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「喜べジュスティーヌ、お前の無実が判明したぞ!!」
そう大喜びする父の声で私は目が覚めました。
ああ、そうだった。私の名前はジュスティーヌ・アドレー。
今年十八歳になるアドレー公爵家の娘。今までずっと忘れていました。
だってこの二年間、誰も私の名を呼んではくれなかったのだから。
アドレー家の地下牢に入れられてからずっと私の名前は「恥晒し」でした。
そして今私に笑顔で話しかけているのが私を牢に入れた人物です。
シラノ・アドレー公爵。私の父親。母は幼い頃に亡くなっています。
私は父に二年前までは娘として彼に愛されていると疑いなく信じておりました。
あの日までは。
事件が起きた時、私は婚約者の姉と彼女の貴賓室でアフタヌーンティーを楽しんでおりました。
この国の王太子エルシド様、それが私が将来妻として誠心誠意仕えるよう命じられた方です。
そして彼の双子の姉、私と同じ年のシルヴィア第一王女。
当時十六歳だった彼女が私を陥れました。
侍女に用事を言いつけ、私と二人きりの状況を作った彼女は自らの手にフォークを突き刺したのです。
そして甲高い悲鳴を上げると集まって来た者たちに語りました。
「ジュスティーヌ嬢が私をフォークで刺したの!」と。
私の公爵令嬢の身分と尊厳はその時に殺されました。
相手は国の王女、冤罪だとしてもそれを公に出来ない。忖度が働くことは理解できております。
でも事故として扱われることすらなかった。
彼女の証言だけが全てで、調査すら行われなかった。
そう、言葉だけが全てだった。
私はすぐに牢に連行され、一週間着替えも湯浴みも許されずろくに食事も与えられない状況に置かれました。
そして一時間に一回王女への加害について尋問を受けました。
「お前は王女が嘘を吐いているというのか」と恫喝されました。とても怖かったです。
公爵令嬢の私が王女を嘘つき呼ばわりすることがそもそも恐ろしく、けれど当初は震えながらも自分は何もしていないと答え続けました。
けれど肉体的な暴力は無くても、劣悪な牢で罪人扱いされ続けた私はどんどん疲弊し心身ともに衰えていきました。
そして自白すれば減刑される、嘘だと侮辱を続ければ公爵家ごと破滅する可能性になると吹き込まれつづけ、とうとう屈してしまった。
結果、私を引き取りに来た父に思い切り殴られた後公爵家の地下牢に投げ込まれ二年間人間以下の扱いを受けることになりました。
自白を強要されたと父に叫んでも声は届かず、卑怯者恥さらしと拳や鞭で痛めつけられるだけ。
公爵家なんて守ろうとしなければ良かった。死罪になっても偽りは偽りだと訴え続ければ良かったと何度思ったでしょう。
それでも自害だけはしなかったのは、この日が来ることを待ち望んでいたのでしょうか。
私は涙を流しながら父に問いかけます。
「本当に、私の無実に気づいて貰えたのですか」
「ああ、第一王女が王太子の寝所に忍び込んだことが発覚したのだ。彼女が弟におぞましい劣情を抱いていると」
「……そう、ですか」
やっぱりそれが理由だったのか。私は二年振りに真実を知り、何とも言えない気持ちになりました。
シルヴィア第一王女は弟に懸想していた。だから彼の妻になる私を憎悪した。判明してしまえばとてもわかりやすい動機でした。
「王太子に拒まれた王女は半狂乱で裸で暴れて、駆けつけた使用人たちの前でお前を陥れたことを白状した」
「なんでわざわざそんなことを……」
震えながら首を傾げる私を父は鼻で笑いました。
「王太子がお前との婚約をとても嫌がっていたから、自分が婚約破棄させてやったのに……だそうだ」
二年前から精神が不安定だと聞いていたが、罪悪感に耐えられず狂ったのだろう。
やはり女は浅はかで馬鹿だな。そう呆れたように言う父に対し私が心を動かすことはありません。
彼は己以外の全てを愚かだと思っていて、女はその中でも特に下の存在なのです。
この二年間で思い知りました。
「そして王女は護身用の魔道具を使って自害した。馬鹿女が何もかも吐き出したお陰でお前は王太子の婚約者に戻れるぞ!」
しかも今回の件で王家はアドレー公爵家に借りが出来た。
そう笑う彼に私も微笑み返します。
この牢から出られるなら、まともな食事を与えられるなら、人間として扱われるなら何もかも呑み込んで微笑みましょう。
その時が来るまで。
■■■
「心の準備はいいかい、ジュスティーヌ」
