上 下
6 / 138
解説・人物紹介

越後国内の敵味方表

しおりを挟む
以下を参考参照、引用させていただいています。
歴史の目的をめぐって
関東戦国史 1438-1590 Produced by 温泉コム
参照参考文献
戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧
ウィキペディア
世界の帝王辞典・府中長尾氏(越後長尾氏)
武家家伝_足利長尾氏参照
戦国南越後国人名辞典 - 戦国武将録
戦国北越後国人名辞典 - 戦国武将録
平姓長尾氏の系譜
上杉謙信の家系とその子孫
旧国郡別石高の変遷
刀剣・日本刀の専門サイト「刀剣ワールド」
国史研究の窓
https://sengoku-period.com/sengokudaimyo/uesugi/uesugi_katyu01/
長尾上杉存亡記
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881457110
箕輪城と上州戦国史
https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%A1%95%E5%AE%9A

城は10,000石以上の領主の居城
館と砦は9,999石以下の領主の居城
館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦

「南越後国」南から
頸城郡:
魚沼郡:
刈羽郡:
三島郡:
蒲原郡:安田城、鳥坂城、津川城、新潟城、新潟湊
岩船郡:村上城、平林城。

「揚北衆」
北越後国の揚北(阿賀野川北岸)を領した国衆
小泉庄を所領とした秩父党(本庄家:惣領家、色部家、鮎川家)
奥山庄を所領とした三浦党(中条家:惣領家、黒川家)
加地庄を所領とした佐々木党
 (加地家:惣領、新発田家、竹俣家、五十公野家、大見家)
白河庄を所領とした大見党(安田家:惣領家、水原家、下条家)
伊達天文の乱で中条藤資と本庄房長、色部勝長、鮎川清長らが争い揚北衆は分裂
独立性は衰退した。

「高根金山」
岩船郡鳴海山の金山
1568年高根金山は本庄繁長の直轄領にあったが長尾景虎に反抗したため没収
以後は長尾家の直轄領となった。 

「上杉四家老家」越後上杉家
石川重次、千坂景親、斎藤朝信

「上杉四天王」上杉謙信・江戸時代の創作
直江景綱、柿崎景家、宇佐美定満、甘粕景持

「元服前後の長尾景虎守り支えたという伝説的な6名の近臣」

金津義旧
別名:金津弘雅
通称:新兵衛・新右兵衛尉
長尾景虎の乳母夫
源姓平賀金津一族
部将として一手を率いる
留守将の横目(監察)を務める
旗本の重鎮

秋山定綱
通称:伊賀守・式部丞
上杉景勝の時代に越後国落水城の城将(須賀修理亮盛能と共に務める)
同糸魚川城の城将
陸奥国二本松城の城代

戸倉定次
通称:与八郎・能登守
居城:国蒲原郡菅名荘戸倉館

曽根備中守
子供:曽根平兵衛

曽根平兵衛
隠号:是言斎
父親:曽根備中守
子供:曽根俊理
終生上杉謙信の旗本を勤める

小嶋貞興
別名:小嶋一忠
通称:弥太郎・慶之助
強力無双の豪傑で「鬼小島」
実在が疑問視

黒金孫左衛門
別名:奈屋辰蔵
越後国古志郡栃尾の郷士
実在が疑問視

「上杉謙信の七手組大将」国史研究の窓
本庄繁長、色部勝長、中条藤資、竹俣清綱、新発田長敦、柿崎景家

「越後十七将」戦国時代越後の上杉謙信の武将たちを指す江戸時代の創作
荒川伊豆守、飯盛摂津守、宇佐美定行、鬼小島弥太郎、柿崎景家
甘粕近江守、唐崎左馬之介、斎藤下野守、鴫山周防守、神藤出羽守
高梨政頼、直江兼続、直江景綱、永井丹波守、本庄繁長
毛利上総介、桃井讃岐守

『上杉房能』

『上杉房能の味方』

竹俣清綱(15??~15??)
父親:竹俣清忠
居城:南蒲原郡竹俣館
七手組大将(本庄繁長、色部勝長、中条藤資、加地春綱、新発田長敦、柿崎景家)
1507年の永正の乱で上杉房能が討死した。
本庄時長、色部昌長とともに長尾為景、中条藤資、築地資豊勢と戦い敗退

竹俣慶綱(1524~1582)
別名:竹俣為綱
通称:太郎左衛門尉
官途:三河守
父親:竹俣清綱
七手組大将の一人、長尾景虎の奉行衆を務めた
1559年10月28日序列20位・諸国衆御太刀之次第衆第17位
1561年の第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い戦功
1581年に越中松倉城を守備した。
1582年の越中魚津城の戦いで長尾景勝に従い織田信長の家臣柴田勝家勢と戦い討死

竹俣昌綱(15??~15??)
官途:筑後守
父親:竹俣清綱の次男
兄弟:竹俣慶綱(竹俣為綱)
子供:竹俣清秀・竹俣重綱
1530年の上条定憲の乱で長尾為景勢と戦い敗退した
上条勢:本庄房長、鮎川清長、水原政家、黒川清実、中条藤資
   :五十公野景家、加地春綱、新発田綱貞
1559年10月28日序列27位・諸国衆御太刀之次第衆第24位

竹俣重綱(15??~15??)
父親:竹俣昌綱
正室:上条政繁の娘
 
竹俣利綱(15??~1613)
別名:長尾景人
官途:三河守
父親:竹俣為綱の男
1593年に竹俣家の家督を継承した
1598年長尾景勝に従い会津黒川城に転封して会津守山城(2,100石)を領した
1602年長尾景勝に従い羽前米沢城に転封した

竹俣清房(15??~15??)
通称:市川左衛門尉
父親:市河房綱
養父:竹俣利綱
1614年の大坂冬の陣で長尾景勝に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功

『上条定憲の味方』

1530年の上条定憲の乱
新発田綱貞、本庄房長・鮎川清長・水原政家・黒川清実
中条藤資・五十公野景家・加地春綱・竹俣昌綱

上条定憲(15??~1536)
別名:憲定、定兼
通称:弥五郎
官途:播磨守
父親:上杉房実
兄弟:上杉定実
正室:長尾為景の娘。
居城:上条城
1530年に上条定憲と長尾為景の間で抗争が勃発
1531年12代将軍・足利義晴の調停で和睦
1533年9月に長尾為景と上杉定憲の間で再抗争
1536年4月10日には三分一ヶ原合戦で長尾為景に大敗
1536年4月24日追い詰められて敗死

上条政繁(1553~1643)
改名:上条景義→政繁→宜順斎(号)
通称:弥五郎
官途:山城守、播磨守、織部正
父親:上杉定実
養父:上杉頼房または上条定憲
正室:長尾政景娘
主君:上杉謙信→景勝→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠


加地春綱(15??~15??)
官途:安芸守。
父親:加地秀経。
正室:長尾為景の娘。
居城:北蒲原郡加地館
七手組大将(本庄繁長、色部勝長、中条藤資、竹俣清綱、新発田長敦、柿崎景家)
1530年の上条定憲の乱で上条定憲に従い長尾為景から離反した。
離反者:本庄房長、鮎川清長、水原政家、黒川清実、中条藤資、五十公野景家
   :新発田綱貞、竹俣昌綱
長尾為景は加地春綱に娘を嫁がせることで和議を結んだ。
1543年に長尾為景が病没したため長尾景虎に仕えた。
1559年10月28日序列18位・諸国衆御太刀之次第衆第15位
1564年に信濃飯山城代職を務めた。

加地秀綱(15??~1587)
父親:加地春綱
上杉謙信の姉の子
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従う。
長尾景勝勢の新発田重家、五十公野信宗勢と戦い敗退
1581年の新発田重家の乱で新発田重家に従い長尾景勝勢と戦い敗退
1587年の加地城の戦いで長尾景勝勢の攻撃を受け討死

加地景綱(15??~16??)
父親:加地秀綱
1587年の加地館の戦いで父の加地秀綱が討死したので長尾景勝に仕えた。
1598年に越後国で帰農した
1600年の関ヶ原の役で竹俣壱岐守とともに越後国内で一揆勢を指揮した

水原政家(15??~15??)
通称:伊勢守
子供:水原隆家
居城:北蒲原郡水原館
平姓大見一族
1530年の上条定憲の乱で上条定憲に従い長尾為景勢と戦い敗退
上条定憲と揚北衆の取次役を務めた

水原隆家
通称:小太郎
父親:水原政家?
居城:蒲原郡水原館

水原満家(15??~15??)
官途:壱岐守
父親:水原政家
1559年の披露太刀之次第序列30位:披露太刀之衆第27位
1560年の第一次小田原城の戦いで長尾景虎に従い北条氏康勢と戦い敗退
第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い敗退
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い戦功

水原親憲(15??~16??)
父親:大関親信
養父:水原満家
1561年の第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い戦功
1578年の御館の乱で養父の水原満家と長尾景勝に従い長尾景虎勢と戦い戦功
1580年に深沢利重、栗林政頼とともに上田城の在番を務めた。
1586年の新発田重家の乱で水原満家が長尾景勝に従い新発田重家勢と戦い討死
   :水原家の家督を相続
1598年に長尾景勝に従い会津黒川城に転封して猪苗代城代職(5,500石)を務める
1600年の羽長谷堂城の戦いで樋口兼続に従い最上義光勢と戦い敗退
1614年の摂津鴫野の戦いで長尾景勝に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功

宇佐美房忠(15??~1514年)
別名:宇佐美孝忠?宇佐美弥七郎房忠
父親:宇佐美孝忠?
養父:宇佐美定秀?
子供:宇佐美定満
居城:小野城・岩手城
主君:越後上杉氏
1513年上杉定実は打倒為景を掲げ味方の宇佐美房忠を中心に挙兵
上杉定実と共に小野城を拠点にして戦う
春日山城を占拠していた定実が為景に幽閉される
1514年小野城が陥落して岩手城に退いて戦うも討死

宇佐美定満(1489年~1564年8月21日)
別名:宇駿
通称:四郎右衛門尉
官途:駿河守
父親:宇佐美房忠
子供:定勝? 勝行?
居城:枇杷島城
主君:上条定憲→長尾晴景→長尾景虎(上杉謙信)
1535年5月に上田衆・妻有衆・藪神衆・大熊氏らと共に定憲側に集結
1536年4月10日に行われた三分一原の戦いで為景勢に敗北
1548年長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぐと従う
景虎と対立した上田長尾家の当主長尾政景に備えて要害に入る
一時景虎より離反するが後に復す
1551年正月には政景側の発智長芳・穴澤長勝らと交戦
夏頃に定満と平子孫太郎の間で多劫小三郎の遺領を巡っての対立
孫太郎や大熊朝秀・直江実綱・本庄実乃ら奉行人に裁定の不満を訴える
1559年10月28日序列15位・諸国衆御太刀之次第衆第12位
越後十七将の一人、上杉四天王。

宇佐美四郎右衛門尉

多功小三郎
通称:肥後守
長尾景虎の支持基盤である小千谷・堀内・波多岐・妻有地域
堀内地域の領主の一人
子供:
居城:俎板平城
宇佐美駿河守定満に同調して景虎に味方したが戦死
遺領は平子孫太郎に与えられる
宇佐美定満が景虎に再考を願い出る

多功某
父親:多功小三郎

平子房政
子供:平子房政

平子房長
別名:房政
通称:孫太郎・若狭守
父親:平子房政
居城:魚沼郡薭生城
長尾晴景と景虎の兄弟抗争においては景虎に味方した
景虎に嘆願してかつて所領の一部であった西古志郡山俣などを回復
三条長尾家の家臣、松本家と所領争い
1559年の披露太刀之次第序列36位:披露太刀之衆第33位

加治定次
通称:式部少輔
源姓佐々木加地一族か
魚沼郡堀内地域の城館に拠る
宇佐美定満の使者として平子氏に会いに行く

『上杉定実の味方』

上杉定実(15??~1550)
改名:定実→玄清(号)
父親:上杉房実
養父:上杉房能
兄弟:積翠院(伊達尚宗正室)、定実、上条定憲、定明
正室:上杉房能の娘
継室:長尾能景の娘[
子 :長尾晴景正室、蘆名氏室
猶子::伊達実元(養子になる予定だったがのち中止)

上条政繁(1553年?~1643年?)
改名:上条景義→政繁→宜順斎(号)
通称:弥五郎
官途:山城守、播磨守、織部正
氏族:八条上杉家→上条上杉家
父親:上杉定実
養父:上杉頼房または上条定憲
正室:長尾政景娘
養子:畠山義春
上条上杉家当主
上条城城主
主君:上杉謙信→景勝→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
1559年の披露太刀之次第序列48位:披露太刀之衆第45位
1571年上杉謙信の代に廃絶していた上条上杉家の家督を相続
1575年『天正三年上杉家軍役帳』によると96人の軍役を負担
上杉家一門の第四位
1577年能登国守護・畠山氏の七尾城を攻めた
謙信の命で畠山義続の遺児(後の義春)を養嗣子とした
御館の乱では上杉景勝に味方して重臣として遇される
1581年越中松倉城の河田長親が没したために後継として入城
1584年羽柴秀吉に人質を送る事になる
上杉景勝に実子がいなかったため孫の義真を景勝の養子として送る
軍役を免除される
信濃国海津城の山浦景国が失脚すると後任として海津城に入る
1585年海津城代を須田満親に替えられたため景勝と対立
1586年上杉家を出奔して秀吉の下で河内国高安郡津田・保谷500石

安田実秀(14??~1513)
通称:弥太郎。
官途:但馬守
主君:上杉定実
居城:北蒲原郡安田城:揚北衆
1513年の安田城の戦いで上杉定実に従い長尾為景、中条藤資、築地忠基勢と戦い討死

安田長秀(1516~1582)
別名:安田有重
通称:新太郎
官途:治部少輔、伯耆守、但馬守
父親:安田実秀
正室:上田長尾房長の娘
子供:堅親
主君:長尾為景、晴景、景虎(上杉謙信)、景勝
居城:蒲原郡安田城
安田景元、安田顕元、安田能元など別の一族、大見安田氏
1530年の上条定憲の乱で長尾為景に従い上条定憲勢と戦い戦功
1559年10月28日序列26位・諸国衆御太刀之次第衆第23位
1561年の第四次川中島の戦いで(色部勝長、中条藤資)とともに長尾景虎に従う
武田晴信勢と戦い敗退した
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い越後各地を転戦
安田城の戦いで長尾三郎景虎勢を支援する芦名盛隆勢と戦い撃退する戦功

安田堅親(1557~1639)
通称:新太郎。
官途:筑前守
父親:河田元親の三男
養父:安田長秀
正室は安田長秀の娘
中条藤資の養子となるが、中条家臣団と対立して河田家の帰参した。
安田長秀の養子に迎えられ安田家の家督を相続
1592年の文禄の役で長尾景勝に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功
1598年長尾景勝に従い会津黒川城に転封した
居城:蒲原郡安田城
安田吉親(15??~1618)
父親:安田堅親

安田家親(15??~16??)
父親:福島秀重の三男
養父:安田堅親
正室:安田堅親の娘
1618年義兄の安田吉親が病没したため、安田家の家督を相続

下条実頼(15??~15??)
官途:薩摩守。
居城:北蒲原郡下条館:揚北衆
1559年の披露太刀之次第序列31位:披露太刀之衆第28位
1561年の第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い

下条忠親(15??~1617)
官途:采女正。
父親:河田長親の次男
養父:下条実頼
正室:安田長秀の娘
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い戦功
1598年長尾景勝に従い会津黒川城に転封して秋山定綱とともに二本松城代職
1608年に鮎貝城代職を務めた。
1614年の大坂冬の陣で長尾景勝に従い羽柴秀頼勢と戦い敗退

下重実(15??~1552)
官途:伊賀守
主君:上杉定実
1542年:伊達天文の乱で
中条藤資とともに伊達稙宗の次男伊達実元を上杉定実の養子に迎える準備
1552年に長尾景虎の意向を受け自刃

下久長(15??~1578)
父親:下重実
1552年に父の下重実が長尾景虎の意向を受け自刃したため下家の家督を相続
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い戦功
赤田の戦いで長尾三郎景虎勢と戦い討死

下政常(15??~15??)
父親:下久長

下常勝(15??~15??)
父親:下政常

下秀久(15??~16??)
通称:次右衛門
官途:対馬守。
父親:下重実の次男
正室:土肥政繁の娘
1578年の赤田の戦いで兄の下久長が長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い討死
   :下家の家督を相続
1589年に荘内三郡の代官職を務めた
1600年の羽前谷地城の戦いで樋口兼続に従い最上義光勢と戦い戦功
   :羽前谷地城の戦いで最上義光勢の猛攻を受け降伏した
   :羽前尾浦城の戦いで最上義光に従い長尾景勝の家臣松本信濃守勢と戦い戦功
   :羽前大山城(20,000石)を領した

下本国(15??~1622)
通称:勘七郎。
官途:長門守
父親:伊井忠左衛門
養父:下秀久
1614年に下秀実が鶴岡城内で清水義親の家臣一栗兵部に謀殺されたた。
   :越後村山城主村上忠勝に仕えた

下秀政(15??~16??)
通称:源六郎。
官途:美作守
父親:下秀久の次男
養父:下秀実
1622年最上義俊が改易処分に処されたため長尾景勝に仕えた

下秀実(15??~1614)
官途:対馬守。
父親:下秀久の三男
1614年羽前鶴ヶ岡城内で清水義親の家臣一栗兵部に志村光清とともに謀殺された

諏訪部岑輝(15??~15??)
父親:諏訪部益則
居城:蒲原郡佐渡山館

諏訪部光頼(15??~15??)
父親:諏訪部岑輝

諏訪部春氏(15??~15??)
別名:霜鳥六左衛門
通称:隼人正
父親:諏訪部光頼
1561年の第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い敗退
1564年に諏訪神社を創立した
1578年に新発田行房の讒言を受け改易処分に処された

諏訪部元良(15??~15??)
通称:六左衛門
父親:諏訪部春氏

千坂景長(14??~15??)
通称:藤右衛門。
主君:上杉定実
居城:南蒲原郡鉢盛館
越後上杉家四家老職
1513年上杉定実が長尾為景に幽閉されたため長尾為景に仕えた

千坂景親(1536~1606)
官途:対馬守
父親:千坂景長
居城:南蒲原郡鉢盛館
馬廻衆
1578年長尾景虎が病没したため長尾景勝に仕えた
諸侯との取次役を務めた
1586年樋口兼続とともに長尾景勝に従い大坂城内で千利休の茶会に列席した
1595年伏見留守居役を務めた
1598年長尾景勝に従い会津若松城に転封して大沼郡内で5,500石を領した
1600年本庄繁長とともに松平元康の家臣本多正信との和議交渉役を務めた
1559年10月28日序列9位・諸国衆御太刀之次第衆第6位
上杉四家老家の一つ、七手組大将の一人

