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第4章
第33話
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「ざまあみろ」
「調子に乗るなよ、山田累!」
笑い声とともに、入り口の扉から人が出て行く気配がした。
個室から出ると、蛇口の水を止めて繋がれたままのホースを引っ張って抜く。
「……水くらい止めてから行きなよ。もったいない」
チャイムが鳴ったが、この状態で授業を受けるわけにもいかなかった。
「……夏だからいいものの……」
今が真冬だったら最悪だと思いながら、累はホースとバケツを用具入れに直し、トイレを出た。
廊下に出ると、隣から息を呑む声が聞こえてくる。
見ると、妙に背の高い男の子がへっぴり腰になりながら立っていた。
大きなフレームの眼鏡はもっさりした前髪に浸食されており、素顔がわからなかった。
「……?」
累が首をかしげていると、絶句していた男子生徒は恐る恐ると言った様子でポケットからハンカチを取り出した。
「あの……よかったらこれ」
「ありがとう、使っていいの?」
「ちゃんと洗ってあるよ。その……どうしたの?」
ハンカチを受け取って顔を拭きながら、累は口を開いた。
「ちょっとドジしちゃっただけ」
「ドジって……山田さん、誰かに水かけられたんじゃないの?」
どうやらこの生徒が自分のことを知っているらしい。加えて、彼から敵意のようなものは感じられなかった。
「まあ、そんなところ」
「ひとまず、着替えたほうがいいね。保健室に行くなら、俺から生物の先生に伝えておくよ」
「ありがとう、助かる」
どうやらクラスまで一緒らしい。
「あ……私のことは、体調不良ってことにしておいてくれる?」
「わかった。田島さんにも伝えておこうか?」
気が利くなと思い、迷惑ついでに沙耶香への伝言も頼むことにした。
「じゃあ、俺の遅刻は山田さんを看病してたってことにしてもいい?」
「もちろん」
前髪もっさりの彼といきなり口裏を合わせることになったが、いい人っぽそうなので少しだけ安心した。
彼と別れて廊下を歩きながら、累はさてあの人は誰だっただろうと首をかしげる。
(思い出せない……)
同じクラスで少なくとも二か月も一緒に過ごしているはずなのに。
あまり他人に興味がないとはいえ、ひどいなと累は自分で自分にあきれた。
保険医の先生は、びしょぬれの累を見てみたことがない暗い目を見開いた。
すぐにバスタオルを持ってくると、使っていないベッドのカーテンを閉めながら累をそこに押し込む。
「着替えのジャージとドライヤー用意するから待っててね」
シャッとカーテンが閉まり、累はバスタオルで身体を拭きながら体に張り付く制服を脱いでいく。
濡れた制服を洗濯してくれるというので、ありがたく渡す。
「ハンカチも一緒に洗うわよ?」
「これは自分で洗うので大丈夫です」
「そう。ドライヤーここに置いておくから、髪の毛も乾かしてね」
先生が出ていってから、累はドライヤーで髪の毛を乾かす。濡れたハンカチを広げてみると、タグのところに名前が書いてあった。
「……花笠……はながさ……?」
そういえば、同じクラスにそんな苗字の男の子がいたはずだ。
「思い出した。花笠一香だ」
女の子みたいな名前だが、音の響きがきれいなので覚えていた。
「一香、花笠一香。覚えておこう、お礼をしないと」
累も自分は冴えないほうだと思うのだが、一香に関しては空気に近い存在だ。
彼が仲良くしているクラスメイトも思い出せない。基本的に個人プレーだった記憶がある。
そしてなぜか、上背があるにもかかわらず、ぼんやりとした印象しかない。
いつも一人で読書をしているか、机に突っ伏して寝ていたはずだ。勉強はできるようで、先生に差されてもよどみなく答えている印象だった。
それにしても、彼の存在感の薄さは特技ともいえるレベルのように思えた。
累の髪の毛が乾き、保健室から出ていこうとしたのを、先生が笑顔で止めた。
「事情を話すまでは、帰さないわよ~!」
ニコニコされてしまい、累は観念して事実を述べる。
「いじめってことでいいのかしら?」
「違います。嫉妬による単なる嫌がらせです」
きっぱり言うと、先生は「うーん」と唸った。
「最近って、そういうはすごくセンシティブな問題なのよ」
「知ってます。でも、いじめじゃないです」
累は何が何でも、いじめにはしたくなかった。
ここでいじめ問題になってしまったら、月日が心を痛めるのが目に見えてわかる。
水をかけてきた上級生は正直どうでもいいが、累との約束を守ろうと頑張ろうとしている月日が悲しむのは、あまり見たくなかった。
それに、累はこのことを本当の本当に気にしていなかった。
「なにかあれば必ず先生に相談します」
「……わかった。絶対約束だからね」
先生と指切りをし、チャイムが鳴るまでお茶を飲んでおしゃべりしながら過ごした。最後に内緒でお菓子をもらってから、累は保健室を出る。
教室に戻ると、累の荷物を持って帰ってきてくれていた沙耶香が心配してくれた。
「お腹はもう大丈夫?」
「うん、平気」
一香はうまくごまかしてくれたようだ。
二限目が始まると、累はさりげなく周りを見る。一香は二つ前の席に座って、影のように存在感を消していた。
(……すごい。あんなに身長大きかったら、普通は目立つのに)
一香は今にでも炭になってしまいそうな雰囲気で、息を殺しているようにも見えた。
しばらく観察した結果、一香は存在感を空気のようにするスペシャリストらしいと気付いた。
(今度、気配の正しい消しかたを彼に聞いてみよう)
今日のこともそうだが、月日と関わるようになってから、なにかと累も目立ってきてしまっている。