「はい王太子殿下」
地下牢から解放されて一年後、私は婚約関係を復活させた彼と結婚式に臨むことになりました。
その準備もありまともに歩くことすら難しくなっていた私には大変な日々でした。
王家は第一王女の醜聞を慶事で忘れさせるつもりなのでしょう。
ついでに被害者の私が許しているのだから部外者は責めるなという流れも作りたいのです。
そう考える私にエルシド殿下は厳しい眼差しになります。
「この際だから言うけど君はもう隙を見せてはいけないよ」
「……は?」
「王太子妃になるのだから今後はシルヴィアみたいな性悪女につけこまれる真似はしないように」
夫である私に迷惑がかかるのだから。そう出来の悪い生徒を見下す教師のように花婿服に身を包んだ彼は言いました。
つけこまれる真似ですか、私はただ婚約者の姉と二人でお茶会をしていただけです。
あの時までシルヴィア王女殿下は私に対する憎悪を上手く隠しておりました。
そして私は貴族の娘で、相手は王女殿下。彼女の招待を断ることなどできません。
逆らうことのできない相手に陥れられ、自白を強制され、その後撤回を試みても暴力で黙らされる。
誰一人味方などいない二年間でした。目の前のエルシド殿下も味方ではありませんでした。
婚約破棄後に一度も会うこともありませんでした。
でもある日、私が彼に贈った全てのものが粉々に壊された状態で牢に投げ込まれたので彼の意思を知ったのです。
ああ、思い出しました。一度だけお会いしましたね、その時に。体が震えました。
あの時は私だけが悪人で、私が全て悪いということになりました。いえ、一年前までずっとそうでした。
そして今はシルヴィア王女が全て悪い。彼女が元凶でそれ以外は全て被害者。
そして彼女は愛する弟に拒まれて死んだ。私を陥れた女は勝手に死んだ。
でも、私を傷つけたのはシルヴィア王女殿下だけでしょうか。父に鞭で打たれた背中が痛みました。
二年も前なのに。いいえ、一生痛むのでしょう。私が全てを呑み込んでしまえば。
結婚式は問題なく終わりました。
そして私は王太子殿下と二人で城のバルコニーから薔薇の咲き乱れる中庭を見下ろしてます。
そこでは貴族の他に新聞記者や裕福な平民が花嫁花婿を見ようとこちらを見上げていました。
この人たちは一年前の私が襤褸切れのような服を纏い垢に塗れ、水のようなスープと岩のようなパンだけで生きていたことを知っているのでしょうか。
公爵家の監視の元幽閉されていたのは知っているでしょうが、家から出られないだけだと思っていたのでしょうね。
牢から解放されてから過去の新聞などを読み漁りましたが、私は甘やかされた愚かな令嬢扱いで叩かれておりました。傲慢過ぎて人道を踏み外した悪役令嬢と。
義憤にかられた貴族や民が死罪を求める署名運動も起こしていたことを知りました。それを何故か王女殿下が止めるよう公に発言されたことも。
冤罪だと知っていた彼女は私が死ぬことまでは望んでいなかったのでしょう。慈悲ではなく小心故に。
そもそも私は司法で裁かれていないので厳密には罪人ではないのです。
お優しいシルヴィア王女がそこまで大事にすることは無いと、私の経歴に傷をつけるのを懸念したのと事でした。
実際は、再調査で自分の嘘が判明する可能性を消したかっただけでしょう。
けれど父もそれに同意した。娘の無実を一切信じなかったから保身に走ったのです。
そして当時被害者だった第一王女は私を公爵家で監視幽閉するようにと望んだそうです。そうすることで罪には問わないと。
彼女は公爵家に泥を塗った私を父がどのように扱うか理解していたのでしょうね。
でも愛する弟が、邪魔者がいなくなった後も自分を愛さない理由は知らないし理解出来なかった。
王太子殿下が私の隣で階下に手を振ります。朗らかに笑って。
視線を下げると目立つところに父が立っていました。満面の笑みです。
皆、笑顔です。誰もが笑っている。私以外。
そして私にも笑えと強制してくる。この一年間ずっと、いえその前からずっと。
私は強制され続けて来た。
「嫌です」
震えながら発した声は随分と大きく場に響きました。
そうです、思い出しました。私は今日、首飾りに集音と拡声用の魔道具をつけているのです。
階下の民たちに王太子妃として声を届ける為に。
そう、この国は魔道具が発展しているのです。王女殿下の部屋にも防犯用に幾つか設置されていた筈。
何より彼女は王族として護身用の魔道具を与えられていた。今日私が渡された障壁を生み出す魔法石の指輪のようなものを。いえ、自害に使ったというのだから攻撃用のものでしょう。或いは両方。
でもそれを一切使うことは無かった。当たり前です、彼女は私が犯人でないと知っているのだから。
フォークを持っていたのは彼女で、だからそれ以上危害を加えられないことは確かだった。
けれどそれを知っているのはシルヴィア殿下が犯人だったからです。
そしてそれを知らない王家や公爵家、そして貴族や民衆。
彼らはそれを変だとは思わなかったのでしょうか。
証言と自白だけのこの犯罪に対し、それなのに重すぎる罰に何も感じなかったのでしょうか。
それなのに何年も私を大罪人扱いし、高みから無責任な正義感で死罪を望んだりしたのでしょうか。
父に何度も死ねばいいのにと言われました。まだ死なないのかと。
私も死にたかった。でも結局生き延びた。
自分の無実がいつか明かされるとどこかで信じていたから。そしてそれは本当になった。
けれど、私の心はずっと暗闇の中に居ます。牢の中に魂が囚われているのです。でももう嫌。
「私を陥れたのは故シルヴィア第一王女殿下です。でも証言だけで私を罪人と判断し、拷問で自白を強要したのは王家です」
「なっ」
隣でエルシド殿下が驚いたように声を上げました。整った顔が驚きに歪んでいます。
醜いと、初めてこの方に対して感じました。
「私はそれまでずっと容疑を否認しました。でも貴様は王女が嘘を吐いたというのかと繰り返し厳しく尋問され一回だけ違うと答えました」
国王の命令か兵士が私を捕えようと駆け寄ります。私は護身用の指輪を使い障壁を張りました。
私を中心に球体のように透明なバリアが出来上がります。私は階下に向けて言葉を続けました。
「これは王族とその配偶者に与えられる護身用の魔道具です。シルヴィア殿下は身を守る為魔道具を一切使用しませんでした。でもそのことを誰も疑問視しませんでした」
光り輝く指輪を指差し説明すると、記者たちが手帳に何か書きこみ始めました。私はそれを内心鼻で笑いました。
ここまでやって初めてそのことに気づくのかと。そもそも護身用の魔道具は一般的に販売されて貴族やある程度裕福な人間は必ず持っています。
常に身に着けられるように装飾品として加工されて。
どうしてあの時の私はそれに気づかなかったのだろう。悔しくてじわりと涙が出てきました。
でもきっと、当時訴えても意味などなかったでしょうね。
「シルヴィア第一王女殿下は、私と二人きりの状態を作り出し突然フォークで自分の手の甲を刺したのです。でも少し血が出ただけです」
けれど階下に居る記者や他の皆さんは私をテロリスト扱いし死刑を望みましたね。そう続けると皆似たような表情で口を引き結びました。
「暗殺者がなぜ相手のフォークでわざわざ固い手の甲なんて刺すのですか?」
「そもそも侍女を遠ざけたのは王女、場所は密室でしかも王女殿下の部屋、そして証拠は証言のみ」
「大体私に王女殿下を害する理由はありましたか?ああ新聞には書いてありましたね、公爵令嬢は嫉妬深い性格だと関係者が話していたと」
「関係者って誰ですか、名乗りもしない人間が私のことを勝手に悪く語り、そして新聞はそれを事実のように無責任に拡散する、その者たちも罪人として捕えられればいいのに」
「悪人扱いされた人間を害虫のように潰すのは気持ちいいですか?正義側に立って自分たちの価値が上がったように錯覚して気持ちよかったですか?……何も知らない癖に」
簡単にわかることを知ろうとも調べようともしなかった癖に。
次から次へと言葉が止まりません。
そして吐き出す自分の声は驚く程に怨嗟に塗れていました。
「証言だけだって、自白も強制されたって、私は何度も言いました。王家にも父にも」
「ジュスティーヌ、もう止めろ。皆シルヴィアに騙されていたんだ!!」
そうエルシド王太子が私に悲痛な声で叫んでいます。
きっと人目が無ければ憎々し気にこちらを見て髪を掴んで叩きつけるぐらいやったでしょう。
そして誰も、ここまで言っても誰も、あの言葉を口にしないのですね。
「そうですね、全員頭が悪すぎた。あんな馬鹿女に騙されて、この国の王族にも民にもうんざりです」
「なっ」
怒りに赤黒く染まった顔で私を睨みつける花婿を見て、恐怖を感じましたが笑い出したくもなりました。
「エルシド王太子は姉の言葉を鵜呑みにして私の贈り物を全て壊して投げつけてきました。それなのに又結婚してやるなんて言って来たのです」
こんな方が近い将来この国の王になるってどう思いますか?
私は階下にそう問いかけました。皆急に不安そうな表情になります。
「ある日突然犯罪者扱いされ、ろくに調査もされず尊厳も全て奪われる。強要された自白が強要の事実だけ消され拡散される」
「もう止めろ、ジュスティーヌ!!」
今度は父の声です。彼も新婦の父として拡声用の魔道具を身に着けていたのでしょう。
娘が大罪を起こしたのにやつれた様子すらなかった。私を悪人として扱ってそれで終わり。
思い入れが何もないからきっと葛藤も無かった。
それでも結果的に迷惑をかけたと申し訳なく思う気持ちは少しだけあったのだけれど。
彼は娘を罪人だと信じ込んでいて、だから暴力を振るわれても憎むことはしないと地下牢で誓っていたのだけれど。
「悪いのは全部被害を詐称した、あの方だ!!」
「ではお父様と王太子殿下が私を地下牢で何度も犯したのも王女殿下の指示ですか?」
それは嘘ですね、彼女はエルシド殿下を男として愛していたのだから。
私が言うと一瞬場が静まりました。しかしすぐざわめきが生まれます。
侮蔑と好奇、二つの眼差しが私の父と夫へ大量に注がれました。
「私が何故国の牢や修道院ではなく公爵家預かりになったと思いますか。彼らの性奴隷にされる為です」
「う、嘘を吐くな!」
父が声を張り上げ否定します。でもどこか脆弱さを感じました。
傲慢と支配を体現したような存在だったのに、もう怖くありません。
「嘘ではありません。だから私はもう処女ではないのです。牢で散々嬲られたのだから、そうですよね……エルシド殿下?」
私はにっこりと隣の男に微笑みかけます。これは事実です。
彼は私に壊れた贈り物を投げつけそして無理やり犯したのです。
「後で私の体を調べて貰えればわかります、傷跡も何もかも」
「そ、そんなのお前が別の男を引き込んでいただけかもしれないだろう!!」
「あら、そんな調査もせず王家は私を王太子妃にしようとしていたのですか?そんな訳ないでしょう」
自分たちに恥をかかせたのだから殺されても文句は言えないと泣き叫ぶ私を二人して痛めつけたではありませんか。
そう話している途中から涙が溢れて止まらなくなりました。ひたすら悲しくなったのです。
もう、いいでしょう。怒りよりも悲しみに耐えられなくなり私は階下へと向き直りました。
「私ジュスティーヌ・アドレーは。シルヴィア第一王女に冤罪をかけられました。でもちゃんと調べればそれはすぐ虚偽だと判明することでした」
これは本当にそうだ。あの時に戻れたらと今痛切に思う。そうしたら自白なんて絶対しない。
証言だけでなく物証を出せと大騒ぎする。それで結果が変わらないとしても。私は屈しない。一度でも認めてしまえば終わりなのだ。
「けれどろくな調査もされず王家も貴族も民衆も私を大罪人と決めつけ、罵倒し死を願った。父ですら例外でなく、そして私は身も心も踏み潰された」
すぐ死刑になった方がどれ程よかったか。そう心から口に出す。でも半分は嘘だ。
生きているからこそ出来ることがある。
「私は実の父とそして未来の国王に暴行を加えられました。その事実を公にするまで今日まで耐えて生きてきました」
その言葉と共に障壁を消す。
「私を冤罪で陥れたのはシルヴィア王女、そして私の尊厳を殺し死に追いやったのは王太子エルシドとシラノ・アドレー公爵。そして私を罪人扱いしそのことを都合良く忘れた者たち全員。それを忘れないでください」
そして二度とこの国で冤罪が起きないようにしてください。
言葉と共に飛び降ります。障壁は張りません。実はバルコニーに出る少し前に遅効性の毒を飲みました。
だから墜落で即死出来なくても私は死にます。遺書も残しました。
この国と近隣国の新聞社にも発送済みです。
だって私はもうこの国を信用できないのです。王家も、貴族も、民衆も。
それでも民たちの貴族嫌いは私を新聞で散々叩いていたから理解しました。だから扇動に使うのです。
でもね、ごめんなさい、父に犯されたのは嘘です。
散々暴力は振るわれたけどそれは嘘です。
エルシド殿下の性的暴行も一度だけです。
だからこれは実験です。
国が、民が私の死を切っ掛けに冤罪の可能性と危険性について考えてくれるのか。
正直期待はしていません、でもそれならそれでいいのです。
お父様、そしてエルシド殿下。
あなたたち、私に一度も謝ってくれなかった。
いいえ、国王夫妻も、新聞記者も誰も私には謝ってくれなかった。
だからこの国なんてもうどうでもいいのです。
落ちた先の茨が体中に突き刺さる痛みすら、生温くて私は笑いました。
ああ、花嫁の純白のドレスが赤く染まっていく。他人事のように思います。
私が王太子妃として派手に死ぬことで、この出来事はきっと他国にも大きく知られることになるでしょう。
「はじさらしな娘で、ごめんなさいね」
優しかったお母様にだけ謝りました。もしあの世で再会できたなら許して欲しいと。
だってもう心は随分前に死んでいたのです。
そして息を吹き返す為の言葉は誰にも与えて貰えませんでした。
そう大喜びする父の声で私は目が覚めました。
ああ、そうだった。私の名前はジュスティーヌ・アドレー。
今年十八歳になるアドレー公爵家の娘。今までずっと忘れていました。
だってこの二年間、誰も私の名を呼んではくれなかったのだから。
アドレー家の地下牢に入れられてからずっと私の名前は「恥晒し」でした。
そして今私に笑顔で話しかけているのが私を牢に入れた人物です。
シラノ・アドレー公爵。私の父親。母は幼い頃に亡くなっています。
私は父に二年前までは娘として彼に愛されていると疑いなく信じておりました。
あの日までは。
事件が起きた時、私は婚約者の姉と彼女の貴賓室でアフタヌーンティーを楽しんでおりました。
この国の王太子エルシド様、それが私が将来妻として誠心誠意仕えるよう命じられた方です。
そして彼の双子の姉、私と同じ年のシルヴィア第一王女。
当時十六歳だった彼女が私を陥れました。
侍女に用事を言いつけ、私と二人きりの状況を作った彼女は自らの手にフォークを突き刺したのです。
そして甲高い悲鳴を上げると集まって来た者たちに語りました。
「ジュスティーヌ嬢が私をフォークで刺したの!」と。
私の公爵令嬢の身分と尊厳はその時に殺されました。
相手は国の王女、冤罪だとしてもそれを公に出来ない。忖度が働くことは理解できております。
でも事故として扱われることすらなかった。
彼女の証言だけが全てで、調査すら行われなかった。
そう、言葉だけが全てだった。
私はすぐに牢に連行され、一週間着替えも湯浴みも許されずろくに食事も与えられない状況に置かれました。
そして一時間に一回王女への加害について尋問を受けました。
「お前は王女が嘘を吐いているというのか」と恫喝されました。とても怖かったです。
公爵令嬢の私が王女を嘘つき呼ばわりすることがそもそも恐ろしく、けれど当初は震えながらも自分は何もしていないと答え続けました。
けれど肉体的な暴力は無くても、劣悪な牢で罪人扱いされ続けた私はどんどん疲弊し心身ともに衰えていきました。
そして自白すれば減刑される、嘘だと侮辱を続ければ公爵家ごと破滅する可能性になると吹き込まれつづけ、とうとう屈してしまった。
結果、私を引き取りに来た父に思い切り殴られた後公爵家の地下牢に投げ込まれ二年間人間以下の扱いを受けることになりました。
自白を強要されたと父に叫んでも声は届かず、卑怯者恥さらしと拳や鞭で痛めつけられるだけ。
公爵家なんて守ろうとしなければ良かった。死罪になっても偽りは偽りだと訴え続ければ良かったと何度思ったでしょう。
それでも自害だけはしなかったのは、この日が来ることを待ち望んでいたのでしょうか。
私は涙を流しながら父に問いかけます。
「本当に、私の無実に気づいて貰えたのですか」
「ああ、第一王女が王太子の寝所に忍び込んだことが発覚したのだ。彼女が弟におぞましい劣情を抱いていると」
「……そう、ですか」
やっぱりそれが理由だったのか。私は二年振りに真実を知り、何とも言えない気持ちになりました。
シルヴィア第一王女は弟に懸想していた。だから彼の妻になる私を憎悪した。判明してしまえばとてもわかりやすい動機でした。
「王太子に拒まれた王女は半狂乱で裸で暴れて、駆けつけた使用人たちの前でお前を陥れたことを白状した」
「なんでわざわざそんなことを……」
震えながら首を傾げる私を父は鼻で笑いました。
「王太子がお前との婚約をとても嫌がっていたから、自分が婚約破棄させてやったのに……だそうだ」
二年前から精神が不安定だと聞いていたが、罪悪感に耐えられず狂ったのだろう。
やはり女は浅はかで馬鹿だな。そう呆れたように言う父に対し私が心を動かすことはありません。
彼は己以外の全てを愚かだと思っていて、女はその中でも特に下の存在なのです。
この二年間で思い知りました。
「そして王女は護身用の魔道具を使って自害した。馬鹿女が何もかも吐き出したお陰でお前は王太子の婚約者に戻れるぞ!」
しかも今回の件で王家はアドレー公爵家に借りが出来た。
そう笑う彼に私も微笑み返します。
この牢から出られるなら、まともな食事を与えられるなら、人間として扱われるなら何もかも呑み込んで微笑みましょう。
その時が来るまで。
■■■
「心の準備はいいかい、ジュスティーヌ」
「はい王太子殿下」
地下牢から解放されて一年後、私は婚約関係を復活させた彼と結婚式に臨むことになりました。
その準備もありまともに歩くことすら難しくなっていた私には大変な日々でした。
王家は第一王女の醜聞を慶事で忘れさせるつもりなのでしょう。
ついでに被害者の私が許しているのだから部外者は責めるなという流れも作りたいのです。
そう考える私にエルシド殿下は厳しい眼差しになります。
「この際だから言うけど君はもう隙を見せてはいけないよ」
「……は?」
「王太子妃になるのだから今後はシルヴィアみたいな性悪女につけこまれる真似はしないように」
夫である私に迷惑がかかるのだから。そう出来の悪い生徒を見下す教師のように花婿服に身を包んだ彼は言いました。
つけこまれる真似ですか、私はただ婚約者の姉と二人でお茶会をしていただけです。
あの時までシルヴィア王女殿下は私に対する憎悪を上手く隠しておりました。
そして私は貴族の娘で、相手は王女殿下。彼女の招待を断ることなどできません。
逆らうことのできない相手に陥れられ、自白を強制され、その後撤回を試みても暴力で黙らされる。
誰一人味方などいない二年間でした。目の前のエルシド殿下も味方ではありませんでした。
婚約破棄後に一度も会うこともありませんでした。
でもある日、私が彼に贈った全てのものが粉々に壊された状態で牢に投げ込まれたので彼の意思を知ったのです。
ああ、思い出しました。一度だけお会いしましたね、その時に。体が震えました。
あの時は私だけが悪人で、私が全て悪いということになりました。いえ、一年前までずっとそうでした。
そして今はシルヴィア王女が全て悪い。彼女が元凶でそれ以外は全て被害者。
そして彼女は愛する弟に拒まれて死んだ。私を陥れた女は勝手に死んだ。
でも、私を傷つけたのはシルヴィア王女殿下だけでしょうか。父に鞭で打たれた背中が痛みました。
二年も前なのに。いいえ、一生痛むのでしょう。私が全てを呑み込んでしまえば。
結婚式は問題なく終わりました。
そして私は王太子殿下と二人で城のバルコニーから薔薇の咲き乱れる中庭を見下ろしてます。
そこでは貴族の他に新聞記者や裕福な平民が花嫁花婿を見ようとこちらを見上げていました。
この人たちは一年前の私が襤褸切れのような服を纏い垢に塗れ、水のようなスープと岩のようなパンだけで生きていたことを知っているのでしょうか。
公爵家の監視の元幽閉されていたのは知っているでしょうが、家から出られないだけだと思っていたのでしょうね。
牢から解放されてから過去の新聞などを読み漁りましたが、私は甘やかされた愚かな令嬢扱いで叩かれておりました。傲慢過ぎて人道を踏み外した悪役令嬢と。
義憤にかられた貴族や民が死罪を求める署名運動も起こしていたことを知りました。それを何故か王女殿下が止めるよう公に発言されたことも。
冤罪だと知っていた彼女は私が死ぬことまでは望んでいなかったのでしょう。慈悲ではなく小心故に。
そもそも私は司法で裁かれていないので厳密には罪人ではないのです。
お優しいシルヴィア王女がそこまで大事にすることは無いと、私の経歴に傷をつけるのを懸念したのと事でした。
実際は、再調査で自分の嘘が判明する可能性を消したかっただけでしょう。
けれど父もそれに同意した。娘の無実を一切信じなかったから保身に走ったのです。
そして当時被害者だった第一王女は私を公爵家で監視幽閉するようにと望んだそうです。そうすることで罪には問わないと。
彼女は公爵家に泥を塗った私を父がどのように扱うか理解していたのでしょうね。
でも愛する弟が、邪魔者がいなくなった後も自分を愛さない理由は知らないし理解出来なかった。
王太子殿下が私の隣で階下に手を振ります。朗らかに笑って。
視線を下げると目立つところに父が立っていました。満面の笑みです。
皆、笑顔です。誰もが笑っている。私以外。
そして私にも笑えと強制してくる。この一年間ずっと、いえその前からずっと。
私は強制され続けて来た。
「嫌です」
震えながら発した声は随分と大きく場に響きました。
そうです、思い出しました。私は今日、首飾りに集音と拡声用の魔道具をつけているのです。
階下の民たちに王太子妃として声を届ける為に。
そう、この国は魔道具が発展しているのです。王女殿下の部屋にも防犯用に幾つか設置されていた筈。
何より彼女は王族として護身用の魔道具を与えられていた。今日私が渡された障壁を生み出す魔法石の指輪のようなものを。いえ、自害に使ったというのだから攻撃用のものでしょう。或いは両方。
でもそれを一切使うことは無かった。当たり前です、彼女は私が犯人でないと知っているのだから。
フォークを持っていたのは彼女で、だからそれ以上危害を加えられないことは確かだった。
けれどそれを知っているのはシルヴィア殿下が犯人だったからです。
そしてそれを知らない王家や公爵家、そして貴族や民衆。
彼らはそれを変だとは思わなかったのでしょうか。
証言と自白だけのこの犯罪に対し、それなのに重すぎる罰に何も感じなかったのでしょうか。
それなのに何年も私を大罪人扱いし、高みから無責任な正義感で死罪を望んだりしたのでしょうか。
父に何度も死ねばいいのにと言われました。まだ死なないのかと。
私も死にたかった。でも結局生き延びた。
自分の無実がいつか明かされるとどこかで信じていたから。そしてそれは本当になった。
けれど、私の心はずっと暗闇の中に居ます。牢の中に魂が囚われているのです。でももう嫌。
「私を陥れたのは故シルヴィア第一王女殿下です。でも証言だけで私を罪人と判断し、拷問で自白を強要したのは王家です」
「なっ」
隣でエルシド殿下が驚いたように声を上げました。整った顔が驚きに歪んでいます。
醜いと、初めてこの方に対して感じました。
「私はそれまでずっと容疑を否認しました。でも貴様は王女が嘘を吐いたというのかと繰り返し厳しく尋問され一回だけ違うと答えました」
国王の命令か兵士が私を捕えようと駆け寄ります。私は護身用の指輪を使い障壁を張りました。
私を中心に球体のように透明なバリアが出来上がります。私は階下に向けて言葉を続けました。
「これは王族とその配偶者に与えられる護身用の魔道具です。シルヴィア殿下は身を守る為魔道具を一切使用しませんでした。でもそのことを誰も疑問視しませんでした」
光り輝く指輪を指差し説明すると、記者たちが手帳に何か書きこみ始めました。私はそれを内心鼻で笑いました。
ここまでやって初めてそのことに気づくのかと。そもそも護身用の魔道具は一般的に販売されて貴族やある程度裕福な人間は必ず持っています。
常に身に着けられるように装飾品として加工されて。
どうしてあの時の私はそれに気づかなかったのだろう。悔しくてじわりと涙が出てきました。
でもきっと、当時訴えても意味などなかったでしょうね。
「シルヴィア第一王女殿下は、私と二人きりの状態を作り出し突然フォークで自分の手の甲を刺したのです。でも少し血が出ただけです」
けれど階下に居る記者や他の皆さんは私をテロリスト扱いし死刑を望みましたね。そう続けると皆似たような表情で口を引き結びました。
「暗殺者がなぜ相手のフォークでわざわざ固い手の甲なんて刺すのですか?」
「そもそも侍女を遠ざけたのは王女、場所は密室でしかも王女殿下の部屋、そして証拠は証言のみ」
「大体私に王女殿下を害する理由はありましたか?ああ新聞には書いてありましたね、公爵令嬢は嫉妬深い性格だと関係者が話していたと」
「関係者って誰ですか、名乗りもしない人間が私のことを勝手に悪く語り、そして新聞はそれを事実のように無責任に拡散する、その者たちも罪人として捕えられればいいのに」
「悪人扱いされた人間を害虫のように潰すのは気持ちいいですか?正義側に立って自分たちの価値が上がったように錯覚して気持ちよかったですか?……何も知らない癖に」
簡単にわかることを知ろうとも調べようともしなかった癖に。
次から次へと言葉が止まりません。
そして吐き出す自分の声は驚く程に怨嗟に塗れていました。
「証言だけだって、自白も強制されたって、私は何度も言いました。王家にも父にも」
「ジュスティーヌ、もう止めろ。皆シルヴィアに騙されていたんだ!!」
そうエルシド王太子が私に悲痛な声で叫んでいます。
きっと人目が無ければ憎々し気にこちらを見て髪を掴んで叩きつけるぐらいやったでしょう。
そして誰も、ここまで言っても誰も、あの言葉を口にしないのですね。
「そうですね、全員頭が悪すぎた。あんな馬鹿女に騙されて、この国の王族にも民にもうんざりです」
「なっ」
怒りに赤黒く染まった顔で私を睨みつける花婿を見て、恐怖を感じましたが笑い出したくもなりました。
「エルシド王太子は姉の言葉を鵜呑みにして私の贈り物を全て壊して投げつけてきました。それなのに又結婚してやるなんて言って来たのです」
こんな方が近い将来この国の王になるってどう思いますか?
