そういう指導はされたことないけど。
 去年の夏休み。おれは若菜先生が、背の高い同年代の男性と手を繋いでいるのを見たことがある。
 それを目撃したのは本当に偶然で、手を繋いでいたのだって数秒のことだったけど、それでも二人の間に存在した幸せな空気を感じとってしまった。
 少しの間だけ繋がった手。
 一瞬、ふたりは見つめ合って微笑みを交わした。
 それだけだったけど、おれはすごく羨ましいと感じた。
 その頃、おれの苗字は緋水緑じゃなくて、瑠皆くんとも翼咲兄さんとも面識がなかった。
 同性を性的な目で見てしまう自分を恥じていたし、誰にも知られないように隠していたころだったから。
 若菜先生が、おれと同じ性質の人かはわからない。
 ただ単に、若菜先生にとって「あの人が特別な存在」なだけかもしれない。
 特別な人が偶然同性だったということも、それほど珍しくないんじゃないかな。
 だけどおれは、「同性とあんなに幸せような微笑みを交わすことが許されている」若菜先生を羨ましいと思ったし、妬ましいと感じた。
 ただの嫉妬だ。
 この世界にはたくさんの「隠されていること」があって、それらは表に出ないほうが物事が安定していることもある。
 今のおれは、それが理解できている。
 若菜先生のあの微笑みだって、「隠されていること」の一つなんだろう。
 少なくとも今、おれは安定している。
 引きずられていく瑠皆くん。
 まだ助けを請う目でおれを見ている。
 おれは瑠皆くんに手を振ってから、家に帰ることにした。
 スーパーで夕ご飯の買い物をしよう。今日のおかずは、瑠皆くんが好きなチキンステーキにしよう。あとはデザートだな、瑠皆くんお気に入りの子どもが好む安物のゼリーも買おう。

「お、お兄ちゃん、たすけ……」

「黙れ」

 背中のほうから、小さくそんな声が聞こえてきたけど、おれは聞こえなかったことにして足を進めた。
しおりを挟む

処理中です...