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第四章 戦いの始まり
第43話
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いつものように仏頂面を崩さない凱泉は、夜、なんとも言えない顔をしている主の前につかつかと進み出た。
「宣戦布告がなされるのは二日後とのことです。それから内通者は捕らえて、地下牢に放り込んであります。刎ねときますか?」
「皇太后軍に返してやれ。そちらでも刎ねられると思うがな」
「御意。ところで楊梅様、あまり考え込むと判断が鈍ります」
息をしていなければ人形と間違えるほどに眉目秀麗な凱泉の主楊梅は、凱泉が差し出した茶に手を伸ばした。
今、楊梅の腕には手甲は装着されていない。おかげで、袖口から見えた手首には、金色の鱗が生えているのが見えた。
楊梅は波乱を呼ぶであろう、自らに現れた龍の印を隠し続けている。それなのに結局こうして争いが巻き起こってしまった。この騒動は後々おそらく各州に伝達されるに違いない。戦乱の世がやってくる気配がひしひしと濃くなっている。
「住民たちの避難は無事に済みそうか?」
「それはご心配に及びません。市民は皆、鄧将軍が留守だからと、戦う気も起きないようです」
「わたしがぼんくらで良かったと思えることの、二つ目だ」
楊梅は自身が愚息であることを全面的に広めている節がある。それは鄧将軍とも話し合った結果だ。
そうすることで自分の身を隠し、さらに見向きもされないようにしていた。
こういう不測の事態においても、ぼんくらの楊梅に城郭が守れるわけがないと、初めから皆諦めて非難に従った。
鄧将軍だったら民たちの士気が上がり、全面的に争いになっていただろう。多くの血が流れたかもしれないが、楊梅だからこそ逃げることを選択できるのだ。楊梅は自分の今までの行動に意味があったことを実感していた。
「ちなみに、避難指示に従わない小娘が一人いまして……燕青が手こずっています」
どうにかしろ、と凱泉は楊梅に言っているのだ。楊梅は苦笑いをかみ殺すしかない。
「莉美は血が出たらまずいのだから、布にでも包んで縛り付けて運び出せばよい。わたしの私物だから、くれぐれも丁重にな」
「わたしにそれをしろと?」
「損な役回りだな、凱泉」
凱泉があからさまに嫌な顔をすると、楊梅はため息を落とした。
「しかし、どうして結局こうなってしまうのやら」
「後ろ向きな考えはよしてください。いまわたしの機嫌がものすごく悪いため、投げ飛ばしかねません」
「それは勘弁だ。凱泉は容赦がない」
凱泉が肩をすくませたかと思うと、まばたきする間に楊梅は持ち上げられ、くるんと投げ飛ばされていた。
飛ばした先が、ふかふかの座墊の上だったのは凱泉なりの容赦というやつで、咄嗟に受け身を取れたのは楊梅の訓練のたまものだ。
「こっ……こら、いきなり投げ飛ばすやつがあるか!」
「しけた顔見せられると、どうも癖で」
「癖のせいにするな! ……まあいい、落ち着いた」
立ち上がって定位置に戻ると、楊梅はいつも通り背筋を伸ばす。凱泉も姿勢を正した。考えながらいろいろ最悪のことを考えてしまった楊梅は、ぎゅっと目をつぶってから顔を片手で覆った。
「悪い……凱泉、ちょっと投げ飛ばしてくれ」
優しめにしろと言い終わらないうちに、楊梅の視界はくるりと回っていたのだった。
「……凱泉、お前というやつは……少しは容赦しろ!」
「わたしが容赦するのは訓練兵のみです」
文句を飛ばしたところで、外の様子が騒がしくなった。バタバタと誰かが向かってくる音と、天天が喉を鳴らすのが聞こえてくる。
「だから無理かどうか、やってみないとわからないって言ってるんです!」
「いいや、莉美のような小心者に、そんな大技できるものか!」
「できる出来ないは、やってみたらわかるのであって、燕青様が決めることじゃありません!」
大声で喧嘩しあっている声が聞こえてくる。
「凱泉、戸を開けてやれ」
「…………是」
嫌そうな顔をした凱泉が戸を開けると、取っ組み合いを始めそうな勢いの莉美と燕青がそこにいた。むしろ、お互いに胸倉を掴んでおり、不穏な雰囲気が否めない。
「早く中に入りなさい」
凱泉が言うと、莉美も燕青もお互いから手を放し、胸元を整えて中に入った。
「失礼します」
「……どうした、二人して?」
燕青はむっつり黙ったまま、じろりと莉美を横目で睨む。
「楊梅様に確認したいことがあってきたんです」
「そんなことしている暇はないんだよ。お前はとっとと避難しろこの阿保娘め!」
燕青の声と同時に、莉美は立ち上がるとまたもやお互いの胸ぐらをつかみ始める。
「やめなさい、二人とも」
凱泉が間に割って入って、やっと二人は落ち着く。
「莉美、どうした?」
「避難する前に、絵を描かせてほしいんです」
莉美は持ってきていた絵の道具を懐から取り出すと、床にどんと座り込んで準備を始めてしまった。
「気持ちはわかるが、そなたも民衆と一緒に非難すべきだ。ここは危ないし――」
「血が一滴も流れないようにすればいいんですよね? 民も、私も」
