上 下
62 / 74
第十二章 物憂いあん肝カルパッチョ

第60話

しおりを挟む
 たまには、フレンチでもいかがでしょうか。絃は編集長の誘い文句に驚いた。

「……フレンチですか?」
「ええ、フレンチでしゃれこみましょう」

 日本酒熱燗、つまみは色気無し。それが絃の晩酌風景であって、それを一番に理解していると思われる人物がそう言うものだから、確実に美味しいという裏付けがあるに決まっていた。

 そうでなければ、彼の口からフレンチなどという言葉が出てくるなんて、狐につままれたとしか思えない。

 フレンチを言い始めた張本人である編集長は、ニコニコといつもの優し気な笑みをちらつかせて、絃を誘ってくる。

「おしゃれなお店なんですよ」
「はあ……。まあ、編集長がそういうのなら」

 美味しくないわけがない。

 むしろ、絶対に美味しい。

 絃は眼鏡の奥の目元を確認してから、それほど時間をかけずに承諾していた。

 おしゃれなお店だということなので、約束の日には仕事終わりに一度帰宅をして、きれいな服に着替えた。

 待ち合わせ場所に到着すると、セミフォーマルに近い服装の編集長が待ち合わせ場所に立っている。ちょうど釣り合いの取れるような服装を選択できた自分に、内心安堵した。

「絃さん、お呼びたてしてしまって申し訳ないです。しかも、苦手な洋食に」
「編集長のお誘いですから、美味しいかと思いまして」
「信用されてなによりです」

 さりげなく腕を差し出されて、一瞬戸惑った。

 だが編集長の腕にそっと手を添えてみることにした。案外、好きだ好きだと思っていても、近づいて触れてみるとやっぱり気のせいだったということもある。

 確かめるように身体を少々寄せたが、嫌な感じはしなかった。

 ドキドキしている絃とは逆に、編集長はいつもの調子で話し始めている。ここちよいうんちくを聞きながら、誘われるままついていった。

 編集長の独白は面白いのだが、全部にうなずいているとらちが明かない。

 それに、あんまり熱心に聞き入ってしまったら、悪い魔法にでもかかってしまいそうな気がする。

 心までまるっと持っていかれてしまうように思えて、いつも慎重に聞くようにしていた。

 目的のお店まではそれほど遠くなく、外観を視界に入れた瞬間感嘆する。

 オシャレなお店だと言っていたが、本当に素敵な外観と雰囲気で感心してしまった。不味いわけがないと確信できる。

 フレンチに気分は上がりきっていなかったのだが、ワクワクしてきていた。

「編集長、今日はどうしてここに……?」
「中で話しますね」

 寒いのでと言われたため、ひとまず店内に足を踏み入れる。

 予約していた梶浦ですと編集長が伝えると、リザーブ席に案内される。シンプルモダンの落ち着いた雰囲気が心地よい。

 混雑していないのは、時刻が少し早いからかもしれない。

「アラカルトなんですよ、こちらのディナー。コースも選べましたけど、絃さんは選べるほうがお好きかと思って」

 さすがだと絃はうなずく。

 編集長と二人でアラカルトを見つめながら、まるで示し合わせたかのようにメニューが決まった。

 味の好みが一緒というのは、こういう時にどちらかが遠慮しなくていい。それは素晴らしいことだ。

「シャンパンで軽めがいいですかね?」
「そうします」

 オリーヴオイルを使う料理の時には、絃は軽いものをあっさりと飲む。

 編集長が見立てたスパークリングを飲むと、爽やかな口当たりが予想以上に美味しくて目がさえてくる。

「……たまにはいいでしょう、甘いお酒も」

 訊ねられて、素直に「はい」と答えていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

恋煩いの幸せレシピ ~社長と秘密の恋始めます~

神原オホカミ【書籍発売中】
恋愛
会社に内緒でダブルワークをしている芽生は、アルバイト先の居酒屋で自身が勤める会社の社長に遭遇。 一般社員の顔なんて覚えていないはずと思っていたのが間違いで、気が付けば、クビの代わりに週末に家政婦の仕事をすることに!? 美味しいご飯と家族と仕事と夢。 能天気色気無し女子が、横暴な俺様社長と繰り広げる、お料理恋愛ラブコメ。 ※注意※ 2020年執筆作品 ◆表紙画像は簡単表紙メーカー様で作成しています。 ◆無断転写や内容の模倣はご遠慮ください。 ◆大変申し訳ありませんが不定期更新です。また、予告なく非公開にすることがあります。 ◆文章をAI学習に使うことは絶対にしないでください。 ◆カクヨムさん/エブリスタさん/なろうさんでも掲載してます。

うららかな恋日和とありまして~結婚から始まる年の差恋愛~

神原オホカミ【書籍発売中】
恋愛
結婚したのは14歳年上の、名前も知らない人でした――。 コールセンターで働く万葉(かずは)は、苗字が原因でクレームになってしまうことが多い。やり手の後輩に、成績で抜かれてしまうことにも悩む日々。 息抜きに週二回通う居酒屋で、飲み友達の十四歳年上男性、通称〈 師匠 〉に愚痴っているうちに、ノリで結婚してしまう。しかしこの師匠、なかなかに天然ジゴロな食えないイケオジ。 手出しはして来ないのに、そこはかとなく女心をくすぐられるうちに、万葉はどんどん気になってしまい――。 食えないしたたかな年上男子と、仕事一筋の恋愛下手な年下女子の、結婚から始まる恋愛ストーリーです。 ◆表紙画像は簡単表紙メーカー様で作成しています。 ◆無断転写や内容の模倣はご遠慮ください。 ◆大変申し訳ありませんが不定期更新です。また、予告なく非公開にすることがあります。 ◆文章をAI学習に使うことは絶対にしないでください。 ◆アルファポリスさん/エブリスタさん/カクヨムさん/なろうさんで掲載してます。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…

ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。 しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。 気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…

ヤリたい男ヤラない女〜デキちゃった編

タニマリ
恋愛
野獣のような男と付き合い始めてから早5年。そんな彼からプロポーズをされ同棲生活を始めた。 私の仕事が忙しくて結婚式と入籍は保留になっていたのだが…… 予定にはなかった大問題が起こってしまった。 本作品はシリーズの第二弾の作品ですが、この作品だけでもお読み頂けます。 15分あれば読めると思います。 この作品の続編あります♪ 『ヤリたい男ヤラない女〜デキちゃった編』

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

友情結婚してみたら溺愛されてる件

鳴宮鶉子
恋愛
幼馴染で元カレの彼と友情結婚したら、溺愛されてる?

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

処理中です...