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第二章

9-9.おしまいの合図 ♥

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 頭の上で飛び交う言葉は多種を極めていた。
 他愛もない近況。レジスタンスたちのこと。各地で保護している人間たちのこと。新しい研究成果。聞き覚えのあることも、ないことも関わりなく、全てクラロの意識をすり抜けていく。
 唾液と媚薬の混ざり合ったそれを嚥下した回数は数えきれず、耳鳴りの代わりに与えられる浮遊感は、まるで夢を漂っているかのようだ。
 膝立ちで耐えていられたのもいつまでだっただろう。今は男の膝に頭を預け、猫のように撫でられている。
 髪を整えるように指を滑らせたかと思えば、頭皮を引っ掻くように軽く爪を立てられる。時折耳を擽られて、鳴く代わりに小さく喘いで、繰り返し。
 その間も乳首の振動は止まらず、唸るような音は胸元から響き続けている。
 変わらない状況。終わらない会議。だが、変化は確実にクラロを蝕んでいる。
 最初は強いと思っていた刺激も、強弱が変わらなければ慣れてしまうもの。耐えられないと思っていたはずの振動だって例に漏れない。
 確かに感じているはずなのに、むず痒い。耐えられるのに意識してしまう。もしクラロにもう少し気力が残っていれば、その胸元を押しつけようとしていただろう。
 自覚したくはない。だが……感じているのに届かないと、理解している。
 これまでクラロが与えられてきたのは、強制的な絶頂と、そこに至れるだけの膨大な快楽だ。どれだけクラロ自身が嫌だと拒絶しようと、その意思ごとなぎ払い、呑み込み、沈めようとするもの。
 この『散歩』が始まってからも、そうであったはず。……なのに、その一線が越えられない。
 越えなくていいはずだ。こんなところで、こんな姿で、イっている姿を晒すなんて耐えられない。それなのに、イけないと自覚した途端に、それが頭をチラついて剥がれてくれない。
 いや、実際に振動は弱くなっているのだろう。あれだけ聞こえていた鈴の音はクラロの耳に届かず、そうと自覚できないほどに追い詰められているだけのこと。
 辛うじて残った理性が、物足りないと認めるのを拒んでも、身体は勝手に動いてしまう。
 無意識に締めつけた後孔。意識した輪郭は、始めに挿れられた時に比べて明らかに大きくなっている。
 僅かに掠めるのは、クラロが褒美と称され叩き込まれた奥。まだ直接触れられたことのない、気持ちのいい、場所。
 そう、そこは気持ちいいとクラロはもう知っている。乳首とも性器を弄られる時とも違う、何もかも真っ白になってしまうところ。
 今はまだ、掠めるだけ。力が入る度に意識してしまうだけ。だが、これ以上長引けば届いてしまうだろう。
 ダメだと頭の奥では理解しているのに。ダメだと呼びかけられる度に、頭の中がふわふわして、甘くて、疼いて、溶けていく。
 熱がわだかまり、どこにも吐き出せず。腹の奥で燻り続けて翻弄されたまま。
 恥ずかしい。逃げたい。楽に、なりたい。
 焦燥感も、願いも、恐怖も。頭を撫でられただけで有耶無耶になって、喉が鳴る。
 いつまで続くのか。いつ、終わるのか。耳を澄ませても声は言葉として認識できずに、クラロの頭を撫ぜるばかり。

「まぁ、議題としてはこのあたりかな。保護区に関しては引き続き優先して進めてほしいのと、レジスタンスの残党がいたら適当に遊んでおいてね」

 ふと、顎の下を擽られる。愛撫ではなく、猫を愛でるかのような手つき。クラロに鳴らせる喉はなくとも、塞がれた呻きはまさしく同じ。
 見上げる赤は愉しそうで、機嫌がいいことだけはわかるのに、何を考えているかまではわからない。
 いいや、そんなの最初からだと。ふわふわとした頭では当たり前のことしか浮かばず、頭を撫でられてまた身体の奥がぎゅうと疼く。
 とろりと潤む視界で、男の目がまた嬉しそうに細まって……その、繰り返し。
 気持ちいい。足りない。だめなのに。終わらない。
 膝が唾液で濡れるにも関わらず、男はずっとクラロの頭を撫でて、止まらない。

「その、ウェルゼイ様」
「……他に何かあったかな」

 聞き慣れない声は、クラロの視界に入らぬ位置から。
 この場にいるということは、重役なのには違いなく。だが、声だけでは誰かはわからず、問い返した男の声色だけで快くない相手と感じ取る。

「失礼ながら、その……お連れになっている奴隷はやはり彼奴らの――」
「君の言う通りとして、それが?」

 手が止まる。遮るように食い込んだ言葉に、少しだけ意識が戻る。
 奴隷。あやつら。その言葉の指す意味が、じわじわとクラロに焦燥感を取り戻させていく。

「差し出がましいようですが、魔王様に報告はお済みで?」

 魔王。あやつら。奴隷。――両親。
 繋がった全てに目蓋が跳ねる。弛緩していた腕が軋み、長い間固定された関節が悲鳴をあげている。
 痺れる指先から冷たい温度が流れ込んで、全身の熱を奪っていく。
 素足で触れる地面よりも冷たく、固く、凍り付きそうな心臓がけたたましく打ちつけている。
 クラロの正体に気付かれているのは、分かっていたこと。だから、その先を考えていなかったのは、置かれた状況に麻痺していたからだ。
 人間たちにとっての最後の希望。既に大半の人間は堕ちたが、それでも残しておいてはならない存在。
 脅威にはならなくとも、見せしめとして晒すにこれ以上の存在はないだろう。まだ残っているという反乱軍も、奴らに保護された村町で信じて待つ者たちにも、これで終わったのだと示すことができる。
 いいや、必要がなくてもするだろう。だって、こんな面白いことを、奴らが見逃す理由なんてない。
 だから逃げたはずなのに。だから、逃げたかったはずなのに。
 噛み締めかけた顎が、内側から撫でられて止まる。それだけで苦痛が蘇り、喉奥を埋める感覚がないのに食い留まったと気付く。
 その学習を褒めるように舌先をくるりと撫でられ、甘く吸い付かれても、背をかける感覚はクラロを宥めることはない。
 頭上から響く溜め息。跳ねた肩は撫でられ、その相手がクラロではないと指先が伝える。

「この程度でわざわざ魔王様のお楽しみを邪魔する必要が?」

 動揺は音にならずとも、肌を刺す魔力は誤魔化せない。違うのは、クラロにとっては恐怖ではなく、安堵であること。
 自分に向けられていないという一点だけで、安心にたり得るもの。
 魔力そのものに慣らされているとう事実には気付かず。気付かぬよう。目を、反らしたまま。

「あのお方はずっとあの玩具に夢中だ。邪魔をしない代わりに、他の人間は好きにしていいと命じられたのはまだ十数年前だっていうのに、もう忘れちゃったのかな」
「い、いえ! ですが、ヴェルゼイ様っ……」
「そもそも籠もったまま出てこないんだから、報告も何もないと思うけど」

 ねぇ、と同意を求めたのは後ろで笑うアモルか、それとも前髪で遊ばれているクラロだったのか。
 前者はいつものように笑い、後者はくすぐったさに耐えられずに顔を動かす。その動きが縋るようにも見えたのは誰だったのか。
 浮遊感は戻らず、現実がクラロを絡め取って離さない。晴れた思考は次々に連鎖して、思い出したくなかった事実を蘇らせる。
 魔王の玩具。今も城の奥で生きていると噂されているかつての、英雄。
 磔、実験材料、晒し者、展示。経緯こそ明かされていなくても、英雄たちの末路の大半は公開されている。それこそ、クラロでなくても皆が知っていることだ。
 その中で、唯一。噂でしか留まっていなかったもの。信憑性は高くとも、確信に至れなかったもの。否、調べようとすら思わなかったもの。
 人類が平和を取り戻すはずだった祝祭で見せしめにされた勇者と聖女。魔王を倒せる存在は、今も『奉仕』をしていると。
 老いることなく、死ぬことも許されず。いつか、新たな魔王が満足し、飽きるその日まで。
 姿形こそ、かつて見た映像で知っている。だが、今の姿をクラロは知らない。知りたくもない。
 どうして、そんな変わり果てた存在に会おうなどと思えるだろう。それこそ慰めでも、自己満足でもない、無意味なことだと分かったうえで、なぜ。
 だが、今まさにそれは真実だと、クラロを撫でる男が告げている。
 クラロを騙すためでも、その反応を愉しむためでもなく。事実だからこそ淡々と、何の意味も込めないまま。

「確かに僕が専属を付けることは滅多にないけど、だからといって誰彼構わず見せびらかせたいわけじゃないよ。この『散歩』だって、この子の自覚のためだ。それ以上でも、それ以下でもない」

 怖がる必要はないと伝えるように、後頭部を叩く手は柔らかい。する気もなければ、必要もない。だから、クラロの描く最悪はないのだと、まるでそう答えるように。
 太ももに額を擦りつけ、鼻を鳴らす。頭上から落ちてくる息まで、どこか温かい。
 錯覚だと分かっているのに。優しいなどと思える場面ではないと理解しているはずなのに、どうして安心してしまうのか。
 全部、この男のせいだと。わかっている、のに。

「そもそも、あの人だってそこまで暇じゃないだろ」
「――まぁ、随分な言い様ね」

 その瞬間を、クラロはどうたとえるべきだったのだろう。
 聞き慣れない声は、うっとりと。粘度をもった響きは、クラロの目の前から。
 そこになかったはずの影。艶やかなドレスから覗く白く長い足。見えたのはそれだけ。それだけで、十分すぎた。

「私にも、こちらを気にかけるくらいの余裕はあるのよ?」

 すぐ耳元で囁かれたような、首を絞められているような、何もかも見通されているような。全身に重くのしかかるのは、ラディアから与えられたのとは比にもならない魔力の圧。
 何もされていない。ただ、そこにいるだけ。そこに現れただけなのに、呼吸すらもままならない。
 座っていなければ。ベゼの足に頭を預けていなければ、今頃這いつくばっていただろう。それは予感ではなく、絶対的な強者を前にしての確信。
 身体の震えが止まらない。鼓動はけたたましく、今にも破裂してしまいそうな程。
 滲むのは興奮ではない、恐怖からくる冷や汗。その存在に捕捉されている事実に、もはや自分自身の制御もならない。
 それまで噂でしか知ることのなかった存在。会うわけにはいかなかった。会うはずもないと思っていた者。

「おやおや珍しい。魔王様がここまで顔を出されるとは」

 鼻で嗤うのはこの展開を愉しんでいるラディアだ。
 ベゼに苦言を申した者も、次男である男も、あのアモルでさえも驚き口を閉ざし。クラロを撫でていたウェルゼイもまた、予想もしなかった展開に硬直している。

「ウェルゼイが『お散歩』をさせているって聞いたから、珍しくて。丁度あの子たちも休ませようと思っていたし」

 クラロの視界には映らない。だが、見えている。ソレが、自分を見ていることが、見えている。
 誰よりも赤く、血のように深い赤が。この世界の誰よりも強い魔力を持った唯一の、
 この世界の支配者。人間たちの希望を奪った者。そして――クラロの両親を、誰よりも知る者。

「あー、魔王様ご機嫌麗しゅう。会えてとても光栄ですが、ちょーっと、この子たちには刺激が強すぎるかなーって」

 アモルが諭すほどには、周囲も散々な状況なのだろう。クラロは元より、他の専属奴隷も似た状況か。
 こんなの、到底人が耐えられる魔力の圧ではない。
 かの存在が女だったことなど些細なこと。ただそこにいるだけだ。いるだけで認識させられる。ソレに、勝つことは、できないのだと。

「あら、そうね。普通の子は耐えられないんだったわ」

 ごめんなさいねと謝りながらも魔力は抑えず、クスクスとわらう声は鼓膜を擽る。ゾワゾワとした痺れと、鼻から吸い込む甘い香りに、思考も目の前もぐにゃりと歪む。
 与えられる快楽よりも勝るのは、内側から叩き付けるような頭痛と恐怖。逃げなければならないという焦燥感が、力の入らない足のせいでより強く掻き立てられる。
 見つかっている。見られている。気付かれている。逃げなければいけないのに動けない。逃げられない。
 呼吸は浅く、口が塞がれていなければ歯の付け根も合っていなかっただろう。その間もクスクスと笑う声はクラロを弄び、布擦れの音は目の前へ。

「てっきり心変わりでもしたのかと思ったけど……でも、そう」

 声が近づく。匂いが、魔力が、纏わり付いて、苦しくて、怖くて。怖い、怖いのに、逃げられない。
 見られている。見つかっている。捕まっている。ダメだ。ダメなのに。このままではダメなのに――!

「あの子たちの、子どもなのね?」

 まるで無垢な少女のような響きがクラロの鼓膜を犯し、その瞬間、喉が強く締めつけられた。
 否、締めつけられたのではない。内側から満たされたのだ。舌を噛み千切らんと食いしばった歯を広げるように、クラロを犯していた触手が再び、その喉の奥まで。
 無意識に選んだ死は妨げられ、悲鳴も呻きも塞がれる。大きく身体が跳ね、恐怖と苦痛にのたうつ身体は、それでもろくに動けないまま。
 制御できない恐怖に犯され、息の仕方さえも思い出せず。音にならない悲鳴を上げ続ける様を、クスクスと笑う声は止むことはない。

「まぁ、面白い玩具ね。アモルが作ったのかしら、今度――」
「――魔王様」

 分厚い皮膚に突き立てた歯はずるりと滑り、舌先が先端を掠めると同時にむせる。
 苦しみから突然解放され、呼吸を取り戻しても震えは収まらず。再び噛まれそうになった舌は、捻じ込まれた指先によって阻まれる。
 顎は動かず、しかし呼吸は妨げられず。鉄の味が滲んで、ようやく男の指に噛み付いていると自覚し……漏れるのは、呻きとも悲鳴ともつかぬ、歪な音。

「……それ以上はご容赦を。いくらあなたでも、この子を譲るつもりはありません」

 抱き上げられ、背を撫でられ。それでも、震えは止まらないまま。いつの間にか拘束が外れていたことにも気付かず、しがみ付いていることさえ自覚していない。
 ただ、早くここから逃げたかった。早く目の前から消えたかった。手遅れだと分かっていても、早く、早く。

「あら、あの子たちと会わせるのも愉しそうと思ったけど……残念」

 少しもそうとは思っていない口ぶりで。クラロの反応も、自分が現れたことで戸惑う周囲も。そして、ウェルゼイの反応も含め。この展開も面白いのだと声を弾ませながら、ソレは謳うように紡ぐ。

「ふふ……大丈夫よ。そう怖い顔をしなくても、取ったりしないわ。だって、その子はずぅっと、あなたのお気に入りなんですものね」

 恐怖に震えていても、言葉はクラロの耳に届くし、認識もできる。
 だが、その真意を認識するよりも先に浮遊感に襲われ、疑問ごと有耶無耶になって溶けていく。

「せっかくの機会ですが、失礼致します」
「えぇ。また、遊びましょうね」

 視界が歪む。一瞬の前後不覚と、吐き気に似た感覚。そうして、そっと頭を撫でられる感触。

「クラロ」
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