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第一章

2-1.なにごともなく

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「――クラロ」

 名を呼ばれ、目を開ける。だが、それが実際に目蓋を開いたのではないと自覚したのは、映り込んだ風景に見覚えがあったからだ。
 木で作られた小屋の中。一つしかない窓から差し込む光。照らされるのは、今は排除されつつある神の偶像。そして、自分の名を呼んだ牧師の姿。
 もう来ることのない場所。もう出会うことのない相手。夢だと自覚させるに、十分過ぎるもの。
 外から聞こえるのは、井戸のそばで話をする女性たちの声や、畑仕事に勤しむ音。子どもたちの遊ぶ声だって、実際はこの小屋からは聞こえるはずがなかったものたち。
 だが、どれも馴染み深く、そして懐かしいものだ。今、クラロの肩を掴んでいる感触だって、例外なく。

「クラロ、お前だけが私たちの希望なんだ」

 もう何度と聞かされてきた言葉。何度と受けてきた忠告。繰り返し教え込まれた、外の世界の真実。
 この村の平和は一時のもの。いつか崩壊することも、そんな世界にしたのが誰かも。クラロはこの部屋で教え込まれてきた。
 物心ついた時から、あの村を出るまでずっと。それは、クラロへ刻み込むように、何度だって。

「勇者と聖女の息子であるお前だけが、あいつらからこの世界を取り返すことができる」
「奴らこそ、あなたの両親の敵なのよ」

 肩に触れる手が増えれば、囁く声も一つ多くなる。それは記憶通りではなくとも、意識に掠めるもの。

「あいつらのせいでこの世界は」「どうして俺たちがこんな目に」「君の両親は最後まで立派に」「お兄ちゃんがいたら大丈夫なんだよね?」「あなたが無事でいられたのは聖女様のおかげ」「クラロ、お前だけは絶対に負けてはいけない」「今度こそこの世界に平和を取り戻すんだ、クラロ」「クラロ」「クラロ」「クラロ」

 手が、指が、絡む声が、増える。縋り、しがみ付き、叫ぶ声が木霊し、反響しあう。
 現実であれば恐怖に叫んでいただろう。このまま埋もれてしまうと抵抗し、暴れていたかもしれない。
 だが、埋め尽くされ、押し込まれるクラロの心は凪いだまま。どこまでも冷静に受け止める。
 目を閉じても、その声は止まることなく重なり、呑み込んでいく。
 この世界に平和を。淫魔を倒せるのは。両親の敵を。
 お前が。あなたが。クラロだけが、唯一の、

「――聖女の息子の名は、クラロです!」

 突き飛ばされ、目を見開き、息を吐く。そうして……目が覚めたと、自覚する。
 窓から差し込む光。見慣れた天井。朽ちかけた壁と、何も置かれていない机。
 ゆっくりと起き上がって、もう一度。そこが、自分に与えられた部屋であると自覚し、夢であったことを再確認する。
 否、夢よりも記憶の方が多く、強制的に思い出させられた過去に、もう一度吐いた息は先のよりも軽いもの。
 もう一年以上も前のことだ。当時こそ色々と思ったものだが、もはや昔のこと。思い出したところでクラロに揺さぶられるものはなく、伸びをする動きも軽いもの。
 ベッドから降りる際、絡みついたシーツに少しだけ光景が重なっても、手で払いのければ胸の重さも同時に無くなる。
 爽快な目覚めとは言えないが、疲れはさほど残っていない。思い出した切っ掛けこそ心当たりはあるが、だからどうしたというのか。
 大きく欠伸を一つ。手早く服を脱ぎ、清めた水を取り出すところまで無意識に行ったこと。
 毎朝の習慣。身体に染みついた行動。そうして、手で揉んだ聖水を顔に叩きつければ、もうクラロの中にその悪夢の欠片はなかったのだ。
 ……今日も変わらず、いつも通りの一日が始まる。

◇ ◇ ◇

 深い、深い溜め息が部屋に響き渡る。この世の終わりのような、深い絶望に支配されたそれは間を置かずにもう一回。
 水音、溜め息。水音、溜め息。間を置いて、また溜め息。全く手が進んでいないのは言うまでもない。
 このままでは日が暮れても終わりそうにないが、ソレも仕方のないこと。
 なぜなら彼は、

「あぁ~……淫魔様にご奉仕したい……」

 ……ペーターもとい、クラロの同僚は心の底から淫魔サマにご奉仕をしたがっているのだから。

「ほら、追加」

 考える時間があるから落ち込む。ならば考えられないほど忙しくしてやれば悩むこともない。
 そんな同僚のために持ってきた洗濯物を全て押しつければ、溜め息の代わりに響くのは歓喜の悲鳴。

「多いって! ちゃんと分配しろよ!」
「そんだけ暇そうにしてんなら、こいぐらい余裕だって」

 たったの籠一杯分だと笑い、空いた籠に突っ込むのはこれから乾かす予定のもの。水を含んで重くなったそれらは、持ってきた物より気持ち倍ほどに感じる。
 むしろクラロの方が息を漏らしたいが、そんな暇もなく。無駄なく動く姿は、まるで何かに取り憑かれているかのよう。

「お前は元気そうでいいよなぁ!」
「忙しいだげだって、口より手ぇ動かせ~」

 実際忙しいし、こんな会話を交わしている暇すら惜しい。まだ詰め込めると山盛りにしている間も、もみ洗いの手はジャブジャブとうるさい。
 現在の洗濯場の人数は、ご奉仕の関係で彼とクラロの二人というギリギリの人数になっている。もちろん、洗濯量は変わっていないので普段に増して忙しい。

「知ってるんだぞ、お前だけ淫魔様にご奉仕したって! しかも貴族!」
「……あー、そいだな」

 ああ忙しい忙しいと、忙しなく動いていた手が一瞬だけ止まり、また動く。
 まさしく、それを考えないよう慌ただしくしているというのに、思わぬところで思い出させるとは。
 恐らくエリオットから聞いたのだろう。誰にご奉仕して誰に遊んでいただいたか、特にこの持ち場ではすぐに話が広まってしまう。
 他の者ならそれで自慢もできるだろうが……クラロにとっては、忌々しいことこの上なく。

「俺だってここにこもってなけりゃ、淫魔様にいくらでもご奉仕できるってのに……! おいペーター! 仕事代われ!」

 握りつぶされるシーツのなんと悲惨なことか。
 労る気は微塵も起きず、怒りにかられた男をクラロがどれだけ冷たい目で見ているかも知らぬまま。
 とはいえ、彼を責めることはできない。
 これがこの世界での普通。これが当たり前の認識。そう思わないクラロだけが異常なのだから。

「全部代わってくれるんだば構わんばって、干すた後さリネン室行って畳んでゴミなげすて……あぁ、研究所にも寄れ言われて――」
「よぉし! 俺はここで頑張る! お前は心置きなく外に行ってこい!」

 見事な手のひら返しに笑う気も起きない。
 まぁ、研究所なんて一般的な奴隷でさえ恐れている場所だ。その内情は察していただきたい。
 もちろん寄るというのは真っ赤な嘘だし、どれだけ命令されたって絶対にお断り申し上げるが。
 ほんと、代われるものなら代わってやりたい。

「さすが心強ぇ! んじゃあ、お願いすま~す!」

 よいしょと重い籠を持ち、足早に離れれば聞こえるのは深い溜め息。
 それこそ自分の口から出したいと願っても叶えてくれる相手はおらず、今日も今日とてクラロ……いや、ペーターは大忙しである。

 あの悪夢のような――失礼、夢のような出来事から早一週間。
 エリオットは見事お持ち帰りされ、残っていたのは干されなかった洗濯物の山と取り込み損ねていたシーツだけとは、無理矢理持ち場を変わってもらった同量から聞いた話。
 クラロが逃げた後、取り残された後輩がどちらと楽しんだかは不明だが……ともかく、まだ自身の貞操が守られていることは変わらない。
 あれから変わり者が襲ってくることも、お願いしにくることもなく。道行く淫魔サマが顔をしかめて嫌悪感を丸出しにする日常は変わらないまま。
 多少強引だったかと思ったが、結局は一過性。少し興味が湧いたとしても、相手は所詮奴隷。
 わざわざ気にかけることもなければ、詳しく調べることもないだろう。
 警戒を怠ることはないが、必要以上に不安になることもない。
 見逃されたのだと分かっているが、それでも、代わりはいくらでもいる。
 そして、遊ぶ相手はもっと綺麗で可愛い子の方がいい。それは淫魔サマにとって当たり前であり、奴隷社会の現実である。
 山ほどいるとはいえ、いい子ほど先に奪われるのが常。それがエリオットのような掘り出し物であればなおのこと放っておく訳がない。
 身代わりにしたことは申し訳なかったが、おかげで彼は淫魔サマに気に入られて楽しい時間を過ごしたはずなので恨まないでもらいたい。むしろ感謝されているぐらいか。
 今は正式ではなくとも上級奴隷の仕事も請け負っているし、順調に出世街道を進んでいる。
 そう、まさに理想的な働き方だ。

「せ、せんぱいっ……」

 ……たとえその本人が、こんな廊下の端であられもない姿になっていようとも、だ。
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