運命に花束を

運命に花束を①

運命に花束を③

　長い長い夢を見ていた。夢の内容は漠然として覚えていないけれど、微かに遠く自分を呼ぶ声。何度も何度も優しく響くその声に応えたくて、でも声は遠くてどちらに向かって行けばいいのか分からずに立ち竦んだ。
　立ち竦む？　真っ黒な空間、何処を見てもどちらを向いても何もない。歩いている感覚すらなくて、あぁ、これは夢なんだと気が付いた。
　自分は誰なのだろう、声は何を言っているのだろう、聞こえない……分からない。
　目覚めなければ、あの人が呼んでいる。でもあの人って……誰？
　早く目覚めてすべてを理解しなければいけない、でも怖い。
何故、何が怖いのかと問われても分からない、ただ目覚めるのが怖い。焦りと不安、期待と切望が交じり合い混乱する。あぁ、あの人に会いたい。
　眩しい……ここは何処だ？


　目覚めるとそこは見慣れた一室だった。いや、見慣れているはずなのにそこが何処なのか分からない。見覚えはある、だが何処なのか、その記憶はすっぽり抜け落ちている。
　眩しい……日差しはベッド脇の窓から燦々と降り注ぎ目を細めた。外を見ればのどかな村の風景、だが一体ここは何処なのだろう？
　喉が渇く、声は出ないし体も思うように動かない。
　指、自分の指、腕……動く。掌を眺めてその腕をついて起き上がろうとするが、体は重石でも付けられたように重かった。
　ようようベッドの上に起き上がり、違和感を覚える。
　足……足、動かない？　そっと両手を両足にそって滑らせていくと、片手がすとんと下に落ちた。右手、なんで？　右足、腿から下の感覚がない。感覚どころか……

「足……無い？」

　掠れた声が出る。自分はこんな声だっただろうか？
　片足が無い。不思議だとは思うが、恐怖は無かった。何故か頭のどこかでその事実を素直に受け止めている自分がいる。
　自分は片足を失った。でもそれが何故だったのかはどうしても思い出せない。
　自分は一体誰なのだろう？　そこまで考えた時に部屋の外で物音がしている事に気が付いた。
　足音が近付いてくる、誰かが来る。
　扉をコンと叩く音、そして現れたのは長身の男だった。
　男はこちらを見て一瞬立ち竦む、だがその後すぐ泣きそうな笑顔で駆け寄ってきて、一言も発する事なく抱きすくめられた。

「良かった、もう目覚めなかったどうしようかと、そんな事ばかり考えていましたよ……本当に良かった」

　きつくきつく抱きしめられて、何故だかとても安心する。
　自分はこの男を知っている。知っている筈なのに思い出せない。

「痛いところはないですか？ずいぶん長い事、眠り続けていたのですよ」

　顔を覗きこまれて問われるが、何を答えていいか分からない。

「グノー？」

　グノー、それが自分の名前なのだろうか？
　分からない……そんな気もするし、違う気もする。すべてが不確かで何一つ確信が持てない。

「ここ……何処？」
「ムソンの村ですよ。まだ顔色が悪いですね、もう少し横になりますか？」
「ムソン……」

　この長身の男と自分は一緒に暮らしているのだろうか？　この人は一体誰なのだろう、自分との関係が分からない。
　友達？　兄弟？

「グノー、大丈夫ですか？」

　ぼんやりする自分を気遣ってか、額に手を当て熱を測る。
　大きな手、知っている筈なのに何も分からない自分がもどかしい。

「グノーって……オレの名前？　あなたは……誰？」
「……分からないんですか？」

　困惑顔で問われ、黙って頷く。

「無理もないかもしれませんね……私はナダール。ナダール・デルクマンと申します。あなたの名前はグノー、聞き覚えはありませんか？」
「ナダール……さん？　オレは一体誰？　あなたはオレの友達？」
「友達よりはもう少し深いかもしれませんね。私の事はナダールで構いませんよ。あなたの事は話すと長くなりますから、ゆっくりお話しましょう。お腹空きませんか？」
「……よく分からないです。でも、空いてるかも」
「今、何か食べられる物持ってきますね」

　言ってナダールと名乗る男は部屋を後にした。
　友達より深い関係ってなんだろう？　本当に自分は一体誰なのか分からず、考えようとすると少し頭が痛んだ。考えても考えても何も思い出せない。
　この部屋は知っている、でも誰とどうやって暮らしていたのかまでは思い出せない。自分はこの村の住人なのだろうか？
　何をしていた人間なのだろう？　どうして片足を失った？
事故？　事件？　分からない。
　しばらくすると長身の彼ナダールが戻ってくる。彼はにっこり笑って食事をサイドボードに乗せると傍らの椅子に腰掛けた。

