222 / 455
運命に花束を②
運命の療養生活③
しおりを挟む
「……と、ある人に言われたのですが、どう思いますか?」
グノーに指摘された意味が分からず翌朝コリーにそう尋ねると、コリーは片眉を上げて「暴論ですね」とそう言った。
「でもまぁ、それができるのなら、やってみたいと言うのが正直な所です。なにせ、すべてお膳立てしようと思うと相当な費用がかかるのは必然、その人が言うように事が運ぶのなら予算はかなり削減できますよ。で、その人、その算段はつくと?」
「いえ、そこまでは……」
「ふむ、詳しいお話お聞きしたいですね。その方一体誰ですか? 私が直接出向いて聞いてきます」
そんな事を言われても困ってしまう。「えっと……」と言葉を濁して視線を泳がせると、コリーは不審気な表情を見せた。
「なんですか? そんなに私に言い難い相手なんですか? 私は酒場の女だと言われても別に驚きませんよ。ああいう所で働いている方々は人も物事もよく見ている」
「そういうのでは無いんですけどね……えっと、この人です」
ナダールは自分の膝を枕に、腰に抱きついて寝ているグノーの髪を撫でた。
「正気に戻ったんですか?」
「いえ、そういう訳ではないのですけど、昨夜少しだけそんな話を……元々凄く頭の良い人なので、私では何を言っているのかさっぱり分からなくてですね、聞いても答えてくれないし」
「そう言えばこの人メリアの王子でしたっけ? 帝王学や経済学にも通じている可能性はある、という事ですね。ふむ……」
コリーはまだ半信半疑という表情ではあるのだが、腕を組んで思案顔をする。
「分かりました。私、少し商人に話を聞いてきます。あなたはその人を正気に戻すのに尽力なさい」
そう言ってコリーはマントを羽織るとスタスタと行ってしまった。
コリーのフットワークは軽い。疑問があれば自分で動くし、誰かに頼るという事をほとんどしない。それは他人に任せるより自分でやった方が早いという、優秀さゆえの弊害なのかもしれないが、その行動力が今はとても頼もしい。
「でも、私にももう少し説明があってもいいと思うのですよ……」
コリーは恐らく今の話だけで何かが分かっているようなのに、自分はやはり全く分からない。グノーの指差した地図を広げて、ナダールは困惑顔で首を傾げた。
グノーの体力の回復と共に、彼がベッドで寝ている時間は段々と短くなっていった。
同時に、自分で自由にふらふらとでも動けるようになったので、泣いてぐずる事も減っていた。
身動きがとれず、泣いて泣いてナダールに縋りつく事がなくなった分だけ静かにはなったのだが、今度はいないとなれば勝手にふらふらと探しに出てしまうようになって見張りの手間は格段に増えていった。
素直にナダールの元へ辿り着ければいいのだが、毎回起きるたびに何処にいるのか忘れてしまう彼は迷子になっている事も多く、探索途中で力尽きて倒れている事もたびたびあるのでスタール達も気の抜けない日々が続いていた。
「いっそ首輪か鈴でも付けとくか」
冗談半分にそう言ったスタールの言葉にナダールは首を振る。
「人道的な事も勿論ですが、そんな事をすればグノーはまた監禁されていた頃の事を思い出して余計容態が悪化します」
「……本当にやろうとは思っちゃいなかったが、こいつの兄はこいつにそこまでの事をしていたのか? 家族も何も言わなかったのか?」
「首輪……正しくはチョーカーですけど、それを付けたのは父親でした。彼はそれを首輪と呼んで、人生を縛られていたのです。特殊な作りのチョーカーで、外すのにもずいぶん苦労したのですよ」
スタールは呆れるばかりで声も出ない。
「家の中から出る事を禁じられ、家の中ですら兄以外の人間との会話も禁じられていた。なのでこの人は閉じ込められるのを嫌います、できれば自由に動けるようにしておいて欲しいです」