千坂長朝(15??~16??)
父親:千坂景親
1602年亀岡文殊堂の連歌会に出席した

千坂高信(15??~15??)
父親:千坂景親の次男

寺島和泉守(15??~15??)
主君:長尾景虎

寺島長資(15??~1582)
別名:吉江長秀
通称:六蔵
父親:吉江景資の次男
養父:寺島和泉守
1582年の越中魚津城の戦いで織田信長の家臣柴田勝家勢と戦い討死
祖父の吉江宗信、父の吉江景資、弟の中条景泰も討死

寺島正貞(15??~15??)
父親:寺島長資
1582年の越中魚津城の戦いで織田信長の家臣柴田勝家勢と戦いで祖父と父が討死
寺島家の家督を相続
上長井郷の代官職を務めた
高野与十郎、高橋内記、根岸権三郎、水橋宮内とともに樋口兼続に仕えた

吉江茂高
通称:木工助
元は古志長尾氏の被官・出頭人
平姓大河戸一族と伝わる
景虎(上杉輝虎)はその死を悼んで供養を林泉寺に頼んだ

吉江景宗(15??~15??)
居城:西蒲原郡吉江館

吉江宗信(1505~1582年6月3日)
改名:宗信、宗誾(号)
別名:常陸入道宋誾
官途:木工助、常陸介
父親:吉江景宗
父親:吉江景宗
子供:景資
居城:西蒲原郡吉江館
主君:上杉定実、謙信、景勝
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い戦功
1581年の越中増山城の戦いで織田信長の家臣柴田勝家勢に内応した石黒成綱と戦い敗退
1582年の越中魚津城の戦いで織田信長の家臣柴田勝家勢と戦い討死
味方:吉江景資、寺島長資、中条景泰、山本寺孝長、竹俣慶綱

吉江景資(1527~1582年6月3日)
別名:初名は長資、与橘(通称)?
官途:織部佑
氏族 吉江氏
父親:吉江宗信?吉江木工助茂高の世子?
子供:寺島長資、中条景泰、長忠
主君 上杉定実、謙信、景勝
1559年10月28日序列28位・諸国衆御太刀之次第衆第25位
景虎から越後国長尾家にゆかりの「長」、続けて「景」の一字を与えられる
直江大和守景綱と同様、二度に亘って偏諱を頂戴した側近家臣
公銭方
景虎の第一次関東遠征に際し越府留守将たちに対する旗本検見(監察)役
同役:直江与右兵衛尉実綱・荻原掃部助
1567年の戦いで長尾景虎に従い北条氏康勢と戦い戦功
1578年謙信急死後、景資ら吉江氏が守備する越中は柴田勝家の猛攻を受ける
吉江一族は奮戦するも、本能寺の変の翌日魚津城で親子三代揃って自害

寺島長資(15??~1582年6月3日)
改名:亀千代(幼名)、長資
別名:六蔵、長秀
通称:六三、
父親:吉江景資
養父:寺島和泉守(越中神保氏の重臣)
兄弟:長資、中条景泰、吉江長忠
子供:正貞
主君:上杉謙信、景勝

吉江長忠(15??~15??)
父親:吉江景資

吉江忠景
通称:中務丞
居城:蒲原郡吉江館
1566年12月下旬に長尾輝虎から佐渡守を与えられる
越後国守護上杉家の譜代衆
屋形上杉定実(号玄清)の側近

吉江資賢
通称:喜四郎
江州六角佐々木氏の旧臣
景虎側近の吉江氏の一族に列し吉江織部佑景資から一字を与えられた
小姓衆を経て出頭人となるか。

大熊政秀
子供:大熊朝秀
居城:中頸城郡箕冠城
先祖代々越後守護上杉氏の段銭収納

大熊朝秀(15??~1582年3月11日)
別名:長秀
官途:備前守
父親:大熊政秀
正室:小畠日浄の娘・小宰相の局
子供:常光、長秀
居城:中頸城郡箕冠城
主君 上杉定実→上杉謙信→武田信玄→勝頼
先祖代々越後守護上杉氏の段銭収納
越後守護上杉氏の滅亡前後から守護代長尾氏に仕える
長尾景虎擁立に尽力
1556年上野家成と下平吉長との領地争い
重臣本庄実乃が上野家成に、大熊朝秀が下平に加担
家中の執政を掌る本庄と大熊はライバル関係
家臣団の派閥対立が激化
国人層の離反や武田信玄との戦線膠着
諸問題に嫌気のさした長尾景虎は春日山城を出奔・出家騒動
大熊朝秀らは武田氏と内通し反乱
会津の蘆名盛氏も呼応
8月23日大熊は越中一向一揆勢を率いて越中国から越後に侵攻
上杉謙信は上野家成と庄田定賢らを派遣
数で勝る大熊朝秀を西頸城郡駒帰にて破る
大熊朝秀は上杉氏を出奔して武田氏に帰順
1563年武田家の譜代家老、山県昌景の与力
武田信玄の直臣の取立てられ足軽大将騎馬30騎、足軽75人持
勝頼の代で遠江小山城代
1579年武田氏上杉氏との同盟・甲越同盟の締結に貢献
1582年3月甲州征伐、天目山の戦いまで勝頼と共に行動して討死

大熊常光
別名:朝友
通称:五郎左衛門
父親:大熊朝秀
父親、大熊朝秀は上杉氏を出奔して武田氏に帰順
1582年3月天目山の戦い後は真田昌幸の配下、馬廻り
信之の代には筆頭家老

大熊長秀(15??~1582年3月)
別名:朝友
通称:備前守
官途:新左衛門尉
父親:大熊朝秀
父親、大熊朝秀は上杉氏を出奔して武田氏に帰順
武田家譜代家老の山県昌景の同心
相備に昇格
1578年9月末、市河信房と上杉家から割譲された越後妻有城に入る
1579年武田氏上杉氏との同盟・甲越同盟の締結に貢献
1582年3月天目山の戦い後は捕縛され信濃で処刑

針生久吉
通称:藤兵衛尉
国頸城郡犬伏館・城衆?
主君:大熊朝秀

玉虫景茂
別名:城景茂
通称:和泉守・意庵
官位:織部佑
父親:城次郎左衛門尉貞茂
兄弟:城定茂
居城:蒲原郡木越館
はじめ上杉謙信に仕えるが謙信の不興を買い
1560年より武田信玄に仕え足軽大将となり城氏を名乗る
弟の定茂と共に鉄砲衆を率い

玉虫定茂
父親:城次郎左衛門尉貞茂
兄弟:城定茂

新発田宮内少輔
居城:蒲原郡神洞城

「琵琶嶋上杉家(八条上杉?)」
1506年長尾能景が般若野の戦いで戦死し跡を長尾為景が継ぐ
八条上杉家と三条長尾家の対立は表面化する
越後永正の乱では八条尾張守・龍松父子や八条成定が自害に追い込まれる
八条上杉家は大きな打撃を受ける

琵琶嶋正藤
通称:弥七郎
子供:琵琶嶋政藤

琵琶嶋政藤
通称:弥七郎
父親:琵琶嶋正藤
養子:琵琶嶋広員

琵琶嶋広員
通称:弥七郎
養父:琵琶嶋弥七郎
居城:刈羽郡琵琶嶋城
北条氏康・氏政父子に本領を逐われて亡命した白井長尾憲景の一族

『全長尾一門』

『三条長尾家・家臣』

長尾能景(1464年~1506年9月19日)
通称:弾正左衛門尉
官位:信濃守
主君 上杉房定→房能
父親:長尾重景
兄弟:能景、山吉能盛正室?
正室:法往院
側室:信濃高梨氏の娘(法名:玉江正輝)
子供:飯沼正清室、為景、上杉定実継室、山本寺定景室
  :高梨澄頼正室、為重、景忠
役職:室町幕府 越後守護代

長尾為景
生没年:1486~1542年1月10日
父:越後守護代・長尾能景
母:信濃高梨氏の娘
幼名:六郎
通称:弾正左衛門尉
1506~1536:越後春日山城主
1506~1536:越後守護代
1521~1536:越中新川郡の分郡守護代
官位:従五位下・信濃守

前室:上条上杉弾正少弼の娘
1509~1553:晴景
長女:1524~1609:仙桃院(越後坂戸城主 長尾政景妻)
女子:(法名:光室妙智、上条頼房室)
女子:(道八姫、法名:松厳明貞、小黒氏室)
長尾内記?(法名:実岑一貞)

側室:古志長尾家の娘(長尾房景)(上田顕吉の娘とする説もある)
1530~1578:上杉輝虎(上杉謙信)

側室:氏名不詳
女子:(道五姫、法名:玉嶺妙金)
女子:(加地春綱正室)
次男:?~1545:景康
三男:?~1545:景房

長尾景直
通称:小四郎
父親:長尾為景の弟(一峰源統)
母親:長尾為景の娘(秀琳永種)
越後国の長尾氏の一つである御屋敷長尾氏
椎名康胤養子

長尾源五
通称:源五郎
越後国の長尾氏の一つであろう
永禄3年8年から翌4年7月にかけての関東遠征時には留守将
同役:桃井右馬助義孝・長尾小四郎景直・黒川竹福丸・柿崎和泉守景家・源五

山吉久盛
子供:山吉正盛
蒲原郡代、三条城代
越後守護代・長尾家の被官・家臣
1444年以降は史料に現れず

山吉正盛
父親:山吉久盛
正室:上杉頼方の娘
蒲原郡代、三条城代
越後守護代・長尾家の被官・家臣
1511年本成寺に2通の安堵状を発給している

山吉能盛(14??~15??)
別名:山吉正綱
通称:四郎右兵衛尉
正室:長尾重景の娘
居城:蒲原郡三条城
代々三条長尾家の家臣
1507年の永正の乱で上杉定実、長尾為景に従い上杉房能勢と戦い戦功
1509年の三条城の戦いで本成寺の僧兵とともに長尾為景に従い山内上杉顕定勢と戦い戦功

山吉政久(1496~1556)
別名:政応、恕称軒
通称:孫四郎
官途:丹波守・伊予守
父親:山吉能盛
正室:高梨頼宗の娘
平姓池一族
1530年の上条定憲の乱で長尾為景に従い上杉定実、上条定憲勢と戦い降伏
1548年長尾景虎に仕えた
蒲原郡司の立場から揚北衆の中条氏と黒川氏の間の抗争を調停
家督を嫡男の孫四郎に譲る

山吉孫四郎
通称:孫四郎
父親:山吉政久の長男
居城:三条城主
1552年父の山吉政久が隠居したため、山吉家の家督を相続
蒲原郡司を譲られ外様衆間の抗争の調停を引き継いだ
1558年9月22日に早世
供養を高野山清浄心院に六貫五百文で依頼

山吉豊守(1525~1578)
別名:山吉景久
通称:孫次郎
官途:丹波守
父親:山吉政久の長男?
正室:本庄実乃の娘
居城:三条城主
年寄三人衆(柿崎景家、直江景綱、鯵坂長実)
1552年父の山吉政久が隠居したため山吉家の家督を相続?
1558年9月22日に兄が早世してから引き継いだか?
1559年の披露太刀之次第序列56位:披露太刀之衆第53位
直江景綱、河隅忠清、庄田秀直とともに越中宮崎城を守備した。
春日山城留守居役を務めた
天正年間の『上杉家軍役帳』では、家中筆頭の軍役数377名

山吉景久(15??~15??)
別名:一悠斎
父親:山吉政久の次男?
1570年、兄の山吉豊守の意向を受け三条城代職を務めた

山吉盛信(1525~1577)
父親:山吉豊守
1575年父の山吉豊守が病没したため、山吉家の家督を相続した
直江景綱、吉江資賢、河田吉久とともに能登石動山城を守備した

山吉景長(1565~1611)
別名:山吉景盛。
父親:山吉豊守の次男
1575年父の山吉豊守が病没したため、兄の山吉盛信が山吉家の家督を相続した。
山吉盛信も病没したため、叔父の山吉景久の後見を受け山吉家の家督を相続した
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い戦功
1583年の新発田重家の乱で長尾景勝に従い新発田重家勢と戦い戦功
1586年の沼垂館の戦いで新発田重家の弟新発田盛喜勢と戦い新発田盛喜を討取る
1589年の八王子城の戦いで羽柴秀吉勢に属した長尾景勝に従い北条氏直勢と戦い戦功
1598年長尾景勝に従い会津黒川城に転封した

飯田小次郎

飯田与七郎
上杉輝虎期に旗本衆・山吉氏の同心

伊与部顕資
通称:伴四郎

伊与部某
旗本衆・山吉氏の同心

吉田能政
子供:吉田英忠
居城:国頸城郡直峰砦
春日山城の支城として重要な役割

吉田英忠
別名:秀忠
通称:周防入道
父親:吉田能政
居城:国頸城郡直峰砦
1532年~1554年の城主

吉田兼政
通称:源右衛門尉兼政

吉田重政
通称:孫左衛門尉・孫七郎

吉田美濃守

金津義旧
別名:弘雅
通称:新兵衛・新右兵衛尉
長尾景虎の乳母夫
源姓平賀金津一族
部将として一手を率いる
留守将の横目(監察)を務める
旗本の重鎮

秋山主計助
三条長尾家の家臣

秋山式部丞

秋山昌綱
通称:源蔵・式部少輔

秋山定綱
通称:伊賀守・式部丞
上杉景勝の時代に越後国落水城の城将(須賀修理亮盛能と共に務める)
同糸魚川城の城将
陸奥国二本松城の城代

山村藤三
通称:若狭守
子供:
居城:頸城郡青木館
代々三条長尾家の家臣
山村氏は初代の安信が南北朝期に京都から刀工の城州信国を招いて師事
自らも作刀するようになる
以後の当主もそれに倣ったという
1519年長尾為景の北陸遠征で功名
1520年尾州家畠山尚順から感状
長尾為景と為景と能州畠山義総との間の取次役

山村重信
別名:繁信
通称:藤三・右京亮
父親:山村若狭守
1536年三分一原の合戦で武功、長尾為景から感状
1548年長尾晴景と景虎の跡目争いでは晴景の味方
後に景虎の旗本
1559年の披露太刀之次第序列55位:披露太刀之衆第52位

荻原貞盛
通称:掃部助・伊賀守
父親:山村若狭守の次男
頸城郡の上郷に本領
1559年長尾景虎の上洛に同行
1560年第一次関東遠征時の旗本検見(監察)役
同役:直江与右兵衛尉実綱・吉江織部佑景資

堀江宗親
通称:駿河守
父親:山村若狭守の三男
居城:越後鮫ヶ尾館・加賀国津幡城
1577年最前線の加賀国津幡城主
御館の乱が勃発した時は1万の軍勢を伴って御館に入る景虎の味方
御館陥落後には景虎一家を鮫ヶ尾城に迎え入れる
関東への道のりで唯一残ってい相模への脱出路
景虎入城時には既に景勝側の安田顕元に内通
景虎入城後に二の丸に火を放って城から退去
景勝方の総攻撃により景虎は妻子共々自刃
景虎派の武将が1年余り抵抗

『上田長尾家の味方・家臣』

長尾景隆(14??~15??)
別名:顕吉、喜平次
官途:肥前守
主君 山内上杉家
父親:長尾兵庫助?
兄弟:憲長、景隆(顕吉)
正室:上条上杉氏の娘(好心贇公大禅尼)
子供:房長、右京亮景明、玖圓、天甫公、伊勢守景貞、古志房景室]

長尾房長(1494~1552)
改名:房長 → 月洲
通称:新六
官途:越前守
実父:長尾兵庫助憲長
養父:長尾景隆(顕吉)
生母:上条上杉氏の娘(好心贇公大禅尼)
兄弟:(母方の兄弟姉妹)房長、景明、玖圓、天甫清公
子供:市河信房室、政景、大井田景国、通天存達
長尾為景とは仲が悪い
関東管領・上杉顕定が越後国に侵攻時は顕定軍に属して為景を破る
長尾為景が勢力を盛り返すと降伏してその家臣となる
1537年に長尾為景の娘を子・政景の正室に迎え越後長尾家との関係を強化

長尾政景(1526~1564)
改名:新六(幼名)→政景→道宗(戒名)
別名:仮名:六郎、新五郎
官途:越前守
主君 長尾晴景→上杉謙信
父親:長尾房長
母親:不明
兄弟:通天存達、政景、大井田景国、女(市河信房室)、女(安田長秀室)
正室:仙洞院(長尾為景の娘)
子供:義景、清円院(上杉景虎継室)、顕景、女(上条政繁室)、時宗?
居城:坂戸城
1547年長尾晴景と景虎との間で抗争が起こると政景は晴景側につく
1550年景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こす
1551年景虎の猛攻に遭って降伏
以後は配下の上田衆を率いて景虎の重臣として活躍
1556年家督を捨てて出家しようとする景虎を説得して押し止め復帰させる
1559年10月28日序列10位・諸国衆御太刀之次第衆第7位 
1564年7月5日坂戸城近くの野尻池で溺死

大井田景国(15??~1590)
官途:修理亮
父親:長尾房長の次男
養父:大井田氏景
兄弟:市河信房室、長尾政景、景国、通天存達
正室:大井田氏景娘
子供:基政、島倉俊継室

長尾顕景(1556~1623)上杉景勝
改名:長尾卯松(幼名)→顕景(初名)→上杉景勝
通称:喜平次(通称)
官途:弾正少弼
父親:長尾政景
養父:上杉謙信
母親:長尾為景の娘(仙桃院)
兄弟:長尾義景、清円院(上杉景虎継室)、妹(畠山義春正室)、妹?(桂姫)
義兄弟:畠山義春、上杉景虎、山浦景国
正室:武田信玄の娘・菊姫
継室:四辻公遠の娘・桂岩院
子供:定勝
養子:畠山義真

樋口兼豊(1560~1602年9月12日)
別名:惣右衛門尉、伊予守
父親:樋口兼村
正室:藤(直江親綱女)
継室:蘭子(泉重歳女)
子供:直江兼続、大国実頼、秀兼、きた(須田満胤室)
  :女(色部光長室)、女(篠井泰信室)
主君:長尾政景→上杉景勝
御館の乱では景勝方として武功
1581年荒戸城将となり100石を加増
天正年間に直峰城主

直江兼続(1560~1620年12月19日)
改名:樋口与六/與六(幼名)→兼続(初名)→直江兼続→重光
官途:従五位下、山城守、贈従四位
父親:樋口兼豊
義父:直江景綱
母親:藤もしくは蘭子
兄弟:兼続、大国実頼、樋口秀兼、きた(須田満胤室)
  :妹(色部光長室)、妹(篠井泰信室)
正室:船(直江景綱女)
子供:景明、於松(本多政重正室)、女?(於梅?)
養子:本庄長房、本多政重、清融阿闍梨?
養女:阿虎(大国実頼女、本多政重継室、実姪)
  :おまん御料人?『兼見卿記』

