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第二章
7-13.答え合わせ
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「そうだなぁ……概ねって言ったところかな。対策としてはやりすぎかと思ったけど、この分だとそうでもなかったようだし」
車輪が回る。蹄が地を蹴り、馬車はゆっくりと進む。狭い室内。向かい合う二人。二週間ぶりの再会を喜んでいるのは、片方だけ。
問われた男は、その言葉を予想していたと笑いながら答え、遅れて伝えたかった言葉を呟く。
「おかえり、クラロ。それで、君はいつ気付いたのかな?」
「……聞かなくても分かっているでしょう」
「君の話が聞きたいんだよ。だからこうして迎えに来てあげたんじゃないか」
ね? と。催促する声は、どこまで自分の予想が当たっていたか確かめたいのだと弾んでいる。
会いたくもない相手に立て続けに会わされ、正直会話する気力もない。だが、この男が簡単に解放するはずもないと、溜め息は無遠慮に溶ける。
「城に侵入されている時点でおかしいとは思いましたが、地下に入ったら確信しました。あれで気付くなっていう方が無理でしょう」
いくら警備が緩く、城壁に近いとはいえ、全く見つからないなんてあり得ない。
とっくに居場所も目的も全て把握していて、その上で泳がせ、遊んでいるのは明らか。
一本道、行き止まりの地下室。そして、反逆者たちに扮する淫魔たち。
クラロが把握しただけでも五人はいただろう。つまり、クラロの情報を手に入れた時点で既に手遅れだったのだ。
「でも、実際彼らは気付いてなかったし……そうでなくても、あんな切り札じゃ無理があったんじゃないかな」
体調を聞かれ、それには答えず。こうして今も平然としているのが何よりの証拠。
確かに人間相手なら効くだろう。淫魔に対しても、多少の効果はある。
だが、解毒剤を使う程度……つまり、クラロの防衛魔術が発動しない程度の効果でしかなかった。
人間の致死量を超えられない媚薬が、淫魔相手に効くはずがない。そう、彼らは淫魔に対する認識があまりにも弱すぎたのだ。
クラロが加勢したところで、そんな考えでは結局無駄に終わっただろう。そんな不毛な戦い、誰が味方しようか。
本来はそうするべきだったとしても。
……これが、人間に残された最後のチャンスであっても。
「今頃はアモルが試飲してるんじゃないかな。ひどい味だろうね。局長とはいえ、好んで飲める味じゃないと思うけど」
「局長?」
「あぁ、知らなかったかな。僕の補佐っていうのは彼の趣味で、本業は研究所の責任者ってやつだよ。君のスライム作りを担当したのも彼だ」
嫌な記憶が掘り起こされ、眉を寄せる。単純な王室付きのメイドとは思っていなかったが、趣味でできるほど暇な立場でもないだろう。
突っ込めばいいのか、呆れればいいのか。はたまた、気付かなかった自分に何か思えばいいのか。答えは出ず、溜め息すら出ない。
「最近は奴隷の仕置きぐらいしかすることもなかったし、籠もってばかりだと新しい開発のイメージも湧かないし……ああ、でも暫くは楽しめるんじゃないかな」
ほら、と見せられる光の中。映るのは、先ほどまでいたあの暗い地下。
喚く聖騎士の息子と、勇気づけられている他の反逆者たち。そして、その中に潜んでいる淫魔。
『彼の誤解をっ……いや、彼の傷さえ癒やすことができれば、私たちは――!』
勝手な言いように、それこそ息もでない。
この分では、あの映像も都合よく解釈したのだろう。作られたのだと、騙されたのだと。
そもそも、彼らにそんな小細工など必要ないということを、彼らは今から気付くのだろう。
「……だ、そうだけど。よかったのかい?」
むしろ問いかける赤の方が鋭く、強く。クラロよりも怒りを抱いているように見えて、分かりきった答えを鼻で嗤う。
「仲間になっていたら、そのまま犯せたのに?」
「前から言っている通り、僕は君を愛したいからまだ抱けない。お仕置きはしただろうけどね。……それに、僕が聞いてるのはそっちじゃないよ」
目線は光から赤に。見据える瞳が、クラロの真意を問う。
本当にこのまま見捨てていいのか。今ならまだ間に合うかもしれないと。人間の最後の希望を、彼らを、本当に摘み取ってしまってもいいのかと。
まるで選択権があるかのように。まだ、間に合うとでも言うように。
ここでクラロが静止をかけて、本当に止まったとして。それで、彼らに未来はあるのだろうか。
見逃されて、そのまま逃げたとして。今度こそ、淫魔たちを上回ることが、できるのだろうか。
――否。
「……警告、は……しました、から」
ハッキリと伝えたはずの声が、僅かに強張る。その事実に驚き、怯み、余計にたどたどしくなる響きを直すこともできず。それでも、言い切る。
そう、クラロはもう伝えた。彼らができる最善を伝え、真相を明かし、彼らが無事であるための道だって指し示した。
それでも気付かなかったのなら。その事実から目を逸らし、ただ破滅へ向かおうとするのなら、クラロにできることは何もない。
「あの数時間、話を聞いただけでも分かることばかりだ。それに気付かないままであれば、どれだけ時間をかけたって……俺が、手を貸したところで、結果は変わらなかった」
説明というよりも、言い訳に近い羅列。納得させたい相手などいないのに、いたとしたって聞いてくれないと分かっているのに。
もはやクラロは、人間にとっては裏切り者。そうだと納得して逃げて、逃げ続けて、最期をただ待っているだけなのに。誰にも理解はされないと分かっているのに。
そう、だから。それは……それは、クラロ自身が、己に向けての言葉で。
「……もう、手遅れですから」
出会いがもし早かったら。クラロが真実に、父が親友に裏切られたのだと知る前だったなら。城に身を隠そうと決意する前なら。村を飛び出してすぐに出会えたなら。奴らが来る前に、なんとかして接触できていたのなら。
……違う。違う、違う! どのタイミングであっても、こうなることは避けられなかった!
クラロが村を飛び出す前から。その前からもう、とっくに――!
「そうだよ、クラロ」
喧しい光が消え、一瞬だけ暗く感じた視界。無意識に手を握り締めていたと気付いたのは、その上から重なる感触があったから。
払いのけるはずだった手は、与えられる温もりに硬直したまま。その手が震えていることも、冷えていたことも、全部、伝えられる。
「彼らの観測は、王都を制圧した後から今までずっと続いていたこと。彼らの行動範囲こそ縮めたけど、行動そのものを抑止したことはない」
指は絡まず、ただ上に乗せられているだけ。それなのに動けず、目を逸らすこともできず。口を閉ざしたのは、歪な息を少しでも整えたかったから。
「彼らがその気になれば、勇者の仲間が裏切ったことも知れたし、今も彼が飾られている場所に向かうことだってできた。あんな媚薬が手に入ることも、あんな逃げ場のない場所だけが残されていたことも、定期的に外に出ているのに無事でいられたことだって、少し考えればおかしいと気付いたはずだ」
音が響く。振り払えぬ手の中ではなく、クラロの奥歯から。やめろと、叫びたくなる衝動ごと噛み潰す音が。
優しく、柔らかく、ただクラロを肯定するだけの。あまりにもひどすぎる響き。流し込まれる誘惑に、拒絶を音にできない。
理解などしていない。この男は、ただクラロを引き摺り込みたいだけだ。
信じてはいけないと分かっているのに。柔く、胸の奥がこじ開けられていく感覚に、息がままならない。
「君の故郷に向かったと聞いて、君の情報が彼らに伝わって、こうなると予想した。アモルを介入させたのはその時からだけど、遅かれ早かれ彼らはこうなっていたんだよ。ただ、その時が早まっただけだ、クラロ」
肩を叩かれ、撫でる動きに合わせて呼吸をする。痺れている頭の奥、酸素と共に巡る温もりを、拒否することが、できない。
「君が加入しようと、見捨てていても、真実を伝えたとしても、何をしても、してなくても、彼らはこうなっていた。この一連に君は何も関係ない。君は警告し、彼らはそれを無視した。……これは、それだけの話なんだよ、クラロ」
やがて手が離れ、距離は戻り、解放されて。覗き込む顔が、いつも通りの笑みに戻る。
汗ばんだ前髪の感触が不快だと気付けば、もう震えも寒さもなく。落ち着かされたことに、もはや何を抱けばいいのか。
「……エリオットが、誘拐されたのは」
「あれは想定外かな。君があの場所に連れて行かれるとしたら、誘拐しかないと思ってたんだけど……ソレも含めて、彼には適当にお仕置きするように伝えてあるよ。まぁ、一週間か二週間ぐらい飾っておけば十分かな」
余計なことも話していたようだしと、肩をすくめる動作にそれ以上の意図はなく。
エリオットの無事は予想していた通りでも、彼らについての今後は不明なまま。否、分からないままがいいのだろう。もう関わることはないのだから。
……もう、二度と。
「それより、プレゼントは役に立ったかな?」
再び握り締めていた手。もうほとんど違和感を抱かない薬指。役目を果たしきった道具は、ただの装飾品と成り果てている。
クラロがずっと確かめたかったこと。見なければならなかった光景。話を聞かぬ彼らへの、ささやかな仕打ち。
予想されていたこととはいえ、あの苦痛が終わったのはコレのおかげでもある。
だからといって、感謝できる物ではない。
「……ええ、とても」
もう使い終わったものだと、抜き取ろうとした指輪はビクリとも動かない。
まるで皮膚にくっついてしまったかのように、動いている気配も痛みさえもなく。
「そのまま持っていてよ。もう映像は見えないけど、君のために作ったものだから」
無理矢理外そうとするクラロに、笑みは変わらず向けられたまま。むしろ、今まで律儀に着けていたことを喜ぶようにすら見えてくる。
……つまり、最初から外したくとも外せなかったということ。
「悪趣味な……」
「そう? せっかくだから、お揃いの指輪も作ろうと思ったんだけど……亜麻色の留め具に、薄い水色の石とかどうかな?」
それこそまさに悪趣味だと睨み付ければ、前髪に阻まれて見えないはずなのにクスクスと笑われ、何もかもがこの男の手の上で転がされたまま。
王城から大して離れていないはずなのに馬車はまだ止まらず、迂回していることも明らか。
「さて、一通り話も済んだし……そろそろお仕置きしないとね」
「……は?」
あとどれだけこの時間が続くのかと漏らしたはずの息がそんな音に変わる。
聞き間違えていなければ、仕置きと聞こえたが……。
「無許可な外出と、反逆者への接触。懲罰を受けるには十分な理由だよね?」
「それはあんたがっ……!」
「僕が? なに?」
反射的に噛み付き、しかし言葉に詰まったのは、彼は何もしていないからだ。
予見し、対策こそとったが、実際に行動したのはクラロの独断。
エリオットを無視してもよかったのに、ノコノコとついっていったのはクラロ自身。
この男は、それを見ていただけ。……こうなることも含めて、全て想定内のこと。
「別に僕としてはどっちでもいいんだけど……後輩君と同じ懲罰を受けるのと、ここで大人しくお仕置きされておしまいにするのと、どっちがいい?」
明らかに片方しか選べない天秤に意味があるとすれば、それはクラロの感情と男の欲を満たす課程にあるのだろう。
「淫魔サマ直々にオラを罰すていただけるなんて、そんな恐れ多い――」
「あぁ、ペーターとして罰されたい?」
「……いいえ、俺を、お願いします」
せめてもの抵抗に訛りで話しかけても、結局は従う他なく。その過程すら愉しまれてしまえば、結局は逆効果。
舌を打つのを辛うじて堪えたところで意味はなく、いい子だと伸ばされた手に身が強張る。
「おいで」
だが、触れることなく。むしろクラロから来るよう赤に促され、隣に下ろそうとした身体は、腕を取られたせいで男の膝に。
いくら通常の馬車より広いとはいえ、横抱きにされては狭く。抱え込まれては身動きもとれない。
……というより、それは背中を抱きしめる男も同じのはずで。
「っ、なに……」
「お城に着くまで、このままね」
背から頭に昇る手が撫でるのは髪だけで、耳も首も掠めることなく。再び戻った指が刻むリズムは、到底愛撫と呼ぶには似つかわしくないもの。
むしろ宥めるような、親が子を寝かせつけるような、そんな歪なもので。
「だから、何して……」
「お仕置きなのにキスを強請るなんて、悪い子だね」
咄嗟に口をつぐみ、顔を背け。だが、下りてくるのは唇ではなく、それ以上に柔い笑い声だけ。
遠回しに喋るなと言われ、されど何かをされるわけでもなく。ただ変わらぬリズムと伝わる温度に、強張っていた身体からも力が抜けていく。
微睡み始めたのは、また魔法をかけられているのか。だとしても抗う方法はなく、こじ開けていた目蓋が次第に重たくなっていく。
「頑張ったね、クラロ。いい子。……いい子」
怒りを抱く気力はとうになく、頭を撫でられる感覚だけが心地いい。安心していい相手ではないのに。そう分かっているのに、柔らかい声がクラロの奥に染みこんでくる。
「もう大丈夫。もうなにも怖くないからね。……だから、おやすみ、クラロ」
やがて響く安らかな寝息に、赤がどう微笑んだのか。終ぞクラロが知ることはなく、馬車はゆっくりと進み続けたのだ。
車輪が回る。蹄が地を蹴り、馬車はゆっくりと進む。狭い室内。向かい合う二人。二週間ぶりの再会を喜んでいるのは、片方だけ。
問われた男は、その言葉を予想していたと笑いながら答え、遅れて伝えたかった言葉を呟く。
「おかえり、クラロ。それで、君はいつ気付いたのかな?」
「……聞かなくても分かっているでしょう」
「君の話が聞きたいんだよ。だからこうして迎えに来てあげたんじゃないか」
ね? と。催促する声は、どこまで自分の予想が当たっていたか確かめたいのだと弾んでいる。
会いたくもない相手に立て続けに会わされ、正直会話する気力もない。だが、この男が簡単に解放するはずもないと、溜め息は無遠慮に溶ける。
「城に侵入されている時点でおかしいとは思いましたが、地下に入ったら確信しました。あれで気付くなっていう方が無理でしょう」
いくら警備が緩く、城壁に近いとはいえ、全く見つからないなんてあり得ない。
とっくに居場所も目的も全て把握していて、その上で泳がせ、遊んでいるのは明らか。
一本道、行き止まりの地下室。そして、反逆者たちに扮する淫魔たち。
クラロが把握しただけでも五人はいただろう。つまり、クラロの情報を手に入れた時点で既に手遅れだったのだ。
「でも、実際彼らは気付いてなかったし……そうでなくても、あんな切り札じゃ無理があったんじゃないかな」
体調を聞かれ、それには答えず。こうして今も平然としているのが何よりの証拠。
確かに人間相手なら効くだろう。淫魔に対しても、多少の効果はある。
だが、解毒剤を使う程度……つまり、クラロの防衛魔術が発動しない程度の効果でしかなかった。
人間の致死量を超えられない媚薬が、淫魔相手に効くはずがない。そう、彼らは淫魔に対する認識があまりにも弱すぎたのだ。
クラロが加勢したところで、そんな考えでは結局無駄に終わっただろう。そんな不毛な戦い、誰が味方しようか。
本来はそうするべきだったとしても。
……これが、人間に残された最後のチャンスであっても。
「今頃はアモルが試飲してるんじゃないかな。ひどい味だろうね。局長とはいえ、好んで飲める味じゃないと思うけど」
「局長?」
「あぁ、知らなかったかな。僕の補佐っていうのは彼の趣味で、本業は研究所の責任者ってやつだよ。君のスライム作りを担当したのも彼だ」
嫌な記憶が掘り起こされ、眉を寄せる。単純な王室付きのメイドとは思っていなかったが、趣味でできるほど暇な立場でもないだろう。
突っ込めばいいのか、呆れればいいのか。はたまた、気付かなかった自分に何か思えばいいのか。答えは出ず、溜め息すら出ない。
「最近は奴隷の仕置きぐらいしかすることもなかったし、籠もってばかりだと新しい開発のイメージも湧かないし……ああ、でも暫くは楽しめるんじゃないかな」
ほら、と見せられる光の中。映るのは、先ほどまでいたあの暗い地下。
喚く聖騎士の息子と、勇気づけられている他の反逆者たち。そして、その中に潜んでいる淫魔。
『彼の誤解をっ……いや、彼の傷さえ癒やすことができれば、私たちは――!』
勝手な言いように、それこそ息もでない。
この分では、あの映像も都合よく解釈したのだろう。作られたのだと、騙されたのだと。
そもそも、彼らにそんな小細工など必要ないということを、彼らは今から気付くのだろう。
「……だ、そうだけど。よかったのかい?」
むしろ問いかける赤の方が鋭く、強く。クラロよりも怒りを抱いているように見えて、分かりきった答えを鼻で嗤う。
「仲間になっていたら、そのまま犯せたのに?」
「前から言っている通り、僕は君を愛したいからまだ抱けない。お仕置きはしただろうけどね。……それに、僕が聞いてるのはそっちじゃないよ」
目線は光から赤に。見据える瞳が、クラロの真意を問う。
本当にこのまま見捨てていいのか。今ならまだ間に合うかもしれないと。人間の最後の希望を、彼らを、本当に摘み取ってしまってもいいのかと。
まるで選択権があるかのように。まだ、間に合うとでも言うように。
ここでクラロが静止をかけて、本当に止まったとして。それで、彼らに未来はあるのだろうか。
見逃されて、そのまま逃げたとして。今度こそ、淫魔たちを上回ることが、できるのだろうか。
――否。
「……警告、は……しました、から」
ハッキリと伝えたはずの声が、僅かに強張る。その事実に驚き、怯み、余計にたどたどしくなる響きを直すこともできず。それでも、言い切る。
そう、クラロはもう伝えた。彼らができる最善を伝え、真相を明かし、彼らが無事であるための道だって指し示した。
それでも気付かなかったのなら。その事実から目を逸らし、ただ破滅へ向かおうとするのなら、クラロにできることは何もない。
「あの数時間、話を聞いただけでも分かることばかりだ。それに気付かないままであれば、どれだけ時間をかけたって……俺が、手を貸したところで、結果は変わらなかった」
説明というよりも、言い訳に近い羅列。納得させたい相手などいないのに、いたとしたって聞いてくれないと分かっているのに。
もはやクラロは、人間にとっては裏切り者。そうだと納得して逃げて、逃げ続けて、最期をただ待っているだけなのに。誰にも理解はされないと分かっているのに。
そう、だから。それは……それは、クラロ自身が、己に向けての言葉で。
「……もう、手遅れですから」
出会いがもし早かったら。クラロが真実に、父が親友に裏切られたのだと知る前だったなら。城に身を隠そうと決意する前なら。村を飛び出してすぐに出会えたなら。奴らが来る前に、なんとかして接触できていたのなら。
……違う。違う、違う! どのタイミングであっても、こうなることは避けられなかった!
クラロが村を飛び出す前から。その前からもう、とっくに――!
「そうだよ、クラロ」
喧しい光が消え、一瞬だけ暗く感じた視界。無意識に手を握り締めていたと気付いたのは、その上から重なる感触があったから。
払いのけるはずだった手は、与えられる温もりに硬直したまま。その手が震えていることも、冷えていたことも、全部、伝えられる。
「彼らの観測は、王都を制圧した後から今までずっと続いていたこと。彼らの行動範囲こそ縮めたけど、行動そのものを抑止したことはない」
指は絡まず、ただ上に乗せられているだけ。それなのに動けず、目を逸らすこともできず。口を閉ざしたのは、歪な息を少しでも整えたかったから。
「彼らがその気になれば、勇者の仲間が裏切ったことも知れたし、今も彼が飾られている場所に向かうことだってできた。あんな媚薬が手に入ることも、あんな逃げ場のない場所だけが残されていたことも、定期的に外に出ているのに無事でいられたことだって、少し考えればおかしいと気付いたはずだ」
音が響く。振り払えぬ手の中ではなく、クラロの奥歯から。やめろと、叫びたくなる衝動ごと噛み潰す音が。
優しく、柔らかく、ただクラロを肯定するだけの。あまりにもひどすぎる響き。流し込まれる誘惑に、拒絶を音にできない。
理解などしていない。この男は、ただクラロを引き摺り込みたいだけだ。
信じてはいけないと分かっているのに。柔く、胸の奥がこじ開けられていく感覚に、息がままならない。
「君の故郷に向かったと聞いて、君の情報が彼らに伝わって、こうなると予想した。アモルを介入させたのはその時からだけど、遅かれ早かれ彼らはこうなっていたんだよ。ただ、その時が早まっただけだ、クラロ」
肩を叩かれ、撫でる動きに合わせて呼吸をする。痺れている頭の奥、酸素と共に巡る温もりを、拒否することが、できない。
「君が加入しようと、見捨てていても、真実を伝えたとしても、何をしても、してなくても、彼らはこうなっていた。この一連に君は何も関係ない。君は警告し、彼らはそれを無視した。……これは、それだけの話なんだよ、クラロ」
やがて手が離れ、距離は戻り、解放されて。覗き込む顔が、いつも通りの笑みに戻る。
汗ばんだ前髪の感触が不快だと気付けば、もう震えも寒さもなく。落ち着かされたことに、もはや何を抱けばいいのか。
「……エリオットが、誘拐されたのは」
「あれは想定外かな。君があの場所に連れて行かれるとしたら、誘拐しかないと思ってたんだけど……ソレも含めて、彼には適当にお仕置きするように伝えてあるよ。まぁ、一週間か二週間ぐらい飾っておけば十分かな」
余計なことも話していたようだしと、肩をすくめる動作にそれ以上の意図はなく。
エリオットの無事は予想していた通りでも、彼らについての今後は不明なまま。否、分からないままがいいのだろう。もう関わることはないのだから。
……もう、二度と。
「それより、プレゼントは役に立ったかな?」
再び握り締めていた手。もうほとんど違和感を抱かない薬指。役目を果たしきった道具は、ただの装飾品と成り果てている。
クラロがずっと確かめたかったこと。見なければならなかった光景。話を聞かぬ彼らへの、ささやかな仕打ち。
予想されていたこととはいえ、あの苦痛が終わったのはコレのおかげでもある。
だからといって、感謝できる物ではない。
「……ええ、とても」
もう使い終わったものだと、抜き取ろうとした指輪はビクリとも動かない。
まるで皮膚にくっついてしまったかのように、動いている気配も痛みさえもなく。
「そのまま持っていてよ。もう映像は見えないけど、君のために作ったものだから」
無理矢理外そうとするクラロに、笑みは変わらず向けられたまま。むしろ、今まで律儀に着けていたことを喜ぶようにすら見えてくる。
……つまり、最初から外したくとも外せなかったということ。
「悪趣味な……」
「そう? せっかくだから、お揃いの指輪も作ろうと思ったんだけど……亜麻色の留め具に、薄い水色の石とかどうかな?」
それこそまさに悪趣味だと睨み付ければ、前髪に阻まれて見えないはずなのにクスクスと笑われ、何もかもがこの男の手の上で転がされたまま。
王城から大して離れていないはずなのに馬車はまだ止まらず、迂回していることも明らか。
「さて、一通り話も済んだし……そろそろお仕置きしないとね」
「……は?」
あとどれだけこの時間が続くのかと漏らしたはずの息がそんな音に変わる。
聞き間違えていなければ、仕置きと聞こえたが……。
「無許可な外出と、反逆者への接触。懲罰を受けるには十分な理由だよね?」
「それはあんたがっ……!」
「僕が? なに?」
反射的に噛み付き、しかし言葉に詰まったのは、彼は何もしていないからだ。
予見し、対策こそとったが、実際に行動したのはクラロの独断。
エリオットを無視してもよかったのに、ノコノコとついっていったのはクラロ自身。
この男は、それを見ていただけ。……こうなることも含めて、全て想定内のこと。
「別に僕としてはどっちでもいいんだけど……後輩君と同じ懲罰を受けるのと、ここで大人しくお仕置きされておしまいにするのと、どっちがいい?」
明らかに片方しか選べない天秤に意味があるとすれば、それはクラロの感情と男の欲を満たす課程にあるのだろう。
「淫魔サマ直々にオラを罰すていただけるなんて、そんな恐れ多い――」
「あぁ、ペーターとして罰されたい?」
「……いいえ、俺を、お願いします」
せめてもの抵抗に訛りで話しかけても、結局は従う他なく。その過程すら愉しまれてしまえば、結局は逆効果。
舌を打つのを辛うじて堪えたところで意味はなく、いい子だと伸ばされた手に身が強張る。
「おいで」
だが、触れることなく。むしろクラロから来るよう赤に促され、隣に下ろそうとした身体は、腕を取られたせいで男の膝に。
いくら通常の馬車より広いとはいえ、横抱きにされては狭く。抱え込まれては身動きもとれない。
……というより、それは背中を抱きしめる男も同じのはずで。
「っ、なに……」
「お城に着くまで、このままね」
背から頭に昇る手が撫でるのは髪だけで、耳も首も掠めることなく。再び戻った指が刻むリズムは、到底愛撫と呼ぶには似つかわしくないもの。
むしろ宥めるような、親が子を寝かせつけるような、そんな歪なもので。
「だから、何して……」
「お仕置きなのにキスを強請るなんて、悪い子だね」
咄嗟に口をつぐみ、顔を背け。だが、下りてくるのは唇ではなく、それ以上に柔い笑い声だけ。
遠回しに喋るなと言われ、されど何かをされるわけでもなく。ただ変わらぬリズムと伝わる温度に、強張っていた身体からも力が抜けていく。
微睡み始めたのは、また魔法をかけられているのか。だとしても抗う方法はなく、こじ開けていた目蓋が次第に重たくなっていく。
「頑張ったね、クラロ。いい子。……いい子」
怒りを抱く気力はとうになく、頭を撫でられる感覚だけが心地いい。安心していい相手ではないのに。そう分かっているのに、柔らかい声がクラロの奥に染みこんでくる。
「もう大丈夫。もうなにも怖くないからね。……だから、おやすみ、クラロ」
やがて響く安らかな寝息に、赤がどう微笑んだのか。終ぞクラロが知ることはなく、馬車はゆっくりと進み続けたのだ。
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