1 / 1
義務と怠惰
しおりを挟む「残念じゃが、五月病ですな」
アルコールやらエタノールやら、とにかくいろいろな薬品のニオイが立ち込める個人病院にて、初老で白髪交じりの、すこし目つきの鋭い医者が俺に言った。医者はカルテと思しき紙切れを、まるで新聞のように持ちながら、俺の顔と交互に見ている。
「……五月病、ですか?」
俺が即座に訊き返す。
なんでってそりゃ、今朝、なんとなく体がだるいと思って体温を測ってみたら38度で、本格的に体がだるくなる前に近くの病院へ行って、薬をもらおうとして、診察を受けたらそう言われたのだ。意味が分からない。
いや、意味は分かる。
知ってるよ?
五月病くらい。
あれだろ?
五月の連休で休日に慣れた人間が、連休明けに精神を軽く病む的な、あれでしょ?
でも、実際に熱が出て、診察を受けて、医者から直々に「五月病です」って診断を下されるのは、なんというか、ちょっと違うんじゃないの?
それに今、9月だし。
「どうかしたかの?」
医者が俺に語り掛けてくる。おそらく、急にだんまりを決め込んだ俺を心配しての行動だろうが、俺が逆に訊いてやりたい。
いやいや、あんたこそどうかしましたか、と。
こっちはただでさえ休みづらい職場だから、有給を消費した上で病院へ来ているんだ。こんなの明日、上司になんて報告すればいいんだ。
『──お。昨日の、どうだった? 体調とか大丈夫か?』
『あ、はい。ただの五月病でした』
こんなやり取りをすれば、間違いなくはり倒されるだろう。
……まあ、今のご時世、さすがに上司も腕力に訴えてはこないだろうけど、ほぼ確実に心証が悪くなる。ひいては、今後のサラリーマン活動に影響を及ぼしかねない。こんなところで躓いている場合じゃないんだ。俺の輝かしい未来のために。
「──ん医者!!」
「うわ、は、はい、なん……なんで急に大声を……しかもネイティブな発音で……」
自分が思っているよりも大声を出してしまっていたらしく、医者が肩をビクッと震わせ、すこしのけぞった。
「す、すみません。ちょっと興奮してて……と、とにかく、ふざけている場合じゃないんです。冗談に付き合っている場合でも、いくら患者が来なくて暇だからって、俺に対して小粋なジョークを挟んで、残りの人生の暇をつぶしている場合でもないんです」
「なかなかに辛辣だな、きみは」
「ですから、さっさと対処法なり薬なりを教えていただきたい。俺は一刻も早く、この不快な熱症状を治したいんです。そして一刻も早く、会社に復帰したいんです」
「ふむぅ、そうは言ってもだな……」
医者は困ったように、自身の白髪交じりの頭をポリポリと掻いた。
なんだってんだ、まったく。困っているのはこっちだというのに、まだ何か変な事を言うつもりだったのか? これはもう、グーグルの口コミで星を1にしてやったほうがいいんじゃないか?
いや、それはさすがに可哀そうか……。
「五月病は五月病としか言えんしの……」
まだいうか、このヤヴ医者は。決定だ。もう容赦はしない。口コミで星1を付けた挙句、ちょっとした悪評も書いてやる。
『病院の入口に変な狸の置物があります』と。
いや、あれはたしか信楽焼だっけ? この国伝統の信楽焼をぼろくそに言ったら、それはさすがに作った人が可哀そうか……とはいえ──
「いい加減にしてください、ダクター! 俺だって五月病がどんなのかは知っています! しかし俺は現に熱を出しているし、汗も……うわ、なんだこれ、なんでこんなに汗かいてんだ!? ……あ、あと、咳だって、コホンコホン、ほら、でてる。だからこれは五月病なんかじゃありません!」
「いや、それらが主な五月病の症状なのじゃ」
「いやいや、嘘つけーい!」
「嘘なものか。じゃからきみ、いますぐ入院しないとやばいんじゃて」
「はあ? 五月病で入院? 俺をバカにするだけでは飽き足らず、さらに入院費までむしり取ろうとしているのですか!? なんたる所業! なんたる悪魔! まさに悪魔の医者!」
「なぜ英語で……とにかく、わしもきみの担当医として、このまま放ってはおけん。いますぐ市立の大病院に入院の手続きを──」
「いりません! 結構です! わかりました。そちらがその気なら、俺にも考えがあります!」
「な、なんじゃ……何をするつもりじゃ……」
「帰る!」
俺は隣にあった籠に入っている上着を取ると、そのまま扉から出ていった。……が、その瞬間、体全体が熱くなり──
◇
気が付くと、市立病院のベッドの上で寝かされていた。
ふと横を見ると、点滴に使われるようなパックがあり、そこから出ている透明な管が、俺の肘窩(肘裏部)にある静脈と繋がっていた。
俺はどうやら、あの後、気を失ってしまったらしい。