金子尚綱
主君:長尾政景・家老

下平家
主君:上田長尾家

下平吉長
通称:修理亮
居城:魚沼郡千手館
1556年下平吉長と上田家成を巡る領地争い
重臣本庄実乃が上野家成に、大熊朝秀が下平に加担
家中の執政を掌る本庄と大熊はライバル関係
家臣団の派閥対立が激化
国人層の離反や武田信玄との戦線膠着
諸問題に嫌気のさした長尾景虎は春日山城を出奔・出家騒動
大熊朝秀らは武田氏と内通し反乱
会津の蘆名盛氏も呼応
8月23日大熊は越中一向一揆勢を率いて越中国から越後に侵攻
上杉謙信は上野家成と庄田定賢らを派遣
数で勝る大熊朝秀を西頸城郡駒帰にて破る
大熊朝秀は上杉氏を出奔して武田氏に帰順
1564年7月5日、上田領主・長尾政景を野尻池で溺死させ謀殺?
一般的には宇佐美定満であるとされている
1578年御館の乱で上杉景虎側に付いたため領地没収

下平久長
通称:次郎太郎

発智長芳
居城:魚沼郡板木館
1551年戸板城の戦いでは長尾政景の味方

穴沢長勝
1551年戸板城の戦いでは長尾政景の味方

鳥山大炊助
源姓新田里見一族
居城:魚沼郡市之沢館

桐沢具繁
通称:但馬守
居城:魚沼郡桐沢館
1559年の披露太刀之次第序列35位:披露太刀之衆第32位
1578年の御館の乱で上杉景勝側に付く

楡井又三郎
通称:治部少輔
居城:魚沼郡桐沢館?
源姓村上一族?
越後国守護上杉家の譜代衆

『下田長尾家』

下田長尾景行(15??~15??)
通称:平三郎
居城:蒲原郡下田館・年寄衆

下田長尾藤景(15??~1568)
通称:新四郎
官途:遠江守
主君:長尾景治
居城:高城城
謙信の家老
七手組(柿崎景家、北条高広、斎藤朝信、直江景綱、中条藤資、本庄実乃)
1559年10月28日序列13位・諸国衆御太刀之次第衆第10位 
1561年の第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い敗退
1568年に長尾景虎と対立して長尾景虎の意向を受けた本庄繁長に謀殺された
本庄実乃によって家老の長尾興里が守る高城城も落城
本庄繁長も手傷を負ったが謙信から恩賞が与えられなかった
武田信玄からの誘いもあり同年4月に本庄繁長の乱が起こる

下田長尾景治(15??~1568)
通称:右衛門尉。
父親:長尾景治の次男
1559年10月28日序列22位・諸国衆御太刀之次第衆第19位
1568年兄の長尾藤景とともに長尾景虎の意向を受けた本庄繁長に謀殺

下田長尾興里(15??~1568)
通称:外記。
主君:長尾藤景
正室:長尾景行の娘
家老職を務めた
1568年の下田館の戦いで長尾藤景が本庄繁長に謀殺
長尾景虎の家臣本庄実乃勢と戦い討死

立島長尾為遠(14??~15??)
通称:次郎左衛門
主君:黒川盛実
居城:岩船郡立島館
1508年長尾為景の意向を受け自刃

『古志長尾家の味方・家臣』

古志長尾景繁
1557年の年寄衆
本庄宗緩(実乃)・長尾景憲・直江実綱・吉江長資・長尾景繁の五人

古志長尾景憲
1557年の年寄衆
本庄宗緩(実乃)・長尾景憲・直江実綱・吉江長資・長尾景繁の五人

古志長尾景隆(15??~15??)

古志長尾景明(15??~15??)

古志長尾景信(15??~15??)
別名:上杉景信、越ノ十郎、右京亮
父親:長尾景明
兄弟:景信、長尾景満、長尾景直
子供:信虎、本庄繁長正室
居城:栖吉城城主、謙信の叔父
主君:長尾為景、晴景、上杉謙信
1599年10月28日序列1位
直太刀之三人衆の一人

本庄慶長

本庄実乃(1511~1575年)
別名:慶秀、新左衛門尉、美作守、宗緩(号)
父親:本庄慶長
子供:秀綱、娘(山吉豊守正室)
主君:古志長尾家、長尾晴景、上杉謙信
居城:古志郡栃尾城
景虎が晴景に代わって越後国人衆の反乱鎮圧時は補佐役
長尾景虎を幼少期から補佐し奉行職、七手組大将を務め重用
1599年10月28日序列6位・諸国衆御太刀之次第第3位

本庄秀綱
幼名:清七郎
通称:玖介
父親:本庄実乃
子供:本庄景乃
1559年謙信が足利義輝に謁見するた際に太刀持ち役
宇野左馬允の補佐を受ける
1572年越中進軍中の謙信に城将として春日山城へ入城を命じらる
1575年上杉景信や上条政繁らと共に上野国沼田城城の守将を任せられる
御館の乱では上杉景虎方につき御館に在城していた秀綱は落城寸前に脱出
その後も三条城の神余親綱らと共に上杉景勝に抵
1580年4月22日に栃尾城が落城すると会津方面へ逃亡
その後は佐々成政に仕えた

大関盛憲
通称:阿波守
1559年の披露太刀之次第序列32位:披露太刀之衆第29位
只見氏、庄田氏と並び古志長尾氏

大関親信

大関親憲(1546~1616年5月13日)
改名:水原親憲、杉原親憲
通称:弥七
官途:常陸介
父親:大関親信
子供:助市、下条正親室、憲胤
主君:古志長尾家
1561年の第四次川中島の戦いにおいて武功
御館の乱では上杉景勝を支持
1579年2月、広瀬(魚沼郡)の小平尾の地を攻略
1580年5月には、深沢利重・栗林政頼らと共に上田の守備
一時期上杉家を離れ会津蘆名氏家臣で長沼城主・新国貞通に身を寄せる
1594年文禄三年定納員数目録では3,414石149人の軍役
風流者で、乱舞、連歌をよくし、茶の湯の数寄者
其長鴨居をさえぎり、面は馬の如く、黒子多くして黒大豆を蒔たる如く
勝戦のときは寡黙をまもり苦戦に陥ったときに味方の士気を鼓舞する

山岸光重
通称:隼人佑・出雲守
子供:宮内少輔
居城:蒲原郡黒滝館
嫡男の山岸宮内少輔秀能は越後国一宮弥彦神社の戸内職を兼ねる
次男は越後国長尾景虎の肝煎りで上郡国衆の村山氏を継いだ
1559年の披露太刀之次第序列52位:披露太刀之衆第49位

山岸秀能
通称:宮内少輔
父親:山岸光重
越後国一宮弥彦神社の戸内職を兼ねる

小島貞徳
通称:三郎兵衛
子供:小嶋貞興
居城:乙吉城主
1559年の披露太刀之次第序列53位:披露太刀之衆第50位

小嶋貞興
別名:小嶋一忠・小嶋貞弘
通称:弥太郎・慶之助・
居城:乙吉城主
強力無双の豪傑で「鬼小島」「花も実もある勇士」
曹洞宗龍穏院
源義家が奥羽遠征の時に乙吉にて若宮を喪う
一宇を建立し安楽寺と称したのが始まり当時は密宗だった
1447年天巽順禅師が心華芳禅師と厚木市松石寺から北越行脚し廃寺同然の寺に入山
禅宗に改め住山すること十年
1456年席を心華師に譲り上州へ赴き迦葉山龍華院を開創した。
心華師は住山八年1463年松石寺へ帰山した。
公器章和尚が天巽祖師のの命により開山として入山
寺号を安楽山龍穏院と改めた
1473年8月11日和尚二十四歳の時に
公器和尚は森上に隠栖後荷頃曹源寺、栃堀高徳寺へ転じた
四世の時上杉謙信家臣鬼児島弥太郎が当山に帰依
田畑山林を寄進し中興開基となった

小嶋重隆
通称:源三郎
古志長尾家の与力

庄田定賢
通称:惣左衛門尉
主君:古志長尾家
元は古志長尾氏の被官であった
栃尾在城時からの長尾景虎腹心
1549年4月27日景虎から府内大橋場の復興を命じられ権益を得る
1550年9月景虎と長尾政景の関係が悪化、両勢力の境目魚沼郡へ派遣される
1552年春に関東管領山内上杉憲政が相州北条氏康の攻勢に屈する
景虎を頼って越後国に逃げ込みむ
同年秋に関東復帰を図ると景虎の命により小千谷の平子孫太郎らと共に加勢
1554年月には定賢が本庄実乃と連署
長尾氏の姻戚、信濃高梨氏を大檀那とする北信濃の古刹浄土真宗本誓寺へ
前年の景虎上洛時の協力について感謝を伝える
今後京都へ使者が向かう時の支援を依頼
1556年8月景虎の重臣である大熊朝秀が武田晴信と結び出奔
景虎は定賢を上野家成らと共に前線の西浜口に派遣
同月23日駒帰の戦いで定賢らが勝利
大熊朝秀が行っていた公銭方を継承し景虎の財政を管理
1559年の披露太刀之次第序列61位:披露太刀之衆第58位
1561年8月上杉政虎は信濃へ向けて出陣
9月10日川中島において武田信玄と合戦

庄田惣左衛門
1569年と1572年に河田長親から越中に知行を宛てがわれる

庄田越中守
1572年9月に上杉謙信の越中出陣の間の守備として不動山城に派遣される

庄田隼人佑
1573年謙信に越中海岸での牢人の海賊行為に対処するように命じられる

富永長綱
通称:清右兵衛尉
中頸城郡三和村
公銭方

富永左京清綱

富永源左衛門

下条茂勝
通称:新右衛門尉
元は古志長尾氏の被官
長尾晴景と景虎の兄弟抗争が起こる
上杉定実の調停によって弟の景虎が守護代長尾家の当主
景虎の出頭人。

黒金孫左衛門
別名:奈屋辰蔵
越後国古志郡栃尾の郷士

嶋倉泰明
通称:孫左衛門尉
子供:嶋倉泰明

黒金泰忠(1564~1635)
通称:孫左衛門尉・次郎丸・吉三
実父:嶋倉泰明
1579年に嶋倉家の家督を継ぐ
1597年に伏見総構堀普請と伏見舟入奉行
1601年上杉景勝の命で黒金景信の跡目を相

黒金景信
通称:上野介

村山慶綱
通称:善左衛門尉
養父:村山義信
実父:山岸隼人佑
兄弟:山岸秀能

福王寺友重
通称:彦八郎
官途:掃部助

福王寺重綱
別名:福王寺孝重
通称:彦八郎
官途:兵部少輔
居城:魚沼郡下倉山館
上野国白井長尾氏の出身
源姓佐々木加地一族
旗本衆を経て上田衆(上田長尾氏の同名・同心・被官集団)に転属

計見堯元
通称:雅楽助・出雲守
子供:計見幸安
居城:刈羽郡の畔屋館
1559年の披露太刀之次第序列38位:披露太刀之衆第35位

計見幸安
通称:与十郎
父親:計見堯元
居城:刈羽郡の畔屋館
1559年の披露太刀之次第序列42位:披露太刀之衆第39位
1578関東大遠征に、越中衆の一員として従軍する予定

諸越盛秀
通称:彦七郎
子供:秀満
越後小黒一族の本家

諸越秀満
父親:諸越盛秀

小黒親豊(1495~1558)
通称:黒兵衛
父親:小黒親勝
子供:小黒親英
主君:長尾為景、晴景
居城:上越市石橋城

小黒親英(1528~15??)
通称:黒兵衛
父親:小黒親豊
主君:長尾為景、晴景
正室:長尾松子(道八姫、法名:松厳明貞)
居城:上越市城
親鸞と恵信尼の子供、小黒の子孫
恵信尼の生まれた越後頸城に帰っていた
母親の相続していた山寺三千坊近くの米増にある比丘尼屋敷に住んでいた
近くの安塚の小黒という所に嫁して通称「小黒女房」と呼ばれる

上野家成
通称:源六
官途:中務丞
源姓新田大井田一族
居城:魚沼郡節黒館
主君:上杉謙信→景勝
1556年下平吉長と上田家成を巡る領地争い
重臣本庄実乃が上野家成に、大熊朝秀が下平に加担
家中の執政を掌る本庄と大熊はライバル関係
家臣団の派閥対立が激化
国人層の離反や武田信玄との戦線膠着
諸問題に嫌気のさした長尾景虎は春日山城を出奔・出家騒動
大熊朝秀らは武田氏と内通し反乱
会津の蘆名盛氏も呼応
8月23日大熊は越中一向一揆勢を率いて越中国から越後に侵攻
上杉謙信は上野家成と庄田定賢らを派遣
数で勝る大熊朝秀を西頸城郡駒帰にて破る
大熊朝秀は上杉氏を出奔して武田氏に帰順
1570年に締結された越相同盟では後北条氏との交渉役を河田重親らと務める
1578年御館の乱では上杉景勝側に味方
1598年上杉景勝が豊臣秀吉の命で会津若松に移封された際は越後に残る

小越平左衛門尉
主君:古志長尾氏。

山田長秀
通称:修理亮
主君:古志長尾氏
上杉輝虎期には年寄衆の河田豊前守長親の重臣

真砂惣右衛門尉

村上直義
通称:中務丞
子供:村山義信

村山義信
通称:与七郎・安芸守
父親:村上直義
源姓村山一族
居城:頸城郡徳合館

村山慶綱
通称:善左衛門尉
養父:村山義信
実父:山岸隼人佑
兄弟:山岸秀能

『三条長尾家:長尾為景の味方』
長尾景虎の支持基盤である小千谷・堀内・波多岐・妻有地域

蔵田五郎左衛門(14??~15??)長尾守護代家に三代仕える
御用商人
伊勢神宮の御師(下級神官の一種):人脈と情報網
長尾家の御用商人:越後青苧座の頭目
長尾家の情報役・
春日山城の留守居役
城内の金庫番である御蔵役人と普請奉行
長尾家の城下町と言うべき越後府内(直江津)の代官
三条西家には「青苧座年貢」
三条西家と天王寺苧座の青苧産業独占150貫
越後青苧座が青苧販売権50貫
青苧商船に『船道前=入港税』『青苧の関税』
船道前6万貫
直江津と柏崎の良港支配
久我家を本所とした当道座

蔵田兵部左衛門尉

蔵田宗六

荒浜屋宗九郎
柏崎の商人

黒田藤五郎(15??~15??)
居城:岩船郡黒田館

黒田長門守(14??~15??)
主君:上杉定実
居城:西蒲原郡黒滝城

黒田秀忠(1492~1546)
通称:久三郎
官途:和泉守
父親:胎田常陸介
養父:黒田長門守
正室:三条信景の娘
1542年の伊達天文の乱で伊達稙宗の次男伊達実元を養子に迎える工作を行った
長尾為景の意向を受け黒田長門守の養子となり、黒田家の家督を相続した。
1545年に長尾晴景の弟長尾景康と長尾景房を謀殺した。
黒滝城の戦いで長尾景虎の家臣村山与七郎勢と戦い降伏
1546年の黒滝城の戦いで長尾景虎勢と戦い討死した



福王寺彦八郎孝重

福王寺兵部少輔重綱

福王寺掃部助

福王寺弥太郎元重

福王寺大膳景重

新保景重
別名:吉田景重
通称:孫左衛門尉、勘解由左衛門尉
上杉定実、長尾為景父子期に、長尾政権の奉行
黒田秀忠と並ぶ実力者
越後国上杉家譜代の重臣

新保長重
通称:八郎四郎
父親:新保景重
本庄実乃・大熊朝秀・小林宗吉の三人で構成された奉行衆
時に小林と替わり、新保長重か直江実綱のどちらかが三奉行に列する
同輩の直江とは花押形が酷似している
時期は不明であるが早世
景虎はその死を悼んで供養を長尾家の菩提寺である林泉寺に頼んだ

新保秀種
通称:清右衛門尉
1560年5月10日に父(感林道久禅定門)が死去
供養を高野山清浄心院に依頼している。

小林宗吉
通称:新右兵衛尉
元は越後国守護上杉家の譜代衆か?
本庄実乃・大熊朝秀の三人で奉行衆
時に小林宗吉だけは、直江実綱か新保長重のどちらかと交替する
天文20年7月に母(孝如妙忠)が死去
供養を高野山清浄心院に依頼している

直江景綱(1509~1577)
別名:実綱→政綱→景綱
通称:神五郎
官途:大和守
父親:直江親綱
正室:北条輔広の娘
継室:正国尼(山吉政久の娘、山吉政応の妹)
主君:長尾為景→長尾晴景→上杉謙信
居城:山東郡(三島郡)与板城
直江氏は元は越後守護上杉氏の家臣・飯沼氏の被官
奉行衆(本庄実乃・大熊朝秀・小林宗吉)
時に小林と替わり、直江実綱か新保長重のどちらかが三奉行に列する
1514年守護代の長尾為景によって飯沼氏が滅ぼされる
その居城・本与板城(後に与板城)の城主に抜擢
1539年守護・上杉定実の養子問題を巡る天文の乱
中条藤資、平子氏らと共に入嗣推進派を形成
養子問題に関しては守護代長尾家と反目
1542年には伊達家へ時宗丸(伊達実元)の迎えの使者
1547年長尾守護代家出家督争いが起こると景虎派
1556年景虎の出家騒動中に藤資らが守護譜代の大熊朝秀を追放
1559年の披露太刀之次第序列50位:披露太刀之衆第47位
1560年前関白の近衛前嗣が越後に来訪したときにはその饗応役
景虎の第一次関東遠征に際し旗本検見(監察)役
同役:吉江織部佑景資・荻原掃部助と共に
越府留守将:桃井義孝・黒川竹福丸・柿崎景家・長尾景直・長尾源五

直江信綱(15??~1581年9月9日)
通称:藤九郎、、与兵衛尉
実父:長尾顕方(長尾景秀説も)
養父:直江景綱
母親:長尾顕忠の娘
正室:船(直江景綱の娘)
子供:清融?
元は総社長尾家の出身で長尾顕方の九男とも長尾景秀の次男とも
直江景綱の娘・船と結婚し婿養子
1577年3月5日に養父・景綱が死去、直江氏の名跡と奉行職を継ぎ馬廻
1577年9月23日手取川の戦いに参戦
1578年御館の乱では上杉景勝方に付く
1581年9月9日、重臣・河田長親の遺領を巡る諍い
春日山城内で会談中のところを毛利秀広に襲われる
山崎秀仙と共に殺害された

直江兼続(1560~1620年12月19日)
改名:樋口与六/與六(幼名)→兼続(初名)→直江兼続→重光
官途:従五位下、山城守、贈従四位
父親:樋口兼豊
義父:直江景綱
母親:藤もしくは蘭子
兄弟:兼続、大国実頼、樋口秀兼、きた(須田満胤室)
  :妹(色部光長室)、妹(篠井泰信室)
正室:船(直江景綱女)
子供:景明、於松(本多政重正室)、女?(於梅?)
養子:本庄長房、本多政重、清融阿闍梨?
養女:阿虎(大国実頼女、本多政重継室、実姪)
  :おまん御料人?『兼見卿記』