莉美は墨を摺り始める。
「私が、そのお手伝いをします」
彼女を摘まみだそうと動いた燕青を、楊梅は止めた。
いつものように仏頂面を崩さない凱泉は、夜、なんとも言えない顔をしている主の前につかつかと進み出た。
「宣戦布告がなされるのは二日後とのことです。それから内通者は捕らえて、地下牢に放り込んであります。刎ねときますか?」
「皇太后軍に返してやれ。そちらでも刎ねられると思うがな」
「御意。ところで楊梅様、あまり考え込むと判断が鈍ります」
息をしていなければ人形と間違えるほどに眉目秀麗な凱泉の主楊梅は、凱泉が差し出した茶に手を伸ばした。
今、楊梅の腕には手甲は装着されていない。おかげで、袖口から見えた手首には、金色の鱗が生えているのが見えた。
楊梅は波乱を呼ぶであろう、自らに現れた龍の印を隠し続けている。それなのに結局こうして争いが巻き起こってしまった。この騒動は後々おそらく各州に伝達されるに違いない。戦乱の世がやってくる気配がひしひしと濃くなっている。
「住民たちの避難は無事に済みそうか?」
「それはご心配に及びません。市民は皆、鄧将軍が留守だからと、戦う気も起きないようです」
「わたしがぼんくらで良かったと思えることの、二つ目だ」
楊梅は自身が愚息であることを全面的に広めている節がある。それは鄧将軍とも話し合った結果だ。
そうすることで自分の身を隠し、さらに見向きもされないようにしていた。
こういう不測の事態においても、ぼんくらの楊梅に城郭が守れるわけがないと、初めから皆諦めて非難に従った。
鄧将軍だったら民たちの士気が上がり、全面的に争いになっていただろう。多くの血が流れたかもしれないが、楊梅だからこそ逃げることを選択できるのだ。楊梅は自分の今までの行動に意味があったことを実感していた。
「ちなみに、避難指示に従わない小娘が一人いまして……燕青が手こずっています」
どうにかしろ、と凱泉は楊梅に言っているのだ。楊梅は苦笑いをかみ殺すしかない。
「莉美は血が出たらまずいのだから、布にでも包んで縛り付けて運び出せばよい。わたしの私物だから、くれぐれも丁重にな」
「わたしにそれをしろと?」
「損な役回りだな、凱泉」
凱泉があからさまに嫌な顔をすると、楊梅はため息を落とした。
「しかし、どうして結局こうなってしまうのやら」
「後ろ向きな考えはよしてください。いまわたしの機嫌がものすごく悪いため、投げ飛ばしかねません」
「それは勘弁だ。凱泉は容赦がない」
凱泉が肩をすくませたかと思うと、まばたきする間に楊梅は持ち上げられ、くるんと投げ飛ばされていた。
飛ばした先が、ふかふかの座墊の上だったのは凱泉なりの容赦というやつで、咄嗟に受け身を取れたのは楊梅の訓練のたまものだ。
「こっ……こら、いきなり投げ飛ばすやつがあるか!」
「しけた顔見せられると、どうも癖で」
「癖のせいにするな! ……まあいい、落ち着いた」
立ち上がって定位置に戻ると、楊梅はいつも通り背筋を伸ばす。凱泉も姿勢を正した。考えながらいろいろ最悪のことを考えてしまった楊梅は、ぎゅっと目をつぶってから顔を片手で覆った。
「悪い……凱泉、ちょっと投げ飛ばしてくれ」
優しめにしろと言い終わらないうちに、楊梅の視界はくるりと回っていたのだった。
「……凱泉、お前というやつは……少しは容赦しろ!」
「わたしが容赦するのは訓練兵のみです」
文句を飛ばしたところで、外の様子が騒がしくなった。バタバタと誰かが向かってくる音と、天天が喉を鳴らすのが聞こえてくる。
「だから無理かどうか、やってみないとわからないって言ってるんです!」
「いいや、莉美のような小心者に、そんな大技できるものか!」
「できる出来ないは、やってみたらわかるのであって、燕青様が決めることじゃありません!」
大声で喧嘩しあっている声が聞こえてくる。
「凱泉、戸を開けてやれ」
「…………是」
嫌そうな顔をした凱泉が戸を開けると、取っ組み合いを始めそうな勢いの莉美と燕青がそこにいた。むしろ、お互いに胸倉を掴んでおり、不穏な雰囲気が否めない。
「早く中に入りなさい」
凱泉が言うと、莉美も燕青もお互いから手を放し、胸元を整えて中に入った。
「失礼します」
「……どうした、二人して?」
燕青はむっつり黙ったまま、じろりと莉美を横目で睨む。
「楊梅様に確認したいことがあってきたんです」
「そんなことしている暇はないんだよ。お前はとっとと避難しろこの阿保娘め!」
燕青の声と同時に、莉美は立ち上がるとまたもやお互いの胸ぐらをつかみ始める。
「やめなさい、二人とも」
凱泉が間に割って入って、やっと二人は落ち着く。
「莉美、どうした?」
「避難する前に、絵を描かせてほしいんです」
莉美は持ってきていた絵の道具を懐から取り出すと、床にどんと座り込んで準備を始めてしまった。
「気持ちはわかるが、そなたも民衆と一緒に非難すべきだ。ここは危ないし――」
「血が一滴も流れないようにすればいいんですよね? 民も、私も」
莉美は墨を摺り始める。
「私が、そのお手伝いをします」
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