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第二章
10-1.専属奴隷の日常
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――結論から言えば、クラロの日常は平和なままだった。
決められた時間に起床し、着替え、朝食を取り、一日の大半を同じ部屋で過ごす。
多少前後するも、昼食も軽食も決まった時間に与えられ、夕食を共にして、身を綺麗にされて、就寝する。
不定期に起きるのは、休憩と称して身体を弄られることぐらいだが……やはり、平和としか言い様がない。
それはクラロが求めていた形ではなくとも、事実だけで見るなら今までで一番穏やかだとさえ思える。
不特定多数の淫魔を偽ることに尽力する必要もなければ、馬鹿馬鹿しい訛りで警戒心を解くこともなく。終わらない仕事も、己の正体が露見することへの恐怖もない。
クラロ好みに整えられたベッド。普通の奴隷には与えられない高級な服。毎食提供される食事だって、旧世代の貴族が食べていた物とほぼ同じ。
ふわふわの白パン。新鮮なバター。みずみずしいフルーツ。肉汁溢れるステーキ。『お食事会』でしか提供されないような品は、当然のようにクラロの前に並べられては下げられていく。
それだけの物を与えた対価を求められると覚悟していたのも、専属になって三日目までのこと。今のクラロに与えられた仕事は、同じ部屋で過ごすことだけ。
書類仕事を任されるわけでも、毎日身体を求められる訳でもない。現に今、クラロがいるのはウェルゼイの執務机から見て左。背を向いて置かれた二人掛けのソファーの中央。
部屋の主人は黙々と書類に向き合い、クラロは本を読み進めている……フリをして、思考に耽っている。
専属になってから、もう二週間。日数にして十四日。時間して三百時間超え。
もはや休暇と変わらぬ日々に、麻痺しきったはずの思考が気力を取り戻すには十分過ぎる時間だ。
世界は変わっていない。今も下級区域では奴隷たちがあちらこちらでお勤めしているし、上級でも何かと癖を付けてご奉仕が行われている。
廊下や壁、あるいは忘れ去られた部屋では、魔王に逆らった反逆者たちが飾られていたり、使われていたり、放置されていたり。
視界に入れようと思わなくても、ひどい有様で。いつか自分もこの一つに混ざると理解していて。
実際、クラロは逃げられず。正体は知らされ、外見も覚えられて。逃げるための手札は奪われ、無効化され、丸裸同然。
自害という唯一の希望も封じられて……なのに今、ここにいるという矛盾。
何もかもが快適で、不足もない。気疲れはあっても、これまでに比べれば些細なもの。
あるいはそう考えたいだけで、これも一種の現実逃避なのか。
それでも、どうしても頭に浮かぶのは……これまでの、どの瞬間よりも一番、
「人間っぽい生活をしてる、って顔してるッスよ」
頭上から落とされた声に肩が跳ね、それから天を仰ぎ見る。覗き込む金色がにんまりと笑い、予想通りの反応だと大変ご満悦。
背もたれを軽々と乗り越え、短すぎるメイド服の端と羽織っただけの白衣がヒラリと舞う。
軽やかな身のこなしを見ている間に、一ページも進んでいなかった本は取り上げられ、独りでに本棚へと逆戻り。
「だから言ったじゃないッスか。何もかも比べものにならないって」
こうなればアモルの方を向くしかなくなり、溜め息は殺すことなく盛大に漏らす。その間にも机の上に盛られた焼き菓子を摘まむ彼はなんとも自由気まま。
あんなにも警戒していた頃が昔のようだと目を細めても、差し出された指に食らいつく気にはなれず、唇は閉ざしたまま。
「三食おやつに昼寝つき。衣食住も揃った最高の環境ッスもん。快適に過ごせてるんじゃないッスか?」
「……否定はしません」
やんわりと餌付けを拒否し、押しのけた焼き菓子はアモルの口へ吸い込まれる。お喋りな口を防げるのは、柔いクッキーが噛み砕かれるまでのほんの数秒だけ。
「素直じゃないなぁ。まぁ、クラロ君が強情なのは今に始まった事じゃないけど……まだウェルゼイ様に許してないのはなんで?」
もし紅茶でも口に含んでいれば、机もろとも噴き出した液体に塗れて汚れていただろう。あるいは気管に入って噎せていたかだ。
クラロの手元にはなにもなく、口にしたものも一つもなく。その答えはなくても、問われた疑問への返答は決まっている。
「逆に聞きますが、奴隷を抱くのに奴隷本人の許可が必要だと?」
「そういうところッスよ、クラロ君」
やれやれと肩をすくめられ、下から覗き込むように顔を見られる。上目使いになった金色は、クラロの反応すら想定内だと笑ったまま。
「これがオイラならまだ分かるッスよ。ある意味、僕は君の両親の仇ッスから。あと君の幼馴染みになったかもしれない子とか、そのお仲間とか……まぁ、色々有効活用させてもらったッスけど。人間って、命令を下した相手より実行した相手を恨むもんじゃないんッスか?」
実際に今までの人間もそうだったしと、思い出しているのは実体験だろう。
覗かれているのは顔だけではなく、その胸に抱く感情もだ。薄い水色に浮かぶ何かを捉えようと、爛々と輝く金色に対して抱くのは疲労感。
確かに、アモルは両親の仇とも言える。罠に嵌めたのは父の親友であったが、トドメを刺したのは彼で、クラロの仲間になったかもしれない相手を今も有効活用しているのも目の前の男だ。
他の者が知れば憤怒したか、恐れたか。だが、事実をなぞられても心は動かず、じっと嗤う顔を見つめ返すばかり。
「まぁ、実際にクラロ君を躾けてるのはウェルゼイ様ッスけど……別に恨んでるわけでも嫌ってるわけでもないんでしょ?」
変化は一瞬。僅かに目が逸れ、再び戻しても深まった笑みは戻らない。
それもまた事実であるはずなのに、改めて指摘され、自覚したとは言えない。
そう。恨んではいない。人間を制圧したのは、確かにあの男の貢献が大きかったが、そうでなくとも人間は淫魔の手に落ちていただろう。
嫌っているか、と言われれば……これも、同意はできない。
そうなるだけの理由は十分過ぎるほどあるのに、胸にあるのは嫌悪でも憎悪でもない。
されど純粋な好意でもなく、眉間が狭まりそうになるのを耐えようと強張る顔に、金色は瞬く。
「まぁ、オイラは見ていて飽きないッスけど」
「アモル。遊ぶのはいいけど、報告書は?」
「ちゃんと持ってきてるッスよ~」
ほら、と掲げられる紙が視界から離れないのは、クラロの頭がソレに合わせて顎ごと持ち上げられたからだ。
まるで猫の首を撫でるように手が纏わりつき、一瞬、締められる錯覚を抱く。それが杞憂に終わると知っていても、身体の力を抜く理由には至らず。
逆さまの世界。落ちてくる赤。額に落とされる唇に、撫でられる喉から漏れる音。
眉間を撫でられたかと思えば流れるように横に座られ、そこにいたはずのアモルの姿は既に遠い。
「でも、ウェルゼイ様だって気になってるでしょ?」
「否定はしないけど、焦っても仕方ないからね。まぁ、現状に満足するつもりもないけど」
指先で躍るクッキーが、笑う口の中に消えていく。
おいしいね、と呟く素振りはどこか足りないような、でも満たされているような。そんな矛盾さえも楽しむように、赤はクラロに注がれる。
「むしろ僕らよりもクラロの方が聞きたいんじゃない? 仕事中でも遠慮しなくてもよかったのに」
ほら、今は休憩中だよと。示すようにもう一枚、甘味が噛み砕かれていく様に否定をする気力まで咀嚼されるかのよう。
今まで聞かなかったのは、タイミングが分からなかったのではない。遠慮なんてそれこそ。
ただただ疲れ、流されていただけだ。これまでも何度も問いかけ、そうして同じ答えしか返ってこなかった。
自分を犯さないのは、愛しているから。洗脳しないのも、愛しているから。いつだってそうできるのにしないのは、クラロの全部を手に入れたいから。
淫魔が人間を愛するのかと、そんな反論だってもうし飽きた。
この男は待っているのだ。クラロが諦め、受け入れる瞬間を。強情な玩具が思い通りになるその時を。
逃げ道を断ち、塞ぎ、どこにも行けないと見せつけて。それでも、まだ頷こうとしないクラロを貪るその日を、じっと。
……その強情さを呪いと称しているのなら、確かにしぶといと言える。
「俺の呪いが、本当にとけると?」
赤が瞬く。それは、クラロの想定したどの反応とも異なる、虚を突かれたからこその表情。
男にとっても想定外で。だからこそ、赤はより深く、強く歪み、笑う。
決められた時間に起床し、着替え、朝食を取り、一日の大半を同じ部屋で過ごす。
多少前後するも、昼食も軽食も決まった時間に与えられ、夕食を共にして、身を綺麗にされて、就寝する。
不定期に起きるのは、休憩と称して身体を弄られることぐらいだが……やはり、平和としか言い様がない。
それはクラロが求めていた形ではなくとも、事実だけで見るなら今までで一番穏やかだとさえ思える。
不特定多数の淫魔を偽ることに尽力する必要もなければ、馬鹿馬鹿しい訛りで警戒心を解くこともなく。終わらない仕事も、己の正体が露見することへの恐怖もない。
クラロ好みに整えられたベッド。普通の奴隷には与えられない高級な服。毎食提供される食事だって、旧世代の貴族が食べていた物とほぼ同じ。
ふわふわの白パン。新鮮なバター。みずみずしいフルーツ。肉汁溢れるステーキ。『お食事会』でしか提供されないような品は、当然のようにクラロの前に並べられては下げられていく。
それだけの物を与えた対価を求められると覚悟していたのも、専属になって三日目までのこと。今のクラロに与えられた仕事は、同じ部屋で過ごすことだけ。
書類仕事を任されるわけでも、毎日身体を求められる訳でもない。現に今、クラロがいるのはウェルゼイの執務机から見て左。背を向いて置かれた二人掛けのソファーの中央。
部屋の主人は黙々と書類に向き合い、クラロは本を読み進めている……フリをして、思考に耽っている。
専属になってから、もう二週間。日数にして十四日。時間して三百時間超え。
もはや休暇と変わらぬ日々に、麻痺しきったはずの思考が気力を取り戻すには十分過ぎる時間だ。
世界は変わっていない。今も下級区域では奴隷たちがあちらこちらでお勤めしているし、上級でも何かと癖を付けてご奉仕が行われている。
廊下や壁、あるいは忘れ去られた部屋では、魔王に逆らった反逆者たちが飾られていたり、使われていたり、放置されていたり。
視界に入れようと思わなくても、ひどい有様で。いつか自分もこの一つに混ざると理解していて。
実際、クラロは逃げられず。正体は知らされ、外見も覚えられて。逃げるための手札は奪われ、無効化され、丸裸同然。
自害という唯一の希望も封じられて……なのに今、ここにいるという矛盾。
何もかもが快適で、不足もない。気疲れはあっても、これまでに比べれば些細なもの。
あるいはそう考えたいだけで、これも一種の現実逃避なのか。
それでも、どうしても頭に浮かぶのは……これまでの、どの瞬間よりも一番、
「人間っぽい生活をしてる、って顔してるッスよ」
頭上から落とされた声に肩が跳ね、それから天を仰ぎ見る。覗き込む金色がにんまりと笑い、予想通りの反応だと大変ご満悦。
背もたれを軽々と乗り越え、短すぎるメイド服の端と羽織っただけの白衣がヒラリと舞う。
軽やかな身のこなしを見ている間に、一ページも進んでいなかった本は取り上げられ、独りでに本棚へと逆戻り。
「だから言ったじゃないッスか。何もかも比べものにならないって」
こうなればアモルの方を向くしかなくなり、溜め息は殺すことなく盛大に漏らす。その間にも机の上に盛られた焼き菓子を摘まむ彼はなんとも自由気まま。
あんなにも警戒していた頃が昔のようだと目を細めても、差し出された指に食らいつく気にはなれず、唇は閉ざしたまま。
「三食おやつに昼寝つき。衣食住も揃った最高の環境ッスもん。快適に過ごせてるんじゃないッスか?」
「……否定はしません」
やんわりと餌付けを拒否し、押しのけた焼き菓子はアモルの口へ吸い込まれる。お喋りな口を防げるのは、柔いクッキーが噛み砕かれるまでのほんの数秒だけ。
「素直じゃないなぁ。まぁ、クラロ君が強情なのは今に始まった事じゃないけど……まだウェルゼイ様に許してないのはなんで?」
もし紅茶でも口に含んでいれば、机もろとも噴き出した液体に塗れて汚れていただろう。あるいは気管に入って噎せていたかだ。
クラロの手元にはなにもなく、口にしたものも一つもなく。その答えはなくても、問われた疑問への返答は決まっている。
「逆に聞きますが、奴隷を抱くのに奴隷本人の許可が必要だと?」
「そういうところッスよ、クラロ君」
やれやれと肩をすくめられ、下から覗き込むように顔を見られる。上目使いになった金色は、クラロの反応すら想定内だと笑ったまま。
「これがオイラならまだ分かるッスよ。ある意味、僕は君の両親の仇ッスから。あと君の幼馴染みになったかもしれない子とか、そのお仲間とか……まぁ、色々有効活用させてもらったッスけど。人間って、命令を下した相手より実行した相手を恨むもんじゃないんッスか?」
実際に今までの人間もそうだったしと、思い出しているのは実体験だろう。
覗かれているのは顔だけではなく、その胸に抱く感情もだ。薄い水色に浮かぶ何かを捉えようと、爛々と輝く金色に対して抱くのは疲労感。
確かに、アモルは両親の仇とも言える。罠に嵌めたのは父の親友であったが、トドメを刺したのは彼で、クラロの仲間になったかもしれない相手を今も有効活用しているのも目の前の男だ。
他の者が知れば憤怒したか、恐れたか。だが、事実をなぞられても心は動かず、じっと嗤う顔を見つめ返すばかり。
「まぁ、実際にクラロ君を躾けてるのはウェルゼイ様ッスけど……別に恨んでるわけでも嫌ってるわけでもないんでしょ?」
変化は一瞬。僅かに目が逸れ、再び戻しても深まった笑みは戻らない。
それもまた事実であるはずなのに、改めて指摘され、自覚したとは言えない。
そう。恨んではいない。人間を制圧したのは、確かにあの男の貢献が大きかったが、そうでなくとも人間は淫魔の手に落ちていただろう。
嫌っているか、と言われれば……これも、同意はできない。
そうなるだけの理由は十分過ぎるほどあるのに、胸にあるのは嫌悪でも憎悪でもない。
されど純粋な好意でもなく、眉間が狭まりそうになるのを耐えようと強張る顔に、金色は瞬く。
「まぁ、オイラは見ていて飽きないッスけど」
「アモル。遊ぶのはいいけど、報告書は?」
「ちゃんと持ってきてるッスよ~」
ほら、と掲げられる紙が視界から離れないのは、クラロの頭がソレに合わせて顎ごと持ち上げられたからだ。
まるで猫の首を撫でるように手が纏わりつき、一瞬、締められる錯覚を抱く。それが杞憂に終わると知っていても、身体の力を抜く理由には至らず。
逆さまの世界。落ちてくる赤。額に落とされる唇に、撫でられる喉から漏れる音。
眉間を撫でられたかと思えば流れるように横に座られ、そこにいたはずのアモルの姿は既に遠い。
「でも、ウェルゼイ様だって気になってるでしょ?」
「否定はしないけど、焦っても仕方ないからね。まぁ、現状に満足するつもりもないけど」
指先で躍るクッキーが、笑う口の中に消えていく。
おいしいね、と呟く素振りはどこか足りないような、でも満たされているような。そんな矛盾さえも楽しむように、赤はクラロに注がれる。
「むしろ僕らよりもクラロの方が聞きたいんじゃない? 仕事中でも遠慮しなくてもよかったのに」
ほら、今は休憩中だよと。示すようにもう一枚、甘味が噛み砕かれていく様に否定をする気力まで咀嚼されるかのよう。
今まで聞かなかったのは、タイミングが分からなかったのではない。遠慮なんてそれこそ。
ただただ疲れ、流されていただけだ。これまでも何度も問いかけ、そうして同じ答えしか返ってこなかった。
自分を犯さないのは、愛しているから。洗脳しないのも、愛しているから。いつだってそうできるのにしないのは、クラロの全部を手に入れたいから。
淫魔が人間を愛するのかと、そんな反論だってもうし飽きた。
この男は待っているのだ。クラロが諦め、受け入れる瞬間を。強情な玩具が思い通りになるその時を。
逃げ道を断ち、塞ぎ、どこにも行けないと見せつけて。それでも、まだ頷こうとしないクラロを貪るその日を、じっと。
……その強情さを呪いと称しているのなら、確かにしぶといと言える。
「俺の呪いが、本当にとけると?」
赤が瞬く。それは、クラロの想定したどの反応とも異なる、虚を突かれたからこその表情。
男にとっても想定外で。だからこそ、赤はより深く、強く歪み、笑う。
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