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第四章 戦いの始まり
第39話
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しかし、凱泉が訊ねてきたのは、その日の夕餉の後だ。
彼の手には、長方形の木片が握られていた。
「どうされました、凱泉様?」
「野暮用です。入っても?」
もちろんと、小屋の中に招き入れて、座るように勧める。まだまだ寒暖差が激しく、辺りは暗さと同時に寒さが増してくる。茶を煮出そうとしながら、凱泉が来た意味を推し量っていた。
すると突然、彼は懐から小刀を取り出した。
「えっ、凱泉様!?」
まさか楊梅に玉座に就くようよけいなことを言ったのが気に障り、殺しに来たのか。ついに刺されると腰を抜かしそうになったところで、凱泉は首を傾げた。
「莉美殿に、判子を作るように言われたのです」
「判子?」
凱泉は長方形の木片と、小刀を交互に見つめてから、急に作業に入り始めた。
「殺しに来たんじゃ……」
「なぜ、そう飛躍なさる」
莉美はひとまずほっとして、茶を淹れた。
「簡易の落款印を作れということです」
本来なら私の仕事ではないのですが、と前置きしながら凱泉は木片を手ごろな形に整えていく。
「莉美殿が描いたものすべてに、楊梅様が所有印を押すわけにもいきません。落款印があなたの力を抑えるのに有効なのだとしたら、作ったらどうか進言しました」
「それで、凱泉様がお作りに?」
「本来ならきちんとした技巧士に頼むべきですが、時間もないですから。私は手先がそれなりに器用です」
字はどうしましょう、と訊かれて莉美は考えた。そもそも、落款を押すこと自体、頭が回っていなかったのでどうすればいいのかわからない。
「雅号はおありで?」
「ありません」
「そのうちに決めておくと良いでしょう。もしくは、楊梅様から賜ってもいい。ひとまず、莉美殿の名前の一文字を刻みましょう」
凱泉は『莉』の文字を彫り始める。莉美は茶を出して、その様子を隣でじっと見ていた。
「楊梅様は衛兵を連れて遠征に出かけました。といっても、近場で野戦の模擬演習をするだけですが……」
そうやって衛兵たちを連れ出し、鍛え上げる真似事をしている。というのが表向きで、実際には鍛えているということだ。
それほど厳しい訓練はしないが、慣れておくのとそうでないのとでは、いざ実戦になった時に雲泥の差となる。国境に近いため、いざというときに動けないようでは困る。
「その間、この落款印を使って、いろいろ試しておけということですね」
「そういうことでしょう」
楊梅は怒っているわけではなさそうだ。こんな時にまで、莉美のことを心配してくれている。そしてそれは、凱泉もしかりだ。
二刻(約一時間)も経たないうちに、凱泉はあっという間に判子を彫りすすめ、そして持ち手のところまできれいに整えてくれた。
「文字が白抜きされるものです。簡易で申し訳ないですが、使ってください」
「ありがとうございます!」
莉美は笑顔で受け取ってから、ふと自分の不甲斐なさに気付いて空しくなってきた。
「莉美殿? 気に入らなかったですか?」
「違います。凱泉さまも燕青様も、みんなすごいなって」
凱泉は茶を飲むと、ふむ、と頷いた。
「私は、ちっとも何もできていない気がします」
「わたしが怪力を完全に抑えられるようになるまで、数年かかっています」
莉美は知らず知らずのうちにうつむいていた顔をもたげた。見上げると、凱泉は仏頂面ではあったが、まなざしにはあたたかみが感じられた。
「ですから、こんなに短期間で色々できるようになったあなたはすごいのです。自信を持ってください」
「ありがとうございます」
す、と凱泉の手が伸びてきて莉美の頭をよしよしと撫でた。ぽかんとすると、凱泉は目を瞬かせた。
「つい、妹にするのと同じことをしてしまいました。失礼しました」
「あ、いえ……嫌じゃないです。でも初めて母以外にされたので、驚いてしまって」
「そうですか。褒められると人は伸びます。つけあがる人も稀に居ますが」
遠回しに楊梅のことを言っているのだろう。ふふ、と莉美が笑うと、凱泉の目元が緩んだ。
「あ、凱泉様。この落款印の持ち手の先に、紐をつけてもらえませんか? 失くしたら嫌なので、腰ひもに括りつけておきたいのです」
「では、明日までにそのようにしておきましょう。道具がここでは足りません」
凱泉は立ち上がり、小屋を後にする。入り口まで見送ると、再度莉美の頭の上にぽんと手を載せた。妹を莉美に重ねているのかもしれない。
「明日、楽しみにしております」
「お任せください。早く寝るように」
兄がいたら、こんな感じなのかもしれない。莉美はこそばゆい気持ちになりながら、その日はなんだかぐっすり眠れた。
彼の手には、長方形の木片が握られていた。
「どうされました、凱泉様?」
「野暮用です。入っても?」
もちろんと、小屋の中に招き入れて、座るように勧める。まだまだ寒暖差が激しく、辺りは暗さと同時に寒さが増してくる。茶を煮出そうとしながら、凱泉が来た意味を推し量っていた。
すると突然、彼は懐から小刀を取り出した。
「えっ、凱泉様!?」
まさか楊梅に玉座に就くようよけいなことを言ったのが気に障り、殺しに来たのか。ついに刺されると腰を抜かしそうになったところで、凱泉は首を傾げた。
「莉美殿に、判子を作るように言われたのです」
「判子?」
凱泉は長方形の木片と、小刀を交互に見つめてから、急に作業に入り始めた。
「殺しに来たんじゃ……」
「なぜ、そう飛躍なさる」
莉美はひとまずほっとして、茶を淹れた。
「簡易の落款印を作れということです」
本来なら私の仕事ではないのですが、と前置きしながら凱泉は木片を手ごろな形に整えていく。
「莉美殿が描いたものすべてに、楊梅様が所有印を押すわけにもいきません。落款印があなたの力を抑えるのに有効なのだとしたら、作ったらどうか進言しました」
「それで、凱泉様がお作りに?」
「本来ならきちんとした技巧士に頼むべきですが、時間もないですから。私は手先がそれなりに器用です」
字はどうしましょう、と訊かれて莉美は考えた。そもそも、落款を押すこと自体、頭が回っていなかったのでどうすればいいのかわからない。
「雅号はおありで?」
「ありません」
「そのうちに決めておくと良いでしょう。もしくは、楊梅様から賜ってもいい。ひとまず、莉美殿の名前の一文字を刻みましょう」
凱泉は『莉』の文字を彫り始める。莉美は茶を出して、その様子を隣でじっと見ていた。
「楊梅様は衛兵を連れて遠征に出かけました。といっても、近場で野戦の模擬演習をするだけですが……」
そうやって衛兵たちを連れ出し、鍛え上げる真似事をしている。というのが表向きで、実際には鍛えているということだ。
それほど厳しい訓練はしないが、慣れておくのとそうでないのとでは、いざ実戦になった時に雲泥の差となる。国境に近いため、いざというときに動けないようでは困る。
「その間、この落款印を使って、いろいろ試しておけということですね」
「そういうことでしょう」
楊梅は怒っているわけではなさそうだ。こんな時にまで、莉美のことを心配してくれている。そしてそれは、凱泉もしかりだ。
二刻(約一時間)も経たないうちに、凱泉はあっという間に判子を彫りすすめ、そして持ち手のところまできれいに整えてくれた。
「文字が白抜きされるものです。簡易で申し訳ないですが、使ってください」
「ありがとうございます!」
莉美は笑顔で受け取ってから、ふと自分の不甲斐なさに気付いて空しくなってきた。
「莉美殿? 気に入らなかったですか?」
「違います。凱泉さまも燕青様も、みんなすごいなって」
凱泉は茶を飲むと、ふむ、と頷いた。
「私は、ちっとも何もできていない気がします」
「わたしが怪力を完全に抑えられるようになるまで、数年かかっています」
莉美は知らず知らずのうちにうつむいていた顔をもたげた。見上げると、凱泉は仏頂面ではあったが、まなざしにはあたたかみが感じられた。
「ですから、こんなに短期間で色々できるようになったあなたはすごいのです。自信を持ってください」
「ありがとうございます」
す、と凱泉の手が伸びてきて莉美の頭をよしよしと撫でた。ぽかんとすると、凱泉は目を瞬かせた。
「つい、妹にするのと同じことをしてしまいました。失礼しました」
「あ、いえ……嫌じゃないです。でも初めて母以外にされたので、驚いてしまって」
「そうですか。褒められると人は伸びます。つけあがる人も稀に居ますが」
遠回しに楊梅のことを言っているのだろう。ふふ、と莉美が笑うと、凱泉の目元が緩んだ。
「あ、凱泉様。この落款印の持ち手の先に、紐をつけてもらえませんか? 失くしたら嫌なので、腰ひもに括りつけておきたいのです」
「では、明日までにそのようにしておきましょう。道具がここでは足りません」
凱泉は立ち上がり、小屋を後にする。入り口まで見送ると、再度莉美の頭の上にぽんと手を載せた。妹を莉美に重ねているのかもしれない。
「明日、楽しみにしております」
「お任せください。早く寝るように」
兄がいたら、こんな感じなのかもしれない。莉美はこそばゆい気持ちになりながら、その日はなんだかぐっすり眠れた。
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