私は階下にそう問いかけました。皆急に不安そうな表情になります。
「ある日突然犯罪者扱いされ、ろくに調査もされず尊厳も全て奪われる。強要された自白が強要の事実だけ消され拡散される」
「もう止めろ、ジュスティーヌ!!」
今度は父の声です。彼も新婦の父として拡声用の魔道具を身に着けていたのでしょう。
娘が大罪を起こしたのにやつれた様子すらなかった。私を悪人として扱ってそれで終わり。
思い入れが何もないからきっと葛藤も無かった。
それでも結果的に迷惑をかけたと申し訳なく思う気持ちは少しだけあったのだけれど。
彼は娘を罪人だと信じ込んでいて、だから暴力を振るわれても憎むことはしないと地下牢で誓っていたのだけれど。
「悪いのは全部被害を詐称した、あの方だ!!」
「ではお父様と王太子殿下が私を地下牢で何度も犯したのも王女殿下の指示ですか?」
それは嘘ですね、彼女はエルシド殿下を男として愛していたのだから。
私が言うと一瞬場が静まりました。しかしすぐざわめきが生まれます。
侮蔑と好奇、二つの眼差しが私の父と夫へ大量に注がれました。
「私が何故国の牢や修道院ではなく公爵家預かりになったと思いますか。彼らの性奴隷にされる為です」
「う、嘘を吐くな!」
父が声を張り上げ否定します。でもどこか脆弱さを感じました。
傲慢と支配を体現したような存在だったのに、もう怖くありません。
「嘘ではありません。だから私はもう処女ではないのです。牢で散々嬲られたのだから、そうですよね……エルシド殿下?」
私はにっこりと隣の男に微笑みかけます。これは事実です。
彼は私に壊れた贈り物を投げつけそして無理やり犯したのです。
「後で私の体を調べて貰えればわかります、傷跡も何もかも」
「そ、そんなのお前が別の男を引き込んでいただけかもしれないだろう!!」
「あら、そんな調査もせず王家は私を王太子妃にしようとしていたのですか?そんな訳ないでしょう」
自分たちに恥をかかせたのだから殺されても文句は言えないと泣き叫ぶ私を二人して痛めつけたではありませんか。
そう話している途中から涙が溢れて止まらなくなりました。ひたすら悲しくなったのです。
もう、いいでしょう。怒りよりも悲しみに耐えられなくなり私は階下へと向き直りました。
「私ジュスティーヌ・アドレーは。シルヴィア第一王女に冤罪をかけられました。でもちゃんと調べればそれはすぐ虚偽だと判明することでした」
これは本当にそうだ。あの時に戻れたらと今痛切に思う。そうしたら自白なんて絶対しない。
証言だけでなく物証を出せと大騒ぎする。それで結果が変わらないとしても。私は屈しない。一度でも認めてしまえば終わりなのだ。
「けれどろくな調査もされず王家も貴族も民衆も私を大罪人と決めつけ、罵倒し死を願った。父ですら例外でなく、そして私は身も心も踏み潰された」
すぐ死刑になった方がどれ程よかったか。そう心から口に出す。でも半分は嘘だ。
生きているからこそ出来ることがある。
「私は実の父とそして未来の国王に暴行を加えられました。その事実を公にするまで今日まで耐えて生きてきました」
その言葉と共に障壁を消す。
「私を冤罪で陥れたのはシルヴィア王女、そして私の尊厳を殺し死に追いやったのは王太子エルシドとシラノ・アドレー公爵。そして私を罪人扱いしそのことを都合良く忘れた者たち全員。それを忘れないでください」
そして二度とこの国で冤罪が起きないようにしてください。
言葉と共に飛び降ります。障壁は張りません。実はバルコニーに出る少し前に遅効性の毒を飲みました。
だから墜落で即死出来なくても私は死にます。遺書も残しました。
この国と近隣国の新聞社にも発送済みです。
だって私はもうこの国を信用できないのです。王家も、貴族も、民衆も。
それでも民たちの貴族嫌いは私を新聞で散々叩いていたから理解しました。だから扇動に使うのです。
でもね、ごめんなさい、父に犯されたのは嘘です。
散々暴力は振るわれたけどそれは嘘です。
エルシド殿下の性的暴行も一度だけです。
だからこれは実験です。
国が、民が私の死を切っ掛けに冤罪の可能性と危険性について考えてくれるのか。
正直期待はしていません、でもそれならそれでいいのです。
お父様、そしてエルシド殿下。
あなたたち、私に一度も謝ってくれなかった。
いいえ、国王夫妻も、新聞記者も誰も私には謝ってくれなかった。
だからこの国なんてもうどうでもいいのです。
落ちた先の茨が体中に突き刺さる痛みすら、生温くて私は笑いました。
ああ、花嫁の純白のドレスが赤く染まっていく。他人事のように思います。
私が王太子妃として派手に死ぬことで、この出来事はきっと他国にも大きく知られることになるでしょう。
「はじさらしな娘で、ごめんなさいね」
優しかったお母様にだけ謝りました。もしあの世で再会できたなら許して欲しいと。
だってもう心は随分前に死んでいたのです。
そして息を吹き返す為の言葉は誰にも与えて貰えませんでした。
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