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武田義信
出羽侵攻・陸奥武力威圧
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6月5日『出羽・湊城』
俺は今回の遠征で、出羽を完全に勢力圏に組み込む決意をしていた。今なら圧倒的な鉄砲数と硝石生産力で東北諸国を制圧可能と判断したからだ。だが冬将軍には勝ち目がない事も自覚している。よって今回は出羽の弱小大名・国衆を分裂させて、近衛府武士団として組み込む事にした。
佐渡遠征に参戦した揚北衆の留守居役の挨拶を受け、出羽庄内の大宝寺義増と、後見人の土佐林禅棟の挨拶を受けた、この時同時に独立や鷹司家(武田)との直結を望む大宝寺一族や家臣団とも繋がりを持った。俺としても家臣団の中に圧倒的な力を持つ者を作りたくはない、甲斐の穴山や小山田のような勢力が出来ては、鷹司近衛府武士団に禍根を残してしまう。
更に海岸線を騎馬のみで急いで北上して、由利本荘に入り、由利十二頭と言われる国衆の挨拶を受けた。十二神将に準えているだけで本当に12家では無い、主な国衆は矢島家・仁賀保家・赤尾津家・潟保氏家・打越家・子吉家・下村家・玉米家・鮎川家・石沢家・滝沢家・岩屋家・羽川家・芹田家・沓沢家などだ。
由利十二頭の挨拶を受けた後、又騎馬のみで急いで北上し、湊城に入り湊安東・檜山安東を分割し切り崩すために威圧を掛けているのだが、ここに至る道中で左近衛大将として出羽・陸奥の大名・国衆に私戦禁止の使者を送った。これは国衆の領地争いを禁止するのもので、係争地は左近衛大将として調停する、戦を起こした場合は係争地は近衛府が取り上げるが、検地の上で双方に同価値の扶持を与えるので、近衛府に出仕せよと言うとても勝手な使者だ、だがこの使者を送る事で後々出羽・陸奥に戦を仕掛ける大義名分を得られるし、近衛府直轄領として兵を駐屯させる事も出来る。
ここで問題となるのは、出羽・奥羽で最大勢力と言える伊達だろう、だが伊達は天文の乱と言われる6年間にも及んだ、伊達家・第15代当主・伊達晴宗と先代・伊達稙宗の奥羽諸侯を撒き込んだ内乱で、一門や家臣団への統制力が著しく落ちている。結局は天文17年(1548年)9月に、将軍・足利義輝の仲裁を受けて稙宗が晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居しているが、この辺が調略や内乱を引き起こさせるポイントだろう。
次いで最上家なのだが、ここは伊達稙宗に攻められて家督継承に口出しされ、属国化されていたが天文の乱で晴宗に味方して独立勢力として基盤を固めている。
出羽最上郡には伊達家に抵抗していた国衆連合が有り、最上八盾と言われている。最上八楯は天童家を盟主に最上家及び天童家の分族で構成されているのだが、天文の乱までは伊達家の勢力に組み込まれていた。
「最上八盾」
天童家・盟主。天童城を本拠とし勢力を持っている。
延沢家・延沢銀山(銀山温泉)で著名な延沢城を本拠とする、八盾でも有力家。
飯田家・村山市に本拠を置く。
尾花沢家・尾花沢城を本拠とする。
楯岡家・ 楯岡城を本拠とする、最上氏庶流。
長瀞家・長瀞城を本拠とする、八盾でも有力家。
六田家・山形市から上山市、東村山郡に本拠を置いている。
成生家・ 天童市周辺。
八盾以外の有力構成家
佛向寺 ・天童の有力な寺で、僧兵を持っている。
細川直元 ・小国城を本拠とする、足利氏の名門三管領細川氏の一門・奥州細川氏。
東根家・天童家の分家。
上山家・上山城主で出羽里見家、最上家の縁戚。
3つめは鎮守大将軍北畠顕家の末裔を自称し、中将職を得て浪岡城を「浪岡御所」と呼ぶ、浪岡家の第8代当主・浪岡具永であろうか。朝廷も高位を与えているから俺も無下には出来ないが、左近衛大将の俺から見れば部下のようなものだ。今はまだ陸奥(青森県)の大名・国衆に直接戦争を仕掛ける気がないから、交流だけにとどめておく、格付けさえできればいいだろう。
4つ目は南部家なのだが、南部晴政が南部一族を統一している。ここは他家と違って内紛を既に終わらせているので手出しし難い。下手に手を出して負けてしまっては、制圧した心算の諸家が反攻するかもしれない。境目の城の兵を置いて様子見しておこう。
6月15日『出羽・檜山城』
俺はこれ以上北上した場合に、湊安東家・第10代当主・安東茂季を傀儡にしている、実兄で檜山安東家当主・安東愛季に、越後との間を遮断されるのを警戒した、そこで2人に強く強く同行を求めて檜山安東家の居城・檜山城に入った。そこで能代や山本の国衆の切り崩しを行い、安東家の一門や家臣の近衛府直臣化を行った。
6月20日『出羽・独鈷城』
そして遂に武田家の庶流で、比内に一大勢力を築いていた浅利則頼の後継者・浅利勝頼の居城・独鈷城に、安東茂季・安東愛季・国衆を引き連れて入城した。浅利家とは我が甲斐源氏庶流で甲斐国八代郡浅利郷にいる、譜代家老衆・浅利信種の一門のことなのだが、比内浅利家はその庶流なのだ。分家も分家、末流では有るが武田一門で先代までは比内地方で力が有ったのは確かだ。この地で南部や檜山安東家と争って勝ち残っていた。
だが先代が死んで2年、影衆の調べでは正室の子で当主の・浅利則勝を追い落とそうと、側室の子で庶兄の浅利頼治・浅利則祐が画策しているようだ。折角先代が独鈷城を本拠地として、現在の二ツ井町荷上場館平城から上津野までを席巻し各地の国人を併合し、独鈷城・笹館城・花岡城・扇田長岡城を主力とし、西の守りには娘婿・牛欄を八木橋城に配置して守りを固めていたのだ。ここで内紛を起こさせるわけにはいかない。そんなことになれば周辺の勢力に付け込まれてしまう、甲斐武田家から当主・浅利則祐に娘を嫁に送り込んで、比内浅利家を盗り込まねばならない。同時に庶兄の浅利頼治・浅利則祐は近衛府の番長として諏訪に連れて行こう。
独鈷城で浅利武田の立て直しを図っていると、陸奥浪岡家の第8代当主・浪岡具永・左近衛権中将の嫡男・浪岡具統が挨拶にやって来た。どうも叔父の浪岡具信が家督を狙っているようで、俺の後ろ盾が欲しいらしい。これは棚から牡丹餅だ、今回は陸奥まで勢力を伸ばす気が無かったが、向こうからやって来てくれた。流石に南部晴政は病気と偽り、弟の石川高信を寄越すにとどめているが。
俺は挨拶に集まった全ての国衆を伴い、鹿角に入り鹿角四頭と言われた成田家とその一族の奈良家・安保家・秋元家の末裔、鹿角四十二館と言われる村落単位の国衆を威圧して巡った。彼らは南部家に取り込まれそうになっていたが、近衛府の武士団として俺の直臣化を図った。ここまで北の奥地に来ると、近衛大将と鷹司家当主の名前は圧倒的な威力が有るようだ。「浪岡御所」の次期当主まで馳せ参じて臣従の挨拶をしている現実を見て、我遅れじと臣従を誓った。
7月1日『陸奥・浪岡城(浪岡御所)』
俺は浪岡具統を支援する為に予定外だが「浪岡御所」に遠征することにした、挨拶に来た国衆の内、当主や嫡男と騎馬武者だけを引き連れて、速力重視で矢立峠を越え陸奥の「浪岡御所」に移動した。そこで左近衛大将として浪岡具永・左近衛権中将の挨拶を受け格の違いを見せつけた上で、跡目を狙う浪岡具信を威圧し、大浦為則等の青森県に地盤を持つ南部家の家臣達の挨拶を受けて、南部家家臣団の切り崩しを行うと共に、浪岡具統の後ろ盾になったと印象を諸家に植え付けた、これによって浪岡家次期当主に対する影響力を手に入れられた。
俺は予定外に行動で失った日数を取り戻すべく、付き従うと申し出た騎馬の国衆と騎馬隊を引き連れて、速力重視で矢立峠を再度越え独鈷城に入り、檜山城・湊城などを経由して角館に向かった。
7月15日『出羽・角館城』
角館城の戸沢道盛は、父・戸沢秀盛の死により、享禄2年(1529年)にわずか6歳の若さで家督を相続することになったのだが、叔父の戸沢忠盛の反乱を受けて母と共に一時角館城を追放されていた。だが重臣達が道盛を支持して逆に天文元年(1532年)忠盛を淀川城に追放してくれたので、無事に角館城に復帰していた。
天文14年(1545年)4月14日に戸沢忠盛が死去した際には、淀城は湊安東家の攻勢を受ける。淀城は一度湊安東家に奪われたものの、戸沢道盛が奮戦して奪い返している。この一帯も先代湊安東家当主・安東堯季や横手城の小野寺景道の係争地となっていた。
俺は佐渡侵攻軍の歩兵部隊と角館城近郊で合流した。彼らは佐渡から庄内にジャンク船で移動して徐々に北上して来たのだ。3万を超える大軍勢となった威圧力と、左近衛大将と言う位で、戸沢道盛に領地争いを禁止するときつく言い渡したうえで、角館城に入城して臣従を誓わせた。まあ俺が信濃に戻ったら忘れて領地争いを再開するだろうが、これで討伐の名目を手に入れる事が出来る。