志駄春義
通称:源四郎
子供:志駄義時
孫に代わって長尾景虎に仕える

志駄義時
通称:千代松、源四郎
父親:志駄源四郎
子供:志駄義秀
居城:山東(西古志)郡の夏戸館
1561年第4次川中島の戦いでは直江景綱に従い参戦するも19歳で討死
嫡男の義秀は当時2歳で義秀の母の実家である直江氏が後見人

志駄義秀(1560年~1632年8月16日)
改名:隺千代(幼名)→義秀
別名:志田義分、通称:源四郎
官位 修理亮
父親:志駄義時
母親:直江景綱姉妹
子供:義繁(次男)、上泉秀富
居城:山東(西古志)郡の夏戸館
与板衆筆頭
1561年父・義時が第四次川中島の戦いで戦死、家督を継ぐ
まだ2歳と幼かったために祖父・春義が後見人
1563年祖父志駄春義死去
母も早く亡くし母の実家である直江氏の比護を受け直江景綱の後室が養育
1578年御館の乱が起こると上杉景勝に味方して戦功
1581年信濃国の大須賀氏の反乱を鎮める
1582年越中国松倉城将となって織田氏と対峙
その後は与板衆筆頭として直江兼続の配下に置かれる
1595年兼続の下で庄内経営に関与し庄内金山の奉行や大宝寺城代などに就く
1598年上杉家の会津転封時に従う
東禅寺城(現酒田市)将となり5100石を知行
1600年慶長出羽合戦、東禅寺城で最上義光を牽制
攻め寄せる池田盛周らを破り最上領まで侵入
西軍敗退の報を受け撤退
1601年最上義康軍に再び攻められる
先年の合戦で戦場に取り残されま最上氏に降た尾浦城主の下吉忠が先導
防戦するも敵わず開城して米沢に撤退
戦後は高野山に蟄居を命じられている。
1603年上杉家に帰参し荒砥城代となって1000石を知行
1607年江戸幕府の指示によって一時再蟄居
1611年再帰参を果たし侍大将
1614年大坂の陣に出陣
1622年諸司代・奉行郡代を歴任し、間もなく政務奉行(国家老)就任
同年には改易された最上家の仕置きに奉行
1623年景勝の跡を継いだ上杉定勝に引き続き仕える
1624年定勝の婚儀を取り仕切った。
1632年死去

力丸慶忠
通称:中務少輔
大江姓那波一族
居城:越後国山東(西古志)郡の根小屋館
主君:直江景綱・直江兼続
与板城主直江家の家臣

高森
主君:直江景綱・直江兼続
与板城主直江家の家臣
高森城館

黒川盛実(14??~15??)
別名:黒川平実。
居城:北蒲原郡黒川城
1509年に中条藤資、築地忠基安田長秀と長尾為景に内応

黒川清実(15??~15??)
別名:黒川平政。
通称:四郎次郎
官途:備前守。
父親:黒川盛実
正室:色部憲長の娘。
1530年の上条定憲の乱で長尾為景に従い上条定憲勢と戦い戦
1547年の黒川城の戦いで長尾景虎を支援して長尾晴景、中条藤資勢と戦い戦功
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝の家臣中条景泰勢と戦い敗退
黒川城の戦いで長尾景勝の家臣地資豊勢と戦い敗退

黒川為実(15??~1619)
通称:左馬介。
官途:豊前守
父親:黒川清実
正室:本庄繁長の娘
1589年に長尾景勝に従い会津黒川城に転封
1601年に長尾景勝に従い羽前米沢城に転封1,292石となり七手隊となった
1614年の大坂冬の陣で長尾景勝に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功

柿崎利家
子供:柿崎景家
居城:柿崎城・猿毛城

柿崎景家(1513~1574)
通称:弥次郎
官途:和泉守
父親:柿崎利家
正室:黒田秀忠の娘
主君:長尾為景→晴景→上杉謙信
居城:柿崎城・猿毛城
先手組300騎の大将、上杉家家臣随一の猛将、七手組大将の一人、上杉四天王
長尾晴景と長尾景虎が長尾家の家督をめぐって争うと長尾景虎勢に属した。
1558年春日山城の留守居役を務めた
1559年10月28日序列14位・諸国衆御太刀之次第衆第11位
1561年の第四次川中島の戦いでは先陣を務る
八幡原の武田晴信勢本陣を壊滅寸前にまで追い込んだ
内政面では斎藤朝信とともに奉行に任じられる
領内の諸役免除などの重要な施策に携わった。
1570年北条氏康との越相同盟締結においても尽力
次男の柿崎晴家を人質として小田原城へ送るなど外交面でも活躍

柿崎祐家(15??~15??)
父親:柿崎景家
1572年の越中朝日城の戦いで一向一揆の銃撃に遭い深手を負った
柿崎家の家督は次男の柿崎晴家が相続した。

柿崎晴家
別名:平三郎、左衛門大輔、左衛門大夫、家憲、晴景
官途:和泉守
父親:柿崎景家の次男
主君:
居城:柿崎城・猿毛城
上杉家軍役帳による軍役260人
柿崎利家(15??~15??)
居城:中頸城郡柿崎城
1570年長尾景虎と北条氏康が越相同盟を結んだ時に人質となる
北条氏康が病没して同盟が破棄されると柿崎景家のもとに戻った
1574年柿崎景家が亡くなると家督を継いで柿崎家の家督を相続
1578年の御館の乱で長尾景虎を支持したため長尾景勝勢によって春日山城内で謀殺

柿崎憲家(15??~15??)
通称:弥次郎
官途:能登守
父親:柿崎晴家
1578年の御館の乱では柿崎憲家を擁した上野九兵衛らが長尾景勝勢に属した
柿崎憲家を当主となって柿崎家は存続した。

上野九兵衛尉(15??~15??)
主君:柿崎晴家
1578年の猿毛館の戦いで長ヶ部半兵衛、田中喜兵衛とともに
長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢に属した篠宮出羽守勢と戦い戦功

坂木磯八(15??~15??)
主君:柿崎景家
1561年の第四次川中島の戦いでは柿崎景家に従って参陣した
萩田三与兵衛、吉田喜四郎、河田軍兵衛らとともに山本晴幸勢を包囲
山本晴幸を討取る戦功
武田晴信勢の追撃を受け頸級は奪い返された。

篠宮出羽守(15??~15??)
主君:柿崎晴家
1578年の猿毛城の戦いでは長尾三郎景虎勢に属して柿崎晴家の旧臣を集めて猿毛城を守備
長尾景勝勢に属した上野九兵衛尉、長ヶ部半兵衛、田中喜兵衛らの攻撃を受け討死

田中喜兵衛(15??~15??)
主君:柿崎晴家
1578年の猿毛城の戦いでは長尾三郎景虎勢に属した篠宮出羽守が守備する猿毛城を攻撃
上野九兵衛尉、長ヶ部半兵衛とともに猿毛城を攻落とした
この戦功により柿崎家は柿崎憲家によって再興された。

長ヶ部半兵衛(15??~15??)
主君:柿崎晴家
1578年の猿毛城の戦いでは長尾景虎勢に属した篠宮出羽守が守備する猿毛城を落とす
この戦功により柿崎家は柿崎憲家によって再興された
味方:猿毛城を上野九兵衛尉、田中喜兵衛らとともに

安田景元
幼名:百丸
通称:弥八郎
官位:越中守
養父:安田広春
正室:北条安芸守輔広(号祖栄)の娘
子供:景広・顕元、能元
居城:刈羽郡安田城
大江広春から安田氏の名跡を継いだ。

安田景広
通称:弥九郎・和泉守
幼名:松若丸
居城:刈羽郡安田城

安田顕元(1557~1580年8月6日)
別名:惣八郎
官位:掃部助
父親:安田景元
兄弟:景広、顕元、能元
居城:刈羽郡安田城・信濃飯山城
上杉謙信に仕え、川中島の戦いなどで功績
「顕」の字は謙信より拝領した
御館の乱では誓紙を出して上杉景勝側
五十公野治長(後の新発田重家)や堀江宗親等の上杉景虎側を調略
乱の終結後の論功行賞において恩賞のほとんどが景勝子飼いの上田衆に
五十公野治長たちが反発、両者の板ばさみ、面目を保つために自害

安田能元(1557~1622年6月25日)
改名:久千代丸(幼名)→元兼→能元→順易(号)
通称:弥九郎
官途:上総介
父親:安田景元
兄弟:景広、顕元、能元
子供:養子:俊広
主君:上杉謙信→景勝

甘糟泰重
通称:平内左衛門尉

甘糟景持(15??~1604年7月22日)
改名:長重→景持
官途:近江守
主君 上杉謙信→景勝
父親:甘粕泰重
正室:黒金景信妹
子供:尚政、重政
居城:飯塚桝形城主、越後三条城主。
上杉四天王、越後十七将の一人
1559年10月28日序列29位・諸国衆御太刀之次第衆第26位
1560年長尾景虎による関東管領・上杉憲政を奉じた関東出陣に従う
景虎が関東管領職と上杉の名跡を継承した際は鎌倉鶴岡八幡宮で御先士大将
同役:宇佐美定満・柿崎景家・河田長親
1561年8月、川中島に出陣して甲斐国の武田信玄と対峙、殿を勤める
謙信没後は上杉景勝に仕えた
1582年新発田重家の乱では景勝から三条城将(6千石、同心分含)任命
木場城の補佐や新潟城・沼垂城攻略、城攻撃の兵站基地を守備
1586年8月18日新発田征伐に際して第二陣に加わる
鉄砲大将として笠堀に布陣して敵将を討取る
同役:河田憲親・高梨薩摩守・千坂対馬守・竹俣房綱

甘糟景継(1550~1611年5月12日)
改名:清長→景継→清長
別名:藤右衛門、甘粕景継
父親:登坂清高
子供:吉継、信綱、長継
主君:上杉謙信→景勝
上杉二十五将の一人
1577年上杉謙信の指示により戦死した甘糟継義の名跡を継ぐ
上杉景勝の一字を賜り景継と改名
1575年護摩堂城主
1583年景勝により五泉城主に任じられる
1593年庄内酒田城代
1598年主家の移封に従い会津へ移り白石城代を務め2万石を知行

小国頼久(15??~15??)
別名:大国頼久
通称:主水、頼季、頼基、主水入道、兵庫頭
官途:修理亮
居城:蒲原郡天神山館
1553年の第一次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い戦功
1559年の披露太刀之次第序列51位:披露太刀之衆第48位

小国頼恭(15??~1601)
別名:小国重頼。
官途:石見守
父親:小国頼久
1573年に父の小国頼久が隠居したため、小国家の家督を相続した
1582年に長尾景勝の意向を受け樋口兼豊の次男小国実頼を養子に迎えた

小国実頼(1562~1622)
官途:但馬守。
父親:樋口兼豊の次男
養父:小国頼恭
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い戦功
1582年に長尾景勝の意向を受け小国家の家督を相続した。
1586年の新潟館の戦いで長尾景勝に従い新発田重家勢と戦い戦功
新発田重家の補給路の遮断に成功した。
1598年に長尾景勝に従い会津黒川城に転封して南山城(21,000石)を領す
1600年に樋口兼続とともに岩代神指城の普請奉行職を務める
羽前高畠館(7,000石)を領した。
1604年に樋口兼続と本多政重との養子縁組に反対して使者の西山宗秀と飯田元貞を謀殺

丸田高俊(15??~15??)
官途:周防守。
主君:長尾景虎
居城:蒲原郡蔵王館
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝勢と戦い敗退
1579年の蔵王館の戦いで長尾景勝勢の攻撃を受け敗退し
許され長尾景勝を仕えた。
神戸館を登坂藤右衛門とともに守備した

丸田右京之助(15??~15??)
主君:長尾景虎
居城:蒲原郡見附館
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝勢と戦い敗退
1579年の見附館の戦いで長尾景勝勢の攻撃を受け敗退

丸田伊豆守(15??~15??)
主君:三条長尾景虎
居城:蒲原郡大面館
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝勢と戦い敗退
1579年の大面館の戦いで長尾景勝勢の攻撃を受け敗退

丸田俊次(15??~15??)
官途:掃部助
兄弟:丸田伊豆守の弟

菅名重国
通称:但馬守
藤原姓信夫佐藤一族
居城:蒲原郡菅名館。

菅名源三(15??~15??)
居城:蒲原郡菅名館

菅名綱輔(15??~1582)
通称:孫四郎
官途:但馬守
兄弟:菅名源三の弟
長尾景虎に仕えた
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎の家臣本庄秀綱勢と戦い戦功
1582年の放生橋の戦いで長尾景勝に従い新発田重家勢と戦い討死

菅原内膳(15??~1586)
居城:岩船郡安部里館
1586年の安部里館の戦いで本庄繁長勢と戦い討死

菅原綱吉(1569~1646)
別名:安部綱吉
通称:十市
官途:右馬助
父親:菅原内膳
1586年の安部里館の戦いで父の菅原内膳が本庄繁長勢と戦い討死・宮内に落ちる
1598年長尾景勝に従い会津黒川城に転封して尾崎重誉に仕えた
1600年の長谷堂城の戦いで倉賀野綱元に従い最上義光勢と戦い敗退
北条郷の荒地の開発を推し進めた。
吉野川の治水や宮内の熊野大社修復にも尽力した
1629年に金沢、大洞、赤湯の金山奉行職を務めた

新津信資(14??~15信資)
別名:金津信資
官途:越前守。
主君:長尾為景
居城:蒲原郡新津館
1506年長尾為景に仕えた

新津勝邦(15??~15??)
通称:大膳亮
主君:新津信資
1548年の黒川城の戦いで長尾景虎を支援して戦功
味方:高梨政頼、長尾景信、大熊朝秀、直江実綱、山吉行盛、本庄実乃
敵方:長尾晴景、長尾政景、黒川清実
1559年に長尾景虎に太刀を献上
1573年の越中松倉城の戦いで長尾景虎に従い椎名康胤勢と戦い戦功
1575年の上杉氏軍役帳では軍役91人を負担した

新津勝資(15??~1600)
官途:丹波守
父親:山吉政久の次男
養父:新津勝邦
正室:新津勝邦の娘
養子:秀祐
長尾為景の二十八将・上杉二十五将
1559年10月28日序列17位・諸国衆御太刀之次第衆第14位
1560年の第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い敗退
1581年の新発田重家の乱で長尾景勝に従い新発田重家勢と戦い敗退
1590年の小田原城の戦いで羽柴秀吉に属した長尾景勝に従い北条氏直勢と戦い戦功

新津秀祐(15??~16??)
別名:赤津秀資
官途:丹波守。
父親:赤津時綱の次男
養父:新津勝資
正室:新津勝資の娘
1593年養父の新津勝資が隠居したため新津家の家督を相続した
1598年長尾景勝に従い会津黒川城に転封して二本松城を守備した
安田能元の寄騎衆(2,100石)を務めた

新津続家(15??~16??)
父親:新津秀祐
1614年の大坂冬の陣で須田長義に従い羽柴秀頼勢と戦い負傷

今井源右衛門(15??~1585)
主君:長尾景虎
居城:北蒲原郡笹岡館
1585年:笹岡館の戦いで新発田重家勢と戦い討死した。

市川次郎(15??~15??)
居城:岩船郡布部館

和納伊豆守(15??~1580)
居城:蒲原郡和納館
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝勢と戦い敗退
1580年の和納館の戦いで長尾景勝の家臣小国実頼勢と戦い討死

斎藤朝信(1527~1592)
通称:越後の鍾馗
官途:下野守
父親:斎藤定信
主君:長尾景虎
居城:赤田城主
上杉謙信に仕え越中攻略
1559年10月28日序列11位・諸国衆御太刀之次第衆第8位
上杉家四家老家の一つ、七手組大将の一人、越後十七将の一人
1561年甲斐武田氏との第四次川中島の戦い
北条氏との小田原城攻囲戦では第三陣
1564年下野の佐野城攻めや唐沢山城の戦いなど各地を転戦して武功
第四次川中島の戦いでは不穏な動きをする越中一向一揆に備え山本寺定長と出陣
1575年上杉家軍役帳による軍役217人
主君・謙信からの信頼は絶大
謙信の関東管領職の就任式の際には、柿崎景家と共に太刀持ち
武道に通じ多くの武勲を挙げた以外にも柿崎景家と共に奉行職
発想力に富む戦術家で謙信は強敵と思われるところには朝信を差し向ける
織田信長が侵攻すると北陸方面の柴田勝家らを魚津城などで迎え撃った。
1578年謙信死後の家督争いである御館の乱では上杉景勝を支持
上杉景虎を支持をしていた甲斐の武田勝頼との外交交渉
1580年3月景勝から刈羽郡の六ヶ所と滅亡した三条城主神余親綱の旧領を与えられる
嫡子・乗松丸にも北条氏の旧領から恩賞地が与えられた
朝信は忠義、仁愛の心が深く士卒をいたわり百姓をいつくしんだので万人から慕われた
内政においても活躍し武闘派の多い上杉家臣の中で目立つ存在だった。

斎藤景信
父親:朝信
主君:長尾景虎
居城:赤田城主

野路弥左衛門尉
主君:斎藤朝信
1559年の披露太刀之次第序列41位:披露太刀之衆第38位

神余昌綱
役職:京都雑掌・外交官

神余実綱
通称:小次郎
官途:隼人佑
父親:神余昌綱
主君:長尾為景
役職:京都雑掌・外交官

神余親綱(15??~1580)
通称:小次郎
官途:隼人佑
父親:神余実綱
主君:長尾景虎
居城:1577山吉豊守の死去に伴う山吉家減封・転封時に三条城
役職:京都雑掌・外交官
代官として主に京都に駐在し朝廷や幕府との折衝
三条西家に接近して青苧などの越後特産品の売買に関する奉行職も勤める
青苧による取引は、長尾氏の重要な資金源となり、謙信の関東遠征を資金面で支えた
将軍家へ御礼の品々を献上した返礼、義藤印判の御内書並びに備前国宗の太刀を賜り
1553年の謙信上洛時には奔走の末、後奈良天皇への拝謁を成功させた。
1558年には帰京した足利義輝を祝うための使者

荻田長繁(1562~1641)
別名:孫十郎
通称:主馬
官途:主馬亮
父親:荻田孫十郎
主君:長尾景虎→景勝→豊臣秀次→結城秀康→松平忠直→光長
1578年御館の乱が発生すると上杉景勝に味方

