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第6章
3話 当事者も忘れていた話
しおりを挟むアドラシオンが自室にて、自身が犯したとんでもない失態に気付き、顔を青くしていた頃。
足の痺れが消えたニアージュは、自室に戻って日課である貴族名鑑の熟読に入っていた。
勉学などの暗記事において、ニアージュの物覚えのよさはおおよそ十人並であり、特段記憶力に秀でている訳ではない。むしろ、どちらかと言うと暗記は苦手な部類に含まれる作業だ。
中でも、人様の顔と名前を記憶に留めておく事については、通常の暗記より苦手意識が強い。
ゆえに、現時点のクロワール王国において、その総数が数千人にも及ぶ王侯貴族の顔と名前を覚える事は、ニアージュにとって非常に大変な作業だった。
そのうち、特に憶えておかねばならないのは、王族や大公家含めた上位の王侯貴族や、下位ながらも財力やネットワークに定評がある、いわゆる有力貴族と呼ばれる一族の長と伴侶、そしてその後継者と目されている人物だが、その条件に当て嵌まる者達だけでも200名を超える。
だからこそ、こうして毎日自発的に貴族名鑑を持ち出して目を通し、主要な人物達の顔と名前を、何度も何度も繰り返し頭に刷り込まねばならない。
そうでもしなければ、憶えた側から忘れてしまう。
なんとも哀しい話だが、それが現実だ。
覆しようがない凡人の限界なのである。
しかしながら、その現実に直面してなお、大切な人の為に、という思いを支えに、折れる事も腐る事もなく苦手な作業に日々取り組める事は、誰もが認めるニアージュの美点であり、紛れもない長所だと言えた。
いつもいつも、「しんどいなあ」と思いながらやっている事なので、当の本人には今ひとつ自覚がないのたが。
そんなこんなで、今日も今日とてニアージュは苦手な作業を続けていたのだが、本日の暗記作業は途中で頓挫する事となった。
まるで、この世の終わりだと言わんばかりの深刻な表情をぶら下げて、いきなり部屋にやって来たアドラシオンとアルマソンに、「誕生日がいつなのか訊くのを忘れていた」…という、大変唐突な理由で深々と頭を下げられて。
もっとも、ニアージュにはアドラシオンやアルマソンを責める気など、更々なかった。
第一、責める資格もない。何も言わずに黙っていたのは、他ならぬニアージュである。それで責める方がおかしいだろう。
よその国ではどうだか知らないが、そもそもこのクロワール王国において、平均的な年収で暮らしている平民に、ケーキやご馳走を用意して人を招き、パーティーを開いて誕生日を大々的に祝ったり、贈り物を贈ったりする習慣はない。
平民に、そんな金や時間などないのである。
特に、ケーキに使用するような新鮮な乳製品や、純度の高い小麦、砂糖は、普通の平民にはなかなか手が出ない高級品。
そんなものをポンと購入できるのは裕福な商家か、あとは王侯貴族くらいのものだ。
ごく普通の平民の誕生日と言えば、家族を始めとした誕生日を知る相手から、口頭で「おめでとう」と言ってもらえたり、あとは精々、夕飯をちょっと奮発してもらえるかどうか。
なんとも味気ない話だが、ニアージュが住んでいたような田舎の村では、上記のように祝いの言葉をかけてもらえたり、少しばかりいいものが食べられたり、という、ちょっと特別感のある扱いを受けられるだけでも恵まれている。
春先や秋口など、農家が大忙しのてんてこ舞いになる時期に生まれた者は、誕生日自体を忘れられてしまう事もザラで、場合によっては、当の本人が自分の誕生日を忘れてしまう、などという事も珍しくない。
ちなみにニアージュの誕生日は、萌芽月の末日だ。
冬場の数か月で固く締まった田畑を掘り起こし、堆肥を撒いて深く丁寧に耕して、畝を作って種を蒔き、モノによっては苗を1本1本植え付けていくという、地道な作業が目白押しの時期。
要するに、バリバリの繫忙期である。
それこそ農業に従事する男衆や女衆が、顔をしかめて「ヘドを吐くほど忙しい」と言い切るほどに。
なので、前世の記憶があるニアージュも、この国の平民が置かれている現実を幼い時分から早々に受け入れ、そのような生活を普通に続けていた。
その結果――
「あの、旦那様もアルマソンも、頭を上げて下さい。私は気にしてません。というかその、正直な話、私も自分の誕生日がいつだったんだか、いまいち憶えてないと言いますか……。
あっ、いえ、完全にド忘れしてる訳じゃないですよ? ちょっとこう、記憶がフワッとした感じになって、曖昧になってるだけで……。あの、ちょっと待ってて下さい、今思い出します。
……えーと、んーと……。そう、末日なんです、多分。いえ、末日で間違いない気がします。確か……新緑月か、萌芽月のどっちかで……。
……あのちょっと、旦那様もアルマソンも、なんでそんな悲しそうな目で私を見てるんです!? なんか私、可哀想な子みたいじゃないですか! 憶えてます、ちゃんと憶えてますから! ちょっと記憶の掘り起こしに時間がかかってるだけで……本当ですったら!」
ニアージュの境遇に、謝罪の感情と言葉も吹っ飛ぶほど、大変深い憐憫の情を憶えたらしいアドラシオンとアルマソンから、なんとも言い難い眼差しを注がれつつ、ニアージュは必死に頭を捻る。
しかし――その後結局どれだけ頑張っても、ニアージュは自身の誕生日のはっきりとした日付を思い出せず、やむなく田舎で暮らしている母親に、「私の誕生日っていつだったっけ?」…という、なんともしょっぱい内容の手紙を送る羽目になるのだった。
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