「できる範囲で自分の所に留め置きますので申し訳ないですが……」とナダールは頭を下げた。
「触ったら殺される可能性だってあるんだろ? それでどうやって捕まえろって言うんだ」
「声をかけてあげてください。私を呼びに来て貰うのでも勿論構いませんが、私のいる場所を教えるだけで充分です。あとは一人で何でもできてしまう人ですよ」
「また変なのに襲われても知らねぇぞ」
「ここまで動けるようになれば、そう簡単にやられる人ではありませんよ。むしろ襲った相手の方が心配なのでそこはちゃんと見張っておいて欲しいです。刃傷沙汰はこの人の立場を悪くするだけなので……」
相変わらずグノーはナダールの膝を枕に寝入っている。
そんな呑気な姿を見せているにも関わらず、それではまるで危険な猛獣だ。
「危なっかしいから、こいつに刃物持たせんな」
「持たせてませんよ、こういう時には自傷行為だってしかねない。でも、この人その辺の物を何でも武器に変えるスキルを持ち合わせているので、どうにもできません」
「こうなってくると、動く危険物だな。本当によくこんなの手懐けたなお前」
「正気の時にそれ言うと、珍獣扱いするなって怒られますよ」
おかしそうにナダールは笑うのだが、珍獣の方が首輪付けて管理できるだけマシじゃねぇか、と思わずにはいられないスタールだった。
目が覚めるとまた自分は見知らぬ場所にいた。
「ここどこだ?」
見た事もない天井、窓の外を見ても場所の見当も付かないので、とりあえず「よいしょ」と身体を起し辺りを見回した。
身体は重いのだが、心は妙にすっきりしている気がする。
部屋の中を見回しても、全くどこにいるのか心に引っかかる物も何もなく、首を傾げる。
ふらりと起き上がって部屋の扉を開けると、目の前には長い廊下と等間隔に並ぶ扉。はて、本当にここは一体何処だろう?
何やら廊下の先からは賑やかな声が聞こえてくるので、まずはとりあえず行ってみようとグノーは壁にもたれるようにして歩き出した。
廊下の先には少し広い居間のような空間が広がっており、そこではたくさんの男達が談笑していた。
「あっ、グノーさんが起きてきた!」
そう言って一人の少年が目の前へと駆けてくる。
「こんにちは! 今日の調子はどうですか?」
「えっと、悪くはないけど、ここ何処? 君は誰?」
少年はその言葉に「また忘れられちゃった」と笑って「誰か団長呼んで来て」と背後の男達に声をかけた。
「オレはキースって言います。ここはルーンの寄宿舎、オレ達は全員騎士団員で団長……っと、ナダールさんの部下ですよ」
ルーン? 寄宿舎? 団長? 分からない単語がぽんぽん出てきておろおろしていると、キースと名乗った少年はこっちに来て座ってくださいと椅子を持ってきてくれた。
その椅子におずおずと腰掛けると、その場に居た者達が次々と自己紹介をしてくれて更にうろたえる。だが、その慣れた様子の男達は楽しそうに笑っていて、その笑顔が嘲笑を含んでいるものではない事はなんとなく分かった。
「えっと、皆は俺のこと知ってるのかな? 俺、またなんか忘れてる?」
「まぁ、忘れてると言えば盛大にすべて忘れてるな、別にいいけどよ、何回でも自己紹介するし。俺はスタール、よろしくな」
大柄な男はその体躯に似合わず優しげな笑みでそう言った。
「グノー」
声をかけられ、ぱっと振り向く。
自分が唯一分かる男が現れたからだ。思わず弾かれたように立ち上がり、彼に向けて駆け寄った。
「ナダール、俺、色々全然よく分からないんだけど!」
「分かっていない事は分かっていますよ。でも安心してください、あなたが分かっていなくても、彼等が分かってくれていますから」
ナダールはいつもの穏やかな笑みで俺の頭を撫でる。
「そうそう、あんたが変な病気で毎日毎回俺等の事を忘れても、俺等はあんたの事を忘れないから、安心して忘れていいぞ」
そう言って彼等が笑うので、グノーはどんな顔をしていいのか分からない。
「まぁ、そういう事です。今日の調子は如何ですか?」
「調子? ……は悪くないと思うんだけど、なんか色々分からない事が多すぎて……」
「今はとりあえずそのままで大丈夫ですよ。お腹空きませんか? 今、ちょうど昼食の準備をしていた所なのです」
そんな事を言われてしまうとなんだか腹は減っている気がする。「食べられそうですか?」と尋ねてくるナダールにこくんと頷くと、彼は嬉しそうに笑みを見せた。
「さぁ、皆さんもお昼ですよ」
ナダールが声をかけると「よっしゃ昼飯!」と男達はぞろぞろと移動を始める。
「なぁナダール、なんで俺達こんな所にいんの? ルーンってアジェの所、カルネ領だよな?」
「そうですよ。ここへは仕事で来ました。あなたも一緒にね」
「仕事? なんの?」
「まぁ、色々ですよ」とナダールは笑みを零して、食堂へと案内してくれる。
そこには更にたくさんの男達がひしめいていて、一体ここは何なんだ? と更に困惑した。
食堂では先程のキース少年が「ここですよ」と手を振ってくれて、そこにはすでに食事も用意されていて、至れり尽くせりだ。
「なんか、何から何まで世話になってるみたいで、ごめん」
「別にこのくらいどうって事ないですよ」
そう言ってキースは笑みを零す。
実際彼等にとって、このくらいどうという事もないのだ。
泣いて喚いてぐずられたり、勝手にふらふらとナダールを探して行方不明になるのを必死に探し回る日々の方がよほど大変だった。会話ができて話が通じる、これほど楽な事はない。
毎日顔と名前を忘れられてしまう事がなんぼのものか、そんなのは毎回教えれば済む話で、むしろ人間らしくなってきて良かったと思わずにはいられないのだ。
「さぁ、ちゃんと食べてくださいよ。そんな吹けば飛ぶような体ではまだまだ安心できませんからね」
ナダールの言葉に自分の腕を見れば、何やらとても痩せている。
「俺、なんでまたこんなになってんの?」
「今はまだ思い出さなくていい事です。体力が戻ったら教えますので、今は食べてください」
ナダールの問答無用の言葉に、食事に手を付けると、やはり腹は空いていたようで美味しくぺろりと完食できた。
そんな俺をナダールは嬉しそうに満面の笑みで眺めていて、どうにもこうにも居心地が悪い。いや、別にいいんだけどな、そこに誰も居ないなら。
でも、なんか周りにもめっちゃ見られてるし、なんだろうこれ、とても落ち着かない。
「もう、見んな恥ずかしい」
「今更、今更」
ナダールは笑うし、周りを取り囲む男達も苦笑してるし、どうしていいか分からない。
「あともう一息といった所ですね」
「もう、だから何がだよ! 説明!」
「もう少し体調が戻ったらアジェ君の所にも遊びに行きましょうね。大変お世話になったのですよ」
「アジェに? え? やだなぁ……俺、迷惑かけたりしてねぇ?」
「そこは自分で聞いてくださいね、ふふ」
何故か笑いが止まらない様子のナダールに困惑して、周りに助けを求めるように視線を巡らすのだが、周りの男達は何も言わない。
その場に事情を聞けそうな親しい人間もおらず、グノーは「むぅ」と拗ねたような顔をしてナダールに突っかかっていくのだが、やはり彼はひたすら笑うばかりで何も教えてはくれなかった。
「団長の奥さん、あれ何なの? 美人で強いだけの人かと思ったら、まともになってきた途端、滅茶苦茶言動可愛いんだけど……やばい、惚れそう」
色々な事が分からないのだろう、小首を傾げて不安げに見上げてくる姿がその容姿と相あまって可愛らしくて仕方がない。
しかも男ばかりで彩りもないこの寄宿舎でその容姿は異彩を放って目立っている。