荻田孫市
別名:孫十郎、助市、孫市、勝定
父親:荻田長繁
主君:長尾景虎→景勝→豊臣秀次→結城秀康→松平忠直→光長

荻田勝定(1598~1635)
別名:主馬(四代目)、助市、与三兵衛
父親:荻田長繁の次男
主君:長尾景虎→景勝→豊臣秀次→結城秀康→松平忠直→光長

桃井義孝(15??~1578年6月22日)
別名:
官位:伊豆守
主君:上条定憲→上杉謙信→景虎
居城:信濃飯山城
1559年10月28日序列2位・直太刀之三人衆の一人、越後十七将の一人
1531年1月越後衆連判軍陣壁書に連署
長尾為景に加勢し上条定憲と争うと誓う
しかし実際には上条定憲に属した
1561年小田原城攻めに参戦
1578年御館の乱で5月16日に上杉景虎に加勢し御館に入ったが討死

山本寺定種
子供:山本寺定景
上杉房能に殉じた
上杉一門

山本寺定景
父親:山本寺定種
正室:長尾能景娘?
子供:山本寺定長
上杉一門だが、長尾能景の娘を正室送り込み取り込む

山本寺定長(1519年4月13日~15??)
別名:景定
官途:伊予守
氏族 山本寺上杉家
父親:山本寺定景
母親:長尾能景の娘?
子供:景長、勝長
居城:不動山城
主君:長尾晴景→上杉謙信→景虎
山本寺上杉家当主
1555年上杉謙信の家臣として第二次川中島の戦いに従軍し軍功
1559年10月28日直太刀之三人衆の一人、序列4位・諸国衆御太刀之次第衆
1572年一向一揆に包囲された越中日宮城の救援出陣したが神通川渡し場の戦い敗北
上杉景虎(北条三郎)が謙信の養子となると傅役に任命される
1578年御館の乱では上杉景虎方に付いて敗北、居城を捨てて失踪した

山本寺景長(15??~1582年7月21日)
別名:孝長
幼名:宮千代丸
通称:松三
父親:山本寺定長
兄弟:景長、勝長
正室:鷲尾彦右衛門の妹
子供:渓厳曹雪和尚
主君:上杉謙信→景勝

石川駿河守
子供:石川景重

石川景重
通称:新九郎
官途:播磨守
父親:石川駿河守
子供:石川重次・石川房明、石川為元
居城:蒲原郡石川城
上杉四家老家の一つ

石川中務少輔(15??~15??)
父親:石川景重

石川重次
上杉四家老家の一つ
1559年10月28日序列7位 諸国衆御太刀之次第衆第4位 

石川房明

石川為元

松本河内守
子供:松本景繁
居城:三島郡小木城
西古志郡山俣地区
平子房長と所領争い
三条長尾家の家臣
先祖は信濃国筑摩郡松本の地から移ってきたと伝わる

松本景繁
通称:石見守
居城:三島郡小木城
1559年の披露太刀之次第序列59位:披露太刀之衆第56位

松本房繁
幼名:鶴松丸
通称:弥七郎・左馬助
父親:松本景繁
父親である松本景繁を幼くして失い、板屋光胤が陣代
居城:三島郡小木城

板屋光胤
通称:修理亮
松本鶴松丸の陣代

松本忠繁
通称:大学助
居城:三島郡小木城

村田秀頼
通称:忠右衛門尉・大隅守
子供:与十郎

村田与十郎
父親:村田秀頼

村田次郎右衛門尉

江口親広
通称:式部丞・藤五郎・安芸守
藤原姓安達一族
居城:魚沼郡平地山館

大沢某
父親:大沢伊豆守
居城:魚沼郡大沢館(鉢巻山館)

青海川図書助
幼名:梅千代
居城:刈羽郡青海川館

北条高広(1517~1587)
父親:北条高定?
養父:安田広春(北条広春)
主君:長尾為景→晴景→長尾景虎→北条氏康→上杉謙信→上杉景虎
  :武田勝頼→滝川一益→北条氏政→上杉景勝?
居城:刈羽郡北条城・厩橋城代
1554年武田信玄と通じて居城の北条城で反乱
1555年降伏して許される奉行人となる
1559年10月28日序列12位・諸国衆御太刀之次第衆第9位
七手組大将の一人
1563年上野厩橋城主に任命され関東方面の政治や軍事を任される
1567年北条氏康に通じて再び長尾景虎に背く
1568年越相同盟が結ばれ長尾景虎に帰参
信の関東拠点を守る重要な地位にあった
武田・北条氏などにたびたび内通し去就が定まらなかった
1574年隠居

北条景広(1548~1579)
通称:丹後守・鬼弥五郎
父親:北条高広
1559年の披露太刀之次第序列43位:披露太刀之衆第40位
1574年父の隠居により家督を継承する
1578年御館の乱では上杉景虎支持
1579年2月1日景勝軍の武将・荻田長繁が府中八幡宮に参籠した帰りを狙う
景広は長繁の槍を受け負傷、それが致命傷となり死去

毛利秀広(15??~1581)
主君:北条高広・長尾景虎
越後北条氏分家

毛利浄広
居城:刈羽郡八石館(善根夏城)
1574年3月18日落城

善根某
大江姓毛利一族。
安田毛利氏一族
居城:刈羽郡善根館(善根冬城)
1574年3月6日開基毛利浄広が火攻めにより謀殺される

「旗本衆」

唐崎為宗
序列34位 披露太刀之衆第31位
別名・左馬之介
旗本先手衆
越後十七将の一人。
1559年の披露太刀之次第序列34位:披露太刀之衆第31位

大崎泰継
通称:筑前守
居城:魚沼郡の大崎館
1599年10月28日序列37位・諸国衆御太刀之次第34位

大崎九郎左衛門
1559年の披露太刀之次第序列47位:披露太刀之衆第44位

長井為実
旗本御手廻衆
1559年の披露太刀之次第序列44位:披露太刀之衆第41位

村山盛義
子供:村山直義
1509年関東管領・上杉顕定との合戦で信濃から援軍

村山直義
父親:村山盛義
1509年関東管領・上杉顕定との合戦で信濃から援軍

村山平次郎
村山盛義・直義親子の一門
善光寺別当・栗田一族と縁戚
1559年の披露太刀之次第序列45位:披露太刀之衆第42位

松川修衛
通称・大隈守
1559年の披露太刀之次第序列46位:披露太刀之衆第43位

諏訪左近允
1559年の披露太刀之次第序列57位:披露太刀之衆第54位

相浦主計助
1559年の披露太刀之次第序列58位:披露太刀之衆第55位

荻田孫十郎長繁
1559年の披露太刀之次第序列60位:披露太刀之衆第57位

河隅忠清
通称:三郎左衛門尉
越後守護代長尾家と古志長尾氏の被官に河隅氏がいる

飯田藤六

飯田長家
通称:孫右衛門尉・与三右衛門尉
能登飯田城城代

窪宗左衛門尉
頸城郡の直峰(嶺)館・城衆?

山田帯刀左衛門尉
通称:彦三郎
頸城郡の直峰(嶺)館・城衆?

中里小六郎

船見宮内少輔

鹿嶋彦九郎

河村孫六

鰺坂与次

小嶋弥三

小嶋重隆

梅津宗三
主君:宇佐美

大石右馬允
子供:大石源助
1559年12月8日死去

大石源助
通称:右馬允
父親:大石右馬允

本田長定
別名:本田重政
通称:右近允
1561年川中島合戦で上杉謙信から感状をもらう

小林左京進
越後国守護上杉家の譜代衆
1550年越後上杉家断絶に伴い景虎の旗本衆に配される

宇津江藤左衛門尉

宇津江若狭守

山下修理入道

鋳物師屋 
公銭方
越後国守護上杉家の時代に信濃国から移る
小泉荘領主では1番の領主

富永某

塚本某

林平右衛門尉

大室主計(15??~15??)
居城:北蒲原郡大室館
1583年の新発田重家の乱で長尾景勝に従い新発田重家勢と戦い戦功

戸倉定次
通称:与八郎・能登守
居城:国蒲原郡菅名荘戸倉館

戸倉新右衛門尉

曽根備中守
子供:曽根平兵衛

曽根平兵衛
隠号:是言斎
父親:曽根備中守
子供:曽根俊理
終生上杉謙信の旗本を勤める

曽根俊理
通称:小太郎・源左衛門尉
父親:曽根平兵衛
子供:曽根光俊

曽根光俊
通称:弥左衛門
父親:曽根俊理

野島平次左衛門尉
越後奥郡国衆・色部氏や出羽国大浦の大宝寺氏の許への使者を務めた

後藤勝元(15??~15??)
通称:新六・左京亮
居城:南蒲原郡竹俣館
1565年3月5日付の結城晴朝書状写
勝元は越後上杉氏と結城氏、小山氏との間の取次
上杉謙信の関東侵攻後、倉賀野氏や河田氏ら上野国衆と上野国守将
1569年越相同盟に際して活動
3月本庄繁長の乱においては蘆名氏のもとへ派遣
伊達氏との外交にも携わる
1572年越相同盟の破綻で上杉氏は越後上田庄の上田衆を越中国に配置
栃尾衆を上田庄に配置
勝元は栃尾衆を率いて上田庄坂戸城に在城
1577年上杉家家中名字尽手本では北条高広・景広、那波顕宗に次ぐ
1578年御館の乱では上野国防衛を放棄し越後へ帰国
当初は上杉景勝につき後に景虎方に転身
蒲沢城を拠点に北条高広・河田重親ら景虎方の武将と協力し景勝方と敵対
景勝勝利後は景勝に信任され越後統一のため奔走する

後藤新六
父親:後藤勝元

河田長親(1543年~1581年3月24日)
通称:九郎左衛門尉
幼名:岩鶴丸
隠号:禅忠
官途:豊前守
父親:河田元親
兄弟:長親、下条忠親、安田堅親
正室:北条高広の娘
子供:岩鶴丸
主君:上杉謙信→上杉景勝
江州六角佐々木氏の旧臣と伝わる
藤原姓伊東一族?
小姓衆を経て出頭人
1559年長尾景虎2度目の上洛の際、日吉大社で稚児をしていた
景虎にその美貌と才能を認められて側近として取り立てられ奉行職を歴任
智勇兼備の武将であったため重用
景虎が山内上杉家と関東管領を相続
古志長尾の上杉景信が上条上杉を相続
古志長尾氏の名跡も与えられた辞退
永禄年間の北条氏康との関東での戦いでは厩橋城及び沼田城城代
永禄末年からは一向一揆との戦いが本格化
越中魚津城を預かり、新庄城城主・鯵坂長実と共に越中方面の総指揮官
椎名康胤を攻めて追放することに成功
太田下郷が与えられ越中松倉城城主となり松倉金山の経営
1577年手取川の戦いで謙信が信長に勝利、鯵坂長実と共に七尾城を受領
1578年謙信が死去すると出家して禅忠と号す
御館の乱で景信や一族の河田重親が上杉景虎に味方したがはじめは中立
のちに上杉景勝を支援
長親は謙信の死を好機として侵攻してくる織田軍への防戦に追われる
月岡野の戦いで斎藤利治に敗れるなど苦戦
織田信長からは近江国を与える条件で上杉氏に背くよう誘いが来たが拒否
1581年越中松倉城で病死
嫡男の河田岩鶴丸が跡を継いだが1586年に13歳で死去
一族の河田親詮が跡を継いだが河田氏の軍権は大幅に縮小

鰺坂長実
通称:清介
官途:備中守
江州六角佐々木氏の旧臣
景虎から越後国長尾家に縁の「長」の一字を頂戴する
鰺坂与次の名跡を継いだ
小姓衆を経て出頭人となる
1572年から越中新川郡の新庄城主
一向一揆と戦って謙信の越中平定に武功
1577年9月謙信が再度能登畠山氏の居城である能登七尾城を陥落させる
七尾城将を命じられる
1579年9月織田信長と結んだ遊佐氏や温井氏の侵攻で七尾城から放逐
以後は消息不明

若林家吉
通称:九郎左衛門尉
藤丸、亀田、若林らは、元加賀一向宗門徒の国衆
謙信の加賀侵攻に伴い上杉氏の被官となる
1559年の披露太刀之次第序列54位:披露太刀之衆第51位

『越中の長尾方』

椎名慶胤(1526~1520)
通称:新七郎
父親:椎名順胤(四郎次郎)
主君:畠山尚慶(のちの尚順)
居城:松倉城・金山谷城
役職:越中国新川郡守護代
守護・畠山尚長より独立の動きを見せた神保慶宗の乱に加担
1520年8月に境川の合戦で尚長と連合した越後守護代長尾為景に敗れる。
12月の新庄合戦で神保・椎名軍は壊滅し、慶胤も討死

椎名長常(15??~1576)
通称:新七郎
官途:弾正左衛門尉
父親:椎名順胤(四郎次郎)
正室:暦(稲見茂周の次女)
主君:畠山尚慶(のちの尚順):長尾為景
居城:松倉城・金山谷城
役職:越中国新川郡又守護代
諱の「長」の字は越中守護・畠山稙長から偏諱を賜ったものとみられる
越中大乱で神保長職(慶宗の後継者)と争い没落した。

椎名康胤(15??~1576)
通称:新七郎
官途:右衛門大夫
父親:椎名慶胤
正室:暦(稲見茂周の次女)
主君:畠山尚慶(のちの尚順):長尾為景・長尾晴景
居城:松倉城・金山谷城
役職:越中国新川郡又守護代
弘治の内乱で味方した畠山義綱方が勝利して関係を深めた。
1559年夏神保長職が再び椎名氏への攻勢を強めたため長尾景虎に援軍要請

飯野長尾景久(15??~15??)
居城:蒲原郡飯野館

飯野長尾景直(15??~1581)
別名:椎名小四郎。
父親:長尾景久
養父:長尾藤景:椎名康胤
軍役81人
椎名康胤の名跡を相続
1578年の越中月岡野の戦いで河田長親に従う
織田信長の家臣斎藤利治、斎藤信利、斎藤信吉、姉小路頼綱勢と戦い敗退
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝勢と戦い敗退
織田信長に内応した

『山浦上杉家』

上杉頼方(15??~1432年2月)
幼名:七郎
氏族:越後上杉家→山浦上杉家→越後上杉家
父親:上杉房方
養父:上杉憲重?
兄弟:朝方、頼方、憲実、重方、清方
子供:山吉正盛室
主君:足利義持
1421年父・房方が没し翌年には跡を継いだ兄・朝方も亡くなった
頼方は甥の房朝の後見人として越後守護を継承
4代鎌倉公方・足利持氏の関係は最悪
頼方は弟・憲実が関東管領であることから鎌倉派ではないかと疑われた
1423年10月に漸く幕府から赦免
越後の上杉頼藤・中条房資に指令を送る
鎌倉派の守護代・長尾邦景を討つよう命じる
長尾邦景の裏工作で簡単に寝返られてしまう
1424年幕府と鎌倉公方が和睦
12月守護の房朝を畠山満家に奪い取られ大義名分と実権を失う
1426年邦景派の逆襲を退けるも限界
頼方は守護を罷免され房朝に改められる
長尾邦景も赦免される
1432年2月死去

山浦頼房

『信濃からの落人』

村上義清(1501年3月29日~1573年2月3日)
改名:武王丸(幼名)→義清
官途:右京権亮、佐渡守、左衛門尉、左衛門佐、周防守、左馬頭、信濃守
  :兵部大輔、左近衛少将、従五位下、従四位下、正四位上
父親:村上顕国
母親:斯波義寛の娘
正室:小笠原長棟の娘
側室:於フ子(高梨澄頼の娘)
子供:義利、村上義勝、村上義照、村上義邦、国清(山浦景国)
  :女子(村上義満室)、女子(内山清宗室)、女子(村上義房室)
  :女子(高梨頼治室)、女子(会田清幸室)、女子(屋代政国室)
1515年3月15日、元服し、右京権亮を称し、諱を義清とす
1516年3月、従五位下に叙位、佐渡守に任官
1517年父より葛尾城を譲られる
1520年父親が病没したので家督を相続して当主となる
1521年10月従四位下に昇叙して左衛門佐に転任
1527年1月左近衛少将に転任
1536年1月正四位上に昇叙
北信濃では越後長尾氏と関係の深い名族井上氏や水内郡の高梨氏と争う
東信濃では関東管領上杉家を後ろ盾とする小県郡の海野氏を押さえ込む
信濃の守護代であった佐久郡の大井氏を下して甲斐国の武田氏と抗争を続ける
佐久郡を武田氏に奪われる
1541年5月、武田信虎は諏訪頼重と結ぶ
海野平の戦いで海野棟綱・真田幸綱(幸隆)ら滋野一族を駆逐
小県郡を完全に掌握する
1548年信虎を追放した武田晴信の攻勢を受ける。
小県南部へ侵攻した武田勢を上田原の戦いで撃退する
村上義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取る
村上方の安中一藤太の一槍で倒れた諏訪郡代・板垣信方を上条織部が討取る
武田方の甘利虎泰・才間河内守などを討取る
1550年が高梨政頼との戦いで本領留守中に武田晴信が小県の砥石城に侵攻
高梨氏と和睦を結んで急遽反転
武田晴信は義清の反転が戦況を不利にすると判断して退却を開始
武田勢を追撃して大勝をおさめた(砥石崩れ)
武田方は足軽大将の横田高松や郡内衆の渡辺雲州を始め1000名の死傷者をだす
海野平の戦いで上野国に亡命していた真田幸綱が武田晴信に仕官
真田幸綱は村上勢の武将切り崩す調略を行う
1551年真田幸綱が砥石城を攻略する
砥石城の足軽大将・矢沢頼綱(幸綱の弟)が幸綱に内通
1552年常田の戦いで勝利を収めるも家臣団が動揺
1553年武田氏に通じていた土豪・大須賀久兵衛尉が謀反
室賀氏、屋代氏、石川氏など村上方の諸将が武田氏に降伏
4月9日に葛尾城を一時脱出
4月22日葛尾城を奪還
武田晴信は深志城(松本城)に後退
5月11日武田晴信は甲府に引き上げる
7月25日武田晴信は大軍を率いて甲府を出発、光城、上ノ山城、刈谷原城落城
1553年8月葛尾城を捨てて長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後国に落ちる
1559年の披露太刀之次第序列49位:披露太刀之衆第46位

山浦景国(1546~1592)
別名:村上国清・山浦国清・景国
通称:蔵人
主君:長尾景虎
父親:村上義清の五男
母親:小笠原長棟の娘?
正室:朝倉義景の娘(上杉謙信養女)
子供:幸清、高国
兄弟:村上義利、村上義勝、村上義照、村上義邦、景国
  :村上義満室、内山清宗室、村上義房室、高梨頼治正室、会田清幸室、
養兄弟:屋代正国室、上杉景勝、上杉景虎、上条義春
居城:北蒲原郡山浦館
1553年の葛尾城の戦いで武田晴信勢と戦い負け父の村上義清と長尾景虎のもとに
1559年10月28日序列16位・諸国衆御太刀之次第衆第9位
1570年長尾景虎と松平元康の取次役を務めた
1572年の越中富山城の戦いで長尾景虎に従い越中一向一揆衆と戦い戦功
1577年の能登末森城の戦いで斎藤朝信ととも加賀一向一揆衆と戦い戦功
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い戦功
1582年長尾景勝の意向を受け信濃海津城を守備した