7月20日『出羽・横手城』
俺は先年に圧力を掛けて臣従を誓わせた、横手城の小野寺景道に再度圧力を掛ける為、3万を超える軍勢で横手城を包囲して再度臣従を誓わせた。その上で領地争いが有った土地を近衛府(鷹司家)の直轄領として目付を残した。また小野寺家の一族や家臣で、近衛府に出仕して鷹司家(武田家)と直接主従関係を結びたい者を取り立てて、小野寺家の勢力を削ぐようにした。
俺は小野寺家を切り崩す為にも、小野寺一門・家臣の城に宿泊しながら南下、3万を超える軍勢を各城砦に分宿させながら湯沢城・小野城・乃位館・高堂館・岩花城と移動して行った。
7月20日『出羽・岩花城(岩鼻館)』
岩花城(岩鼻館)には小野寺家の客将・佐々木貞綱が派遣されていたが、俺はこの漢をはじめ周辺の大小城砦郡の国衆・地侍を直臣化する事にした。現代の秋田県と山形県を分ける雄勝峠を確保し、大宝寺・小野寺・最上を監視し争わせない為にもそれが必要と判断した。彼らを鷹司家の直臣に取り立てて、近衛府出仕の近衛武士団とした。佐々木貞綱を頭に取り立てて、国衆・地侍を寄騎とさせた
俺は今回の遠征で、出羽を完全に勢力圏に組み込む決意をしていた。今なら圧倒的な鉄砲数と硝石生産力で東北諸国を制圧可能と判断したからだ。だが冬将軍には勝ち目がない事も自覚している。よって今回は出羽の弱小大名・国衆を分裂させて、近衛府武士団として組み込む事にした。
佐渡遠征に参戦した揚北衆の留守居役の挨拶を受け、出羽庄内の大宝寺義増と、後見人の土佐林禅棟の挨拶を受けた、この時同時に独立や鷹司家(武田)との直結を望む大宝寺一族や家臣団とも繋がりを持った。俺としても家臣団の中に圧倒的な力を持つ者を作りたくはない、甲斐の穴山や小山田のような勢力が出来ては、鷹司近衛府武士団に禍根を残してしまう。
更に海岸線を騎馬のみで急いで北上して、由利本荘に入り、由利十二頭と言われる国衆の挨拶を受けた。十二神将に準えているだけで本当に12家では無い、主な国衆は矢島家・仁賀保家・赤尾津家・潟保氏家・打越家・子吉家・下村家・玉米家・鮎川家・石沢家・滝沢家・岩屋家・羽川家・芹田家・沓沢家などだ。
由利十二頭の挨拶を受けた後、又騎馬のみで急いで北上し、湊城に入り湊安東・檜山安東を分割し切り崩すために威圧を掛けているのだが、ここに至る道中で左近衛大将として出羽・陸奥の大名・国衆に私戦禁止の使者を送った。これは国衆の領地争いを禁止するのもので、係争地は左近衛大将として調停する、戦を起こした場合は係争地は近衛府が取り上げるが、検地の上で双方に同価値の扶持を与えるので、近衛府に出仕せよと言うとても勝手な使者だ、だがこの使者を送る事で後々出羽・陸奥に戦を仕掛ける大義名分を得られるし、近衛府直轄領として兵を駐屯させる事も出来る。
ここで問題となるのは、出羽・奥羽で最大勢力と言える伊達だろう、だが伊達は天文の乱と言われる6年間にも及んだ、伊達家・第15代当主・伊達晴宗と先代・伊達稙宗の奥羽諸侯を撒き込んだ内乱で、一門や家臣団への統制力が著しく落ちている。結局は天文17年(1548年)9月に、将軍・足利義輝の仲裁を受けて稙宗が晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居しているが、この辺が調略や内乱を引き起こさせるポイントだろう。
次いで最上家なのだが、ここは伊達稙宗に攻められて家督継承に口出しされ、属国化されていたが天文の乱で晴宗に味方して独立勢力として基盤を固めている。
出羽最上郡には伊達家に抵抗していた国衆連合が有り、最上八盾と言われている。最上八楯は天童家を盟主に最上家及び天童家の分族で構成されているのだが、天文の乱までは伊達家の勢力に組み込まれていた。
「最上八盾」
天童家・盟主。天童城を本拠とし勢力を持っている。
延沢家・延沢銀山(銀山温泉)で著名な延沢城を本拠とする、八盾でも有力家。
飯田家・村山市に本拠を置く。
尾花沢家・尾花沢城を本拠とする。
楯岡家・ 楯岡城を本拠とする、最上氏庶流。
長瀞家・長瀞城を本拠とする、八盾でも有力家。
六田家・山形市から上山市、東村山郡に本拠を置いている。
成生家・ 天童市周辺。
