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第五章 戦場へ
第48話
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「ったく。自分は挟撃に出向くからって、俺を城郭に残すことないだろ凱泉の奴……おい、天天。ちょっと様子見て来いよ」
剣呑な顔つきで苛々を募らせていたのは、ほかでもない燕青だ。
濃紺の袍を着、革製の蔽膝(前膝を覆う垂れ)には芍薬の紋が刻まれている。佩飾は、楊梅の瞳と同じ色の金緑石の花飾りだ。彼の正式ないでたちである。
燕青に話しかけられた天天はというと、気に留める様子もなく欠伸をしてくつろいでいた。
ここは北側城壁の門の上に建てられている、三階建ての入母屋屋根の建物の中だ。
三間の間口があり、二階の柱廊に燕青は居た。階下では、少ない楽芙の衛兵たちが大慌てしている。
本来ならこの場所は見晴らしがいいはずなのだが、目の前には皇太后が寄越した二万の兵たちがずらりと並んで重々しい雰囲気を醸している。だがそれも、燕青に言わせれば鼻で笑うようなものだ。
「絹甲などで、戦をするつもりか。本当に儀杖たちを寄越すとは」
さすがに皇太后軍の私兵だけあり、彼らが纏う鎧の絹織りの装飾は見事だ。まさしく皇室の儀礼用の飾りの兵であり戦闘要員ではない。鄧将軍の配下に見慣れている燕青ならば、見ればすぐにそれくらいはわかる。
しかし、華美な装飾で皇太后軍であると誇示したように目前に並ばれれば、誰もがその圧倒的な威厳に恐縮するだろう。
戦わずして済むのなら、と思うに違いない。皇太后に対して背くような気力を削ぐという意味では、効果は抜群だ。
そのはったりは漣芙で通じても楽芙で通じるわけもない。何しろ楽芙は、鄧将軍と楊梅の要塞だ。
「お前の主はどうしたよ?」
天天はそれに応えない。その時走ってくる足音が聞こえた。燕青が横を見ると、大慌てでやってきた兵が揖礼をする。
「そろそろ、定刻にございます」
燕青は上機嫌に眉を上げた。
「だな。うちの総大将も、本腰上げて迎え撃つぞ」
言い終わらないうちに、天天がすくっと立ち上がり尻尾をゆったりと左右に振る。兵の後ろから、錦で織られた軍袍を着た楊梅が現れた。
深い緑色の筒袖の上衣を革帯と鉸具で留め、同色の褲に足元は歩きやすそうな鞾だ。
いつもと着ているものが違っているだけだが、しっかりした体躯と長身が目立つ楊梅の姿は見事だ。
普段人を褒めない燕青でさえも、ほうとため息をついたくらいなのだから、彼のことを小馬鹿にしていた者たちはぎょっとするに違いない。
燕青はニヤリと笑う。
「本気か、楊梅め……」
彼は、膊甲も胸甲も付けていない。あえて、鎧を纏わずに来たのだ。その真意は、戦などくだらないと言っているのも同然だった。
(これが、俺の仕える主……文句の言いようがない)
楊梅はのらりくらりとしているようで、実際には窮地を回避する力がある。どうやっても無理だと思われた莉美の力の制御まで、見事に間に合ってしまった。それはきっと、彼だからというのもあるのだろう。
(勝てる、この戦も……次の戦も。この男と一緒なら)
燕青は安心したように息を吐いた。
「そろそろ始まるってよ。得意の弓は準備できているのか?」
「ああ、問題ない」
楊梅の右手はすでに諸弽の籠手で覆われていた。左手には、十本の黒塗りの長矢が握られている。
それを見て燕青は参ったなと苦笑いになった。つまり楊梅は、十本の矢で、二万の軍勢と片をつけると言っているのだ。
相手はなめてかかってきているが、なめられているのが自分たちであると気付く頃にはもう遅い。
それが、楊梅という男の本当のすごさであるとわかっているのは、この世の中で数名しかいない。
「楊梅。俺は今、感動している。龍の背に乗るとは、こういうことだ」
皇帝の器が現れると、物事のすべてがその者を王にすべく動かされてしまうという。
――かつて、たった一人の善良な青年が黄龍に願い、国中の賢人たちを仲間にし、一国を新たに興してしまったように。
今がまさにそれだ、と燕青は腕組みして張りぼての皇太后軍を見下ろした。
「楊梅様、燕青様!」
城壁に登って駆け出してきた莉美は、建物の下から息を切らしながら二人の姿を見て礼をする。顔を上げると大量の紙の束を、柱廊にいる二人に持ち上げてみせた。
「描けました! 絶対に大丈夫です。これで、負けません!」
莉美の声に、楊梅が涼やかに口の端を持ち上げた。
「さあ、それではひと暴れするか」