「動けますか？　まだ胃が受け付けないでしょうから、たいした物は用意できませんが、自分で食べられますか？」

　「ありがとうございます」と礼を述べてスプーンを受け取ると彼は少し困ったような表情を見せる。

「あなたにそんな風にかしこまられると変な感じですね」

　そう言って彼は笑う。彼のこの笑顔は知っている、知っているのに分からない。
　食事とは言っても彼の言ったようにまだ体が受け付けないので、粥よりもっと薄い半分スープのような物だ。それでもそれは体の中にじんわり広がって、体がそれを欲していた事が分かる。
　それをすべて飲み干してしまうと彼はまたにっこり笑った。
彼の笑顔は不思議と自分のざわざわした心を落ち着かせる。けれど同時に痛いような切ないような気持ちが湧き上がってきて、この感情がどこからくるものなのか当惑する。
　不快な感情ではない、むしろ逆に自分はこの男が好きなのだと思う、ただそれがどういった「好き」であるのかはまだよく分からないのだが。

「グノー、もう少し横になりますか？　それとも少し話しましょうか？」
「話を……してもいいですか？」
「いいですよ、覚えている事はありますか？」

　黙って首をふる。記憶は思い出そうとすればするほど遠ざかっていくように逃げていく。

「実を言えば、私としてはあなたがこのまま忘れてしまってもいいのかもしれない、とも思うのですよ。私の事は思い出して欲しいですけど、あなたの記憶は決して楽しいものばかりではありませんのでね」
「そうなんですか？」
「私もあなたのすべてを知っている訳ではありませんが、あなたはその過去にとても苦しんでいた。だから今何も覚えていないのなら、それでもいいのかもしれないと思ってしまうのですよ」
「でも、分からないというのはとても不安なんです。オレは一体誰なんですか？　あなたはオレの一体何？」
「あなたは『運命の番』という言葉を覚えていますか？」
「運命の番？」

　彼は静かに微笑む。

「はい、誰よりも何よりも絆の深い二人の事ですよ。あなたは私のただ一人の運命の人です」
「運命の番……」

　聞いた事があるような気はする、だがそう言われてもまだはっきりとは自覚できない。

「あなたの首にはチョーカーが嵌められています」

　首を触れば確かにそこには身に馴染んだような首輪がある。

「そのチョーカーの鍵がここにあります。これをあなたに預けておきます、もしあなたがそれを外す気になったら私に教えてください」
「何？　なんで？　これ別に今外してもいいんじゃないの？」
「このチョーカーはあなたの身を守る物です。あなたがそのチョーカーを外した時、私はあなたの項を噛みます」

　うまく理解ができなくて首を傾げる。

「項を噛まれるとどうなるんだ？」
「そうしたらあなたはもう二度と私から離れる事はできなくなる」

　辺りに不思議な良い匂いが漂って自分を包み込む。

「あなたを狙っている人は私の他にも何人もいます。そのチョーカーはそう言った意味でもあなたを守ります。あなたが添い遂げてもいいと想う相手ができたらその鍵を相手に渡してください。それは私であると信じたいのですが、今はまだ分かりませんよね」

　添い遂げる？　男同士なのに？

「その調子だとバース性の説明もしておいた方が良さそうですね。この村では特に、あなたは特別ですから」

　そう言ってナダールはオレと、そして彼の持つ性を教えてくれた。

「よく分からないな、フェロモンって何？」
「あなたは今、私の匂いを感じてはいませんか？　私にはあなたの甘い匂いがよく分かりますよ」

　先程から自分を包み込んでいるこの薫りがフェロモンなのだろうか。だとしたら彼の匂いはとても官能的でグノーの心をざわつかせる。
　ふいにどこかで子供の泣く声がした。彼の匂いが変わる、自分に注がれていた物とは違う薫りがそちらへと流れていく。

「こども……？」
「はい、そうですね。私の……いえ、私達の子供ですよ」

　まさか子がいるとは思わず驚いた。

「会ってみますか？　何か思い出すかもしれないですよ」
「オレが生んだの？」
「そうですよ、可愛い娘です。あなたによく似ています」

　そんな事を突然言われても戸惑うばかりだ。なにせ自分には生んだ記憶がないのだ、その子供を見て可愛いと思えるのかすら分からない。

「今はまだ、もう少し時間をくれ」

　そう言って顔を伏せると彼は少し悲しい表情を見せた。
　手渡された鍵を握りこむ、この鍵が大事な物だと言う事は理解した。