上 下
53 / 59
第五章  戦場へ

第48話

しおりを挟む
 *


「ったく。自分は挟撃に出向くからって、俺を城郭こっちに残すことないだろ凱泉の奴……おい、天天。ちょっと様子見て来いよ」

 剣呑な顔つきで苛々を募らせていたのは、ほかでもない燕青だ。

 濃紺の袍を着、革製の蔽膝へいしつ(前膝を覆う垂れ)には芍薬の紋が刻まれている。佩飾はいしょくは、楊梅の瞳と同じ色の金緑石の花飾りだ。彼の正式ないでたちである。
 燕青に話しかけられた天天はというと、気に留める様子もなく欠伸をしてくつろいでいた。

 ここは北側城壁の門の上に建てられている、三階建ての入母屋屋根の建物の中だ。
 三間の間口があり、二階の柱廊に燕青は居た。階下では、少ない楽芙の衛兵たちが大慌てしている。
 本来ならこの場所は見晴らしがいいはずなのだが、目の前には皇太后が寄越した二万の兵たちがずらりと並んで重々しい雰囲気を醸している。だがそれも、燕青に言わせれば鼻で笑うようなものだ。

絹甲けんこうなどで、戦をするつもりか。本当に儀杖ぎじょうたちを寄越すとは」

 さすがに皇太后軍の私兵だけあり、彼らが纏う鎧の絹織りの装飾は見事だ。まさしく皇室の儀礼用の飾りの兵であり戦闘要員ではない。鄧将軍の配下に見慣れている燕青ならば、見ればすぐにそれくらいはわかる。

 しかし、華美な装飾で皇太后軍であると誇示したように目前に並ばれれば、誰もがその圧倒的な威厳に恐縮するだろう。
 戦わずして済むのなら、と思うに違いない。皇太后に対して背くような気力を削ぐという意味では、効果は抜群だ。

 そのはったりは漣芙で通じても楽芙で通じるわけもない。何しろ楽芙ここは、鄧将軍と楊梅の要塞だ。

「お前の主はどうしたよ?」

 天天はそれに応えない。その時走ってくる足音が聞こえた。燕青が横を見ると、大慌てでやってきた兵が揖礼をする。

「そろそろ、定刻にございます」

 燕青は上機嫌に眉を上げた。

「だな。うちの総大将も、本腰上げて迎え撃つぞ」

 言い終わらないうちに、天天がすくっと立ち上がり尻尾をゆったりと左右に振る。兵の後ろから、錦で織られた軍袍を着た楊梅が現れた。
 深い緑色の筒袖の上衣を革帯と鉸具こうぐで留め、同色のはかまに足元は歩きやすそうなかわぐつだ。
 いつもと着ているものが違っているだけだが、しっかりした体躯と長身が目立つ楊梅の姿は見事だ。

 普段人を褒めない燕青でさえも、ほうとため息をついたくらいなのだから、彼のことを小馬鹿にしていた者たちはぎょっとするに違いない。
 燕青はニヤリと笑う。

「本気か、楊梅め……」

 彼は、膊甲はくこう胸甲きょうこうも付けていない。あえて、鎧を纏わずに来たのだ。その真意は、戦などくだらないと言っているのも同然だった。

(これが、俺の仕える主……文句の言いようがない)

 楊梅はのらりくらりとしているようで、実際には窮地を回避する力がある。どうやっても無理だと思われた莉美の力の制御まで、見事に間に合ってしまった。それはきっと、彼だからというのもあるのだろう。

(勝てる、この戦も……次の戦も。この男と一緒なら)

 燕青は安心したように息を吐いた。

「そろそろ始まるってよ。得意の弓は準備できているのか?」
「ああ、問題ない」

 楊梅の右手はすでに諸弽もろがけの籠手で覆われていた。左手には、十本の黒塗りの長矢が握られている。
 それを見て燕青は参ったなと苦笑いになった。つまり楊梅は、十本の矢で、二万の軍勢と片をつけると言っているのだ。

 相手はなめてかかってきているが、なめられているのが自分たちであると気付く頃にはもう遅い。
 それが、楊梅という男の本当のすごさであるとわかっているのは、この世の中で数名しかいない。

「楊梅。俺は今、感動している。龍の背に乗るとは、こういうことだ」

 皇帝の器が現れると、物事のすべてがその者を王にすべく動かされてしまうという。

 ――かつて、たった一人の善良な青年が黄龍に願い、国中の賢人たちを仲間にし、一国を新たに興してしまったように。

 今がまさにそれだ、と燕青は腕組みして張りぼての皇太后軍を見下ろした。

「楊梅様、燕青様!」

 城壁に登って駆け出してきた莉美は、建物の下から息を切らしながら二人の姿を見て礼をする。顔を上げると大量の紙の束を、柱廊にいる二人に持ち上げてみせた。

「描けました! 絶対に大丈夫です。これで、負けません!」

 莉美の声に、楊梅が涼やかに口の端を持ち上げた。

「さあ、それではひと暴れするか」

 その場にいた家臣たちが楊梅に向かって礼をする。もれなく、燕青も深く頭を下げた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】

小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。 他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。 それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。 友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。 レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。 そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。 レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……

私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?

新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。 ※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!

余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~

流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。 しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。 けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

後宮の記録女官は真実を記す

悠井すみれ
キャラ文芸
【第7回キャラ文大賞参加作品です。お楽しみいただけましたら投票お願いいたします。】 中華後宮を舞台にしたライトな謎解きものです。全16話。 「──嫌、でございます」  男装の女官・碧燿《へきよう》は、皇帝・藍熾《らんし》の命令を即座に断った。  彼女は後宮の記録を司る彤史《とうし》。何ものにも屈さず真実を記すのが務めだというのに、藍熾はこともあろうに彼女に妃の夜伽の記録を偽れと命じたのだ。職務に忠実に真実を求め、かつ権力者を嫌う碧燿。どこまでも傲慢に強引に我が意を通そうとする藍熾。相性最悪のふたりは反発し合うが──

処理中です...