上 下
55 / 59
第五章  戦場へ

第50話

しおりを挟む
 *


 ――莉美、もうあきらめたほうがいいよ。
(いいえ若様、まだ試していないことがあります)

 ――生命を生み出すなど、妖魔が宿っているに違いない!
(当主様、でしたらすでにこの右手は国を滅ぼしているでしょう)

 ――こんなに絵の才能があるのに……莉美……。
(母さん、今やっと私の絵が人を助けています)

 構えを促す味方の太鼓の音によって、ふと懐古の念の中から莉美は現実に戻った。はっとして慌てて桟に近寄って、下を見る。
 自身の描いた大量の兵たちがまだまだ城郭内から溢れて出てきている。それはまるで、鉄砲水が飛び出してくる勢いにも似ていた。

 そしてその前方、先ほどまで二列になって城郭前に横に長く展開していた皇太后軍の兵たちは、じわりじわりと後ろに下がることを余儀なくされていた。

 ひゅん、と風を切る音とともに、敵の大将の横にいた人物が地面に転がった。
 横を見ると、背丈の倍はあるような大弓を持った楊梅が敵を見据えている。
 矢筒からもう一本、黒塗りの矢を取り出し番えて放つ。右手にいた馬上の人物が転げた。

(目に、この目に焼き付けなくては……!)

 莉美の隣に立っているのは、ただの城主代理ではない。未来の皇帝だ。楊梅は三本目の矢を番えて、ゆったりと構えを取る。

「終わりだ。亜吾」

 キリキリと引き絞った弦の音が途切れ、風を切るように矢が放たれる。一番立派な馬に乗っていた、金色の甲冑を着た人物の左手が吹き飛んだ。

 次の瞬間、敵陣営に動揺が走る。

 負けを想定していなかったせいで、指令が行き届かず退却命令が出ない。しかし、彼らは次の瞬間、わっと声を上げた。

 左右にあった岩陰が急に溶けたかと思うと、凱泉率いる騎馬隊が両側から挟み撃ちしてきた。
 退却だと誰かが叫ぶと同時に、儀杖兵たちが散り散りになって敗走し始めた。
 前方と両側から挟まれてしまったせいで、皇太后軍は後ろに逃げていくしかない。凱泉たちが背面を封鎖しなかったのは、彼らを逃がすためだ。
 勢いのまま敵兵たちを凱泉は追いかけていく。だいぶ遠くまで追いやったかと思うと、凱泉は数名の騎馬兵を引き連れて左に走り抜けていった。

「凱泉はこのまま西に向かって、避難している市民たちを連れ戻す。誰か、西の門の見張りに行け」
「是!」

 近くにいた二人の兵士がそのまま城壁を駆けていく。

「さてと、次は……燕青」

 呼ばれた燕青は神経質そうな細眉をぴくっと持ち上げた。

「お前は漣芙まで先回りだ。幽閉されている知府ちふを助けて立て直せ」
「おいおいおいおい、人使いが荒いな! ほんとにやるつもりかよ。俺がこの二日間で、どれだけ漣芙とここを往復したと思ってんだよ!」

 今散っていった皇太后軍は、漣芙に戻って行くしかない。そうなれば、体勢を立て直して再度楽芙を攻めて来かねない。
 漣芙を奪還して反朝廷軍の城郭として再起するならば、皇太后軍が手薄かつ敗走中の今しかない。

「あちらはお前に任せるよ」
「俺はどう見たって戦闘に向かないっていうのに……」
「だから莉美の絵を漣芙に秘密裏に運んでおいたんじゃないか。それに、燕青はこの国で一番早く飛べる」

 あきらめたように燕青は息を吐いた。莉美に向き直ると、きっと睨みつけてくる。

「莉美、俺の着物を丁重に畳んでおけ。くそ、久々に一張羅を着たと思ったのに……!」

 意味がわからないでいると、燕青は紫紺の瞳を閉じる。風に長い裾がたなびいたと思った瞬間、それらが地面に落ちて燕青の姿が消えた。

「えっ!? 燕青様!?」

 突然居なくなってしまった燕青を探そうとした時、「ここだ」と楊梅が籠手のついた手を伸ばしてくる。
 そこには、手のひらよりも大きい燕が乗っていた。

「皺の無いように畳んでおけよ!」

 燕の口から燕青の声が聞こえてきて、莉美は口をぽかんと開けてしまった。

「燕青、任せた」

 楊梅が弾みをつけて腕を天に向けて伸ばすと、雨燕あまつばめは羽音もなくすっと飛び立つ。
 風を掴まえるなり、目にも止まらない速さで北に飛んで行った。

「だから、神出鬼没だったんだ……」
「昔、わたしがまだ弓の腕がそれほどまでではなかった時、打ち落としてしまって……以来、燕青は馬よりも矢よりも早くなった」

 燕青がいつか、楊梅の弓が上達したのは鳥を打ち落としたことに起因すると言っていたが、まさかその鳥が燕青本人のことだったとは。

「ひどい怪我をさせてしまったものだから、燕青はわたしに対してあんなだ。助かるけどな」

 莉美は燕青の着物をすべて回収する。

「それを皺ひとつなく畳んだら、手伝いを頼めるか?」
「もちろんです。楊梅様は、今からは……?」
「生き残っている皇太后軍の兵たちを救い出してくる。味方になりたいと志願する者がいれば、快く迎え入れよう」

 それは慈愛に満ちた勝者の余裕の笑みだ。

「ただし、調練は凱泉につけてもらう。本当の意味で血反吐を吐くのはこれからだ」

 莉美は楊梅が本気で言っているのがわかる。
 楊梅は国を獲りに行くのだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】

小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。 他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。 それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。 友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。 レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。 そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。 レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……

私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?

新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。 ※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!

余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~

流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。 しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。 けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

後宮の記録女官は真実を記す

悠井すみれ
キャラ文芸
【第7回キャラ文大賞参加作品です。お楽しみいただけましたら投票お願いいたします。】 中華後宮を舞台にしたライトな謎解きものです。全16話。 「──嫌、でございます」  男装の女官・碧燿《へきよう》は、皇帝・藍熾《らんし》の命令を即座に断った。  彼女は後宮の記録を司る彤史《とうし》。何ものにも屈さず真実を記すのが務めだというのに、藍熾はこともあろうに彼女に妃の夜伽の記録を偽れと命じたのだ。職務に忠実に真実を求め、かつ権力者を嫌う碧燿。どこまでも傲慢に強引に我が意を通そうとする藍熾。相性最悪のふたりは反発し合うが──

処理中です...