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第8章

10話 何があっても、あなたはあなた 前編

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「旦那様! ああよかった、目が覚めたんですね!」

 マイナから知らせを受けたニアージュは、急ぎアドラシオンの部屋へ駆け付けた。文字通り、自身の調べものを途中で放り出し、走って部屋までやって来たのである。
 その早さたるや、アドラシオンも顔の包帯を巻く事ができぬまま、ニアージュを出迎えてしまったほどだ。

 軽く息が上がっているその姿を見て、どうやら妻は、本当にここまで走って来たようだと気付き、アドラシオンの顔に知らず苦笑が浮かぶ。

 貴族としての常識に照らし合わせて考えれば、その行動は淑女としては、いささか問題のある振る舞いだとも言える。だが、侍女長のマイナや家令のアルマソンを含め、今現在邸の中に、それを指摘をする者は誰もいなかった。

 なにせ、邸の者全員が気を揉んでいたさなかにもたらされた、邸の主の目覚めは、10日振りに聞くこの上ない吉報だ。
 それと比べれば、女主人がドレスの裾をたくし上げて廊下を疾駆するなど、騒ぐにも値せぬ些末な出来事でしかないのであった。

「ニア……。すまない、随分とその、君に迷惑をかけてしまったようで……」

「何言ってるんですか、もう! 旦那様がかけたのは迷惑ではなくて心配です! 間違えないで下さい!」

「う。す、すまん。悪かった、訂正する。心配かけて、すまなかった」

 妻から別角度の理由で叱られたアドラシオンは、ベッドの上で上半身を起こした格好のまま、ばつの悪そうな顔をしながら謝罪の言葉を口にし、頭を下げる。

 ついでにふと、顔に包帯を巻き直した方が、という考えが脳裏をよぎるが、そう思った時にはマイナの手によって、包帯はすっかり回収されていた。一体いつの間に、というほどの素早さだ。

 更に言うなら、回収された包帯は既に、ニコニコと微笑むマイナの手の中で、半分以上くるくると綺麗に巻き取られており、その隣にいるアルマソンも素知らぬ顔で微笑んでいた。
 双方共に、もう包帯など必要ありますまい、と言わんばかりの笑顔である。

 お陰で、包帯を巻き直したいから返してくれ、と頼めなくなってしまい、アドラシオンも思わず曖昧な笑みを浮かべた。
 こういう時は仕事の手際がいいのも考え物だ。マイナの有能さが少しばかり恨めしい。

「分かればいいんです、分かれば。でも、その件については旦那様はなんにも悪くありませんから、気にしないで下さいね。所で、お腹は空いていませんか?」

「あ、いや、今の所はまだ……。しかし、眠っていた期間が期間だ、何も口にしないのもよくない事なんだろうな。そうだ、まずは水をもらえるだろうか。喉が渇いているような気がする」

「分かりました。でも、ただの水では、なかなか身体の渇きが癒えないと思うので、特別な水をお出ししますね。マイナ、料理長に知らせて、例の水をもらって来てくれる?」

「奥様が数日間、料理長と共に調整をしながらお作りになられていた、あの水ですね?」

「ええ、その水よ。それと、米を使ったあの病人食の方も、仕込みを始めてもらうよう伝えてちょうだい。まずは重湯がいいと思うわ」

「かしこまりました、そのように伝えてまいります」

 マイナは嬉しそうな笑みを浮かべたまま頭を下げ、足早に寝室を後にした。それに合わせるかのように、アルマソンも会釈をひとつして寝室を出て行く。
 多分、残りの仕事を片付けに行ったのだろう。

 アルマソンの退室を見届けてすぐ、アドラシオンはニアージュに向き直って、ふと感じた疑問を口にする。

「ニア、特別な水というのはなんなんだ?」

「経口補水液と言って、砂糖と塩を一定の割合で溶かした水の事です。理屈は分かりませんが、普通の水より身体によく吸収されて、喉の渇きや脱水を早く癒してくれるんですよ」

「そうなのか。君は物知りだな。これもある種、農家が多い地方の、生活の知恵のようなものなのだろうか」

「え、ええ。そうですね。そのようなものです。ちなみに、経口補水液を飲んだ時の反応で、身体が脱水を起こしているかどうかもおおよそ分かります」

「ほう。どんな風に?」

「経口補水液を飲んで、美味しく感じるかどうかが目安になります。さっきも言った通り、水の中に砂糖と塩を溶かして作った溶液なので、脱水を起こしていない健康な人間が飲むと、微妙に甘じょっぱい変な味に感じるのですが、脱水を起こしている人間には、とても美味しく感じるんです。

 実際、私も子供の頃、軽い暑気中りをした時に作って飲んだんですが……目玉が飛び出るような美味しさに感じました。暑気中りが治った後にもう一回作って飲んだら、これっぽっちも美味しくなくて、首をかしげたものです」

「そうなのか……。不思議なものだな」

「ですよね。それと、そこにレモンや酸味の強いオレンジの果汁を少し加えて、風味や酸味を付けると、それこそ幾らでも飲めてしまうような美味に感じますよ。本当に不思議な事ですよね」

 ニアージュとアドラシオンが話をしていると、控えめにドアをノックする音が聞こえてきた。
 ニアージュがアドラシオンに代わって入室の許可を出すと、大きめの水差しを持ったマイナと、コップが乗った銀のトレイを持っているアナが入室してくる。

「失礼致します。料理長より、例の水を預かって参りました」

「ありがとうマイナ。それにアナも。早かったわね、とても助かるわ」

「お褒めに与り光栄でございます、奥様」

「では、私と侍女長様は下がらせて頂きますので、これ以降何かご用がございましたら、いつでもお呼び下さいませ」

「ええ、その時はよろしくね。――さ、これが噂の経口補水液ですよ、旦那様。一気には飲まないで、口の中を湿らせるように、少しずつ飲んで下さい」

 ニアージュは、サイドボードの上に置かれた水差しを手に取り、その中身をコップに半分ほど注いでからアドラシオンに手渡す。

「分かった。……。……うん、これは……確かに美味い……! この沁み入るような味もそうだが、ほのかなレモンの風味がまた……。やはり、俺は脱水を起こしていたんだな……」

「それはそうでしょう。10日も眠ったままだったんですから、身体が渇かない方がどうかしています。まだ飲めそうですか?」

「そうだな。もう少し頼む」

「はい」

 ニアージュは空になったコップに再び、最初と同量の経口補水液を注ぎ入れた。
 一方アドラシオンは、ニアージュが自分に向けてくる、暖かくも柔らかな眼差しがどうにも面映ゆくてならず、会話の最中、中途半端に視線をさまよわせる。
 火傷を負ったような有り様になった左半分の顔の事も、半ば以上頭から抜け落ちていた。


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