山浦幸清(15??~15??)
父親:山浦景国

山浦高国(15??~15??)
父親:山浦景国の次男

仁科盛明
子供:仁科盛国、丸山盛慶
1559年10月28日序列24位・諸国衆御太刀之次第衆第21位

仁科盛国(15??~15??)
別名:盛胤
官途:正五位下、弾正少弼
父親:仁科明盛
兄弟:盛国、丸山盛慶
子供:盛能、青柳清長、小岩盛親、飯森盛春、渋田見盛家
主君:小笠原

仁科盛能(15??~15??)
別名:盛明、通称:孫三郎
官途:正五位下、弾正少弼、安芸守
父親:仁科盛国
兄弟 盛能、青柳清長、小岩盛親、飯森盛春、渋田見盛家
子供:盛道、盛孝、盛康、仙操院殿梅室春光大姉(小笠原長時正室)
居城:信濃国安曇郡森城主
主君 小笠原長時→武田信玄
小笠原長時に娘を迎え臣従、の長時と共に武田晴信に抵抗
1548年上田原の戦いで武田晴信が更級郡葛尾城主・村上義清に敗れる
小笠原長時らと武田領の下諏訪へ侵攻
小笠原長時が盛能の諏訪支配を認めず対立し撤退
兵力不足になった小笠原長時が塩尻峠の戦いで大敗
1550年7月15日仁科上野介(盛政か)と共に武田家の駒井高白斎と交渉

仁科盛康(15??~15??)
官途:正五位下、修理亮
父親:仁科盛能
兄弟:仁科盛道、仁科盛孝
子供:仁科盛政
居城:信濃国安曇郡森城主
主君 小笠原長時→武田信玄
1550年に武田氏に仕える
1552年小岩嶽城攻めに参加

仁科盛政(15??~1561年)
官途:正五位下、右衛門大夫
主君 小笠原長時→武田信玄
父親:仁科盛康
子供:盛孝、盛清、仁科盛信室
養子:盛信
居城:信濃国安曇郡森城主
1561年第四次川中島の戦いの折、盛政は武田信玄に従い佐久地方を転戦
留守役の家臣達が上杉氏からの調略に乗り武田氏に抵抗の姿勢
武田氏は森城を攻略して盛政を甲斐に連行して自害させられる(甲陽軍鑑)
1567年武田氏配下の諸将が生島足島神社に提出した
「下之郷起請文」に仁科盛政が含まれている
武田信玄の五男仁科盛信が養子として仁科氏の名跡を継いだ
実子の仁科盛孝と仁科盛清は武田信玄の許しを経て飯縄神社の神職

丸山盛慶(15??~15??)
官途:従五位上、肥後守
氏族 仁科氏→丸山氏
父親:仁科盛明
兄弟:仁科盛国、盛慶
居城:信濃国筑摩郡日岐城主。
主君:小笠原氏→仁科盛信→上杉景勝
初め信濃守護・小笠原氏に属していた
甲斐武田氏が信濃に侵攻すると(仁科盛信)に仕える
1582年甲州征伐で武田・仁科両氏が滅亡する
天正壬午の乱では当初上杉景勝に仕え、川家康の支援を受けた小笠原貞慶と戦う
後に小笠原貞慶に降伏

『他国の味方』

有留弥七郎
序列38位 披露太刀之衆第35位
越前瓜生氏一門
1559年の披露太刀之次第序列38位:披露太刀之衆第35位

長能登守(15??~1582)
能登長氏の庶流・黒滝長氏・長景連の父。
1559年の披露太刀之次第序列38位:披露太刀之衆第35位

『色部家』

色部清長(15??~15??)
通称:弥三郎。
居城:岩船郡平林城
1535年:砂越氏維宛の連署状に中条藤資と連署した

色部憲長(15??~15??)
官途:遠江守。
父親:色部清長
1530年:上条定憲の乱で上条定憲と長尾為景が戦うと長尾為景勢に属した
1531年:越後衆連判軍陣壁書に岩船郡、蒲原郡、刈羽郡の諸将十八名とともに連署
1542年:伊達天文の乱で小河長基ととも上条定憲を支援した

色部勝長(1493~1569)
通称:弥三郎
官途:修理進
父親:色部憲長の男
居城:岩船郡平林城
1530年:上条定憲の乱で上条定憲に従い長尾為景と戦い長尾為景を隠居に追い込んだ
1542年:伊達天文の乱で伊達晴宗勢に属して伊達稙宗に属した中条藤資勢と戦い戦功
   :小川長資、鮎川清長と本庄繁長の調停役を務めた
1561年:第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い敗退
1569年:本庄繁長の乱で長尾景虎に従い本庄繁長勢と戦い討死した
1559年10月28日序列8位・諸国衆御太刀之次第衆第5位
血染めの感状の一人、七手組大将の一人

色部顕長(1549~1587)
通称:弥三郎。
官途:修理亮
父親:色部勝長
1569年:本庄繁長の乱で父の色部勝長が討死したため、色部家の家督を相続
1576年:病を理由に色部家の家督を弟の色部長実に譲り隠居

色部長実(1553~1592)
別名:色部長真
通称:惣七郎
官途:修理大夫
父親:色部勝長の次男
正室:新発田忠敦の娘
1576年:兄の色部顕長が隠居したため色部家の家督を相続した
1578年:御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い戦功
1581年:新発田重家の乱で長尾景勝の意向を受け新発田重家との取次役
   :和議の締結に尽力した
1590年:仙北一揆で羽柴秀吉の意向を受け大谷吉継とともにその鎮圧に戦功
1592年:文禄の役で長尾景勝に従い肥前名護屋城に赴いき発病し帰国した。
   :大石綱元と木戸元斎に色部家を直江兼続に託す遺言状を残し病死

色部光長(1587~1640)
通称:与三郎。
官途:修理亮
父親:色部長実の男
正室:樋口兼豊の娘
1592年:父の色部長実が病没したため色部家を相続した。
   :遺言に従い樋口兼続の妹を内室に迎え後見役の樋口兼続の支持を受ける
1598年:長尾景勝に従い会津若松城に転封して羽前金山城主
1600年:羽前長谷堂城の戦いで樋口兼続に従い先陣を務め最上義光勢に敗退
1602年:置賜郡窪田館を領す
1614年:大坂冬の陣で長尾景勝に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功

色部長継(15??~15??)
主君:色部勝長
1535年:色部勝長の家臣田中長義、早田守吉、布施家秀が出奔
   :彼等と色部勝長の和議斡旋を本庄房長に依頼
 
色部中務少輔(15??~15??)
主君:色部勝長
1542年:伊達天文の乱で色部勝長が伊達晴宗勢を支援
   :色部勝長から離反して色部大蔵少輔とともに伊達稙宗勢を支援
 
色部大蔵少輔(15??~15??)
主君:色部勝長
1542年:伊達天文の乱で色部勝長が伊達晴宗勢を支援
   :色部勝長から離反して色部中務少輔とともに伊達稙宗勢を支援

飯岡刑部大輔(15??~15??)
主君:色部勝長・色部氏一族
居城:岩船郡飯岡館

飯岡長行(15??~15??)
父親:飯岡刑部大輔
一族:飯岡蔵人高長・飯岡五郎右衛門尉

三潴長政(15??~15??)
官途:出羽守
主君:色部勝長
居城:北蒲原郡中目館
先祖は筑後国三潴郡三潴荘から移ってきたと伝わる
1561年の第四次川中島の戦いで色部勝長に従い武田晴信勢と戦い敗退
1569年色部勝長が病没したため長尾景虎の意向を受け色部顕長の補佐役
1578年御館の乱で長尾景虎に従い所領没収

三潴長能(15??~15??)
官途:左近大夫。
父親:三潴長政
鮎川盛長とともに長尾景虎の意向を受け岩船郡猿沢館の本庄繁長の目付役
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝勢と戦い敗退

三潴佐左衛門(15??~15??)
主君:三潴長能
1578年の御館の乱で三潴長能が長尾三郎景虎に従い長尾景勝勢と戦い改易処分
長尾景勝に仕えた
1587年の新発田城の戦いで長尾景勝に従い新発田重家勢と戦い戦功

三潴利宣(15??~15??)
通称:掃部介。
主君:三潴長政
1561年の第四次川中島の戦いで三潴長政に従い武田晴信勢と戦い敗退

今泉大膳亮(15??~15??)
主君:色部勝長

今泉内匠助(15??~15??)
主君:色部勝長

牛屋右近丞(15??~15??)
主君:色部勝長
居城:岩船郡牛屋館
牛屋館(569石)を領した。
1560年の横山館の戦いで色部勝長に従い北条氏康勢と戦い戦功

臼田雅楽助(15??~15??)
主君:色部勝長

荒川長実(15??~1561)
官途:伊豆守
主君:色部勝長
居城:岩船郡荒河館(上関城)
役職:越後十七将・長尾景虎の影武者を務めた。
1559年の披露太刀之次第序列33位:披露太刀之衆第30位
1561年:第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い先陣を務める。
   :武田晴信勢と戦い武田晴信を負傷させた。
   :長尾景虎が撤退したため、武田晴信勢に包囲され討死した

荒川弥次郎(15??~15??)
父親:荒川長実

荒川長実?
通称:伊豆守
居城:蒲原郡荒川館
藤原姓波多野河村一族。越後国蒲原郡の荒川城主。
越後十七将の一人
1559年の披露太刀之次第序列33位:披露太刀之衆第30位
1561年第四次川中島の戦いで旗本先陣
武田軍本陣に単騎で攻め寄せ武田信玄に3太刀斬りつけ2箇所に傷を負わせる

垂水源次郎 
居城:蒲原郡垂水館
藤原姓波多野河村一族

大沢惣六郎
主君:色部勝長。

嶺岸佐左衛門(15??~15??)
主君:色部勝長
1587年の新発田城の戦いで色部長真に従い新発田重家を討取る戦功

作間喜左衛門尉(15??~15??)
主君:色部勝長

宿田長茂(15??~15??)
主君:色部勝長
居城:岩船郡宿田館
1560年の横山館の戦いで色部勝長に従い北条氏康勢と戦い戦功

須貝伊賀守(15??~15??)
主君:色部長真
居城:蒲原郡貝附館

早田九兵衛(15??~15??)
主君:色部勝長

田中長義(15??~15??)
通称:太郎左衛門
主君:色部憲長
三家老職を務めた
1534年に色部憲長が病没したため色部勝長を補佐した。
1535年色部勝長と対立して早田守吉、布施家秀とともに本庄房長のもとに落ちる
色部長継が本庄房長に和議を依頼して帰参した
1542年の伊達天文の乱で伊達実元の越後上杉家養子入りに反対した
 
田中長頼(15??~15??)
主君:田中長義
1535年田中長義、早田守吉、布施家秀が本庄房長のもとに落延びる
色部勝長との和議斡旋を本庄房長に依頼

田中治部少輔(15??~15??)
主君:色部勝長。

田中左近将監(15??~15??)
主君:色部勝長

田中名兵衛(15??~15??)
主君:色部勝長

田中雅楽丞(15??~15??)
主君:色部勝長

早田守吉(15??~15??)
主君:色部憲長
居城:岩船郡加茂山館
三家老職を務めた
1534年色部憲長が病没したため色部勝長を補佐した
1535年色部勝長と対立して田中長義、布施家秀とともに本庄房長のもとに落ちる
色部長継が本庄房長に和議を依頼して帰参した

早部甚甫守(15??~15??)
主君:長尾景虎
居城:蒲原郡加茂山館
1578年の加茂山館の戦いで長尾三郎景虎に従い長尾景勝の家臣菅名綱輔勢と戦い討死

布施家秀(15??~15??)
主君:色部憲長
三家老職を務めた
1534年色部憲長が病没したため色部勝長を補佐した
1535年色部勝長と対立して田中長義、早田守吉とともに本庄房長のもとに落ちる
色部長継が本庄房長に和議を依頼して帰参

東彦五郎(15??~15??)
主君:色部勝長

山上土佐守(15??~15??)
主君:色部勝長


『新発田家』

新発田綱貞(1512~1561)
別名:新発田能敦
通称:源次郎
官途:伯耆守
父親:新発田長綱
居城:北蒲原郡新発田城
1530年の上条定憲の乱で長尾為景勢と戦い敗退
上条勢:本庄房長、鮎川清長、水原政家、黒川清実、中条藤資
   :五十公野景家、加地春綱、竹俣昌綱
長尾景虎に仕えた

新発田長敦(1538~1580)
通称:源次郎
官途:尾張守
父親:新発田綱貞
七手組大将:本庄繁長、色部勝長、中条藤資、加地春綱、竹俣清綱、柿崎景家
1530年の上条定憲の乱で長尾為景を支援して上条定憲勢と戦い戦功
外交手腕に優れ上条の乱での上条方国人の晴景方帰参に尽力する
1559年10月28日序列19位・諸国衆御太刀之次第衆第16位
1578年の御館の乱で長尾景勝の意向を受け武田勝頼との取次役を務めた
斎藤朝信と共に武田勝頼との和議を締結
十分な恩賞を得られないまま不遇のうちに病没
弟の新発田重家が新発田家の家督を相続した

新発田重家(1547~1587)
通称:源太。
官途:因幡守。
父親:新発田綱貞の次男
正室:小田切貞遠の娘(於栄)
1561年の第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信の家臣諸角虎定勢と戦う
諸角虎定を討取る戦功を挙げた
1578年の御館の乱で安田顕元とともに長尾景勝に従う
長尾三郎景虎を支援する加地秀綱、神余親綱、芦名盛氏、伊達輝宗勢と戦い撃退する戦功
1582年の新発田重家の乱で芦名盛隆の家臣金上盛備、小田切盛昭の支援を受る
長尾景勝勢と戦い撃退
1586年の新潟館の戦で長尾景勝の家臣藤田信吉勢の攻撃を受け新潟館を補給路を失う
1587年水原城、加地城、今泉城、赤谷城、五十公野城を失い芦名盛隆の補給路も失う
新発田城の戦いで長尾景勝勢の攻撃を受け討死

新発田治時(15??~1587)
父親:新発田重家
1587年の新発田重家の乱で父の新発田重家とともに長尾景勝勢と戦い討死

新発田盛喜(15??~1586)
官途:駿河守
父親:新発田綱貞の三男
1586年の新潟館の戦いで長尾景勝の家臣藤田信吉勢の攻撃を受け討死

新発田綱之(15??~15??)
通称:刑部
主君:新発田綱貞
1581年の新潟館の戦いで新発田重家の意向を受け竹俣慶綱勢と戦い戦功
1582年の木場館の戦いで長尾景勝の家臣菱沼友重、山吉景長勢と戦い敗退
1586年の新潟館の戦いで長尾景勝の家臣藤田信吉勢の攻撃を受け

河野次左衛門(15??~15??)
主君:新発田長敦
普請奉行衆
新発田長敦の意向を受け新発田領内の道路整備を行った

赤橋玄蕃頭(15??~15??)
別名:榎本玄蕃頭
主君:新発田重家
居城:北蒲原郡赤橋館
1582年の新発田重家の乱で新発田重家に従い長尾景勝勢と戦い敗退した。

佐々木晴信(15??~15??)
主君:新発田重家
居城:北蒲原郡八幡館
1583年の新発田重家の乱で新発田重家に従い長尾景勝勢と戦い戦功

猿橋和泉守(15??~15??)
通称:刑部。
主君:新発田重家
居城:北蒲原郡猿橋館
1587年の新発田城の戦いでは新発田城の守備につく
長尾景勝に内応して猿橋口から長尾景勝勢を引き入れた

池ノ端掃部介(15??~1582)
別名:高橋掃部介
主君:新発田重家
居城:北蒲原郡池ノ端館
1582年:小坂の戦いで新発田重家に従い長尾景勝勢と戦い討死

池ノ端鴨之助(1557~15??)
父親:池ノ端掃部介
1582年:新発田重家の乱で父とともに新発田重家に従い長尾景勝勢と戦い敗退
1583年:放生橋の戦いで長尾景勝の母袋武者二騎を討取る戦功
1587年:新発田城の戦いで新発田重家に従い長尾景勝勢と戦い新発田重家が討死
    :血路を開き落延びた。

志村長門守(15??~15??)
主君:新発田重家
居城:北蒲原郡真木山砦
1583年の新発田重家の乱で新発田重家に従い長尾景勝勢と戦い戦功

武者包利(15??~15??)
通称:善兵衛。
主君:新発田綱貞
1581年の沼垂館の戦いで新発田重家の意向を受け竹俣朝綱勢と戦い戦功
1586年の沼垂館の戦いで長尾景勝の家臣藤田信吉勢の攻撃を受け討死

武者半平(15??~15??)
主君:武者包利
1586年の沼垂館の戦いで長尾景勝の家臣藤田信吉に内応して武者包利勢と戦い戦功

村松山城守(15??~15??)
主君:新発田長敦
居城:蒲原郡村松館

村松新右衛門尉(15??~15??)
官途:平右衛門尉
父親:村松山城守
1561年の第四次川中島の戦いで新発田長敦に従う
武田晴信の家臣諸角虎光勢と戦い諸角虎光を討取る

矢島清左衛門(15??~15??)
主君:新発田長敦:奉行衆
河野次左衛門とともに新発田長敦の意向を受け領内の道路整備を行った

山田源八郎(15??~15??)
主君:新発田重家
居城:岩船郡浦村館
1583年の新発田重家の乱で新発田重家に従い長尾景勝勢と戦い敗退

五十公野景家(15??~15??)
通称:弥三郎。
主君:新発田綱貞
居城:蒲原郡五十公野館
1531年:『越後衆連判軍陣壁書』に連署した。
1530年:上条定憲の乱で長尾為景に従い上条定憲、揚北衆と戦い戦功

五十公野信宗(15??~1578)
通称:道如斎
別名:長沢義風
主君:長沢光国(新発田綱貞の養子)
正室:新発田綱貞の娘。
1569年:越中湯山城の戦いで長沢光国が長尾景虎に降伏
    :長尾景虎に仕え越後三条街奉行職
1578年:御館の乱で新発田重家とともに長尾景勝に従う
   :加地秀綱、神余親綱勢と戦い戦功
1580年:新発田重家が新発田家の家督を相続したため五十公野家を相続
1581年:新発田重家の乱で新発田重家に従い長尾景勝勢と戦い戦功
1587年:五十公野城の戦いで長尾景勝の家臣藤田信吉勢の攻撃を受ける
   :家老衆の河瀬次太夫、羽黒権太夫が藤田信吉に内応し落城し討死した

