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9、天使様の涙

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 聖天使教会に祀られている天使様が、堕天した。

 ――つまり悪魔になってしまったというのは、誰にも知られていない。

 信仰の対象が消え去り、まさか別の生き物になっていようとは誰が思うだろうか。

 ココは復讐の最後の仕上げとして天使を堕とした。国のすべての悪循環の根源を断ち切るために。

 ココが本当の本当に恨んでいたのはマッソンやポーラやステイシーやニールではなかった。

 骨董遺物を作り、国民を騙し続けていたもの――天使様を憎んでいた。

 すべてをひっくり返すと決めた時から、ココはずっと計画を考えていた。

 最後のシュードルフになったことに気付いた時、ココは先祖が成し遂げられずにいたものを実行する役だと悟った。

 すべてが終わったランフォート城で、ココとノアは久しぶりに湖畔が見える庭《ガーデン》を歩いていた。

 花々が咲き、小鳥や小動物たちがちらほら見える。おぞましい生き物が主塔《キープ》に居るなど、想像もできないほど和やかだ。

「あの天使さえいなければ、この国は始めから安泰だったのよ。人の手によって、きちんとした国が運営されていたはずなの」

「そうかもしれないけれど……この先、どうすればいいんだろう?」

「どうもしないわよ。今までと同じに、普通に生活をするだけ」

 ノアは瞬きを繰り返している。天使様を堕天させてから数日経つが、いまだに彼は混乱しているようだ。

 それもそのはずで、生まれてきてからずっと信じていた環境と国そのものが、実は王家と天使によってつくられたまがい物だったのだから仕方ない。

 ノアは真実を受け入れているが、まだまだその衝撃は尾を引いている。

「みんなの祈りはどこへ行くんだ?」

「ちゃんと還元されるわ。もう、よこしまな輩に吸い取られることはないから」

 天使が得ていた『信仰心』の皮をかぶった人の『生命力』が、教会に置いてある骨董遺物や、まだ回収しきれていない骨董品に吸収されるのは同じだ。

 今までと決定的に違うのは、生命力を吸い取られたとしても、天使の生命維持に使われることがない点だ。

 消費されないのだから、持ち主に戻っていく。

 というわけで、祈るたびに減っていた国民の寿命は、無事彼らに還元されることになる。

「これぞ主権国家、本物の資本主義っていうやつよ」

 得意げにしているココを見て、ノアは肩から力を抜いた。

「天使様を信仰しているように思わせ、実際には悪魔を殺す手段にするなんて……ココは素晴らしいよ」

 骨董遺物は今までと変わらず、使いかたを誤れば人間の欲望や悪い部分も吸収する。

 そしてそれは、堕天使をさらに闇に染める力に代わるものとして消費される。

 いいことも悪いことも、本当は表裏一体なのだ。ココは、くるりとひっくり返しただけだ。

「先祖代々計画されていたの。私は、天使様を墜とした史上最も悪い女の中に入ると思うわ。素晴らしくなんてないの」

「ココはなにも悪いことなんてしていないよ」

 ノアの言に、ココは首を横に振った。

「そうとは言い切れない。何人も国民を殺したもの」

 たとえココが手を下したわけではなかったとしても、骨董遺物たちを用いて扇動したのは彼女だ。

「暴力は、時として庇護するべき善人の救いになる。特に、被害者にとっては」

 ノアの言葉に、ココは肩の力を抜いた。

「いずれ角が頭蓋骨を突き破るように、ココはわざと王侯貴族たちを疑心暗鬼にさせたんでしょう?」

 堕天使の頭上の角は、人の醜い部分や欲望で成長する。人を憎む気持ちが増えるほど、それらは堕天使の脳天へ向かっていく。

「ノアが傍観することを望んだからそうしたのよ。じゃなきゃ、全員地獄に叩き堕としていたわ」

「それだけじゃない気がするけど、そういうのならそう思っておくよ」

 ノアに探るように覗き込まれ、ココは瞳を閉じてふふっと笑う。それは十六歳らしい、みずみずしくて柔らかな笑顔だった。

「買いかぶりすぎね、ノアは」

「貴族《ばか》どもが苦しむ一方で、国民は税が軽くなったことを喜んでいる。真実を知ったら、民たちにとって君は天使様よりも尊い存在だろうね」

「悪い人たちは全員消し去っちゃったもの。でも、どんなにすべてが順調だったとしても、すべての物事はいい面と悪い面の両方を持っているわ」

「だから、どちらに転んだとしても、国民にはいい恩恵にしかならないようにしたんでしょう?」

 人を恨めば堕天使が苦しみ、人に感謝すればそれが巡って自分に返ってくる。

 ファインデンノルブ王国は、今や誰も気づかないところで根底からひっくり返っている。

「そうして君は、この国を変えるだけじゃなくて救ってしまったんだね」

「……さあ、それはどうかしらね」

 この判断が良かったか悪かったかを決めるのは国民で、もっと時代が下ってから評価されるだろう。

 その時の表舞台には、きっと自分たちはいない。

「わかっていることは、私たちが地獄に行くことだけよ」

 遠くの景色を見つめながら思案するココの足元に、ノアはひざまずいた。

「死んだ先でもココと一緒にいられるのなら、わたしはなんて幸せ者なんだろう」

 ココの指先に触れると、ノアは嬉しそうにそこに唇を押し付けた。

「ねえ、ノア。前々から思っていたけど、ちょっとこじらせているわよね?」

 なにが、とノアは首をかしげる。

 その銀灰色の瞳には敬愛以上のものが灯っていた。ココは手を伸ばすと、ノアの頬を両手で包み込んで彼の美しい瞳を覗き込む。

「骨になるまでこの国を見届けるわ。ノア、あなたも一緒に」

「もちろん。ココの仰せのままに」

 それから千年先まで、王国はいくつもの危機を乗り越えながら隆盛と衰退を繰り返して続いていく。

 そして千年後。

 彫金技術によってつくられた骨董品たちが、一斉に国中から消え去った。

 その時は地響きとともに、ランフォート城の主塔が陥落したという。そうして、王国に新たな時代がやってくることになるが、それはまた別の話だ――。



 おわり
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