八盾以外の有力構成家
佛向寺 ・天童の有力な寺で、僧兵を持っている。
細川直元 ・小国城を本拠とする、足利氏の名門三管領細川氏の一門・奥州細川氏。
東根家・天童家の分家。
上山家・上山城主で出羽里見家、最上家の縁戚。
3つめは鎮守大将軍北畠顕家の末裔を自称し、中将職を得て浪岡城を「浪岡御所」と呼ぶ、浪岡家の第8代当主・浪岡具永であろうか。朝廷も高位を与えているから俺も無下には出来ないが、左近衛大将の俺から見れば部下のようなものだ。今はまだ陸奥(青森県)の大名・国衆に直接戦争を仕掛ける気がないから、交流だけにとどめておく、格付けさえできればいいだろう。
4つ目は南部家なのだが、南部晴政が南部一族を統一している。ここは他家と違って内紛を既に終わらせているので手出しし難い。下手に手を出して負けてしまっては、制圧した心算の諸家が反攻するかもしれない。境目の城の兵を置いて様子見しておこう。
6月15日『出羽・檜山城』
俺はこれ以上北上した場合に、湊安東家・第10代当主・安東茂季を傀儡にしている、実兄で檜山安東家当主・安東愛季に、越後との間を遮断されるのを警戒した、そこで2人に強く強く同行を求めて檜山安東家の居城・檜山城に入った。そこで能代や山本の国衆の切り崩しを行い、安東家の一門や家臣の近衛府直臣化を行った。
6月20日『出羽・独鈷城』
そして遂に武田家の庶流で、比内に一大勢力を築いていた浅利則頼の後継者・浅利勝頼の居城・独鈷城に、安東茂季・安東愛季・国衆を引き連れて入城した。浅利家とは我が甲斐源氏庶流で甲斐国八代郡浅利郷にいる、譜代家老衆・浅利信種の一門のことなのだが、比内浅利家はその庶流なのだ。分家も分家、末流では有るが武田一門で先代までは比内地方で力が有ったのは確かだ。この地で南部や檜山安東家と争って勝ち残っていた。
だが先代が死んで2年、影衆の調べでは正室の子で当主の・浅利則勝を追い落とそうと、側室の子で庶兄の浅利頼治・浅利則祐が画策しているようだ。折角先代が独鈷城を本拠地として、現在の二ツ井町荷上場館平城から上津野までを席巻し各地の国人を併合し、独鈷城・笹館城・花岡城・扇田長岡城を主力とし、西の守りには娘婿・牛欄を八木橋城に配置して守りを固めていたのだ。ここで内紛を起こさせるわけにはいかない。そんなことになれば周辺の勢力に付け込まれてしまう、甲斐武田家から当主・浅利則祐に娘を嫁に送り込んで、比内浅利家を盗り込まねばならない。同時に庶兄の浅利頼治・浅利則祐は近衛府の番長として諏訪に連れて行こう。
独鈷城で浅利武田の立て直しを図っていると、陸奥浪岡家の第8代当主・浪岡具永・左近衛権中将の嫡男・浪岡具統が挨拶にやって来た。どうも叔父の浪岡具信が家督を狙っているようで、俺の後ろ盾が欲しいらしい。これは棚から牡丹餅だ、今回は陸奥まで勢力を伸ばす気が無かったが、向こうからやって来てくれた。流石に南部晴政は病気と偽り、弟の石川高信を寄越すにとどめているが。
俺は挨拶に集まった全ての国衆を伴い、鹿角に入り鹿角四頭と言われた成田家とその一族の奈良家・安保家・秋元家の末裔、鹿角四十二館と言われる村落単位の国衆を威圧して巡った。彼らは南部家に取り込まれそうになっていたが、近衛府の武士団として俺の直臣化を図った。ここまで北の奥地に来ると、近衛大将と鷹司家当主の名前は圧倒的な威力が有るようだ。「浪岡御所」の次期当主まで馳せ参じて臣従の挨拶をしている現実を見て、我遅れじと臣従を誓った。
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天文14年(1545年)4月14日に戸沢忠盛が死去した際には、淀城は湊安東家の攻勢を受ける。淀城は一度湊安東家に奪われたものの、戸沢道盛が奮戦して奪い返している。この一帯も先代湊安東家当主・安東堯季や横手城の小野寺景道の係争地となっていた。
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俺は小野寺家を切り崩す為にも、小野寺一門・家臣の城に宿泊しながら南下、3万を超える軍勢を各城砦に分宿させながら湯沢城・小野城・乃位館・高堂館・岩花城と移動して行った。
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