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1 順応しましょう

寝室問題 4

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「シオリ、眠るか?」
「ん…」

 無防備に身を委ねる栞里の首筋を柔やわと揉んでやりながらヴィルが穏やかに声をかける。
 旧知の者が聞けば、驚き固まるだろうと。口を開くことすらそもそも少なく、ヴィル自身が、これほど穏やかな声が出ることも優しい心持ちになることも知らなかった。このような姿を見れば、誰もがきっと、ヴィルの手の中の細首が、次の瞬間には潰されるかへしおられるかしている未来を予想するのだろう。


 空いた手で髪を梳くように撫でてやれば、甘えるように栞里はヴィルに寄りかかる。
「今日は、一日ずっと、俺のことで動いてくれていたな。…シオリはお人好しだ。心配になるほどに」
「しんぱい?」
 その言葉だけを拾ったのか、鸚鵡返しに声に出した栞里が少し体を動かして、完全に寝ぼけた様子でヴィルの方に手を伸ばした。
 眠りに入る前の、ぼんやりとした様子のまま、伸ばした手でヴィルの宵闇色の髪を撫でる。途中、耳に触れればくすぐるように指の腹で摘んだり擽ったりして。
「おい」
「ヴィルは、強いね」


 いい子いい子、と合間合間に呟きながら、栞里はヴィルを撫でながらぼんやりした顔に笑みを浮かべる。驚きのあまり、栞里を撫でる手が止まってしまっているヴィルにむずかるように、栞里は自分の頭に添えられたヴィルの大きな手に擦り寄っておねだりをする。
 そんな、幼子のような仕草をしながら、ぼんやりしているくせに大人びた表情でヴィルの作り物めいてさえ見えるほどに整った顔を覗き込む。
「こんな、知らない場所に一人で放り出されて。不安とか焦りとか怖いとか、あるはずなのに。ずっと落ち着いていて、優しい。外に出るだけで体に良くないような、きっと、ここの空気がヴィルのいたところと比べ物にならないくらいに汚れているからなんだろうけど、そんな場所にいて、自分の体とか、身の上とか、そういうのを嘆いたり怒ったり心配したりしていたって誰も怒らないのに」


 考えたこともなかった。思い浮かべもしなかったことを並べて、栞里はヴィルを撫で続ける。

「たまたま居合わせたのがわたしみたいに大したこともできない、まともに運んであげる力すらないようなのだったのに、残念な顔もしないでむしろ心配してくれて」



 優しくて、強いね。



 と、よしよし、と撫で続ける。言葉にして、はっきりと褒めるのは、犬を躾けたときの記憶か。

 栞里の言葉を聞きながら、ヴィルは、ああ、と思う。


 栞里の言うようにならなかったのは。そんな無様な姿を晒さずに済んだのは。


(この子がいたからだ)



「優しい…」


 ぼんやりと呟くヴィルを見上げ、どんな顔をしていても、恐ろしいほどの美形だなぁ、と栞里は目を細める。こんなに美しい男の人が、生きて動いているなんて、と。

「うん。優しくて、きれい」



 へらり、と笑う顔があまりにも無防備で、ヴィルはなぜか目が熱くなる。こんな風に真っ直ぐに見つめてくる存在は、今までなかったから。

「ヴィル」
「うん?」
 もはや髪を撫でる、ではなく、ヴィルの耳を揉む、になっている栞里は完全に無意識にやっていて。咎めるに咎められず、その刺激でそわそわするのを逃すようにヴィルの尻尾はぱたぱたと揺れ続けている。
「わたしは、ここで今日も寝るから、ヴィルは、ちゃんとベッドで寝てね?」


 ヴィルは、不意に腕の中の重みが増したのを感じ、様子を伺う。
 起きているのと寝ているのの境目が分からないような寝つきに、あまりにおかしい気分になって、危うくそんな気分にさせてくれた相手が可愛すぎて腕に力を込めて抱きしめて匂い付けをしそうになる。


(何をしようとしているんだ、俺は)



 ぶる、と首を振り、そのまま栞里を抱き上げた。体格差もあろうが、不安になるほどに軽い。この小さな存在に、自分が大きく占められている自覚はある。




 ヴィルの大きな体、長い足で、この小さな家の中の移動はあっという間で。昨晩、栞里がやっとの思いで獣の姿のヴィルを運んだ時とは大違いの危なげない様子で栞里を寝室に運ぶ。
 寝かせてみれば、ヴィルが寝ても余裕があるほどの大きなサイズの寝台は栞里が一人横になると心細げにも見えるほどに広すぎる。
 寝台に下ろしたときに、僅かに声を漏らして身動ぎをするから、目を開けてしまうかと思ったが。覚醒に向かうよりも眠りに入ることを選んだらしい栞里の無意識は、目蓋を開けることを拒むような様子を見せて、寝心地の良い場所だけを探す。



 そんな様子に口元が綻び、ヴィルは栞里の顔にかかる髪をそっと避けて、額に触れるだけ、唇を当てる。




 そうして立ち去ろうとして、くん、と背後に引き戻される感覚に躓きそうになる。実際は、ヴィルの運動能力でそのようになるわけはないのだけれど。




 普段であれば、触れられた時点で気づかぬはずはないのに。





 触られすぎて、それが当たり前になってしまったのか。栞里の手が、尻尾の先を握っている。
 緩く握っているだけで、手を開かせることは簡単なのだけれど、だからこそなおさら、そんなことをすればひどく、悪いことをしているような気になって。







 どれくらいそこで、自然と栞里が離すのを待っただろう。
 離す気配がないどころか、いつの間にか、しっかりと、尻尾を胸に抱き込んで眠る姿に、ヴィルは大きな手で顔を覆って深く息を吐き出した。


「お前が悪い」



 低く囁き、栞里に背を向け、栞里の手に囚われた尻尾の長さに合わせ、離れた場所に身を横たえる。
 眠れる気は、しないのだが。



 そうすると、程なくして、ヴィルの背中に体温が触れる。人肌の温もりに甘えるように、栞里が背中にすり寄っている。


「っ」



 思わず息を詰め、そしてヴィルは寝返りを打つ。
 いっそ、抱き寄せて、その状態で目を覚まさせ、反省を促そうかと。




 けれど、そんな目論見はただ、我が身に何倍にもして返ってくるだけだった。
 柔らかい体。爽やかで甘い香り。無防備に甘える仕草。どれもヴィルを責めているようで、誘っているようで。



 気づけばヴィルは、獣の姿になり、栞里に背を向けていた。





 尻尾を抱きしめていたように、その大きな獣の背中に栞里が抱きつき。



 眠れない、と思ったはずなのに。気づけばヴィルは、背中に感じる規則正しい鼓動に呼吸を合わせるように、穏やかに眠っていた。







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