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第一章

6-3.朝這い ♥

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 息は喉の奥に潰れ、呼吸が止まる。聞き苦しい異音に重なる穏やかな笑い。見開いた視線の先、それは、そこにいた。
 一つしかない椅子の上。照らす朝日の眩しさを、どこまでも深い黒が吸収している。
 身体は前に。顔だけはクラロの方へ。そうして重なった赤が穏やかに笑う。
 その目覚めを。クラロが自分に気付くこの瞬間こそを待ちわびていたのだと、隠すことなく。

「君のことだから、どこかにあるとは思っていたけど……対策しておいてよかった」

 整然と片付けてあったはずの机は、どれもクラロの見覚えのある瓶に埋め尽くされていた。
 聖水。魔除けのオイル。対魔物用の薬草。クラロの平穏を守るための全て。
 その一つが机に戻され、ようやく男が立ち上がる。無意識に逃げようとした身体はベッドに縫い付けられたまま。一ミリだって、逃げられない。

「おはよう、クラロ。怖い夢でも見ていたのかな?」

 柔らかな笑み、穏やかな挨拶。朝に相応しい、だけど明らかに異様なもの。
 ここでなければ受け入れられた。ここがクラロの自室で、そこにいるはずのない男から紡がれたものでなければ。

「なん、で、」
「寝ている間魘されていたし、ちょっと泣いていたからね。ああ、叫んではいなかったけど――」
「そうじゃないっ!」

 叫び、睨み、それでも身体は縫い付けられたまま。どれだけ拳を握りたくとも、包み込む軟体が柔らかく締め付ける。
 宥めるように手の平を舐め、じゃれつくように腕を撫でる。
 ゾワゾワとして、熱くて、気持ち悪くて。だけど、逃げられない。逃がさないと、突きつけられている。

「落ち着いて、クラロ。……あぁ、スライムに包まれるのは初めてだったのかな?」

 取り乱している理由を分かりきった上で、見つめる男が見当違いなことを言う。表面を撫でられた異物はふよんと跳ねて、その波紋が伝わる感覚に息が弾む。

「大丈夫、この子はそこらの床に這っているのとは違う、生まれたばっかりの子だよ。クラロ専用のね」

 だからこんなに透き通っているだろうと、示された中に不純物はない。
 澄み切った薄青色、鮮明に見える核。クラロの日常で見かけるどの個体よりも綺麗で、彼の言ったことは嘘ではないのだろう。
 否、むしろ嘘であればよかったと揺れる瞳に、赤は笑う。

「なにを、言って……」
「君がいつも使ってるの、これとこれだよね?」

 魔法で引き寄せた瓶、大きさもデザインも異なるそれは、クラロの日常を守るためのもの。
 聖水と魔除けのオイル。男が知っているはずのない、大切な物。

「君に残っていた魔力の残滓と、この間採取した汗と普段の匂い。特定するのに時間がかかったけど、概ね合ってたみたいだね」

 ペッ、と吐き出された聖草が、そのまま男の手に渡る。葉を揉み、匂いを嗅ぎ、少し眉をしかめて……でも、それだけ。

「念のため他の薬草にも慣らしていてよかった。僕はともかく、スライムみたいな下級生物だと、普通は耐えられないからね」

 これも入れていた? と、掲げられても答えられず。その反応も分かっていたと、男は笑ったまま。

「で、無事にスライムも生まれて、耐性が付いていることも確認した。仕事を片付けるのに時間がかかっちゃったけど、これで一ヶ月は大丈夫かな。そもそも仕事なんて無いようなものだけど」

 寄せた椅子はクラロの横、その姿を眺められる特等席へ。ゆったりと足を組み、膝に手を置く姿一つさえも、楽しさを表しているように。
 そう、彼は。この男は。このバケモノは、楽しんでいる。

「僕がここにいるのは、待ちきれなくて夜這いしに来たからだよ。ああ、この場合だと朝這いになるのかな? 意味としてはどっちでも同じだけどね」

 あはは、と笑う瞳が歪む。蔑みも、哀れみもなく。本当に楽しいのだと、待っていたのだと。
 子どものように無邪気に、男は笑い、クラロに囁く。

「待たせてごめんね、クラロ。これで、心置きなく遊べるよ」

 ――クラロの終わりは、今日なのだと。
 
 理解よりも早く、感情よりも先に、身体が動いていた。
 それは、クラロに流れる聖女の血が駆り立てた衝動。すり込まれた無意識による、そうしなければならないという脅迫概念。
 勝ち負けや耐えきるという段階は、もはや通り越していた。
 クラロは理解していた。淫魔から逃げ切ることはできないのだと。どこに隠れていようと、どれだけ身を潜めていようと、いつかはこうなると。
 いかに対策しようと、それが愚かだと分かっていても、クラロにはそうするしかなかった。この場所で、最も遠ざかるべき場所で、茶番を続ける以外には。
 立ち向かう力も、自ら死を選ぶ勇気もなく。無意味に耐え続けること以外には、何も。
 だが、クラロはその理由を得た。クラロはこれを、これこそを、待っていた。
 自分を許せる理由を与えられる、この瞬間こそを。

 突き出した舌、根元に食い込む歯。噛みきろうとした肉は、されど微かな痛みさえも与えられず。
 開いたままの口腔に捻じ込まれる異物。喉の奥まで貫く圧迫感を冷たいと思っていたのは、自害を妨げられたと理解するまでの一瞬。
 じゅう、と。燃えるような熱さ、爛れる幻覚。そう錯覚するほどの、媚毒。
 呻き、叫び、喚く。音は全てごぽごぽと弾け、暴れ回る舌が締めつけられてビクリと跳ねた。
 上顎も、舌の裏側も、触れる全てが舐められて、その小さな動き一つでさえも光が散る。
 一方的に与えられる快楽と、喉を埋め尽くされる息苦しさ。流し込まれる液体を嚥下する度に、包まれた身体が無様に跳ねる。
 光が、波が、頭の中でわだかまって、視界が明滅して戻らない。
 耐えられない。なのに逃げられない。死ねない。逃げられない。逃げられない。逃げられない!
 恐怖が混乱ごと掻き混ぜられて、悲鳴はスライムの中。到底人が耐えられぬ毒はその身を犯し、歪な喘ぎさえも、泡になって消える。
 甲高い耳鳴り。首の後ろが痛む感覚。そうして――頭が弾けた。
 そう思った瞬間に、全ての熱が引いていく。
 それまでが何事もなかったように。目の前に散る光だけが、その異常さを残している。
 射精を伴わない絶頂と、許容量を超えた毒による自己回復。
 指先まで支配する疲労感に息を吐いて……口の中が開放されたことを、今更自覚する。

「駄目だよクラロ。君と話もしたいんだ。塞がれたままなんて、クラロも嫌だろう?」

 汗ばむ髪を撫で、涙に濡れる目を拭われる。そうして無数の光の中、照らされる男にあるのは変わらぬ笑顔。
 全てが想定通り。全て、この男の手の中。

「媚毒の濃度は丁度良かったみたいだね。弱すぎると君のそれは発動しないし、強すぎたら反応するよりも先に君の身体が駄目になるし。こんなところで記録が役に立つとは思わなかったな」

 まだ軽い絶頂に浸り、抜け出せないクラロを眺める目に浮かぶのは懐かしさ。
 言葉だけなら勘違いできた。それだけの間、自分は観察されていたのだと。これまでの戯れから突き止められたのだと。
 だが、それはクラロではなく、違う相手。クラロと同じ体質を持つ、たった一人。

「舌を噛み切ろうとするところも、そっくりだったよ」
「――せ、先輩」

 どこまでも懐かしむ声に、返したのはクラロの怒りではない。
 控えめなノックの音。薄い扉越しに聞こえる、耳慣れた声。
 縋り付く指を思い出させるように首を撫でられ、冷たく、熱い感触がなくとも返事はできなかっただろう。

「その、早くにすみません。き……昨日の誤解を、解きたくて」

 エリオットの言葉で、普段の起床時間より早いのだと知っても、それがクラロに何の意味をもたらしたのか。
 声色が助けを求める夢と重なり、ただでさえ固い身体が硬直する。
 出ないのではなく、出られない。動けないのだから、反応しなくてもいい。
 そもそも、こんな姿など見られたくはないと。固く閉ざした唇に覆い被さるのは、柔らかな異物。
 また入り込まれると震えたが、スライムはクラロの口と目を塞ぐだけで止まる。視覚が封じられ、過敏になった耳に届く様々な音。
 蠢く軟体。自分の鼓動。遠ざかる足。――扉の、開く、音。

「――え、っ」
「おはよう、随分と早起きだね」

 見えずとも、エリオットの動揺は想像できる。いるはずのない場所に、いてはならない者。だというのに、穏やかに挨拶をしてきているのだ。
 エリオットでなくとも混乱していただろう。……その男の後ろ、スライムに取り込まれているクラロが見えていれば、余計に。

「せ……せんぱっ……!?」
「あぁ、ペーターに用があったの? 悪いけど、今日一日は無理かな。何日かかるかはこの子次第だけど……ね、ペーター?」
「っ……ん……!」

 問われ、貫くはずだった沈黙が、くにゅりと胸を揉まれたせいで破られる。
 愛撫と呼ぶには、あまりにも弱すぎる接触。だが、皮膚から染みこむ毒は、再びクラロを追い立てようとしている。
 捩った身体は、やはり動けないまま。それどころか、包まれた他の箇所まで弱々しく揉まれて、痺れが全身に広がっていく。

「急ぎじゃないなら改めて来てもらえるかな。あぁ、それとも……ここで見ていく?」

 細めた赤が笑い、青が揺らぐ。見えていないのに浮かぶ情景。困惑し、逃げることもできず。されど、助けることだってできない。
 エリオットの姿が自身と重なりかけて、乳首を押し込まれたことで消散する。
 ほんの少しの、軽い圧迫。それでも、もはやクラロには耐えきれぬ快楽で。

「んぅっ……!」
「あ……っ……ぼ、ぼく、は、」
「ははっ、冗談だよ。そんなこと許すわけないだろう?」

 にちにちと蠢く音の中、怯える後輩と詰めよる男の声が頭を支配して、光が散る。
 哀れむような、嘲笑うような。愉快で仕方ないと、そう歪む顔を。その瞳が浮かんで、剥がれず。

「この子は僕のだ。――お前にはやらない」

 息を呑んだのはクラロではなく。だからこそ、なにも変わらないまま。

「じゃあね、エリオット。ペーターには、僕から別れを伝えておくよ」

 軋む音は、扉から。閉じかけた板の隙間、投げた言葉の返答は待たれず、外との境界が遮られる。
 戻る足音。開放された顔。きゅ、と乳首を摘ままれ、漏れてしまった吐息に、笑む唇。

「待たせてごめんね、クラロ。……じゃあ、遊ぼっか」

 男が椅子に座り直し、クラロを見つめる。
 始まる合図は、それで充分だった。
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