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序章
序章ー弐
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黄龍国の首都華充より南、未州の楽芙という都市に莉美は行商に来ていた。彼女は絵師の名家である範家に母親とともに幼い時に引き取られた十五歳の少女だ。
『範家』は数百年前に栄華を極めた絵師一族であり、最盛期よりも需要は減ったとはいえ国内で人気を誇っている。
特に最近では、本物と見まごうばかりの『美女画』で人気が最熱している。ひとたび貴族たちの間で噂が広まれば、あちこちから注文が入る。需要に対する供給が追い付かず、絵の値段はどんどん吊り上がっていく。
一時期危ぶまれていた範家の家系は、この美女画のもたらした恩恵によって一気に立て直した。
範家当主作として売り出されたこの絵たちは、実のところ、一昨年亡くなった莉美の母が描いていたものだ。範家が莉美の母の腕を利用し、莫大な資金を得たということは、門外不出となっている。
そんなたぐいまれな才能を持つ母の血を、受け継いでいるとは到底思えないのが一人娘の莉美だった。
「――っ、なんでそうなってしまうの!」
とある貴族の邸宅内で、少女の声が響いた。小屋にもみえるみすぼらしい建物の中で、莉美は大きな声を出していた。
「こら、逃げるな!」
慌てたようにバタバタと走り回る足音が聞こえ、そして直後、なにかを叩きつけるような音……。
「やっと捕まえた!」
莉美は捉えたそれに向かって、不敵な笑みを投げかける。手に持っていた捕虫網でたった今捕らえたのは、見たこともない小さな生き物だ。
網の端を浮かせて手をそっと中に入れる。バタバタ暴れまわっていたそれをがっちり握ると引っ張り出した。
「もう逃げられないんだからね、観念しなさい」
手に持った黒い塊を睨みつけ、動かないようにじろりと視線で釘をさす。莉美の手の中には――小さな鬼が握られていた。
――鬼。
そう表現するのが正しいとしか思えない生き物を、莉美は握りしめていた。
頭の上からは少し角度のある角を生やし、大きな口は耳元まで裂けている。逃げようとして小さな手足を小刻みに動かしているが、莉美の手が胴体をガッチリ拘束しているのでやすやすとは逃げられない。
耳障りなキーキーという鳴き声を牙の隙間から発したあと、鬼は莉美の手にがぶりと噛みついた。
「痛いっ!」
驚いて手を開くと、鬼を地面に落としてしまう。黒色鬼は、これ幸いとケタケタ笑いながら駆け出していった。
莉美は手を振り上げて、虫を殺める勢いで鬼を床に叩き潰した。鬼は断末魔さえなく呆気なく黒い靄と液体となって飛び散る。
しゅうしゅうと黒い煙が手のひらの間から立ち上っている。ふわっと、墨のにおいがあたりに漂い、彼女の手だけではなく顔や服まで墨が付着していた。墨こそが、直前まで鬼を形作っていたものだ。
「……だから逃げるなって言ったのに」
真っ黒になった手のひらをじっとり見つめてから、さらに袖口で顔を拭く。継ぎ接ぎだらけの着物を見ると、胸元にたっぷり墨が付着していた。
がっくしと肩を落として立ち上がり、側に置いてあった襤褸布で床と手を拭いた。顔は蔵を出たら水で洗うつもりだが、付着した墨で真っ黒に違いないことは容易に想像できた。
『範家』は数百年前に栄華を極めた絵師一族であり、最盛期よりも需要は減ったとはいえ国内で人気を誇っている。
特に最近では、本物と見まごうばかりの『美女画』で人気が最熱している。ひとたび貴族たちの間で噂が広まれば、あちこちから注文が入る。需要に対する供給が追い付かず、絵の値段はどんどん吊り上がっていく。
一時期危ぶまれていた範家の家系は、この美女画のもたらした恩恵によって一気に立て直した。
範家当主作として売り出されたこの絵たちは、実のところ、一昨年亡くなった莉美の母が描いていたものだ。範家が莉美の母の腕を利用し、莫大な資金を得たということは、門外不出となっている。
そんなたぐいまれな才能を持つ母の血を、受け継いでいるとは到底思えないのが一人娘の莉美だった。
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「こら、逃げるな!」
慌てたようにバタバタと走り回る足音が聞こえ、そして直後、なにかを叩きつけるような音……。
「やっと捕まえた!」
莉美は捉えたそれに向かって、不敵な笑みを投げかける。手に持っていた捕虫網でたった今捕らえたのは、見たこともない小さな生き物だ。
網の端を浮かせて手をそっと中に入れる。バタバタ暴れまわっていたそれをがっちり握ると引っ張り出した。
「もう逃げられないんだからね、観念しなさい」
手に持った黒い塊を睨みつけ、動かないようにじろりと視線で釘をさす。莉美の手の中には――小さな鬼が握られていた。
――鬼。
そう表現するのが正しいとしか思えない生き物を、莉美は握りしめていた。
頭の上からは少し角度のある角を生やし、大きな口は耳元まで裂けている。逃げようとして小さな手足を小刻みに動かしているが、莉美の手が胴体をガッチリ拘束しているのでやすやすとは逃げられない。
耳障りなキーキーという鳴き声を牙の隙間から発したあと、鬼は莉美の手にがぶりと噛みついた。
「痛いっ!」
驚いて手を開くと、鬼を地面に落としてしまう。黒色鬼は、これ幸いとケタケタ笑いながら駆け出していった。
莉美は手を振り上げて、虫を殺める勢いで鬼を床に叩き潰した。鬼は断末魔さえなく呆気なく黒い靄と液体となって飛び散る。
しゅうしゅうと黒い煙が手のひらの間から立ち上っている。ふわっと、墨のにおいがあたりに漂い、彼女の手だけではなく顔や服まで墨が付着していた。墨こそが、直前まで鬼を形作っていたものだ。
「……だから逃げるなって言ったのに」
真っ黒になった手のひらをじっとり見つめてから、さらに袖口で顔を拭く。継ぎ接ぎだらけの着物を見ると、胸元にたっぷり墨が付着していた。
がっくしと肩を落として立ち上がり、側に置いてあった襤褸布で床と手を拭いた。顔は蔵を出たら水で洗うつもりだが、付着した墨で真っ黒に違いないことは容易に想像できた。
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