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運命に祝福を
嵐 ②
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「なんだか急に天気が悪くなってきたな……」
母の言葉に顔を上げると、確かに先程まで青空が覗いていた空に突然雲が増え始め急に日差しが翳った。
「おかしいです、今日はお天気が悪くなる予定はなかったはずです」
「だよなぁ、せっかくの祭り日和だと思っていたのに、これは一雨くるかもな」
母も私の隣で空を見上げて、困ったもんだと肩を竦める。
「ヒナはチビちゃん達を集めてきます。雨に降られたら大変なのです」
「あぁ、そうだな。今日は雨なんて降ると思ってないから雨具の準備もしていない。なんなら一度家に帰ってチビ達にカッパでも持ってきてやってくれ」
母は店舗を離れられない、私は頷き弟妹達をかき集めると全員いるか確認して母のお店の前で待っているように言いつける。
「ヒナはおうちにカッパを取りに行ってきます。もしかしたら雨が降るかもしれないので、皆濡れないようにちゃんと屋根のある所にいてくださいですよ」
弟妹達はそれぞれに頷き、皆で仲良く邪魔にならないように端に寄る。そんな弟妹達を母に預けて家路を急ぐと、ぽつりぽつりと雨が降り始めて、今日は変な天気なのですね……と空を見上げた。
急な天候の変化に戸惑ったのは自分達だけではない、慌てたように洗濯物を取り込む者、自分と同じように家路を急ぐ者、ばらばらと人々が駆けて行く。
数は少ないのだが今晩は花火も上げると言っていたのに、この様子だともしかしたら中止かも……などと思っていたら、突然遠方で凄まじい爆音が響いた。
「え……?」
それは自分の後方、自分が後にしてきたお祭り会場からで、振り向くとそこからはもくもくと煙が立ち上っていた。
少し遅れてあちこちから悲鳴が上がり一気に辺りが騒がしくなる。段々と雨足が強くなり、私はそれを呆然と見やったまま雨の中を立ち尽くしていた。
「なに……?」
町人が次々と逃げて来る、その波に逆らうように広場へと向かおうとするのだが、混乱した人々が皆こちらへと駆けてくるので、容易に戻る事が出来ない。
「なに? 何があったですか!? 広場で一体何がっ……」
「爆発だよ、怪我人が何人も出てる、雨のお陰でそこまで広がってはいないが火の手も上がっていて危険だ、近付かない方がいい!」
一気に血の気が引いた。だってあそこには、母がいた、その傍には弟妹達も、父も姉も皆あそこにいるはずなのだ。
「行かなきゃ……」
1人で逃げる事なんてできない、だってあそこには家族がいる。
「嬢ちゃん、行っちゃ駄目だ!」
「離してくださいです! ヒナは行かないとっ!!」
「女子供じゃ邪魔になるだけだっ!」
「でも……!」
またしても背後で火柱が上がった。何かに火が延焼したのだろう、赤い炎が立ち上る。私は引き止めるその人の腕を振り払い駆け出した。降り注ぐ雨が頬を伝う。
「パパ! ママ! みんな何処ですかっ!!」
泣いている子供がいる、屋台の下敷きになって呻いている人も、そしてそんな人達を助けようと駆け回る人達も。
「ヒナっ!」
声にびくりと振り返った。声の主は大きな身体の私の父親。
「パパ……」
怪我人を抱えて、パパは肩で息をしていた。その服には焼け焦げが残り、所々破れているのも確認できる。
「ヒナっ、グノーは!? それに他の子達は!?」
「わっ、分かりま、せんです……ヒナは、カッパを取りに……家に戻ろうと……っく……」
無事な姿の父を確認して、思わずぽろぽろと涙が零れた。
「そうでしたか……向こうにはまだ怪我人が大勢います、私もすぐに戻らなければなりません。ヒナは安全な場所で待機を!」
担いだその人を雨宿りのできそうな道端に下ろし、父は踵を返す。
「ヒナもっ!」
「駄目です! まだ炎が鎮火していない、それよりも怪我人の治療を、まだたくさんの人がここへ運ばれてくるはずです」
「でも、パパ!」
「ヒナ、ママ達はパパが必ずここに連れてくる、だからここで待っているんだ」
「いいね」と、何度も念を押すようにして、父はくるりと背を向ける。大きな背中がすぐに煙の向こうへと消えて行った。涙の止まらない自分は、それでも父の連れて来たその人を助けなければと涙を拭った。
酷い怪我だ、けれどその人は意識ははっきりしているようで「悪いな嬢ちゃん」と、痛みに顔を顰めながらもその場に座りなおした。
「一体何があったのですか?」
「何……? アレは何だったんだろう――俺にもよく分からない。向こうから男が一人歩いてきたんだ、あれは……あんたの父親にも似た体格のいい男だった。そいつが手を振り上げたら、よく分からないんだが、突然花火が暴発した。火の気なんて一切ない場所だったんだ、それが一体どうしてなのか、俺にも皆目見当が付かない。俺は幸い花火の近くにはいなかったからこの程度で済んだが、傍にいた奴等は……」
男は痛むのであろう自身の腕を掴んで俯いた。その腕からは真っ赤な血が流れている。
「止血を」
「あぁ……悪い」
その犯人は手を振り上げただけだと男は言う。だとしたら、その爆発の原因がその男とは限らない気がするのだが、怪我をした男は「その男のした事で間違いない」と、そう言った。
「そいつは笑っていたんだ、炎を見て笑っていやがった。爆発はまるであいつを避けるように火の手を上げて、その中であの男は笑っていた。アレは人じゃない、得体の知れない化け物だ」
「化け物……?」
「あぁ、人の皮を被った化け物だ、きっとそうに違いない」
その瞬間を思い出したのだろう、男は身体を震わせる。
「あれ? ヒナ?」
そんな時に呑気な声が私の名前を呼んだ。私はその声に聞き覚えがある。私がそちらを向くと、傍らにいた男は小さな悲鳴を上げた。
「ユリ君……?」
それは今、この場にいるはずのない人、私の兄ユリウスだ。
「さっき向こうで姉さんに会ったよ、父さんと母さんは?」
「ママはまだ分からないです、パパはさっき向こうへ……」
兄が来た方向とは反対方向を指差すと「そっか、せっかくだし2人にも会っていこうかな」と兄はにこりと笑みを見せた。
それは場違いな呑気な笑みだ。まるで今起こっている事がまるで見えていないかのようなそんな兄の態度に、何故か背筋に寒気が走った。
「アレは嬢ちゃんの何なんだ!」
「え……?」
「あいつだよ! あいつがこの事件の犯人だっ! この化け物っっ!! 近寄るなっ!」
「化け物って酷い言われよう。僕は化け物じゃない……」
兄がにっこり笑みを零し「しいて言うなら、神さま……かな?」と、その手を振り上げると、突然突風が巻き起こり、燻ぶっていた炎が火柱を上げた。傍らにいた男は悲鳴を上げて、腕を庇うようにして逃げ出した。
「あはは、おかしいの。大丈夫だよ、ちゃんと操れてる」
兄が今度は指をくるりくるりと回すと、円を描くように炎も躍る。それはあたかも兄がその炎を操っているかのように、その炎は自在に動くのだ。
「ユリ……君?」
「ん? なに?」
「それは、ユリ君がやっている事なのですか?」
「あはは、そうだよ、凄いだろ?」
邪気のない笑みで彼は笑う。その笑みはいつもと変わらない兄そのもの、なのに目の前のその男が兄だとは信じられない。
「だったら今すぐ全ての火を消してくださいです! たくさん怪我をしている方がいるですよ!」
「んん? ちゃんと雨も降らせてる、これ以上火は広がらないよ」
「雨……」
雨足はどんどん強くなり周りの炎は勢いを落としていくのだが、兄の周りの炎だけがまるで命を持ってでもいるかのように彼に纏わり付く。けれどその炎は兄を害する事は決してない。それだけでも夢を見ているような光景なのに、更に不思議なのは兄の周りだけ降っているはずの雨が弾かれているようで、兄は全く濡れていない。
「ユリ君はこんな力持っていなかったです! 貴方本当にユリ君ですか!?」
「この力は預かり物だよ、僕のモノじゃない。だけど、凄いだろ? 僕は選ばれたんだ」
「選ばれた……ですか? 誰にです?」
兄はまたにっこり笑みを零して「だから神さまに、だよ?」と、そう言った。
「僕は神さまに選ばれてこの力を授かった。だから今は僕も神さまみたいなものなんだ」
「神さま……」
確かにそれは人に在らざる力だとしか思えない。けれど、神は人を助ける者で、傷つける者ではないはずだ、だとしたら今目の前にいるのは神ではないし、兄でもない。
辺り一面にふわりと甘い薫りが広がった。それは自身から零れるオメガの薫り。それは他者を魅了して、一時的だが人を操る事もできる私だけの特別な力。
「ヒナ、それは無闇に使っちゃ駄目だろ? それに、今の僕にそれは効かない、だって僕には番相手がいるからね」
「そんなモノは関係ないと、ユリ君も知っているはずです」
「うん、まぁそうなんだけど、僕の『運命』は特別だから。だって、僕の運命の相手、神さまだよ?」
まただ、兄は何度も「神さま」という言葉を繰り返す。
「神さまは人を傷付けたりはしないものです!」
「あれ? そうか? 何でだろう……? でも、僕はやらなきゃ駄目なんだ」
「ユリ君は一体何をやろうと言うのです……?」
「それはね……」
「ユリウス、用事は済んだ。撤退だ、行くぞ」
兄にかかった声、そこに居たのは奇妙な仮面を被った男。
「まだ父さんにも母さんにも会ってないのに」
「やかましい、行くぞ」
「分かったよ、アギト。じゃあね、ヒナ」
やはりいつもと変わらない笑みを浮かべて兄は仮面の男の後に続く。そんな兄の後を追う気力も湧かずに、私は雨の中へたりと座り込んだ。
「ユリ君……なんで?」
頬を水滴が流れ落ちていく、それが雨の雫なのか自分の涙なのか、ヒナノにはその時もう判別も出来なくなっていた。
兄が去ってしばらくすると、雨は嘘のように止んで青空が広がった。けれど眼前に広がる惨状はまるで戦火の町並みで、私は身動きもできずへたり込んだまま動く事も出来ない。
「ヒナっ!」
次にやって来たのは姉のルイ。
「大丈夫? 怪我はない?」
無言で首を縦に振ると、姉は安堵したような息を吐いたのだが、茫然自失の私の様子に何か異変を感じたのだろう、もう一度「大丈夫?」と、顔を覗き込まれた。
「ユリ君が……」
「!? ヒナもユリを見たの!?」
「ユリ君がおかしくなってしまったです! いいえ、アレは本当にユリ君だったですか? ヒナには信じられないです!」
困惑顔の姉、先程兄は姉に会ったと言っていた、姉もどこかであの兄と会ったのだろう、険しい顔で黙り込んだ。
そうこうする内に、今度は母が駆けてきて、私達は2人纏めて思い切り抱き締められた。
「ヒナ、ルイ、無事で良かった……」
「ママ、皆は?」
「向こうにいる、全員無事だ」
母の言葉に一度は安堵の息を漏らしたが、それと同時にまた次から次へと涙が溢れ出して止まらなくなった。
「恐かったな、ヒナ。もう大丈夫だから……」
「違うです、ユリ君が……ユリ君が……」
「ユリ? あいつがどうかしたか?」
「さっき、ユリがここに現れたのよ、あの子、様子がおかしかった……」
「そんな馬鹿な話ないだろう? だってあいつは今ランティスに……」
「でも、確かにユリ君だったです! そして、この事件の犯人も!」
「…………え?」
「これは自分がやったと言っていましたです。よく分からない力を使って、自分は神さまから力を授かったからって、ユリ君は一体どうしてしまったですか!? ヒナは……ヒナはあんなユリ君知りません!」
困惑顔の母は事態が飲み込めないのだろう、姉の顔を見上げた。
「私もあんなユリは初めて見たわ。傍目には普通に見えるのよ、だけど言っている事が支離滅裂で、それに最近は父さんそっくりの話し方をしていたのに、まるで子供返りでもしたみたいな話し方をしていたわ」
「それは本当にユリだったのか?」
「間違いないと思う」
姉の言葉に母の顔は一気に青褪めた。
「なんで、そんな……」
「それが分かれば苦労はしないわ。だけどそれよりも今は人命救助が優先よ。母さんはヒナ達を連れて先に帰ってて、私は父さんを手伝ってくる」
「それなら俺も……」
「こんな事になってみんな怯えてる、母さんが一緒にいないと駄目よ」
姉の一言に母はまたはっとしたような表情を見せて頷き、私の手を引いて歩き出した。けれどその表情はどこか虚ろで何故だか心許ない。
「ママ……?」
またしてもはっとしたように母はこちらを見やり、無理矢理作ったような笑みを見せた。その笑顔は痛々しく見ていられなくて、私は思わず瞳を逸らした。
母はとても心の弱い人なのだ、それを、身を持って知っている私は母の手をぎゅっと握り返す。
「大丈夫、きっと大丈夫なのです……」
まるで自分に言い聞かせるように呟いた。そんな事をしていないとまた自分も泣いてしまいそうだったのだ。
母の言葉に顔を上げると、確かに先程まで青空が覗いていた空に突然雲が増え始め急に日差しが翳った。
「おかしいです、今日はお天気が悪くなる予定はなかったはずです」
「だよなぁ、せっかくの祭り日和だと思っていたのに、これは一雨くるかもな」
母も私の隣で空を見上げて、困ったもんだと肩を竦める。
「ヒナはチビちゃん達を集めてきます。雨に降られたら大変なのです」
「あぁ、そうだな。今日は雨なんて降ると思ってないから雨具の準備もしていない。なんなら一度家に帰ってチビ達にカッパでも持ってきてやってくれ」
母は店舗を離れられない、私は頷き弟妹達をかき集めると全員いるか確認して母のお店の前で待っているように言いつける。
「ヒナはおうちにカッパを取りに行ってきます。もしかしたら雨が降るかもしれないので、皆濡れないようにちゃんと屋根のある所にいてくださいですよ」
弟妹達はそれぞれに頷き、皆で仲良く邪魔にならないように端に寄る。そんな弟妹達を母に預けて家路を急ぐと、ぽつりぽつりと雨が降り始めて、今日は変な天気なのですね……と空を見上げた。
急な天候の変化に戸惑ったのは自分達だけではない、慌てたように洗濯物を取り込む者、自分と同じように家路を急ぐ者、ばらばらと人々が駆けて行く。
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「え……?」
それは自分の後方、自分が後にしてきたお祭り会場からで、振り向くとそこからはもくもくと煙が立ち上っていた。
少し遅れてあちこちから悲鳴が上がり一気に辺りが騒がしくなる。段々と雨足が強くなり、私はそれを呆然と見やったまま雨の中を立ち尽くしていた。
「なに……?」
町人が次々と逃げて来る、その波に逆らうように広場へと向かおうとするのだが、混乱した人々が皆こちらへと駆けてくるので、容易に戻る事が出来ない。
「なに? 何があったですか!? 広場で一体何がっ……」
「爆発だよ、怪我人が何人も出てる、雨のお陰でそこまで広がってはいないが火の手も上がっていて危険だ、近付かない方がいい!」
一気に血の気が引いた。だってあそこには、母がいた、その傍には弟妹達も、父も姉も皆あそこにいるはずなのだ。
「行かなきゃ……」
1人で逃げる事なんてできない、だってあそこには家族がいる。
「嬢ちゃん、行っちゃ駄目だ!」
「離してくださいです! ヒナは行かないとっ!!」
「女子供じゃ邪魔になるだけだっ!」
「でも……!」
またしても背後で火柱が上がった。何かに火が延焼したのだろう、赤い炎が立ち上る。私は引き止めるその人の腕を振り払い駆け出した。降り注ぐ雨が頬を伝う。
「パパ! ママ! みんな何処ですかっ!!」
泣いている子供がいる、屋台の下敷きになって呻いている人も、そしてそんな人達を助けようと駆け回る人達も。
「ヒナっ!」
声にびくりと振り返った。声の主は大きな身体の私の父親。
「パパ……」
怪我人を抱えて、パパは肩で息をしていた。その服には焼け焦げが残り、所々破れているのも確認できる。
「ヒナっ、グノーは!? それに他の子達は!?」
「わっ、分かりま、せんです……ヒナは、カッパを取りに……家に戻ろうと……っく……」
無事な姿の父を確認して、思わずぽろぽろと涙が零れた。
「そうでしたか……向こうにはまだ怪我人が大勢います、私もすぐに戻らなければなりません。ヒナは安全な場所で待機を!」
担いだその人を雨宿りのできそうな道端に下ろし、父は踵を返す。
「ヒナもっ!」
「駄目です! まだ炎が鎮火していない、それよりも怪我人の治療を、まだたくさんの人がここへ運ばれてくるはずです」
「でも、パパ!」
「ヒナ、ママ達はパパが必ずここに連れてくる、だからここで待っているんだ」
「いいね」と、何度も念を押すようにして、父はくるりと背を向ける。大きな背中がすぐに煙の向こうへと消えて行った。涙の止まらない自分は、それでも父の連れて来たその人を助けなければと涙を拭った。
酷い怪我だ、けれどその人は意識ははっきりしているようで「悪いな嬢ちゃん」と、痛みに顔を顰めながらもその場に座りなおした。
「一体何があったのですか?」
「何……? アレは何だったんだろう――俺にもよく分からない。向こうから男が一人歩いてきたんだ、あれは……あんたの父親にも似た体格のいい男だった。そいつが手を振り上げたら、よく分からないんだが、突然花火が暴発した。火の気なんて一切ない場所だったんだ、それが一体どうしてなのか、俺にも皆目見当が付かない。俺は幸い花火の近くにはいなかったからこの程度で済んだが、傍にいた奴等は……」
男は痛むのであろう自身の腕を掴んで俯いた。その腕からは真っ赤な血が流れている。
「止血を」
「あぁ……悪い」
その犯人は手を振り上げただけだと男は言う。だとしたら、その爆発の原因がその男とは限らない気がするのだが、怪我をした男は「その男のした事で間違いない」と、そう言った。
「そいつは笑っていたんだ、炎を見て笑っていやがった。爆発はまるであいつを避けるように火の手を上げて、その中であの男は笑っていた。アレは人じゃない、得体の知れない化け物だ」
「化け物……?」
「あぁ、人の皮を被った化け物だ、きっとそうに違いない」
その瞬間を思い出したのだろう、男は身体を震わせる。
「あれ? ヒナ?」
そんな時に呑気な声が私の名前を呼んだ。私はその声に聞き覚えがある。私がそちらを向くと、傍らにいた男は小さな悲鳴を上げた。
「ユリ君……?」
それは今、この場にいるはずのない人、私の兄ユリウスだ。
「さっき向こうで姉さんに会ったよ、父さんと母さんは?」
「ママはまだ分からないです、パパはさっき向こうへ……」
兄が来た方向とは反対方向を指差すと「そっか、せっかくだし2人にも会っていこうかな」と兄はにこりと笑みを見せた。
それは場違いな呑気な笑みだ。まるで今起こっている事がまるで見えていないかのようなそんな兄の態度に、何故か背筋に寒気が走った。
「アレは嬢ちゃんの何なんだ!」
「え……?」
「あいつだよ! あいつがこの事件の犯人だっ! この化け物っっ!! 近寄るなっ!」
「化け物って酷い言われよう。僕は化け物じゃない……」
兄がにっこり笑みを零し「しいて言うなら、神さま……かな?」と、その手を振り上げると、突然突風が巻き起こり、燻ぶっていた炎が火柱を上げた。傍らにいた男は悲鳴を上げて、腕を庇うようにして逃げ出した。
「あはは、おかしいの。大丈夫だよ、ちゃんと操れてる」
兄が今度は指をくるりくるりと回すと、円を描くように炎も躍る。それはあたかも兄がその炎を操っているかのように、その炎は自在に動くのだ。
「ユリ……君?」
「ん? なに?」
「それは、ユリ君がやっている事なのですか?」
「あはは、そうだよ、凄いだろ?」
邪気のない笑みで彼は笑う。その笑みはいつもと変わらない兄そのもの、なのに目の前のその男が兄だとは信じられない。
「だったら今すぐ全ての火を消してくださいです! たくさん怪我をしている方がいるですよ!」
「んん? ちゃんと雨も降らせてる、これ以上火は広がらないよ」
「雨……」
雨足はどんどん強くなり周りの炎は勢いを落としていくのだが、兄の周りの炎だけがまるで命を持ってでもいるかのように彼に纏わり付く。けれどその炎は兄を害する事は決してない。それだけでも夢を見ているような光景なのに、更に不思議なのは兄の周りだけ降っているはずの雨が弾かれているようで、兄は全く濡れていない。
「ユリ君はこんな力持っていなかったです! 貴方本当にユリ君ですか!?」
「この力は預かり物だよ、僕のモノじゃない。だけど、凄いだろ? 僕は選ばれたんだ」
「選ばれた……ですか? 誰にです?」
兄はまたにっこり笑みを零して「だから神さまに、だよ?」と、そう言った。
「僕は神さまに選ばれてこの力を授かった。だから今は僕も神さまみたいなものなんだ」
「神さま……」
確かにそれは人に在らざる力だとしか思えない。けれど、神は人を助ける者で、傷つける者ではないはずだ、だとしたら今目の前にいるのは神ではないし、兄でもない。
辺り一面にふわりと甘い薫りが広がった。それは自身から零れるオメガの薫り。それは他者を魅了して、一時的だが人を操る事もできる私だけの特別な力。
「ヒナ、それは無闇に使っちゃ駄目だろ? それに、今の僕にそれは効かない、だって僕には番相手がいるからね」
「そんなモノは関係ないと、ユリ君も知っているはずです」
「うん、まぁそうなんだけど、僕の『運命』は特別だから。だって、僕の運命の相手、神さまだよ?」
まただ、兄は何度も「神さま」という言葉を繰り返す。
「神さまは人を傷付けたりはしないものです!」
「あれ? そうか? 何でだろう……? でも、僕はやらなきゃ駄目なんだ」
「ユリ君は一体何をやろうと言うのです……?」
「それはね……」
「ユリウス、用事は済んだ。撤退だ、行くぞ」
兄にかかった声、そこに居たのは奇妙な仮面を被った男。
「まだ父さんにも母さんにも会ってないのに」
「やかましい、行くぞ」
「分かったよ、アギト。じゃあね、ヒナ」
やはりいつもと変わらない笑みを浮かべて兄は仮面の男の後に続く。そんな兄の後を追う気力も湧かずに、私は雨の中へたりと座り込んだ。
「ユリ君……なんで?」
頬を水滴が流れ落ちていく、それが雨の雫なのか自分の涙なのか、ヒナノにはその時もう判別も出来なくなっていた。
兄が去ってしばらくすると、雨は嘘のように止んで青空が広がった。けれど眼前に広がる惨状はまるで戦火の町並みで、私は身動きもできずへたり込んだまま動く事も出来ない。
「ヒナっ!」
次にやって来たのは姉のルイ。
「大丈夫? 怪我はない?」
無言で首を縦に振ると、姉は安堵したような息を吐いたのだが、茫然自失の私の様子に何か異変を感じたのだろう、もう一度「大丈夫?」と、顔を覗き込まれた。
「ユリ君が……」
「!? ヒナもユリを見たの!?」
「ユリ君がおかしくなってしまったです! いいえ、アレは本当にユリ君だったですか? ヒナには信じられないです!」
困惑顔の姉、先程兄は姉に会ったと言っていた、姉もどこかであの兄と会ったのだろう、険しい顔で黙り込んだ。
そうこうする内に、今度は母が駆けてきて、私達は2人纏めて思い切り抱き締められた。
「ヒナ、ルイ、無事で良かった……」
「ママ、皆は?」
「向こうにいる、全員無事だ」
母の言葉に一度は安堵の息を漏らしたが、それと同時にまた次から次へと涙が溢れ出して止まらなくなった。
「恐かったな、ヒナ。もう大丈夫だから……」
「違うです、ユリ君が……ユリ君が……」
「ユリ? あいつがどうかしたか?」
「さっき、ユリがここに現れたのよ、あの子、様子がおかしかった……」
「そんな馬鹿な話ないだろう? だってあいつは今ランティスに……」
「でも、確かにユリ君だったです! そして、この事件の犯人も!」
「…………え?」
「これは自分がやったと言っていましたです。よく分からない力を使って、自分は神さまから力を授かったからって、ユリ君は一体どうしてしまったですか!? ヒナは……ヒナはあんなユリ君知りません!」
困惑顔の母は事態が飲み込めないのだろう、姉の顔を見上げた。
「私もあんなユリは初めて見たわ。傍目には普通に見えるのよ、だけど言っている事が支離滅裂で、それに最近は父さんそっくりの話し方をしていたのに、まるで子供返りでもしたみたいな話し方をしていたわ」
「それは本当にユリだったのか?」
「間違いないと思う」
姉の言葉に母の顔は一気に青褪めた。
「なんで、そんな……」
「それが分かれば苦労はしないわ。だけどそれよりも今は人命救助が優先よ。母さんはヒナ達を連れて先に帰ってて、私は父さんを手伝ってくる」
「それなら俺も……」
「こんな事になってみんな怯えてる、母さんが一緒にいないと駄目よ」
姉の一言に母はまたはっとしたような表情を見せて頷き、私の手を引いて歩き出した。けれどその表情はどこか虚ろで何故だか心許ない。
「ママ……?」
またしてもはっとしたように母はこちらを見やり、無理矢理作ったような笑みを見せた。その笑顔は痛々しく見ていられなくて、私は思わず瞳を逸らした。
母はとても心の弱い人なのだ、それを、身を持って知っている私は母の手をぎゅっと握り返す。
「大丈夫、きっと大丈夫なのです……」
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