平穏な生活を望む月日の気持ちが、ほんのちょっとわかったような気がした。
「調子に乗るなよ、山田累!」
笑い声とともに、入り口の扉から人が出て行く気配がした。
個室から出ると、蛇口の水を止めて繋がれたままのホースを引っ張って抜く。
「……水くらい止めてから行きなよ。もったいない」
チャイムが鳴ったが、この状態で授業を受けるわけにもいかなかった。
「……夏だからいいものの……」
今が真冬だったら最悪だと思いながら、累はホースとバケツを用具入れに直し、トイレを出た。
廊下に出ると、隣から息を呑む声が聞こえてくる。
見ると、妙に背の高い男の子がへっぴり腰になりながら立っていた。
大きなフレームの眼鏡はもっさりした前髪に浸食されており、素顔がわからなかった。
「……?」
累が首をかしげていると、絶句していた男子生徒は恐る恐ると言った様子でポケットからハンカチを取り出した。
「あの……よかったらこれ」
「ありがとう、使っていいの?」
「ちゃんと洗ってあるよ。その……どうしたの?」
ハンカチを受け取って顔を拭きながら、累は口を開いた。
「ちょっとドジしちゃっただけ」
「ドジって……山田さん、誰かに水かけられたんじゃないの?」
どうやらこの生徒が自分のことを知っているらしい。加えて、彼から敵意のようなものは感じられなかった。
「まあ、そんなところ」
「ひとまず、着替えたほうがいいね。保健室に行くなら、俺から生物の先生に伝えておくよ」
「ありがとう、助かる」
どうやらクラスまで一緒らしい。
「あ……私のことは、体調不良ってことにしておいてくれる?」
「わかった。田島さんにも伝えておこうか?」
気が利くなと思い、迷惑ついでに沙耶香への伝言も頼むことにした。
「じゃあ、俺の遅刻は山田さんを看病してたってことにしてもいい?」
「もちろん」
前髪もっさりの彼といきなり口裏を合わせることになったが、いい人っぽそうなので少しだけ安心した。
彼と別れて廊下を歩きながら、累はさてあの人は誰だっただろうと首をかしげる。
(思い出せない……)
同じクラスで少なくとも二か月も一緒に過ごしているはずなのに。
あまり他人に興味がないとはいえ、ひどいなと累は自分で自分にあきれた。
保険医の先生は、びしょぬれの累を見てみたことがない暗い目を見開いた。
すぐにバスタオルを持ってくると、使っていないベッドのカーテンを閉めながら累をそこに押し込む。
「着替えのジャージとドライヤー用意するから待っててね」
シャッとカーテンが閉まり、累はバスタオルで身体を拭きながら体に張り付く制服を脱いでいく。
濡れた制服を洗濯してくれるというので、ありがたく渡す。
「ハンカチも一緒に洗うわよ?」
「これは自分で洗うので大丈夫です」
「そう。ドライヤーここに置いておくから、髪の毛も乾かしてね」
先生が出ていってから、累はドライヤーで髪の毛を乾かす。濡れたハンカチを広げてみると、タグのところに名前が書いてあった。
「……花笠……はながさ……?」
そういえば、同じクラスにそんな苗字の男の子がいたはずだ。
「思い出した。花笠一香だ」
女の子みたいな名前だが、音の響きがきれいなので覚えていた。
「一香、花笠一香。覚えておこう、お礼をしないと」
累も自分は冴えないほうだと思うのだが、一香に関しては空気に近い存在だ。
彼が仲良くしているクラスメイトも思い出せない。基本的に個人プレーだった記憶がある。
そしてなぜか、上背があるにもかかわらず、ぼんやりとした印象しかない。
いつも一人で読書をしているか、机に突っ伏して寝ていたはずだ。勉強はできるようで、先生に差されてもよどみなく答えている印象だった。
それにしても、彼の存在感の薄さは特技ともいえるレベルのように思えた。
累の髪の毛が乾き、保健室から出ていこうとしたのを、先生が笑顔で止めた。
「事情を話すまでは、帰さないわよ~!」
ニコニコされてしまい、累は観念して事実を述べる。
「いじめってことでいいのかしら?」
「違います。嫉妬による単なる嫌がらせです」
きっぱり言うと、先生は「うーん」と唸った。
「最近って、そういうはすごくセンシティブな問題なのよ」
「知ってます。でも、いじめじゃないです」
累は何が何でも、いじめにはしたくなかった。
ここでいじめ問題になってしまったら、月日が心を痛めるのが目に見えてわかる。
水をかけてきた上級生は正直どうでもいいが、累との約束を守ろうと頑張ろうとしている月日が悲しむのは、あまり見たくなかった。
それに、累はこのことを本当の本当に気にしていなかった。
「なにかあれば必ず先生に相談します」
「……わかった。絶対約束だからね」
先生と指切りをし、チャイムが鳴るまでお茶を飲んでおしゃべりしながら過ごした。最後に内緒でお菓子をもらってから、累は保健室を出る。
教室に戻ると、累の荷物を持って帰ってきてくれていた沙耶香が心配してくれた。
「お腹はもう大丈夫?」
「うん、平気」
一香はうまくごまかしてくれたようだ。
二限目が始まると、累はさりげなく周りを見る。一香は二つ前の席に座って、影のように存在感を消していた。
(……すごい。あんなに身長大きかったら、普通は目立つのに)
一香は今にでも炭になってしまいそうな雰囲気で、息を殺しているようにも見えた。
しばらく観察した結果、一香は存在感を空気のようにするスペシャリストらしいと気付いた。
(今度、気配の正しい消しかたを彼に聞いてみよう)
今日のこともそうだが、月日と関わるようになってから、なにかと累も目立ってきてしまっている。
平穏な生活を望む月日の気持ちが、ほんのちょっとわかったような気がした。
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