おそらく、全身全霊をかけてあの医者にツッコんだ事による血圧の上昇だろう。全くもって忌々しい。あのヤヴ医者め、次に会ったときは玄関にあるあの信楽焼のたぬきに落書きをしてやる。……いや、それはすこし可哀そうか。
「──おう、調子はどうだ。いきなり倒れたそうじゃないか」
ふいに声を掛けられる。
聞き覚えのある声だったので、その方向へ顔を向けてみると、部長が果物の入った籠を片手に俺を見下ろしていた。
「す、すみません、こんなことになっちゃって……」
「なんだ。喋れるのか。それならひとまずは安心だな」
「すみません、会社へはしばらく行けそうもありません」
「そうか。ま、無理はするな。いまは安静にしておくんだな」
「す、すみません……」
「……それで、結局なんの病気だったんだ?」
きた。そりゃ聞かれるよな。いきなり入院なんて普通じゃない。ただ、俺にも具体的な病名はわからない。
『五月病でした。ぴーすぴーす』
なんて言えるはずもないし。
「そ、それが……その……」
「なんだ。言えないくらい重い病気なのか?」
「いえ、それが、よくわからなくて……」
「わからない? でもおまえ、たしか病院から帰る途中で倒れたんだろ? 診察は受けたんだよな?」
「いや、なんというか……」
ああ、もうだめだ。
もう言うしかないか。変な目で見られるだろうけど、ここははっきりと伝えるしかない。というか、もう頭もあんまり回らなくなってきた。
「ご、五月病……みたい、です……」
はぁ。言ってしまった。ついに。こんなんバカにされてるとしか思わないよなぁ……。実際俺もバカにされてると思ったし。
「な、なんだって!?」
さっきまでにこやかに俺を見下ろしていた部長の顔が、一気に険しくなる。まさかそこまで怒られる事になるなんて。仕方がない。すこししんどいけど、きちんと説明しよう。あのヤヴ医者のことも。
「あの、じつは、全然ふざけているとかじゃなくて……」
「なんてこった! 大変じゃないか!」
「……へ?」
「自分をしっかり持つんだぞ! いいか、決してあきらめるんじゃない! 病気が完治する自分を想像するんだ! 病は気からって言うしな! なに、心配するな! 会社のことは俺に任せておけ!」
「え? え?」
なんなんだ、一体。この豹変ぷりは尋常じゃない。
もしかすると、俺は、五月病のことをよく知らないんじゃないのか?
本当は、かなりやばい病気なんじゃないのか?
──いやいや、いやいやいやいや!
でも、だって、五月病だぞ?
そんなわけないじゃないか。そんなわけ……ないよな?
「そうだ! なにか欲しいものはないか? なんでも買って来てやるからな! ……あ、いや、何も言わなくていい! 口を開くな!」
「え? ……いや、ちょっと、そもそも五月病って──」
「と、とにかく、絶対安静にしておくんだ! おまえの親御さん、たしか田舎のほうにいるんだったよな! 安心しろ、そっちのほうも俺から連絡いれておいてやるからな!」
「あの、だから、なんなんですか、五月病って──」
「だからおまえは、自分の病気を治すことだけに集中しておくんだ! いいな! じゃあ俺はさきに会社へ戻って、この事を報告しに──」
俺は肘窩に刺さっている針を引っこ抜くと、ベッドの上で仁王立ちになり、思いきり声を張り上げた。
「五月病って、なんなんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
俺の叫びは病院全体を揺らし、大地を震わせ、空を割った。
そして俺は──結局そのまま、本格的に入院することになった。
五月病ってなんなんだ。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
土地神ライフ
KUMA
キャラ文芸
※作品紹介前の注意事項※
「小説家になろう」にて投稿していたモノを少しずつこちらに移していく予定です。
アルファポリスへ投稿するにあたって、部分的に内容を変更している場合もあります。
~あらすじ~
あるところに何度転生しても短命で終わってしまう運命を持つ魂があった。
その魂が人として最初に受けた名前は身代(みしろ) マコト。
人としては20~30代で不幸な事故で亡くなり、ある時は野生動物になり猟師や他の動物に狩られ、またある時は虫や植物になり様々な生物から弄ばれたりもした……
何度短命な転生を繰り返しても、魂には[徳]が確実に溜まっていた。
ある時、彼女は次の転生について告げられる。
「土地神に興味あるかい? 」
溜まった徳を使い、短命だった魂のマコトは転生させられる。
この転生が神の気まぐれで決まったのかは、生まれたばかりの土地神にはわからない……
今度の転生先は神や妖(あやかし)の存在が認知されている平行世界の日本?
人生ではなく[神]生を過ごす事になったマコト……そして、新たな土地神がある村の神社へ降り立った。
京都式神様のおでん屋さん
西門 檀
キャラ文芸
旧題:京都式神様のおでん屋さん ~巡るご縁の物語~
ここは京都——
空が留紺色に染まりきった頃、路地奥の店に暖簾がかけられて、ポッと提灯が灯る。
『おでん料理 結(むすび)』
イケメン2体(?)と看板猫がお出迎えします。
今夜の『予約席』にはどんなお客様が来られるのか。乞うご期待。
平安時代の陰陽師・安倍晴明が生前、未来を案じ2体の思業式神(木陰と日向)をこの世に残した。転生した白猫姿の安倍晴明が式神たちと令和にお送りする、心温まるストーリー。
※2022年12月24日より連載スタート 毎日仕事と両立しながら更新中!
マグダレナの姉妹達
田中 乃那加
キャラ文芸
十都 譲治(じゅうと じょうじ)は高校一年生。
同じ高校に通う幼馴染の六道 六兎(ろくどう りくと)に密かな想いを寄せていた。
六兎は幼い頃から好奇心旺盛な少年で、しょっちゅう碌でもない事件に首を突っ込んで死にかけている。
そんな彼を守ろうと奔走する譲治。
―――その事件は六兎の「恋人が出来た」という突然の言葉から始まった。
華村 華(はなむら はな)は近くの短大に通う学生である。
華の頼みで彼らはある『怪異』の検証をする事になった。
それは町外れの公園『カップルでその公園でキスをすると、運命の相手ならば永遠に結ばれる。そうでなければ……』
華の姉、華村 百合(はなむら ゆり)がそこで襲われ意識不明の重体に陥っているのである。
―――噂の検証の為に恋人のフリをしてその公園に訪れた彼らは、ある初老の男に襲われる。
逃げた男が落として行ったのは一冊の生徒手帳。それは町の中心部にある女学校。
『聖女女学校』のものだった。
そこにこの事件の鍵がある、と潜入する彼らだが……。
少しイカれた素人探偵と振り回される幼馴染、さらにキャラが濃い面々の話。
AV研は今日もハレンチ
楠富 つかさ
キャラ文芸
あなたが好きなAVはAudioVisual? それともAdultVideo?
AV研はオーディオヴィジュアル研究会の略称で、音楽や動画などメディア媒体の歴史を研究する集まり……というのは建前で、実はとんでもないものを研究していて――
薄暗い過去をちょっとショッキングなピンクで塗りつぶしていくネジの足りない群像劇、ここに開演!!
ひかるのヒミツ
世々良木夜風
キャラ文芸
ひかるは14才のお嬢様。魔法少女専門グッズ店の店長さんをやっていて、毎日、学業との両立に奮闘中!
そんなひかるは実は悪の秘密結社ダーク・ライトの首領で、魔法少女と戦う宿命を持っていたりするのです!
でも、魔法少女と戦うときは何故か男の人の姿に...それには過去のトラウマが関連しているらしいのですが...
魔法少女あり!悪の組織あり!勘違いあり!感動なし!の悪乗りコメディ、スタート!!
気楽に読める作品を目指してますので、ヒマなときにでもどうぞ。
途中から読んでも大丈夫なので、気になるサブタイトルから読むのもありかと思います。
※小説家になろう様にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる