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多頭竜顕現 【2】

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 誰もが声を発することなく、息をのんで見守る中。最後に、念入りに髪に香油がすりこまれ、生贄の正装が完成した。

 どこからともなく感嘆の溜め息が湧き起こり、それは次第に、どよめきに変わっていく。

 祭壇を取り囲む篝火に照らされた、白銀と黄金。白皙の肌に輝ける、紺碧の三つ星。得も言われぬ美が、そこに存在していた。

「――――――――」

 人々のそのどよめきに、神官たちの声が静かに乗っていく。

 最初は低く、次第に朗々と。言霊が、うねりとなって、空間を支配していく。

 神使しんしを呼ぶための詠唱が、始まったのだ。

「――――――――」

 神官たちによって声を合わせて唱えられる独特の言葉の羅列に、人々のどよめきが完全にかき消えた時。


――キィィィ、ン

 大地全体を揺るがすような鋭い風の音が、上空から響いてきた。


――キィィィ、ン

 突風が、吹き抜けていく。

 突如わき起こったそれは、まるで悲鳴のような音を立て、うねる。

 激しくうねり、渦巻き、空間をねじ切るかのように、人々の頭上を切り裂いていった。

 数瞬のち、空が真っ二つに割れたような衝撃が大地を揺るがし、大音響が辺りに響き渡った。


――キィィィ、ン

 大地が、空間が、震え揺らぐ。人々の身体も。

 そして、人々の口から声が漏れ出ていく。畏れおののき、うめく声と悲鳴、それらが波となって祭祀場を埋め尽くす。

 それもそのはず、多頭竜が顕現けんげんしたのだ。

 月光に妖しく輝く白銀の鱗。圧倒的なその存在が、そこに降り立っていた。

「――――――――!」

 祭祀場の中心に顕現した神の使い、多頭竜。真白きその九つの頭全てから、『声』が放たれた。

 甲高いその音は、その神聖な存在を知らしめるかのように轟き、人々の頭上で巻き上がり、びりびりと肌を震わせていく。

 誰もが、声もなく見つめる。顕現した、九つの頭を持つ王国の守り神を。

 胴体を包むのは、月光を弾く白銀の鱗。玉石にも似た輝きを放つ眼は、夜目にも鮮やかな金色こんじき

 思い思いにうごめく九つの頭のうちのひとつ、胴体の中央から伸びた首だけが、突き抜けるような蒼天の透き通る青眼を持っている。

「――――――――!」

 再び、九つの頭全てから『声』が発せられていく。

 それは祭祀場のみならず、視界に映る空、山岳、大河、そして大地の全てにまで行き渡り、その尊き力が絶対なのだと人々に思い知らせるのに、充分なものだった。

 なんという、抜きん出た存在だろう。他の追随を許さない、ひときわ輝く気高き光彩を放っている。

 これが、多頭竜――――創造神の使い。

 そうして、人々を平伏させる崇高な空気を放ったのち、九つの頭がおもむろに祭壇へと向く。


――ドクンッ

心臓が、痛いほどに跳ね上がった。

「……あ……」

 勝手に口が開き、かすれた声が空気に乗る。

 玉石のごとき輝く十八の眼が、一斉に彼女に向けられたからだ。

 あぁ……とうとう、『この時』が来てしまった。

 目の前が真っ暗になったかのような絶望に、手足の温度が急激に奪われていく錯覚に陥る。痛いほどに波打つ鼓動を持て余しながらも、勝手に唇が動いていた。

 からからに乾いた口内で、ひとつの言葉が形作られる。

「……駄目だ」

「兄、上?」

 カルスの戸惑ったような声が、鼓膜を通り過ぎていく。

 気づけば、ふらりと立ち上がり、それを背後に聞き流していた。

 ゆっくりと、そして次第に足早に歩を進めていく。祭壇に向かって。

 誰かの制止の声が聞こえたが、止まる気はない。止められない。

 身の内には、全ての細胞を焼き切るかと思うほどに強く、熱い闘志が煮えたぎっていた。

「多頭竜、やめろ」

 生贄が、身も魂も、その全てを多頭竜に捧げることで国は平穏を約束される。

 だが、それを壊してしまっても、民を危険にさらすことになっても。

 例え、神の怒りに触れようとも。

「彼女を、渡しはしない」

 畏怖の対象であり、誰もがひれ伏す神聖な存在――――多頭竜。

 今、それを自身の敵として、はっきりと認識する。

 月光を浴びて白銀に輝く神使を鋭く睨みつけ、素早く抜いた剣を手に、私は走り出した――。


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