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第8章
11話 何があっても、あなたはあなた 後編
しおりを挟むその日の夜、ニアージュがアドラシオンの夕飯として用意させたのは、小さめのスープカップに入れられた重湯と呼ばれるものだった。ニアージュ曰く、米を長時間煮て作った白粥という療養食を、更に潰して湯で伸ばし、塩で味を調えたものらしい。
「どうですか旦那様。食べられますか? 食べていてお腹が痛くなったり、吐き気がしたりはしませんか?」
「ああ、大丈夫だ。この食感はなんとも言い難いが、味は悪くない。米本来の風味が活きているし、塩が米の甘みを引き立てている。うん……。むしろ物足りないくらいだ」
「そうですか。よかった、ちゃんと食べられるのはとてもいい事です。重湯を食べてしばらく様子を見て、なんともないようでしたら、今度は粒が残ったお粥を持って来ますね。旦那様は味覚が繊細ですから、きっと重湯以上においしく感じますよ」
「そうか、それは楽しみだ。所で、君はもう何か食べたのか?」
「ええ。ここへ来る前に、おにぎりを」
「おにぎり? とは?」
「炊いた米を、丸い形や三角の形に成型したものです。手で軽く握るようにして作るので、『おにぎり』というんです。
おにぎりは持ち運びに便利なので、私が住んでいた田舎では、野良仕事などをする際にみんなよく外へ持って行っていました。中に塩漬けにした魚や肉を入れる事もあるんですよ」
「成程、持ち運んで野外で食べる、という事か。サンドイッチのようなものだな」
「そうですね、材料や製法は根本的に違いますが、コンセプトはほぼ同じですね。そのうち旦那様にもお出ししましょうか?」
「ああ、それはいいな。興味があるからぜひ頼みたい」
ベッドの脇に置いた椅子に座り、嬉しそうな顔でニコニコ笑って話すニアージュに、アドラシオンも微笑みながら答えた。
食べる物は幾分味気ないが、大切な人と取り留めのない事を話しながら、ゆったりと食事をするひと時。
この一瞬一瞬が、何にも代えがたいものに感じる。
どことなく、生きている実感が湧いてくるようだ。
その後、食事は出来るだけゆっくり腹に納めるように、とニアージュに言われたアドラシオンは、その言に従って、カップの中身を30分近くかけて空にした。
重湯を完食しても、特に腹具合などに異常がない事から、今度はお代わりとして重湯と同量の白粥をもらい、それも綺麗に完食する。
自分の胃の頑強さに心から感謝しつつ、アドラシオンは空になったカップをサイドボードに置き、改めてニアージュに今後の話を切り出した。
「ニア。今後の仕事の件について、色々と相談したい事があるんだが、いいだろうか」
「え? ……もしかして、字を書くにも不自由がありそうですか?」
「そうだな。今後どうなるか分からないが、現状少し痺れがあってな。多少不安が残る所だ。もしその時は君かアルマソンに、代筆を頼む事になるかも知れない」
「分かりました。その時は、頑張って綺麗な字を書くよう努めますね」
「ああ。手間をかけてしまうが、そうなったらよろしく頼む。それから……領地の視察の事なんだが、それも今後は、君に頼みたいんだ」
「領地の視察を、ですか? 分かりました。お引き受けします。でもそれは、旦那様の心身が落ち着くまでの間だけですよ? だって、エフォール公爵領は旦那様の領地なんですから」
「あ、いや、しかし……」
「しかしも案山子もありません。身体や足がしっかり動くなら、領地の事は領主である旦那様が、ちゃんと自分の目で確かめていかないと。
……大丈夫ですよ。最初は領民達も、顔に包帯を巻いた旦那様の姿を見て、痛ましそうな顔をしたり、酷く心配したりするでしょうけど、見ているうちにみんな慣れますから」
「そう、だろうか。だが……みなは俺のこんな姿を見て、恐ろしく思ったりはしないだろうか。奇異なものと思ったりはしないだろうか……」
「それはないと思います。包帯姿って、最初は目にするととても驚きますけど、事情を聞いて、包帯巻いてる理由が分かれば、案外すぐに「ああそうなんだ」って納得するものですからね。
私の故郷にだって、火傷を隠す為に腕に包帯巻いてる人がいましたが、みんな全然気にしてませんでした。だから旦那様も大丈夫です」
「…………」
「旦那様。よく聞いて下さい。領地の人達は、みんなとても旦那様を慕っています。顔やら手やらに包帯巻いてる姿になったって、それは変わりません。だからどうか、もっと自分に自信を持って下さい。何があっても、あなたはあなたです。あなたは、誰の目から見ても立派な領主で、立派な上位貴族家の当主なんです。
あなたがこれから先も今まで通り、領民達や使用人達の暮らし向きを思い、心を砕く人で居続けてくれるのなら、私もアルマソンも、邸の使用人達も侍女達も、領地に住まう領民達も、みんなみんなあなたの味方です。
ちょっと見てくれが変わった程度で、掌を返すような薄情者なんていませんし、仮にいたとしても、そんな人、私達が絶対に旦那様の傍には近づかせません」
ニアージュは、今だ包帯に包まれたままのアドラシオンの右手を、自分の両手で包むように握り締め、アドラシオンの目を真っ直ぐに見据える。
「……。ニア。ニア……。俺は……」
一方のアドラシオンは、突如ニアージュが取った言動に戸惑いつつも、心に押し寄せて来た筆舌に尽くし難い感情に、ただただ心と声を震わせた。
アドラシオンはこの感情の名を知っている。
今この心に溢れているのは、安堵や歓喜と呼ばれる類の感情だと。
「……でも、今みたいな話は、もっとちゃんと落ち着いてから、改めて話した方がいいですね。今はまだ、旦那様も体調が万全ではないですし、そんな時に先の話をした所で、前向きな意見や建設的な話なんて出てこないものです」
ニアージュは、アドラシオンの手を包み持ったまま笑って言う。
「領地の事や仕事の事は、旦那様がもっと元気になって、普通にご飯を食べられるようになってから、アルマソンも交えて3人で相談する事にしましょう。
つまり! 今の旦那様の一番の仕事は、よく食べてよく寝てよく休んで、早く元気になる事です! アルマソンにも言い付けて、ちゃんと本調子になるまで、書類には触らせないようにしますから、そのつもりでいて下さい」
「……はは、そうか……そうだな、確かに君の言う通りだ。確かに今の俺には、気力も体力も欠けている。そんなざまで仕事や未来の話を持ち出した所で、領地や民の為になる、よりよい意見など出るはずもないな……。
分かった。ここは君の言う通り、しばらくゆっくり休ませてもらう事にするよ。……ニア、ありがとう。君がいてくれて、本当によかった……」
アドラシオンもまた、自分の手を包み込んでくれているニアージュの手を包むように握り返し、笑って答える。
ほんの少しではあるが、なんだか心が軽くなったような気がした。
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