「いやいや、でも今はアレだけど、少し前を思い出せ。俺達じゃ絶対手に負えないぞ」
泣いてぐずって、団長に縋りつき、それが治まったと思ったら今度はべったり引っ付いて離れなくなったグノーを小脇に抱えるようにしてナダールが仕事をこなしていた日々はまだ記憶に新しい。
『申し訳ないのですが、この人の事は猫か何かと思っておいてください。本当に申し訳ないです』
座って仕事をしている間は腰にへばりついて寝ているし、どこか移動する際には抱えて連れ歩くその姿は目立つなという方が間違っている。
そうしていてくれた方が見張りとしては楽だったが、自分がそれをされたらと思うと、よくそれで仕事ができるな……と思わずにはいられない。
「でも、ちょっと羨ましいよな。誰の事は忘れても団長の事だけは絶対忘れないんだぞ。そんな風に惚れてくれる相手なんて絶対そういないと思う。ちょっと変だけど、俺もああいう嫁が欲しい」
「俺は嫌だなそんな女、面倒くさくてかなわない。傍から見てるだけだからいいと思うかもしれんが、アレは相当厄介だぞ」
どちらにしてもあんな美人そこらには落ちてないけどな、と囁きあう男達がいる傍ら、そんな噂話をしている後ろで、一人の男がちっと舌打ちをしてグノーとナダールの2人を睨み付けていた。
まるで守りを固められた姫君のようにちやほやされている、グノーが気に入らないという顔をするその男は、8班班長ジミー・コーエンだ。
ジミーと共にグノーを襲った部下達はもうイリヤに戻ったというのに、彼はそこで憎々しげに彼等を睨んでいた。
ジミーを斬り付けた自分の部下は「あの時は意識に霞がかかって、自分でも何をしたのかよく覚えていない」と怯えたようにジミーに謝ったが、そんな言い訳を信じる事もできずに「裏切り者!」と罵詈雑言を投げつけた。あんな男、もう自分の部下でもなんでもない。
ジミーは美味くもない食事を終えて、席を立つ。
今に、見てろ……そんな風に笑っていられるのも今のうちだ。心の中には苛立ちと怒りを抱えて、男はそっと踵を返した。
グノーに指摘された意味が分からず翌朝コリーにそう尋ねると、コリーは片眉を上げて「暴論ですね」とそう言った。
「でもまぁ、それができるのなら、やってみたいと言うのが正直な所です。なにせ、すべてお膳立てしようと思うと相当な費用がかかるのは必然、その人が言うように事が運ぶのなら予算はかなり削減できますよ。で、その人、その算段はつくと?」
「いえ、そこまでは……」
「ふむ、詳しいお話お聞きしたいですね。その方一体誰ですか? 私が直接出向いて聞いてきます」
そんな事を言われても困ってしまう。「えっと……」と言葉を濁して視線を泳がせると、コリーは不審気な表情を見せた。
「なんですか? そんなに私に言い難い相手なんですか? 私は酒場の女だと言われても別に驚きませんよ。ああいう所で働いている方々は人も物事もよく見ている」
「そういうのでは無いんですけどね……えっと、この人です」
ナダールは自分の膝を枕に、腰に抱きついて寝ているグノーの髪を撫でた。
「正気に戻ったんですか?」
「いえ、そういう訳ではないのですけど、昨夜少しだけそんな話を……元々凄く頭の良い人なので、私では何を言っているのかさっぱり分からなくてですね、聞いても答えてくれないし」
「そう言えばこの人メリアの王子でしたっけ? 帝王学や経済学にも通じている可能性はある、という事ですね。ふむ……」
コリーはまだ半信半疑という表情ではあるのだが、腕を組んで思案顔をする。
「分かりました。私、少し商人に話を聞いてきます。あなたはその人を正気に戻すのに尽力なさい」
そう言ってコリーはマントを羽織るとスタスタと行ってしまった。
コリーのフットワークは軽い。疑問があれば自分で動くし、誰かに頼るという事をほとんどしない。それは他人に任せるより自分でやった方が早いという、優秀さゆえの弊害なのかもしれないが、その行動力が今はとても頼もしい。
「でも、私にももう少し説明があってもいいと思うのですよ……」
コリーは恐らく今の話だけで何かが分かっているようなのに、自分はやはり全く分からない。グノーの指差した地図を広げて、ナダールは困惑顔で首を傾げた。
グノーの体力の回復と共に、彼がベッドで寝ている時間は段々と短くなっていった。
同時に、自分で自由にふらふらとでも動けるようになったので、泣いてぐずる事も減っていた。
身動きがとれず、泣いて泣いてナダールに縋りつく事がなくなった分だけ静かにはなったのだが、今度はいないとなれば勝手にふらふらと探しに出てしまうようになって見張りの手間は格段に増えていった。
素直にナダールの元へ辿り着ければいいのだが、毎回起きるたびに何処にいるのか忘れてしまう彼は迷子になっている事も多く、探索途中で力尽きて倒れている事もたびたびあるのでスタール達も気の抜けない日々が続いていた。
「いっそ首輪か鈴でも付けとくか」
冗談半分にそう言ったスタールの言葉にナダールは首を振る。
「人道的な事も勿論ですが、そんな事をすればグノーはまた監禁されていた頃の事を思い出して余計容態が悪化します」
「……本当にやろうとは思っちゃいなかったが、こいつの兄はこいつにそこまでの事をしていたのか? 家族も何も言わなかったのか?」
「首輪……正しくはチョーカーですけど、それを付けたのは父親でした。彼はそれを首輪と呼んで、人生を縛られていたのです。特殊な作りのチョーカーで、外すのにもずいぶん苦労したのですよ」
スタールは呆れるばかりで声も出ない。
「家の中から出る事を禁じられ、家の中ですら兄以外の人間との会話も禁じられていた。なのでこの人は閉じ込められるのを嫌います、できれば自由に動けるようにしておいて欲しいです」
「できる範囲で自分の所に留め置きますので申し訳ないですが……」とナダールは頭を下げた。
「触ったら殺される可能性だってあるんだろ? それでどうやって捕まえろって言うんだ」
「声をかけてあげてください。私を呼びに来て貰うのでも勿論構いませんが、私のいる場所を教えるだけで充分です。あとは一人で何でもできてしまう人ですよ」
「また変なのに襲われても知らねぇぞ」
「ここまで動けるようになれば、そう簡単にやられる人ではありませんよ。むしろ襲った相手の方が心配なのでそこはちゃんと見張っておいて欲しいです。刃傷沙汰はこの人の立場を悪くするだけなので……」
相変わらずグノーはナダールの膝を枕に寝入っている。
そんな呑気な姿を見せているにも関わらず、それではまるで危険な猛獣だ。
「危なっかしいから、こいつに刃物持たせんな」
「持たせてませんよ、こういう時には自傷行為だってしかねない。でも、この人その辺の物を何でも武器に変えるスキルを持ち合わせているので、どうにもできません」
「こうなってくると、動く危険物だな。本当によくこんなの手懐けたなお前」
「正気の時にそれ言うと、珍獣扱いするなって怒られますよ」
おかしそうにナダールは笑うのだが、珍獣の方が首輪付けて管理できるだけマシじゃねぇか、と思わずにはいられないスタールだった。
目が覚めるとまた自分は見知らぬ場所にいた。
「ここどこだ?」
見た事もない天井、窓の外を見ても場所の見当も付かないので、とりあえず「よいしょ」と身体を起し辺りを見回した。
身体は重いのだが、心は妙にすっきりしている気がする。
部屋の中を見回しても、全くどこにいるのか心に引っかかる物も何もなく、首を傾げる。
ふらりと起き上がって部屋の扉を開けると、目の前には長い廊下と等間隔に並ぶ扉。はて、本当にここは一体何処だろう?
何やら廊下の先からは賑やかな声が聞こえてくるので、まずはとりあえず行ってみようとグノーは壁にもたれるようにして歩き出した。
廊下の先には少し広い居間のような空間が広がっており、そこではたくさんの男達が談笑していた。
「あっ、グノーさんが起きてきた!」
そう言って一人の少年が目の前へと駆けてくる。
「こんにちは! 今日の調子はどうですか?」
「えっと、悪くはないけど、ここ何処? 君は誰?」
少年はその言葉に「また忘れられちゃった」と笑って「誰か団長呼んで来て」と背後の男達に声をかけた。
「オレはキースって言います。ここはルーンの寄宿舎、オレ達は全員騎士団員で団長……っと、ナダールさんの部下ですよ」
ルーン? 寄宿舎? 団長? 分からない単語がぽんぽん出てきておろおろしていると、キースと名乗った少年はこっちに来て座ってくださいと椅子を持ってきてくれた。
その椅子におずおずと腰掛けると、その場に居た者達が次々と自己紹介をしてくれて更にうろたえる。だが、その慣れた様子の男達は楽しそうに笑っていて、その笑顔が嘲笑を含んでいるものではない事はなんとなく分かった。
「えっと、皆は俺のこと知ってるのかな? 俺、またなんか忘れてる?」
「まぁ、忘れてると言えば盛大にすべて忘れてるな、別にいいけどよ、何回でも自己紹介するし。俺はスタール、よろしくな」
大柄な男はその体躯に似合わず優しげな笑みでそう言った。
「グノー」
声をかけられ、ぱっと振り向く。
自分が唯一分かる男が現れたからだ。思わず弾かれたように立ち上がり、彼に向けて駆け寄った。
「ナダール、俺、色々全然よく分からないんだけど!」
「分かっていない事は分かっていますよ。でも安心してください、あなたが分かっていなくても、彼等が分かってくれていますから」
ナダールはいつもの穏やかな笑みで俺の頭を撫でる。
「そうそう、あんたが変な病気で毎日毎回俺等の事を忘れても、俺等はあんたの事を忘れないから、安心して忘れていいぞ」
そう言って彼等が笑うので、グノーはどんな顔をしていいのか分からない。
「まぁ、そういう事です。今日の調子は如何ですか?」
「調子? ……は悪くないと思うんだけど、なんか色々分からない事が多すぎて……」
「今はとりあえずそのままで大丈夫ですよ。お腹空きませんか? 今、ちょうど昼食の準備をしていた所なのです」
そんな事を言われてしまうとなんだか腹は減っている気がする。「食べられそうですか?」と尋ねてくるナダールにこくんと頷くと、彼は嬉しそうに笑みを見せた。
「さぁ、皆さんもお昼ですよ」
ナダールが声をかけると「よっしゃ昼飯!」と男達はぞろぞろと移動を始める。
「なぁナダール、なんで俺達こんな所にいんの? ルーンってアジェの所、カルネ領だよな?」
「そうですよ。ここへは仕事で来ました。あなたも一緒にね」
「仕事? なんの?」
「まぁ、色々ですよ」とナダールは笑みを零して、食堂へと案内してくれる。
そこには更にたくさんの男達がひしめいていて、一体ここは何なんだ? と更に困惑した。
食堂では先程のキース少年が「ここですよ」と手を振ってくれて、そこにはすでに食事も用意されていて、至れり尽くせりだ。
「なんか、何から何まで世話になってるみたいで、ごめん」
「別にこのくらいどうって事ないですよ」
そう言ってキースは笑みを零す。
実際彼等にとって、このくらいどうという事もないのだ。
泣いて喚いてぐずられたり、勝手にふらふらとナダールを探して行方不明になるのを必死に探し回る日々の方がよほど大変だった。会話ができて話が通じる、これほど楽な事はない。
毎日顔と名前を忘れられてしまう事がなんぼのものか、そんなのは毎回教えれば済む話で、むしろ人間らしくなってきて良かったと思わずにはいられないのだ。
「さぁ、ちゃんと食べてくださいよ。そんな吹けば飛ぶような体ではまだまだ安心できませんからね」
ナダールの言葉に自分の腕を見れば、何やらとても痩せている。
「俺、なんでまたこんなになってんの?」
「今はまだ思い出さなくていい事です。体力が戻ったら教えますので、今は食べてください」
ナダールの問答無用の言葉に、食事に手を付けると、やはり腹は空いていたようで美味しくぺろりと完食できた。
そんな俺をナダールは嬉しそうに満面の笑みで眺めていて、どうにもこうにも居心地が悪い。いや、別にいいんだけどな、そこに誰も居ないなら。
でも、なんか周りにもめっちゃ見られてるし、なんだろうこれ、とても落ち着かない。
「もう、見んな恥ずかしい」
「今更、今更」
ナダールは笑うし、周りを取り囲む男達も苦笑してるし、どうしていいか分からない。
「あともう一息といった所ですね」
「もう、だから何がだよ! 説明!」
「もう少し体調が戻ったらアジェ君の所にも遊びに行きましょうね。大変お世話になったのですよ」
「アジェに? え? やだなぁ……俺、迷惑かけたりしてねぇ?」
「そこは自分で聞いてくださいね、ふふ」
何故か笑いが止まらない様子のナダールに困惑して、周りに助けを求めるように視線を巡らすのだが、周りの男達は何も言わない。
その場に事情を聞けそうな親しい人間もおらず、グノーは「むぅ」と拗ねたような顔をしてナダールに突っかかっていくのだが、やはり彼はひたすら笑うばかりで何も教えてはくれなかった。
「団長の奥さん、あれ何なの? 美人で強いだけの人かと思ったら、まともになってきた途端、滅茶苦茶言動可愛いんだけど……やばい、惚れそう」
色々な事が分からないのだろう、小首を傾げて不安げに見上げてくる姿がその容姿と相あまって可愛らしくて仕方がない。
しかも男ばかりで彩りもないこの寄宿舎でその容姿は異彩を放って目立っている。
「いやいや、でも今はアレだけど、少し前を思い出せ。俺達じゃ絶対手に負えないぞ」
泣いてぐずって、団長に縋りつき、それが治まったと思ったら今度はべったり引っ付いて離れなくなったグノーを小脇に抱えるようにしてナダールが仕事をこなしていた日々はまだ記憶に新しい。
『申し訳ないのですが、この人の事は猫か何かと思っておいてください。本当に申し訳ないです』
座って仕事をしている間は腰にへばりついて寝ているし、どこか移動する際には抱えて連れ歩くその姿は目立つなという方が間違っている。
そうしていてくれた方が見張りとしては楽だったが、自分がそれをされたらと思うと、よくそれで仕事ができるな……と思わずにはいられない。
「でも、ちょっと羨ましいよな。誰の事は忘れても団長の事だけは絶対忘れないんだぞ。そんな風に惚れてくれる相手なんて絶対そういないと思う。ちょっと変だけど、俺もああいう嫁が欲しい」
「俺は嫌だなそんな女、面倒くさくてかなわない。傍から見てるだけだからいいと思うかもしれんが、アレは相当厄介だぞ」
どちらにしてもあんな美人そこらには落ちてないけどな、と囁きあう男達がいる傍ら、そんな噂話をしている後ろで、一人の男がちっと舌打ちをしてグノーとナダールの2人を睨み付けていた。
まるで守りを固められた姫君のようにちやほやされている、グノーが気に入らないという顔をするその男は、8班班長ジミー・コーエンだ。
ジミーと共にグノーを襲った部下達はもうイリヤに戻ったというのに、彼はそこで憎々しげに彼等を睨んでいた。
ジミーを斬り付けた自分の部下は「あの時は意識に霞がかかって、自分でも何をしたのかよく覚えていない」と怯えたようにジミーに謝ったが、そんな言い訳を信じる事もできずに「裏切り者!」と罵詈雑言を投げつけた。あんな男、もう自分の部下でもなんでもない。
ジミーは美味くもない食事を終えて、席を立つ。
今に、見てろ……そんな風に笑っていられるのも今のうちだ。心の中には苛立ちと怒りを抱えて、男はそっと踵を返した。
0
お気に入りに追加
300
あなたにおすすめの小説
傾国の美青年
春山ひろ
BL
僕は、ガブリエル・ローミオ二世・グランフォルド、グランフォルド公爵の嫡男7歳です。オメガの母(元王子)とアルファで公爵の父との政略結婚で生まれました。周りは「運命の番」ではないからと、美貌の父上に姦しくオメガの令嬢令息がうるさいです。僕は両親が大好きなので守って見せます!なんちゃって中世風の異世界です。設定はゆるふわ、本文中にオメガバースの説明はありません。明るい母と美貌だけど感情表現が劣化した父を持つ息子の健気な奮闘記?です。他のサイトにも掲載しています。
もう一度、貴方に出会えたなら。今度こそ、共に生きてもらえませんか。
天海みつき
BL
何気なく母が買ってきた、安物のペットボトルの紅茶。何故か湧き上がる嫌悪感に疑問を持ちつつもグラスに注がれる琥珀色の液体を眺め、安っぽい香りに違和感を覚えて、それでも抑えきれない好奇心に負けて口に含んで人工的な甘みを感じた瞬間。大量に流れ込んできた、人ひとり分の短くも壮絶な人生の記憶に押しつぶされて意識を失うなんて、思いもしなかった――。
自作「貴方の事を心から愛していました。ありがとう。」のIFストーリー、もしも二人が生まれ変わったらという設定。平和になった世界で、戸惑う僕と、それでも僕を求める彼の出会いから手を取り合うまでの穏やかなお話。
孕めないオメガでもいいですか?
月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから……
オメガバース作品です。
白い部屋で愛を囁いて
氷魚彰人
BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。
シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。
※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。
手切れ金
のらねことすていぬ
BL
貧乏貴族の息子、ジゼルはある日恋人であるアルバートに振られてしまう。手切れ金を渡されて完全に捨てられたと思っていたが、なぜかアルバートは彼のもとを再び訪れてきて……。
貴族×貧乏貴族
誰よりも愛してるあなたのために
R(アール)
BL
公爵家の3男であるフィルは体にある痣のせいで生まれたときから家族に疎まれていた…。
ある日突然そんなフィルに騎士副団長ギルとの結婚話が舞い込む。
前に一度だけ会ったことがあり、彼だけが自分に優しくしてくれた。そのためフィルは嬉しく思っていた。
だが、彼との結婚生活初日に言われてしまったのだ。
「君と結婚したのは断れなかったからだ。好きにしていろ。俺には構うな」
それでも彼から愛される日を夢見ていたが、最後には殺害されてしまう。しかし、起きたら時間が巻き戻っていた!
すれ違いBLです。
ハッピーエンド保証!
初めて話を書くので、至らない点もあるとは思いますがよろしくお願いします。
(誤字脱字や話にズレがあってもまあ初心者だからなと温かい目で見ていただけると助かります)
11月9日~毎日21時更新。ストックが溜まったら毎日2話更新していきたいと思います。
※…このマークは少しでもエッチなシーンがあるときにつけます。
自衛お願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる