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第一章
1-5.奥の手
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血の気の引く音とは、こんなにも鮮明に聞こえるものなのか。
それは血管が鼓膜に近いからこそそう思うのであって、目の前の男には届いていないだろう。
いや、届いていようがいまいが、もはや関係ない。
作り笑いは崩れ、戻せぬまま。流れる汗を拭うことすらできず、歪に固まったままの手を下ろすことだってできないまま。
息を呑む音は、それを見ていたメイドだろう。だが、一番呼吸が止まっているのは誰か言うまでもなく。
――まずい。
なにがまずいなんて、それこそ説明不要。たかが奴隷の分際である人間が、あろうことか上級国民に属している淫魔サマに張り手を食らわせるなんて。
お仕置きも通り越して極刑もありえる。人間保護法という命の保証はあるものの、それは従順でお利口な者だけ。
どこに危害をくわえてきた、こんな田舎者に適応されるというのか。
それ以前に拒絶してしまった、それが何よりもまずい。まずすぎる。普通の奴隷なら、ここで泣きながら喜んでお受けするものだ。
土下座したって相手にもされないのに、人間側から拒むなど到底あり得ないし考えられない。
普通なら、普通の人間なら。そう、だが、クラロは普通ではない。だからこそ、おおいに、まずい。
悪くて極刑、よくてお仕置き。どちらにしてもクラロにとっては死刑宣告に等しい。
いくら聖水で全身を清め、淫魔避けのオイルを仕込んでいたって抱かれてしまえば正体がばれてしまう!
隠さなければいけないのに、気付かれてはいけないのに。
もし知られてしまえば今までの全てが水の泡。やっと手に入れた平穏が失われてしまう。
そうして、他の奴らと同じように……否、それ以上に。玩具にされて、晒されて、滅茶苦茶にされる。
快楽のことしか考えられない、家畜以下の存在に成り下がってしまう。
それだけは駄目だ。そうなるわけには、いかない。
クラロが混乱している間、男はその赤い瞳を瞬かせてキョトンとしたまま。
当然だ。自分が何をされたか理解できるはずがない。たかが奴隷が、淫魔サマの美しいお肌に傷を付けるなんて。
今だ。今しかない。誤魔化すなら今しか。
早く、早く考えなければ。なんでもいい、早く……!
「――も、もうすわけね~~~!」
何度も頭を下げ、大袈裟に。本当に本意ではなかったのだと伝わるように。
いや、もちろんわざとではないし、そんなつもりは最初から髪の毛一本分もなかったのだが!
「あんまりにも綺麗な顔が近ぐにあったもんで驚いですまって! まさがオラだきゃに口付げするなんて夢にも思わず!」
もう首どころか上半身ごと取れる勢い。
こういうのは大きければ大きいほど誤魔化せるはず。いや知らないが、少しでも可能性にはかけるべきだ。
「練習すてぇのはこぢらの淫魔サマで、オラなんかに口付けしたら臭ぇのが移ってしめぇますよ! んだこと、あんまりにも畏れ多ぐで……!」
いやぁ本当に、怖くて怖くてとてもそんなこと。一歩下がり二歩下がり、ついでに三歩目も踏んでおく。
ようやく男も状況が理解できたのか、整えられた指先が頬を撫で、パチパチと瞬いている。大して赤くなっていないが衝撃だったろう。
どうか怒らないで、殺さないで、欲を言えばお仕置きしないでと。両手を振っての拒絶は、淫魔サマへの謙遜に見えたはず。
「……ははっ」
さて怒るか、まだ呆然とするか。返ってきた反応は、どちらでもない満面の笑み。
一番予想できないパターンに込み上げた悲鳴は喉奥で押し殺す。
滅茶苦茶怒っているか、寛容に許してもらえたか。そもそも、このタイミングで笑われる事態、いい兆候とは思えない。
「可愛いなぁ。さすがにそれぐらいわかってるよ」
クスクスと笑う仕草まで上品だ。そして、やはりいい声だ。
隣のメイドも聞き入っている。きっと廊下であれば静観している他の淫魔サマもうっとりしている。話しかけられているクラロだけが、ビクビクとしている。
可愛いって褒められた、なんて現実逃避なんかした日にはそのまま食われるがオチだ。
そもそも、この可愛いはそっちの可愛いではない。
「でも、ボクが誰と何をするかは、それとは関係ないよね?」
――そんなもんで誤魔化せると思っているのか? という、哀れな思考に対しての蔑みだ。
にっこり。絶対に逃がさないと言わんばかりの微笑みから伝わる圧。
命は助かったが助かっていない。平和な日常は今まさに息の根を止められそうになっている。
本当になんという悪趣味か。遊ぶにしたって、他にもっといい相手がいるだろうに!
……そう、まさに。ピッタリの相手がいるではないか。
「そんな、オラじゃ相手は務まりません! それより、オラの後輩なんてどうでしょ? なんせ神父の家系だはんで、オラみてぇな臭ぐてマズいのとは比べものになりませんよ! そりゃあもう、淫魔の皆サマが競って奪い合うぐらいには!」
これだけ上げておいて期待外れだった、なんて展開はあり得ない。
現に、ようやく現れた奥の手ならぬ生贄が姿を現した途端、メイドサマの瞳孔が開くのを見てしまったからだ。
彼女たちにすればご馳走が食べ放題で歩いてくるようなものだ。
片や滅多にお目にかかれない高級品、片やスライムにも劣る廃棄物。どちらを選ぶかなんて言うまでもない。
上級に位置する彼らを二人も相手にしなければならないのは少々気の毒だが……否、彼にとってはこれ以上ない名誉だろう。それに、遅かれ早かれこうもなった。
これだけの逸材もといご馳走が、いつまでも洗い場なんて下層にいるほうがおかしいのだ。
これを機に彼も上級召し使いに格上げとなるだろう。うまくいけば専属になれるかもしれないが、それは彼の力量にかかっている。
まさしく今日が、その華々しい門出の第一歩だ。こんな万年下級奴隷の田舎者が邪魔をしていい場面ではない。
引き合わせれば、もうクラロの居場所はない。
そうして仕事に戻り、可愛い後輩の出世をひっそりと祝うのだ。
そう、いつものように。これまでの日常通りに。
「ああ、ほら! 彼です彼! おーい!」
大きく手を振れば、急かしていると気付いたエリオットが早足になる。
実にできた後輩だ。顔良し性格良し、可愛がられる要素全て良し!
「エリー! こっちの淫魔サマが――」
振っていた手で相手を指し、案内して、終わる。その一連が遮られたのは、後輩へ向けていた顔が引き寄せられたから。
声が詰まったのは、揺れた視界のせいでも、ましてや潰された左腕の圧迫感でもなく。耳にかかった生温い息の、せいで、
それは血管が鼓膜に近いからこそそう思うのであって、目の前の男には届いていないだろう。
いや、届いていようがいまいが、もはや関係ない。
作り笑いは崩れ、戻せぬまま。流れる汗を拭うことすらできず、歪に固まったままの手を下ろすことだってできないまま。
息を呑む音は、それを見ていたメイドだろう。だが、一番呼吸が止まっているのは誰か言うまでもなく。
――まずい。
なにがまずいなんて、それこそ説明不要。たかが奴隷の分際である人間が、あろうことか上級国民に属している淫魔サマに張り手を食らわせるなんて。
お仕置きも通り越して極刑もありえる。人間保護法という命の保証はあるものの、それは従順でお利口な者だけ。
どこに危害をくわえてきた、こんな田舎者に適応されるというのか。
それ以前に拒絶してしまった、それが何よりもまずい。まずすぎる。普通の奴隷なら、ここで泣きながら喜んでお受けするものだ。
土下座したって相手にもされないのに、人間側から拒むなど到底あり得ないし考えられない。
普通なら、普通の人間なら。そう、だが、クラロは普通ではない。だからこそ、おおいに、まずい。
悪くて極刑、よくてお仕置き。どちらにしてもクラロにとっては死刑宣告に等しい。
いくら聖水で全身を清め、淫魔避けのオイルを仕込んでいたって抱かれてしまえば正体がばれてしまう!
隠さなければいけないのに、気付かれてはいけないのに。
もし知られてしまえば今までの全てが水の泡。やっと手に入れた平穏が失われてしまう。
そうして、他の奴らと同じように……否、それ以上に。玩具にされて、晒されて、滅茶苦茶にされる。
快楽のことしか考えられない、家畜以下の存在に成り下がってしまう。
それだけは駄目だ。そうなるわけには、いかない。
クラロが混乱している間、男はその赤い瞳を瞬かせてキョトンとしたまま。
当然だ。自分が何をされたか理解できるはずがない。たかが奴隷が、淫魔サマの美しいお肌に傷を付けるなんて。
今だ。今しかない。誤魔化すなら今しか。
早く、早く考えなければ。なんでもいい、早く……!
「――も、もうすわけね~~~!」
何度も頭を下げ、大袈裟に。本当に本意ではなかったのだと伝わるように。
いや、もちろんわざとではないし、そんなつもりは最初から髪の毛一本分もなかったのだが!
「あんまりにも綺麗な顔が近ぐにあったもんで驚いですまって! まさがオラだきゃに口付げするなんて夢にも思わず!」
もう首どころか上半身ごと取れる勢い。
こういうのは大きければ大きいほど誤魔化せるはず。いや知らないが、少しでも可能性にはかけるべきだ。
「練習すてぇのはこぢらの淫魔サマで、オラなんかに口付けしたら臭ぇのが移ってしめぇますよ! んだこと、あんまりにも畏れ多ぐで……!」
いやぁ本当に、怖くて怖くてとてもそんなこと。一歩下がり二歩下がり、ついでに三歩目も踏んでおく。
ようやく男も状況が理解できたのか、整えられた指先が頬を撫で、パチパチと瞬いている。大して赤くなっていないが衝撃だったろう。
どうか怒らないで、殺さないで、欲を言えばお仕置きしないでと。両手を振っての拒絶は、淫魔サマへの謙遜に見えたはず。
「……ははっ」
さて怒るか、まだ呆然とするか。返ってきた反応は、どちらでもない満面の笑み。
一番予想できないパターンに込み上げた悲鳴は喉奥で押し殺す。
滅茶苦茶怒っているか、寛容に許してもらえたか。そもそも、このタイミングで笑われる事態、いい兆候とは思えない。
「可愛いなぁ。さすがにそれぐらいわかってるよ」
クスクスと笑う仕草まで上品だ。そして、やはりいい声だ。
隣のメイドも聞き入っている。きっと廊下であれば静観している他の淫魔サマもうっとりしている。話しかけられているクラロだけが、ビクビクとしている。
可愛いって褒められた、なんて現実逃避なんかした日にはそのまま食われるがオチだ。
そもそも、この可愛いはそっちの可愛いではない。
「でも、ボクが誰と何をするかは、それとは関係ないよね?」
――そんなもんで誤魔化せると思っているのか? という、哀れな思考に対しての蔑みだ。
にっこり。絶対に逃がさないと言わんばかりの微笑みから伝わる圧。
命は助かったが助かっていない。平和な日常は今まさに息の根を止められそうになっている。
本当になんという悪趣味か。遊ぶにしたって、他にもっといい相手がいるだろうに!
……そう、まさに。ピッタリの相手がいるではないか。
「そんな、オラじゃ相手は務まりません! それより、オラの後輩なんてどうでしょ? なんせ神父の家系だはんで、オラみてぇな臭ぐてマズいのとは比べものになりませんよ! そりゃあもう、淫魔の皆サマが競って奪い合うぐらいには!」
これだけ上げておいて期待外れだった、なんて展開はあり得ない。
現に、ようやく現れた奥の手ならぬ生贄が姿を現した途端、メイドサマの瞳孔が開くのを見てしまったからだ。
彼女たちにすればご馳走が食べ放題で歩いてくるようなものだ。
片や滅多にお目にかかれない高級品、片やスライムにも劣る廃棄物。どちらを選ぶかなんて言うまでもない。
上級に位置する彼らを二人も相手にしなければならないのは少々気の毒だが……否、彼にとってはこれ以上ない名誉だろう。それに、遅かれ早かれこうもなった。
これだけの逸材もといご馳走が、いつまでも洗い場なんて下層にいるほうがおかしいのだ。
これを機に彼も上級召し使いに格上げとなるだろう。うまくいけば専属になれるかもしれないが、それは彼の力量にかかっている。
まさしく今日が、その華々しい門出の第一歩だ。こんな万年下級奴隷の田舎者が邪魔をしていい場面ではない。
引き合わせれば、もうクラロの居場所はない。
そうして仕事に戻り、可愛い後輩の出世をひっそりと祝うのだ。
そう、いつものように。これまでの日常通りに。
「ああ、ほら! 彼です彼! おーい!」
大きく手を振れば、急かしていると気付いたエリオットが早足になる。
実にできた後輩だ。顔良し性格良し、可愛がられる要素全て良し!
「エリー! こっちの淫魔サマが――」
振っていた手で相手を指し、案内して、終わる。その一連が遮られたのは、後輩へ向けていた顔が引き寄せられたから。
声が詰まったのは、揺れた視界のせいでも、ましてや潰された左腕の圧迫感でもなく。耳にかかった生温い息の、せいで、
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