五十公野玄蕃允(15??~15??)
父親:五十公野景
吉江忠景とともに下野唐沢山城を守備した。

渋谷近宗(15??~15??)
通称:八郎右衛門。
主君:五十公野信宗

河瀬行親(15??~15??)
通称:次太夫。
主君:五十公野信宗
1587年の五十公野城の戦いで長尾景勝の家臣藤田信吉勢と戦う
羽黒権太夫とともに藤田信吉に内応した。

羽黒権太夫(15??~15??)
主君:五十公野信宗
1587年の五十公野城の戦いで河瀬次太夫とともに長尾景勝の家臣藤田信吉に内応
五十公野信宗勢と戦い戦功

羽黒信濃守(15??~15??)
主君:中条景資
1582年の越中魚津城の戦いで中条景泰が織田信長の家臣柴田勝家勢と戦い討死
中条三盛を補佐した

長沢義風(15??~1587)
別名:五十公野道如斎
新発田重家の義妹の婿
主君:新発田重家
1587年の新発田重家の乱では新発田重家に従い長尾景虎勢と戦った
五十公野城の戦いで討死した

『中条家』

中条藤資(14??~1568)
別名:与次郎・弥三郎(仮名)梅波斎(号)
官途:弾正左衛門尉、越前守、越州
父親:中条定資
兄弟:藤資、女子(伊達稙宗側室)
正室:高梨政盛の娘
子供:景資、資興(籾倉中条氏)、資泰
養子:河田堅親(河田元親の子)
主君:上杉房定→房能→定実→上杉謙信
居城:北蒲原郡鳥坂城
1494年の胎内河原の戦いで父の中条定資が黒川頼実、本庄房長勢と戦い討死
味方:平子朝政、斎藤頼信
中条家の家督を相続
1507年の永正の乱で長尾為景、上杉定実を支援して揚北衆と戦い戦功
1513年8月、藤資は為景と血判起請文を交わした
1548年の黒川城の戦いで長尾景虎を支援して戦功
味方:高梨政頼、長尾景信、大熊朝秀、直江実綱、山吉行盛、本庄実乃
敵方:長尾晴景、長尾政景、黒川清実
1559年10月28日序列4位・諸国衆御太刀之次第衆第1位
中条氏19代目当主・七手組大将の一人。

中条景資(1532~1573)
官途:山城守
父親:中条藤資
正室:高梨政頼の娘
兄弟:景資、資興、資泰
子供:俊子
養子:堅親、景泰
1568年父の中条藤資が病没したため、中条家の家督を相続
本庄城の戦いで長尾景虎に従い武田晴信の内応した本庄繁長勢と戦い戦功

中条景泰(1558~1582)
別名:河田堅親
通称:与次
官途:越前守
父親:吉江景資の次男
養父:中条景資
正室:中条景資の娘(俊子)
1573年の越中朝日山城の戦いで越中一向一揆衆と戦い戦功
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い本庄秀綱勢と戦い戦功
1582年の越中魚津城の戦いで長尾景勝に従い織田信長の家臣柴田勝家勢と戦い討死

中条三盛(1573~1607)
別名:中条資盛
通称:与次
父親:中条景泰
1582年の越中魚津城の戦いで父の中条景泰が討死したため中条家の家督を相続
1598年長尾景勝に従い会津黒川城に転封して羽前鮎貝城(10,000石)を領した
1600年の羽前長谷堂城の戦いで水原親憲とともに最上義光勢と戦い敗退
1602年長尾景勝に従い羽前米沢城に転封して鮎貝館(1,800石)を領した。

中条資種(15??~15??)
通称:帯刀。
父親:中条景泰の次男

中条資春(15??~15??)
通称:七蔵
父親:中条景泰の三男
 
中条盛直(15??~15??)
通称:市正
父親:中条三盛の男

中条資興(15??~15??)
父親:中条藤資の次男

中条資泰(15??~15??)
父親:中条藤資の三男
 
中条玄蕃充(15??~15??)
主君:中条藤資
1551年の坂戸城の戦いで中条藤資に従い長尾政景勢との戦いで戦功

築地忠基(14??~15??)
官途:修理亮。
主君:中条藤資
1509年本庄城の戦いで中条藤資に従い本庄時長勢と戦い戦功
1510年の平林城の戦いで中条藤資に従い色部昌長勢と戦い撃退する戦功
1515年の安田城の戦いで中条藤資に従い上杉房能に内応した安田実秀勢と戦い戦功
1516年の上田城の戦いで中条藤資に従い上杉房能勢と戦い戦功

築地資豊(15??~15??)
父親:築地忠基
1578年の鳥坂城の戦いで中条景泰が長尾景勝に従い長尾景虎勢の黒川清実の攻撃
黒川城を攻撃して黒川清実を撤退に追込む戦功
1582年の越中魚津城の戦いで中条藤資の養嗣子中条景泰が柴田勝家勢と戦い自刃
中条景泰の継嗣中条三盛が中条家の家督を相続
1586年の新発田重家の乱で中条三盛の陣代を務め新発田重家勢と戦い戦功

西若狭守(15??~15??)
主君:中条景資
1582年の越中魚津城の戦いで中条景泰が織田信長の家臣柴田勝家勢と戦い討死
中条三盛を補佐した

東名左衛門15??~15??)
主君:中条景資
1582年の越中魚津城の戦いで中条景泰が織田信長の家臣柴田勝家勢と戦い討死
中条三盛を補佐した

中条玄蕃允
源姓新田田中一族
上田衆(上田長尾氏の同名・同心・被官集団)に組み込まれる
居城:魚沼郡大井田館

『本庄家』

本庄時長(14??~1509)
父親:本庄房長
居城:岩船郡本庄城
1509年の本庄城の戦いで長尾為景、中条藤資、築地忠基勢と戦い討死

本庄弥次郎(14??~1509)
父親:本庄時長
1509年本庄城の戦いで父の本庄時長と長尾為景、中条藤資、築地忠基勢と戦い討死

本庄房長(14??~1539)
官途:大和守。
父親:本庄時長の次男
1509年の本庄城の戦いで父の本庄時長、兄の本庄弥次郎が長尾為景勢と戦い討死
本庄家の家督を相続
1539年に伊達実元の上杉家入嗣に反対した
本庄城の戦いで中条藤資、小河長資勢と戦い討死

本庄盛長(15??~15??)
通称:孫五郎。
父親:本庄時長の三男
甥の本庄繁長の後見役を務めた
1539年の本庄城の戦いで兄の本庄房長が中条藤資、小河長資勢と戦い討死
矢羽幾長南とともに小河長資勢と戦い敗退
1541年矢羽幾長南が小河長資に謀殺されたため小河長資と和議を結んだ

本庄繁長(1540~1614)
通称:弥次郎。
官途:越前守。
父親:本庄房長
正室:上杉景信の娘
継室:須田満親の娘
居城:岩船郡本庄城
1551年小河長資を捕縛謀殺して本庄家の実権を取り戻した
1559年10月28日序列5位・諸国衆御太刀之次第衆第2位
1561年の第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信勢と戦い敗退
1568年長尾景虎の意向を受け長尾藤景、長尾景治を謀殺した。
本庄繁長の乱で武田晴信、武藤義増の支援を受け長尾景虎勢と戦い敗退
1578年の御館の乱で長尾景勝に従い長尾三郎景虎勢と戦い戦功
1586年の新発田重家の乱で色部長実とともに長尾景勝に従い新発田重家勢と戦い戦功
1587年の羽前尾浦城の戦いで武藤義興、武藤義勝が最上義光勢と戦い敗退
1588年の十五里ヶ原の戦いで武藤義勝を支援して最上義光勢と戦い戦功
1590年の庄内藤島一揆を扇動した嫌疑を受け改易処分
序列5位1559年10月28日披露太刀之衆第2位
七手組大将の一人、越後十七将の一人。
1600年の岩代松川の戦いで伊達家の片倉景綱、茂庭綱元、屋代景頼勢と戦い戦功
長尾景勝の意向を受け千坂景親とともに松平元康と和議

本庄顕長(1564~15??)
官途:豊後守
父親:本庄繁長
1568年の本庄繁長の乱で父の本庄繁長が長尾景虎勢と戦い敗退
人質として長尾景虎のもとに赴いた。
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝勢と戦い敗退し廃嫡処分
1591年の藤島一揆煽動で本庄繁長と弟の武藤義勝が改易処分
蒲原郡加茂内で2,298石を領した
1597年須田満胤、柿崎憲家とともに改易処分に処された

本庄長房(1580~1643)
別名:直江与次郎。
通称:市兵衛。
父親:本庄繁長の三男
養父:樋口兼続
正室:篠原一孝の娘
1593年樋口兼続に樋口景明が生まれたため実家の本庄家に帰参した
1612年前田利常の家臣本多政重に仕えた
鉄炮組頭(1,800石)を務めた
1615年の大坂夏の陣で前田利常に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功
1637年に上杉定勝のもとに帰参して樋口家の家督を相続した

本庄弥吉(15??~15??)
父親:本庄繁長の四男

本庄久長(15??~16??)
通称:外記
父親:本庄繁長の五男
1614年の大坂冬の陣で長尾景勝に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功

本庄重長(1602~1654)
通称:与市郎
官途:出羽守
父親:本庄繁長の六男
正室:武田信清の娘
1623年兄の本庄充長が病没したため、長尾定勝の意向を受け本庄家の家督を相続した
福島城代職(3,333石)を務めた

本庄長明(15??~15??)
父親:本庄繁長の七男

本庄長能(15??~15??)
父親:本庄繁長の八男

本庄利長(15??~15??)
父親:本庄繁長の九男

本庄左源太(15??~15??)
父親:本庄繁長の十男
小川長基(15??~15??)
主君:上杉定実
居城:岩船郡小川館

本庄充長(1573~1623)
別名:大宝寺義勝。
父親:本庄繁長の次男
養父:武藤義興
正室:島津利忠の娘
長尾景勝は武藤義氏と結んで最上義光と敵対した。
1583年武藤義氏が家臣によって謀殺され後を継いだ長尾義興も最上義光に謀殺
長尾景勝は本庄義勝を武藤義興の養子に送り込み武藤家の家督を相続させた
1588年の十五里ヶ原の戦いでは父本庄繁長とともに最上義光勢を撃破った
武藤義勝は長尾景勝を介して羽柴秀吉勢に属した。
1591年の太閤検地で一揆扇動の咎を受けて改易処分に処された
1592年の文禄の役に参陣して罪を許され長尾景勝に仕えた。

本庄宗緩(15??~15??)
主君:本庄房長
1554年庄田定賢とともに本誓寺に長尾景虎上洛の便宜を図ったことの謝意を伝えた
1555年長尾景虎が安田景元へ宛てた出陣要請の起請文に名がある
1569年中条藤資と黒川家の所領争いで中条藤資に加勢した。
 
本庄清七郎(15??~15??)
主君:本庄房長
1571年武田晴信が上野国厩橋城へ向けて進軍すると対抗するため沼田城へ向かった。
1573年一向一揆に備えるため越中に派遣された。
1578年長尾三郎景虎に加勢するため御館に入る。
長尾景勝に敗れ栃尾に撤退したが降伏する。

小川長資(15??~1551)
父親:本庄時長の次男
養父:小川長基の養子
1539年の本庄城の戦いで上杉定実、鮎川清長、色部勝長とともに本庄房長勢と戦う
本庄房長を羽前国に追落す
1542年の伊達天文の乱で兄の本庄房長とともに伊達晴宗を支援
伊達稙宗勢と戦い戦功
本庄房長が病没したため、本庄繁長を擁立して本庄家を専横した。
1551年に本庄繁長に謀殺された。
 
鮎川藤長(14??~15??)
官途:摂津守
主君:本庄時長
居城:岩船郡大葉沢館
大葉沢館(6,000石)を領した。

鮎川清長(15??~1571)
父親:鮎川藤長
官途:信濃守
本家筋にあたる同族本庄氏とは度々互いの領地の境界線を巡って争った
1530年:上条定憲の乱で揚北衆とともに上条定憲に従い長尾為景勢と戦い敗退
1539年:1539年盟友であった本庄房長と境界上の下渡島城支配を巡って対立
   :本庄城の戦いで房長の弟小川長資、色部勝長とともに本庄房長勢と戦う
   :本庄房長を羽前国に追落した。
1551年:小川長資が房長の遺児、千代猪丸(本庄繁長)を擁する勢力に切腹させられる
  :清長も討伐されかかるが色部勝長が仲裁してくれる
長尾景虎が家督を継承すると従属
1561年:第四次川中島の戦いで本庄繁長、色部勝長とともに長尾景虎に従い戦功
1568年:本庄房長の乱で長尾景虎に従い本庄房長勢と戦い戦功
1571年:本庄房長の十三回忌法要で本庄繁長に謀殺された

鮎川盛長(15??~15??)
通称:孫次郎
父親:鮎川清長
居城:岩船郡大葉沢館
本家筋にあたる同族本庄氏とは度々互いの領地の境界線を巡って争った
1559年10月28日序列23位・諸国衆御太刀之次第衆第20位
1568年:本庄房長の乱で父の鮎川清長とともに長尾景虎に従い本庄房長勢と戦い戦功
1582年:御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝の家臣本庄繁長勢と戦い敗退
1581年:新発田重家の乱で長尾景勝にも新発田重家にも属さず中立
    :長尾景勝に従い会津若松城に転封した。

鮎川長憲(15??~15??)
主君:鮎川清長
1541年:鮎川清長と本庄房長との起請文に連書した。

渡部掃部(15??~15??)
主君:鮎川清長

小島飛騨守(15??~15??)
主君:本庄房長

小島右近(15??~15??)
父親:小島飛騨守
1588年の十五里ヶ原の戦いで本庄繁長、武藤義勝に従う
最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功
鵜渡路因獄介(15??~15??)
主君:本庄繁長
居城:岩船郡鵜渡路館
1588年の十五里ヶ原の戦いで本庄繁長、武藤義勝に従い
最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功

有明平右兵衛(15??~15??)
主君:本庄房長
1535年:有明館の戦いで須貝伊賀守の支援を受け本庄房長勢と戦い羽前国に落延びた

石栗長広(15??~15??)
通称:将監。
主君:本庄房長
役職:宮ノ下河内神社の神職
1568年:下渡館の戦いで本庄房長の意向を受け鮎川清長、三潴長能勢と戦い戦功
1588年:十五里ヶ原の戦いで本庄繁長に従い
    :最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功

石栗長次(15??~15??)
通称:勘解由
父親:石栗長広

門田修理亮(15??~15??)
主君:本庄繁長

板屋古瀬駿河守(15??~15??)
主君:本庄房長・筆頭家老
1588年:十五里ヶ原の戦いで本庄繁長、武藤義勝に従う
   :最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功

板屋古瀬式部少輔(15??~15??)
主君:板屋古瀬駿河守

板屋古瀬若狭守(15??~15??)
主君:板屋古瀬駿河守

岩沢織部(15??~15??)
主君:本庄繁長
1588年:十五里ヶ原の戦いで本庄繁長、武藤義勝に従う
   :最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功

江見右馬丞(15??~15??)
主君:本庄繁長
1588年の十五里ヶ原の戦いで本庄繁長、武藤義勝に従い
最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功

小串権助(15??~15??)
主君:本庄繁長
1588年の十五里ヶ原の戦いで本庄繁長、武藤義勝に従い
最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功

草壁彦五郎(15??~15??)
主君:本庄房長
1509年耕雲寺納所帳に草壁彦五郎、草壁源三郎、天神太夫とともに連署

山辺里長門守(15??~15??)】
主君:本庄繁長
居城:岩船郡山辺里館主:家老職(300貫)

山辺里筑後守(15??~15??)
父親:山辺里長門守

関口繁光(15??~15??)
通称:次郎
主君:本庄繁長
居城:岩船郡関口館

元井為宗(15??~15??)
官途:日向守。
主君:本庄房長
1561年の第四次川中島の戦いで本庄繁長に従い武田晴信勢と戦い敗退

稲葉名兵衛(15??~15??)
主君:本庄繁長
1547年:本庄繁長に従い羽前庄内に転封した。
1569年:本庄繁長が長尾景虎に降伏したため猿沢館に隠居

大川忠秀(15??~1561)
官途:駿河守
居城:岩船郡藤懸館
主君:本庄
平姓秩父本庄一族
1559年10月28日序列21位・諸国衆御太刀之次第衆第18位
1561年で第四次川中島の戦いで長尾景虎に従い武田晴信の家臣山県昌景勢と戦い討死

大川長秀(15??~15??)
通称:三郎次郎
父親:大川忠秀
1569年の本庄繁長の乱で弟の大川孫太郎と大川藤七郎が本庄繁長に内応
藤懸館を奪れる、藤懸館の戦いで大川孫太郎、大川藤七郎勢と戦い戦功

大川孫太郎(15??~15??)
父親:大川忠秀の次男

大川藤七郎(15??~15??)
父親:大川忠秀の三男

矢羽幾長南(15??~1541)
官途:佐渡守。
主君:本庄房長:家老職を務めた
居城:北蒲原郡下渡島館
1539年本庄房長が病没したため、小川長資、本庄孫五郎と対立した
1541年小川長資に謀殺された
 
矢羽幾孫次郎(15??~15??)
主君:本庄房長
1542年の伊達天文の乱で伊達稙宗を支援してた本庄房長に従い伊達晴宗勢と戦い敗退

白川対馬守(15??~15??)
主君:本庄繁長

中嶋宮内少輔(15??~15??)
主君:本庄繁長
1588年の十五里ヶ原の戦いで本庄繁長、武藤義勝に従う
最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功

平賀彦五郎(15??~15??)
主君:本庄繁長

平賀為資(15??~15??)
官途:左京進
居城:蒲原郡護摩堂館

平賀重資(15??~15??)
通称:助四郎
官途:左京亮
父親:平賀為資
1559年10月28日序列25位・諸国衆御太刀之次第衆第22位

山辺里長門守(15??~15??)
主君:本庄房長
居城:岩船郡山辺里館

山辺里筑後守(15??~15??)
父親:山辺里長門守
1588年の十五里ヶ原の戦いで本庄繁長、武藤義勝に従う
最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功

山辺里下総守(15??~15??)
父親:山辺里筑後守

鷲尾喜兵衛(15??~15??)
主君:本庄繁長
1588年の十五里ヶ原の戦いで本庄繁長、武藤義勝に従う
最上義光、東禅寺義長、東禅寺勝正、池田盛周勢と戦い戦功

『芦名盛氏の家臣』

金上盛備(1527~1589)
別名:会津の執権
官途:遠江守
主君:芦名盛氏
居城:蒲原郡津川城
芦名家の筆頭家老職を務めた。
1578年の御館の乱で芦名盛氏の意向を受け長尾三郎景虎勢を支援した。
1581年に芦名盛隆の使者として上洛して織田信長に謁見した。
1586年に芦名亀王丸が病没したため佐竹義重の次男芦名盛重を養子に迎えた。
1589年の摺上原の戦いで芦名盛重に従い伊達政宗勢と戦い討死

金上盛実(1551~1590)
父親:金上盛備
1589年の摺上原の戦いで父の金上盛備とともに芦名盛重に従い伊達政宗勢と戦い敗退
長尾景勝の支援を受け伊達政宗に対抗した
瓜生三郎左衛門尉(15??~1578)
主君:金上盛備
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎を支援するため長尾景勝勢と戦い討死

小田切祐治(15??~15??)
官途:三河守。
主君:芦名盛隆家臣
居城:北蒲原郡赤谷館

小田切盛昭(15??~1587)
別名:小田切政清
官途:三河守
父親:小田切祐治
1578年の安田城の戦いで金上盛備とともに長尾三郎景虎勢を支援
長尾景勝勢と戦い敗退
1581年の新発田重家の乱で芦名盛隆の意向を受け新発田重家を支援
長尾景勝勢と戦い戦功
1587年の新発田城の戦いで芦名盛重の意向を受け金上盛備と新発田重家を支援
長尾景勝勢と戦い敗退
赤谷館の戦いで長尾景勝勢の猛攻を受け討死

小田切貞満(15??~1578)
官途:玄蕃允。
主君:小田切祐治
1578年の御館の乱で芦名盛重の意向を受け小田切貞義と小田切盛昭に従う
長尾三郎景虎を支援して長尾景勝勢と戦い討死

小田切貞義(15??~1578)
官途:治部少輔
主君:小田切祐治
1578年の御館の乱で芦名盛重の意向を受け小田切貞満とともに小田切盛昭に従う
長尾三郎景虎を支援して長尾景勝勢と戦い討死

小田切小七郎(15??~1578)
主君:小田切盛昭
1578年の御館の乱で芦名盛重の意向を受け小田切盛昭に従う
長尾三郎景虎を支援して長尾景勝勢と戦い討死

小田切孫次郎(15??~15??)
主君:小田切祐治
1569年の本庄繁長の乱で本庄繁長が小田切孫次郎を取次役に芦名盛氏に支援を求める

小田切孫七郎(15??~15??)
主君:小田切盛昭
1578年に長尾景虎が病没したため芦名盛氏の意向を受け越後国内の情勢を探る

大槻清兵衛(15??~1578)
主君:金上盛備
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎に従い長尾景勝勢と戦い討死

坂内清右衛門尉(15??~1578)
主君:金上盛備
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎を支援して長尾景勝勢と戦い討死

矢部宮内(15??~1578)
主君:金上盛備
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎を支援して長尾景勝勢と戦い討死

長谷川宮内(15??~1578)
主君:金上盛備
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎を支援するため越後国に侵攻したが討死

長谷川織部(15??~1578)】
主君:金上盛備
1578年の御館の乱で長尾三郎景虎を支援して長尾景勝勢と戦い討死

『創作の人物』

『三条長尾家』

三条長尾長景(15??~15??)
通称:平六。
官途:中務少輔
居城:南蒲原郡三条城
1545年の黒滝城の戦いで黒田秀忠に従い長尾景虎の家臣村山与七郎勢と戦い敗退
 
三条長尾俊景(15??~1545)
父親:長尾長景
1545年の黒滝城の戦いで黒田秀忠に従い長尾景虎の家臣村山与七郎勢と戦い討死

北川大学(15??~1544)
主君:長尾俊景
居城:岩船郡高柳館
1544年の高柳館の戦いで長尾景虎勢と戦い討死


「諸国衆御太刀之次第写」
武将名     :衆区分 :献上形態:献上日
越ノ十郎殿   :侍衆  :直太刀 :十月二十八日
桃井殿     :
山本寺殿    :
中条殿     :    :披露太刀
本庄弥次良殿  :
本庄殿     :
石川殿     :
色部殿     :
千坂殿     :
長尾越前殿   :
斎藤下野殿   :
毛利弥九良殿  :
長尾遠江守殿  :
柿崎和泉殿   :
びわ嶋殿    :
長尾源五良殿  :
にい津殿    :
加地殿     :
新発田尾張守殿 :
竹俣殿     :
大川殿     :
長尾右衛門殿  :
相川殿     :
仁科清蔵殿   :
平賀殿     :
安田新八良殿  :
竹俣平太良殿  :
吉江殿     :
甘糟近江守殿  :
水原小太良殿  :
下条殿     :
大関殿     :
荒川殿     :
唐崎殿     :
桐沢殿     :
おぢや殿    :
大崎殿     :
有留弥七良殿  :
長能登守殿   :
計見出雲守殿  :
野路弥左衛門殿 :
計見与十良殿  :
毛利丹後守殿  :
長井丹波守殿  :
村山平次良殿  :
松川弥三良殿  :
大崎九良左衛門殿:
上条入道殿   :         :十一月一日
山浦入道殿   :
直江入道殿   :
大国入道殿   :
山岸入道殿   :
小島入道殿   :
若林方     :御馬廻年寄分之衆
山村方     :
諏訪方     :
山吉方     :
相浦方     :
松本方     :
荻田方     :
庄田方     :

天正3年頃1575年:上杉家軍役帳

武将名     :氏名  :軍役数:家格

御中城様    :上杉景勝:375:一家
山浦殿     :    :250:一門
十郎殿     :上杉景信: 81:
上条殿     :上条政繁: 96:
弥七郎殿    :琵琶島 :156:
山本寺殿    :    : 71:
中条与次    :中条景泰:140:国衆(下郡)
黒川四郎次郎  :    :148:
  同心    :    : 35:
色部弥三郎   :    :227:
水原      :    : 87:
竹俣参河守   :    : 98:
新発田尾張守  :    :194:
五十公野右衛門尉:    :124:
加地彦次郎   :    :158:
安田新大郎   :    :148:
下条采女正   :    : 52:
荒川弥二郎   :    : 52:
菅名与三    :    : 73:国衆(中郡)
  同心    :    :  5:
平賀左京亮   :    : 98:
新津大膳亮   :    : 91:
斎藤下野守   :    :213:国衆(上郡)
千坂対馬守   :    : 58:
柿崎左衛門大輔 :    :260:
新保孫六    :    : 67:
竹俣小大郎   :    : 70:
山岸隼人佐   :    : 50:
安田宗八郎   :    : 95:
船見      :    :101:
松本      :    :158:旗本
本庄清七郎   :    :240:
吉江佐渡守   :    : 76:
山吉孫二郎   :    :377:
直江大和守   :    :305:
吉江喜四郎   :    :105:
香取弥平太   :    :132:
河田対馬守   :    :107:
北条下総守   :    :105:
小国刑部少輔  :    :125:
長尾小四郎   :    : 81:

長尾上杉存亡記:

『諸国衆御太刀之次第写』永禄2年・1559年10月28日当時

上杉景信
序列1位:直太刀之三人衆の一人
古志長尾家当主
越後栖吉城城主
上杉謙信の叔父

桃井義孝
序列2位:直太刀之三人衆の一人
飯山城城主:伊豆守
越後十七将の一人。

山本寺定長 
序列3位:直太刀之三人衆の一人
山本寺上杉家当主:上杉氏庶流
不動山城城主

中条藤資
序列4位:披露太刀之衆第1位
越後国人衆中条氏19代目当主
鳥坂城城主
七手組大将の一人

本庄繁長
序列5位:披露太刀之衆第2位
越後国人衆本庄氏
本庄城城主
七手組大将の一人
越後十七将の一人

本庄慶秀
序列6位:披露太刀之衆第3位
越後国人衆本庄氏
古志郡栃尾城城主

石川重次
序列7位:披露太刀之衆第4位
代々・上杉四家老家の一つ
石川景重の男
駿河守

色部勝長
序列8位:披露太刀之衆第5位
揚北衆の一人
平林城城主
血染めの感状の一人
七手組大将の一人

千坂景親
序列9位:披露太刀之衆第6位
中郡衆・上杉家庶流・上杉四家老家の一つ
鉢盛城城主
七手組大将の一人

長尾政景
序列10位:披露太刀之衆第7位
長尾為景の娘・仙桃院の夫、謙信の義兄弟、景勝の父
坂戸城城主

斎藤朝信(越後の鐘馗)
序列11位:披露太刀之衆第8位
中郡衆、越後国刈羽郡の豪族、上杉家四家老家の一つ
七手組大将の一人
越後十七将の一人

北条高広
序列12位:披露太刀之衆第9位
刈羽郡北条の領主、北条城城主
七手組大将の一人。

長尾藤景
序列13位:披露太刀之衆第10位 
下田長尾氏の当主
高城城城主
謙信の家老
七手組大将の一人。

柿崎景家
序列14位:披露太刀之衆第11位
上群衆(頚城郡・魚沼郡)の一人
柿崎・猿毛城城主
上杉家家臣随一の猛将
七手組大将の一人
上杉四天王

宇佐美定満
序列15位:披露太刀之衆第12位
軍師・宇佐美定行
枇杷島城城主
越後十七将の一人
上杉四天王。

山浦国清
序列16位:披露太刀之衆第13位
信濃豪族
村上義清の嫡男
上杉一門の山浦家を継承
北蒲原郡白河荘山浦条の領主。

新津資相
序列17位:披露太刀之衆第14位
阿賀南の豪族
新津館主
別名・新津大膳亮

加地春綱
序列18位:披露太刀之衆第15位
揚北衆の一人
越後国加地荘の領主
妻は長尾為景の娘
謙信・長尾政景の義兄弟
七手組大将の一人。

新発田長敦
序列19位:披露太刀之衆第16位
揚北衆の一人
越後国国人衆・新発田氏当主
加地氏庶流
蒲原郡新発田城城主
七手組大将の一人。

竹俣慶綱
序列20位:披露太刀之衆第17位
揚北衆の一人
竹俣城城主
三河守
七手組大将の一人。

大川忠秀
序列21位:披露太刀之衆第18位
岩船郡藤懸城城主
駿河守

長尾景治
序列22位:披露太刀之衆第19位
下田長尾氏の一人
披露太刀之衆第10位:長尾藤景の弟
別名・右衛門(うえもん)

鮎川盛長
序列23位:披露太刀之衆第20位
揚北衆・元・本庄氏、越後岩船郡の国人
大葉沢城城主

仁科盛明
序列24位:披露太刀之衆第21位
信濃国安曇郡国人衆
仁科盛国の父。

平賀重資
序列25位:披露太刀之衆第22位
阿賀南の豪族
旗本御手廻衆
蒲原郡護摩堂山城城主。

安田長秀
序列26位:披露太刀之衆第23位
揚北衆の一人
北蒲原郡白川庄・安田城城主
血染めの感状の一人

竹俣昌綱
序列27位:披露太刀之衆第24位
揚北衆佐々木党・加地氏の庶流
旗本御手廻衆
筑後守。

吉江景資
序列28位:披露太刀之衆第25位
西蒲原郡弥彦庄吉江の吉江城城主
吉江宗信の男

甘粕景持
序列29位:披露太刀之衆第26位
飯塚桝形城・三条城城主
上杉四天王
越後十七将の一人。

水原憲永
序列30位:披露太刀之衆第27位
大関親憲の義父。

下条忠親
序列31位:披露太刀之衆第28位 
蒲原郡白河庄下条の領主
河田長親の次男

大関盛憲
序列32位:披露太刀之衆第29位
田中城(別名・大関館)城主
通称・阿波守。

荒川長実
序列33位:披露太刀之衆第30位
揚北衆の一人
荒川保の領主
伊豆守、越後十七将の一人。

唐崎為宗
序列34位:披露太刀之衆第31位
別名・左馬之介
旗本先手衆
越後十七将の一人。

桐沢具繁
序列35位:披露太刀之衆第32位
上田衆の一人
坂戸城支城・桐沢城城主
通称:但馬守

平子房長
序列36位:披露太刀之衆第33位
旗本衆
若狭守
平子房政の男
代々・薭生城城主。

大崎泰継
序列37位:披露太刀之衆第34位
旗本衆
筑前守

有留弥七郎
序列38位:披露太刀之衆第35位
越前瓜生氏一門

長能登守
序列39位:披露太刀之衆第36位
能登長氏の庶流・黒滝長氏・長景連の父。

計見堯元
序列40位:披露太刀之衆第37位
刈羽郡畔屋城主
出雲守

野呂弥左衛門
序列41位:披露太刀之衆第38位

計見幸安
序列42位:披露太刀之衆第39位
幼名・与十郎。

北条景広
序列43位:披露太刀之衆第40位
北条高広の嫡男
通称・丹後守
上野国群馬郡厩橋城城主
七手組大将の一人

長井為実
序列44位:披露太刀之衆第41位
旗本御手廻衆
丹波守
1578年の甲越同盟時に交渉に当たった甲斐出身で越後居住
長井昌秀の縁者か?

村山平次郎
序列45位:披露太刀之衆第42位
村山盛義・直義親子の一門
善光寺別当・栗田一族と縁戚

松川修衛
序列46位:披露太刀之衆第43位
通称・大隈守

大崎九郎左衛門
序列47位:披露太刀之衆第44位
披露太刀之衆第34位・大崎泰継の男

上条政繁
序列48位:披露太刀之衆第45位
上条上杉家当主
上条城城主
上杉定実の男
山城守・播磨守・織部

山浦入道・山浦憲重
序列49位:披露太刀之衆第46位
上杉一門衆
入道之衆六人の一人


直江入道・直江景綱
序列50位:披露太刀之衆第47位
頚城郡直江庄直江氏
上杉家宿老
山東郡与板城城主
入道之衆六人の一人
越後十七将の一人
七手組大将の一人。

大国入道・大国頼久
序列51位:披露太刀之衆第48位
小国氏の末裔
別名:小国頼久
天神山城城主
入道之衆六人の一人。

山岸入道・山岸光祐
序列52位:披露太刀之衆第49位
出雲守
弥彦神社戸内職
黒滝城城主
入道之衆六人の一人。

小島入道・鬼小島弥太郎の祖先
序列53位:披露太刀之衆第50位
入道之衆六人の一人。

若林方旗本衆、御馬廻年寄分之衆
序列54位:披露太刀之衆第51位


山村方信濃国国人衆・山村氏、旗本衆、御馬廻年寄分之衆
序列55位:披露太刀之衆第52位

諏訪方信濃国国人衆・諏訪氏、旗本衆、御馬廻年寄分之衆
序列56位:披露太刀之衆第53位

山吉方・山吉豊守、旗本衆、御馬廻年寄分之衆
序列57位:披露太刀之衆第54位
三条城城主

相浦方旗本衆、御馬廻年寄分之衆
序列58位:披露太刀之衆第55位

松本方旗本衆、御馬廻年寄分之衆
序列59位:披露太刀之衆第56位


荻田方旗本衆、御馬廻年寄分之衆
序列60位:披露太刀之衆第57位

庄田方旗本衆、御馬廻年寄分之衆
序列61位 披露太刀之衆第58位 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

ダンジョン菌にまみれた、様々なクエストが提示されるこの現実世界で、【クエスト簡略化】スキルを手にした俺は最強のスレイヤーを目指す

名無し
ファンタジー
 ダンジョン菌が人間や物をダンジョン化させてしまう世界。ワクチンを打てば誰もがスレイヤーになる権利を与えられ、強化用のクエストを受けられるようになる。  しかし、ワクチン接種で稀に発生する、最初から能力の高いエリート種でなければクエストの攻略は難しく、一般人の佐嶋康介はスレイヤーになることを諦めていたが、仕事の帰りにコンビニエンスストアに立ち寄ったことで運命が変わることになる。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

武田義信に転生したので、父親の武田信玄に殺されないように、努力してみた。

克全
ファンタジー
第6回カクヨムWeb小説コンテスト中間選考通過作 アルファポリス第2回歴史時代小説大賞・読者賞受賞作 原因不明だが、武田義信に生まれ変わってしまった。血も涙もない父親、武田信玄に殺されるなんて真平御免、深く静かに天下統一を目指します。

エルティモエルフォ ―最後のエルフ―

ポリ 外丸
ファンタジー
 普通の高校生、松田啓18歳が、夏休みに海で溺れていた少年を救って命を落としてしまう。  海の底に沈んで死んだはずの啓が、次に意識を取り戻した時には小さな少年に転生していた。  その少年の記憶を呼び起こすと、どうやらここは異世界のようだ。  もう一度もらった命。  啓は生き抜くことを第一に考え、今いる地で1人生活を始めた。  前世の知識を持った生き残りエルフの気まぐれ人生物語り。 ※カクヨム、小説家になろう、ノベルバ、ツギクルにも載せています

辺境領主は大貴族に成り上がる! チート知識でのびのび領地経営します

潮ノ海月@書籍発売中
ファンタジー
旧題:転生貴族の領地経営~チート知識を活用して、辺境領主は成り上がる! トールデント帝国と国境を接していたフレンハイム子爵領の領主バルトハイドは、突如、侵攻を開始した帝国軍から領地を守るためにルッセン砦で迎撃に向かうが、守り切れず戦死してしまう。 領主バルトハイドが戦争で死亡した事で、唯一の後継者であったアクスが跡目を継ぐことになってしまう。 アクスの前世は日本人であり、争いごとが極端に苦手であったが、領民を守るために立ち上がることを決意する。 だが、兵士の証言からしてラッセル砦を陥落させた帝国軍の数は10倍以上であることが明らかになってしまう 完全に手詰まりの中で、アクスは日本人として暮らしてきた知識を活用し、さらには領都から避難してきた獣人や亜人を仲間に引き入れ秘策を練る。 果たしてアクスは帝国軍に勝利できるのか!? これは転生貴族アクスが領地経営に奮闘し、大貴族へ成りあがる物語。

大罪人の娘・前編

いずもカリーシ
歴史・時代
世は戦国末期。織田信長の愛娘と同じ『目』を持つ、一人の女性がいました。 戦国乱世に終止符を打ち、およそ250年続く平和を達成したのは『誰』なのでしょうか? 織田信長? 豊臣秀吉? 徳川家康? それとも……? この小説は、良くも悪くも歴史の『裏側』で暗躍していた人々にスポットを当てた歴史小説です。 【前編(第壱章~第伍章)】 凛を中心とした女たちの闘いが開幕するまでの序章を描いています。 【後編(第陸章〜最終章)】 視点人物に玉(ガラシャ)と福(春日局)が加わります。 一人の女帝が江戸幕府を意のままに操り、ついに戦いの黒幕たちとの長き闘いが終焉を迎えます。 あのパックス・ロマーナにも匹敵した偉業は、どのようにして達成できたのでしょうか? (他、いずもカリーシで掲載しています)

どーも、反逆のオッサンです

わか
ファンタジー
簡単なあらすじ オッサン異世界転移する。 少し詳しいあらすじ 異世界転移したオッサン...能力はスマホ。森の中に転移したオッサンがスマホを駆使して普通の生活に向けひたむきに行動するお話。 この小説は、小説家になろう様、カクヨム様にて同時投稿しております。

処理中です...