最後の記憶

だすびだ

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医者の記憶が消えた瞬間、診療所の中に静寂が訪れた。少年はしばらくその場に立ち尽くし、消え去った記憶の残響を感じ取ろうとしていた。しかし、何も感じることはできなかった。記憶はただ消えるだけで、残された空白が何を意味するのか、少年には分からない。

「これで……いいのか?」

少年は静かにカギをポケットにしまい、医者に向き直った。医者の顔には穏やかな表情が浮かんでいたが、その目の奥には何かが失われたような虚無感が漂っている。

「ありがとう、坊や。これで少しは楽になれそうだ。」

医者の言葉に少年は軽く頷いたが、その胸にはやはり重たい疑念が残っていた。老人との対話で感じた違和感が、再び彼の心を覆い尽くしていたのだ。

「本当に楽になれるのか……?」

彼は記憶を消すという行為が何をもたらすのか、改めて考え始めた。過去の痛みや失敗を消すことで、人は本当に自由になれるのだろうか?それとも、記憶が失われたことで、新たな空虚が生まれるだけなのか。取引を終えるたびに、そんな疑問が少しずつ強くなっていく。

少年は医者に礼を言い、診療所を後にした。外に出ると、柔らかな朝の光が彼の顔を照らしたが、その光は今の彼にとって温かさを感じるものではなかった。


---

その日の午後、少年は再び町を歩いていた。記憶を消す仕事は毎日のように続いていたが、今の彼は自分の役目に対する疑念を深めていた。

歩くたびに、彼の頭の中では老人や医者の言葉が反芻される。彼らは何かを忘れることで自由になりたいと願ったが、果たしてその結果が本当に望んだものなのか。記憶を消すことは、人々にとって救いなのか、それともただの逃避なのか。

少年はこれまでの取引を思い返しながら、町の広場へと足を運んだ。そこでは、人々が行き交い、様々な思い出を抱えながら生きている。その光景を眺める少年は、ふと立ち止まった。彼の目に映ったのは、一人の少女だった。

少女は広場の隅で、一人で静かに座っていた。ぼんやりと空を見上げるその姿には、どこか哀愁が漂っていた。何かを探し求めているような、そんな雰囲気を感じた少年は、自然と彼女のもとへ歩み寄っていった。

「どうしたの?」

少年が声をかけると、少女はゆっくりと彼の方を振り向いた。大きな瞳が、何かを失ったように虚ろだった。

「……誰かの記憶が欲しいの。」

その言葉に、少年は驚いた。今まで自分のもとに来た人々は、皆、記憶を消したいと願っていた。しかし、この少女は逆に記憶を欲していると言う。

「記憶を……欲しい?」

「うん。私は、何も覚えていないの。自分が誰なのか、何をしてきたのか、全部忘れてしまったの。」

少女はぽつりと呟いた。その言葉には深い悲しみが込められていた。彼女が抱えている空虚さは、他の誰とも違っていた。少年はその言葉を受けて、少女の隣に静かに座った。

「何も……覚えていないの?」

少女は小さく頷いた。

「全てが空っぽなの。自分がどうやってここに来たのか、何をしていたのか、誰と過ごしてきたのか……。何もわからない。ただ、自分が何かを失っているって感じるの。」

その言葉に、少年の胸がズキリと痛んだ。彼自身もまた、自分の記憶について考え始めていたからだ。少女の言葉が、彼自身の記憶に対する不安をさらに強めていた。
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