その場にいた家臣たちが楊梅に向かって礼をする。もれなく、燕青も深く頭を下げた。
「ったく。自分は挟撃に出向くからって、俺を城郭に残すことないだろ凱泉の奴……おい、天天。ちょっと様子見て来いよ」
剣呑な顔つきで苛々を募らせていたのは、ほかでもない燕青だ。
濃紺の袍を着、革製の蔽膝(前膝を覆う垂れ)には芍薬の紋が刻まれている。佩飾は、楊梅の瞳と同じ色の金緑石の花飾りだ。彼の正式ないでたちである。
燕青に話しかけられた天天はというと、気に留める様子もなく欠伸をしてくつろいでいた。
ここは北側城壁の門の上に建てられている、三階建ての入母屋屋根の建物の中だ。
三間の間口があり、二階の柱廊に燕青は居た。階下では、少ない楽芙の衛兵たちが大慌てしている。
本来ならこの場所は見晴らしがいいはずなのだが、目の前には皇太后が寄越した二万の兵たちがずらりと並んで重々しい雰囲気を醸している。だがそれも、燕青に言わせれば鼻で笑うようなものだ。
「絹甲などで、戦をするつもりか。本当に儀杖たちを寄越すとは」
さすがに皇太后軍の私兵だけあり、彼らが纏う鎧の絹織りの装飾は見事だ。まさしく皇室の儀礼用の飾りの兵であり戦闘要員ではない。鄧将軍の配下に見慣れている燕青ならば、見ればすぐにそれくらいはわかる。
しかし、華美な装飾で皇太后軍であると誇示したように目前に並ばれれば、誰もがその圧倒的な威厳に恐縮するだろう。
戦わずして済むのなら、と思うに違いない。皇太后に対して背くような気力を削ぐという意味では、効果は抜群だ。
そのはったりは漣芙で通じても楽芙で通じるわけもない。何しろ楽芙は、鄧将軍と楊梅の要塞だ。
「お前の主はどうしたよ?」
天天はそれに応えない。その時走ってくる足音が聞こえた。燕青が横を見ると、大慌てでやってきた兵が揖礼をする。
「そろそろ、定刻にございます」
燕青は上機嫌に眉を上げた。
「だな。うちの総大将も、本腰上げて迎え撃つぞ」
言い終わらないうちに、天天がすくっと立ち上がり尻尾をゆったりと左右に振る。兵の後ろから、錦で織られた軍袍を着た楊梅が現れた。
深い緑色の筒袖の上衣を革帯と鉸具で留め、同色の褲に足元は歩きやすそうな鞾だ。
いつもと着ているものが違っているだけだが、しっかりした体躯と長身が目立つ楊梅の姿は見事だ。
普段人を褒めない燕青でさえも、ほうとため息をついたくらいなのだから、彼のことを小馬鹿にしていた者たちはぎょっとするに違いない。
燕青はニヤリと笑う。
「本気か、楊梅め……」
彼は、膊甲も胸甲も付けていない。あえて、鎧を纏わずに来たのだ。その真意は、戦などくだらないと言っているのも同然だった。
(これが、俺の仕える主……文句の言いようがない)
楊梅はのらりくらりとしているようで、実際には窮地を回避する力がある。どうやっても無理だと思われた莉美の力の制御まで、見事に間に合ってしまった。それはきっと、彼だからというのもあるのだろう。
(勝てる、この戦も……次の戦も。この男と一緒なら)
燕青は安心したように息を吐いた。
「そろそろ始まるってよ。得意の弓は準備できているのか?」
「ああ、問題ない」
楊梅の右手はすでに諸弽の籠手で覆われていた。左手には、十本の黒塗りの長矢が握られている。
それを見て燕青は参ったなと苦笑いになった。つまり楊梅は、十本の矢で、二万の軍勢と片をつけると言っているのだ。
相手はなめてかかってきているが、なめられているのが自分たちであると気付く頃にはもう遅い。
それが、楊梅という男の本当のすごさであるとわかっているのは、この世の中で数名しかいない。
「楊梅。俺は今、感動している。龍の背に乗るとは、こういうことだ」
皇帝の器が現れると、物事のすべてがその者を王にすべく動かされてしまうという。
――かつて、たった一人の善良な青年が黄龍に願い、国中の賢人たちを仲間にし、一国を新たに興してしまったように。
今がまさにそれだ、と燕青は腕組みして張りぼての皇太后軍を見下ろした。
「楊梅様、燕青様!」
城壁に登って駆け出してきた莉美は、建物の下から息を切らしながら二人の姿を見て礼をする。顔を上げると大量の紙の束を、柱廊にいる二人に持ち上げてみせた。
「描けました! 絶対に大丈夫です。これで、負けません!」
莉美の声に、楊梅が涼やかに口の端を持ち上げた。
「さあ、それではひと暴れするか」
その場にいた家臣たちが楊梅に向かって礼をする。もれなく、燕青も深く頭を下げた。
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