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縁-えにし-1

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 その日の夜……いつもは夜に出さないバイオリンを里亜に出してきてもらい、手に取り様子を見た。
長い雨の時期に引き続き、雪が降り続く日々で、バイオリンには過酷な環境だったなあと改めて思う。
バイオリン工房の製作家が来ているというのは朗報だ。
しっかりとメンテナンスをしてもらいたい……
この世界には気軽によれる楽器屋もないのだ、この機会をとてもうれしい。

新人くんが残してくれたというこのバイオリンは、僕にしっくりと馴染んでいる。
元々憧れていたのか、もしかして……僕のことを思い出してなのか、自分でも奏でることがあったというのは意外だったけど。
制作にはかなりのエネルギーを割いていたようで、その執念が花開いた結果、この名器を残せるほどの文化を国に根付かせた。

世界からはなにもない僻地とみなされ、しかも、阿羅彦となった新人君の数々の暴挙により評判は芳しくない阿羅国だけど。
このバイオリンはもしかして、阿羅国を助けるかもしれないと思った。
やはり音楽には力があるからね。

「薫様、急ぎのお知らせです」
「え、何?」

僕は仙の静かな声にビクっとして振り向いた。

「先程、跳光家から使者が参られて、お里帰り中の波成様が急に苦しみだされたとかで……」
「え……波成様が?……うそ……」

昼間会ったばかりの、子供のような姿でありながら毅然とした美しい姿を思い出す。
さっきまであんなにお元気だったのに……

「どうして」
「わかりませんが、僑先生他数名の医師が往診に出ておられます、執務室にて蘭紗様がお待ちです」
「わかった」

僕は部屋着だったけれど、その上にガウン代わりに羽織を羽織らせてもらって部屋を出た。
いつも歩く廊下がやけに長く感じる。

なるべく急いで到着した蘭紗様の執務室には、喜紗さんや涼鱗さん、そしてカジャルさん、その他文官が控えていた。

「ああ、薫」
「どうなんです?」
「まだ何もわからぬよ」
「そうですよね……」

僕は俯いて力なく椅子に座った。

「波成様は今、阿羅国の側室ですからね。万が一のことがありでもしたら……」
「それは……そうだが今は、やめてくれ」

蘭紗様は僕を気にしながら喜紗さんを制した。

「まだ、何もわからないんだよ。そもそもあの方は霊獣として獣化せず生きていらっしゃるんだ。不完全な存在なんだろうねえ。体が丈夫ではないということなのでは?」

執務室にある宰相のデスクに座って、涼鱗さんも難しい顔で心配気だ。
その後に守護神のようにカジャルさんが立っているが、その言葉で俯いてしまった。

「ああ、確かに、丈夫な方ではないとは聞いたことがあるが……」
「今、報せが参りました」

隅に控えていたらしい黒ずくめの男がすっと立って、蘭紗様に近寄る。
僕は一瞬身構えた、そこに人がいると気づかなかったのだ。

「申し上げます、波成様は現在意識不明であると……」
「そうか……」
「ハッ」
「では、波呂に伝えよ、我と薫と翠が今から家に向かうと」
「ハッ」

黒ずくめの男はしばらく立ち尽くしていたが、やがて「伝えました。お待ちしておりますとのことです」と言い、また隅に戻った。

もしかしてこれ、跳光の人かな……
血族だけが通じ合う念話があると聞いたことがある。

「では、翠紗は……寝ているだろうが……かわいそうだが連れて行こう、よくわからぬが、連れて行く方が良いような気がするのだ」
「……はい、翠を起こしてきます」

僕は翠の部屋に急いだ。
次の間にいた翠付きの侍女が驚いた顔をしたけれど、僕の様子に身を引き締め何も言わなかった。

「準備をしてほしい、出かけるから。簡単でいいから寒くないようにしてあげて、僕も着替えてくるね」
「かしこまりました」

侍女は頭を下げ、さっと着物を取り出している。
僕はベッドに近寄り、翠の背をトントンして抱き上げ頬にキスをした。

「起きて翠、あのね、ちょっとお出かけなの。蘭紗様と僕も一緒だから大丈夫だよ」
「うん……」

寝ぼけ眼でむにゃむにゃしながらあくびをした翠を侍女に託し、僕も部屋に戻る。
いくらなんでもこの格好では外出は出来ない……

バタバタと戻った僕が着替えをと言うと、何も言わずにすっと用意された着物を着せてくれた。
仙は、真剣な顔で僕を見つめた。

「いってらっしゃいませ」
「うん、行ってくるよ」

部屋に迎えに来てくれた蘭紗様は腕の中に寝ている翠を抱っこしていた。
翠はもこもこの綿入りを着せられている。
僕も仙に薄綿の入った体をすっぽりと包むコートを着せられて、空の門に行く。
雪は降っていないが、月もない。
暗い夜だ。

「翠は……」
「大丈夫だ、我がこのまま飛ぶよ」

蘭紗様は焦る僕の手をそっと握ってくれた。
空の門には衛兵と、喜紗さん、そして涼鱗さんカジャルさんが立っていて、何も言わず頷いてくれた。
僕と蘭紗様それぞれの近衛隊長が2人とも僕たちに頭を下げ、先に飛び立った。
次に僕と蘭紗様が飛び立つと、周りに10人の近衛が一緒に飛んだ。

2重に張られた防護壁のおかげで寒さはないはずなのに、ぶるりと体が震えた。
夜目が効く方ではないので真っ暗な中を飛ぶのは恐怖を伴う。
蘭紗様を見ると、ボウっと薄く光る翠を腕にしっかりと大事そうに抱いている。
光っているのは霊獣だからと聞いたけど、本当にこういう時、安心するあかりだね。

間もなく森を抜け、町の明かりが見え始めた頃に、一際大きな屋敷が見えてきた。
どこからどこまで続いているの?と思うほどの大きさだ。
その屋敷はどの部屋も明かりがついていて、屋敷の中を人が右往左往するのがちらちらと見えた。

「あそこだ」

蘭紗様は静かに優しく伝えてくれた。
僕は軽く頷いて、蘭紗様と同時に地に降りた。
翠を確認すると、飛んでいたのに気づいてないようにぐっすりと寝ている。

僕の手をしっかりと握って蘭紗様は歩き出し、家の前に控えていた門番が道案内をしてくれた。

足元には飛び石があり、左右に生け垣があった、よく見ると椿の花が咲いている。
門から玄関までが遠く、早く屋敷に入りたいと焦ってしまう。

やがて見えてきた玄関には、跳光家の家長・波呂さんが頭を下げて待っていた。

「波呂、こんな時だ、そういうのはいいから、早く寝所へ」
「ハッ……ありがたく存じます」

波呂さんは憔悴仕切った顔で僕たちを案内してくれて、何も言わずに大きな障子を開けた。
大きな畳の部屋には布団が敷かれ、そこに小さな波成様が眠っているのが見えた。
枕元には僑先生がいた。


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