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2 箍とは、嵌める時点で外すことを前提としている

離せない

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 半狂乱だった。栞里があれほど気をつけて、この場所に溶け込むよう苦心して決めたことも悉く頭から抜け落ちた。
 唸り声を上げ、咆哮を響かせようとした時。



 ただ一つ、探した気配を捉えた。

 どんなに注意深く探ってもどこまで遠く探る手を伸ばしても見つけられなかった。忽然と消えた存在の気配が、当たり前のように。



 目を爛々と光らせたまま、ヴィルはその気配に勢いよく身を翻す。つい先ほど、水を汲んで飲ませてやろうと、そこにいた。一瞬離れただけのはずが。何も、感じなかった。気配が消えたことにすら気付かなかった。どれほど自分が緩んでいたかを思い知った。



 冷たい水に、片方の手首から先が付いている。月明かりの下、大きな木陰。横たわる姿に血の気がひく。
 飛びつくように傍に侍り、うつ伏せの体を抱き起こして仰向ける。心配していた自分が滑稽に思えるほどに、安らいだ顔。
 確かに上下する胸と、耳にも、触れ合う肌の全てからも感じる鼓動と。



 ああ、無事なのだ、と。噛み締めながら、その姿を見下ろす。見慣れない、むしろヴィルには違和感のない姿。膝丈のワンピース。編み込まれた髪は、可憐な小さな花々で飾られている。そして、確かに鼻につく、匂い。
 強く匂う、本能的に忌避し逆らうことを思いとどまらせる匂いの奥に、さらに受け入れ難い匂い。



(獅子族…)


 誰と特定できる匂いではないが、それは獅子族の匂い。



 なぜ。どこに。


 疑問が湧き上がるのに、何よりもまず、抱き起こした体に縋り付くように身を寄せれば、無意識に身体中の空気を吐き出すような吐息が口から漏れていく。


 ふと、触れられる感覚に目をあげると、いつ目を開けたのか。栞里がヴィルを見上げて、しっかりと背中に腕を回して抱きついてくれていた。その手が、もう癖なのだろう。髪に指を通し、そのまま耳に触れる。



「ん~、もふもふ」





 なぜか感慨深げに声に出しながら堪能する様子に、ヴィルの方は激した感情が落ち着いていく。



「どこにいた?」

「ん?」


 ぼんやりと応じた栞里をしっかりと、その胸に抱き込めば、ようやく我に返った様子で腕の中で身悶えているが。今更遅い。離す気はない。そもそも、離せない、と思った矢先、ほんの少し離れたすきに見失ったのだ。離れてしまえば、震えに襲われるだろう。


「ヴィル、近いっ。苦しい」

「お前を見失った時の俺に比べたら、苦しくない」



 いや、物理的なのと精神的なのを並べないでと言いたいが、言いたいのを飲み込む。ものすごく怒られる気しかしない。ただ、この距離、というか、距離のなさにどんどん精神的な耐久度が削られていく。



「わたし、どのくらいいなかったの?」
「水を汲んで戻ったら、姿が見えなかった。どのくらいだろうな…我を忘れていた。我を忘れるほど愚かなことはないというのに。見つかるはずのものすら見つからなくなる」
「見つけてくれたんでしょう?」


 言いながら、栞里がふと笑って背中に回った腕に力が籠るから、ヴィルは驚いて逆に腕を緩めてしまう。顔を見ようとするのに、額をヴィルの胸に擦り付けていて、よく見えない。


「心配させておいて不謹慎なんだけど、どうしよう。ヴィルにそんなに心配してもらえたのがすごく嬉しくて顔が笑っちゃう。ごめんね、なんか幸せな気分だよ」
「…まだ酔っているのか。もう、酒精の匂いはしないが」
「酔ってないよ。わたし、5日も森にいたんだもの」
「5日?森?」


 思わず聞き返すが、栞里は無頓着にヴィルの低めの体温に安心し切ったようにくっついてふわふわと笑っている。
 とっさに抱き起こしたままで、窮屈そうな姿。ひょいと軽々と抱き起こし、ただ、すぐに動く気にはなれなくて、ヴィルは大木に背を預けて座り、その膝の上に栞里を抱え込む。
 これまでであれば、照れて逃げ出そうとしていたはずが、一瞬目を見開いて葛藤するように目を逸らした後、また、ヴィルがいることを確認するように栞里が抱きつくから。ヴィルの方は面食らってしまう。
 自分にとっては日を越すことすらなかった時間だったものが、栞里には5日。離れた時間が長い分、思うところもあるのだろうと背中や髪を撫でていれば、抱きついていた栞里の手が今度は尻尾に伸びていく。



「心配していたの。わたしがいなくて、ヴィルはどうしているだろうって。わたしがいなくても食べ物を買いに行ったり、いろんな必要なことができるようにしておかなきゃダメだったって」
「…おい?」

 雲行きがおかしい。
 ヴィルの声が数段低くなる。



「でも、言われたの。わたしの思い次第で、渡る時に時間も超えられるかもしれないって。できちゃったみたい」

「シオリ」


 呼びかけの声が低いけれど、それすらも栞里にとっては、存在を実感できるものでしかないらしい。
 あまりに無防備に膝の上で抱きつくから、ヴィルは結局抱き寄せてしまって、聞き咎めたものを追求しきれない。



「もふもふが足りなかったの」

「おい」

「…それも本当なんだもん。あそこにはあんまりもふもふした獣人さんはいなくて。それに引き離されちゃったし」


「ちゃんと説明を」


 しろ、と言いたいのに、5日ぶり、の栞里の本人曰くもふもふ補充に持ち主のヴィルも抗わせてもらえない。

「ヴィルは過保護すぎるくらいにわたしを心配してくれるから。すぐに戻らないともう会えないんじゃないかって不安になった。よかった。また、ちゃんと会えた」


「そんなにこの毛並みが気に入っているのか」


 諦めて話を合わせた。はずなのに、きょとんとした顔で栞里が見上げる。先ほどまで、聞け!と言いたくなるくらい聞く耳を持たなかったというのに。


「まあ、毛並みはもちろんとても大事だけど。ヴィルがいないと、意味ないよ?」


 会話になりそうだ、と、ヴィルはもう一度問いかける。


「シオリ。森、とは?」



「帰らずの森、とか、賢者の森、とか、聖域、とか、呼び方は色々あるって言ってたけど。いろいろ教えてくれて面倒を見てくれた…んだろうけど」



 何やら非常に不本意そうに顔をしかめていると思えば、そのままヴィルのあつい胸板に額を擦り付けた。


「すごっく偉っそうなヤツに多分、助けられた。ヴィルのいた世界にわたしがいっちゃったみたい。誰かが間違えたのかなぁ」



 いっちゃったみたい、じゃないだろう、とヴィルは背筋の寒くなる思いで、栞里の抗議も聞き入れずに腕に力を込めた。帰ってこられたからいいものの。しかも。



(帰らずの森、だと?)




 ここに来る直前、自分が致命傷を負ったはずの地。





 栞里の服も。苛立つほどに愛らしい髪も。そして、神経をささくれさせる匂い。それが、栞里のいう「偉そうなヤツ」のしたこと。



「そういえば。妙な所有のされ方をしているって言われた。そばにいないのならかえってこの場では危険だって。ヴィル、何かした?」


 意図的には、していない。ただ無意識に日々し続けたのだろう。周囲を威嚇するマーキング。ヴィルの匂い相手に手を出すほど愚かなことはない。ただそれも、その結果ヴィルからの意趣返しが待っていればこその牽制。そこにいないのであれば、これを傷つければヴィルの痛手になると知らせるだけ。




 黙り込んだヴィルを見上げて、栞里はふふ、と笑う。なんでもいい。戻ってこれた。またヴィルが難しい顔をしながら甘やかしてくれる。照れ臭くて仕方ない状況がいつも通りでほっとするとは。



「ヴィル、そろそろ離して?家に上がって、お風呂入って寝よう。わたしがものすごく疲れさせちゃったでしょ?」



 言うと、何か言いたげに至近距離で見つめられ。
 目をそらそうとすると掬い上げるように唇を重ねられた。帰ってきたタイミング。ヴィルにとってはの延長なのだろうかとふと慌てるが、まったく動けない。


「離せない。シオリ。離せばまた消えてしまいそうだ」
「いや、消えないし」
「お前の意思でどうにかなるのか?」


「…ならない、かなぁ」




 嘘もごまかしも通用しない気配に目を逸らしながら言うと、栞里を抱えたまま、ヴィルは立ち上がる。



「お前はまだわかっていない。お前がいなくても困らないように、じゃない。お前がいなくなったら、それだけで俺は何もかもをぶち壊しにできる」


「こわっ。怖いこと言わないで」
「お前がきちんと理解して動けばいいだけのことだ」
「ふぇ?いや」

 違うでしょ、とあげようとした抗議の声は、歩き始めたヴィルに身動きができないレベルで抱え込まれて息が詰まってそのまま飲み込む。


「時間はある。お前がいなかった5の話は、ゆっくり部屋で聞こう」






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