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【32】悪霊令嬢、笑う

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 魔女の手には水に落としたようにじっとりと濡れたマフィンが掴まれている。

 恐らくそのまま惚れ薬をふりかけたのだろう。子供のいたずらでも、もっと手が込んでいる。


「これはあの日ルシウスきゅんが無理やり食べさせられたお弁当の残りよぉん!」

「……俺が?」


 高らかな声でアヤナが告げる。ルシウスはそれに不思議そうな顔をした。

 当然だ、彼は一口も食べていない。バスケットの中身を見た途端表情を歪めてリコリスを突き飛ばした。

 その事実を知らないのか紫の魔女の自信は揺らがない。近づいてきた少年に重ねて嘘を吐き続けた。


「そうよ、彼女が食べさせた惚れ薬のたっぷり入った料理のせいでルシウスきゅんはおかしくなったのよん」

「知らない、そんなこと……それを食べれば思い出せるのか?」

「えっ?」


 彼の大きな掌がアヤナの手からマフィンを奪い取る。

 驚きの表情を浮かべる彼女の前で躊躇いもせずルシウスはそれに噛り付いた。

 止める暇もなかった。


「なんだこれ……にが、っ」


 一口食べて絶句する。その後、苦し気に膝をついて倒れた。

 当たり前だ、ゲームではジュースに数滴入れただけで飲んだ相手は気絶したのだ。

 その原液がかかった部分を口にすればどうなるか。


「え……ルシウス、きゅん?」 

「ったく、何がしたいんだこのお坊ちゃんは……」


 呆然とするアヤナと、文句を言いながら彼を助け起こすハイドラ。

 そして私は。


「目が、あつい……!」

「……リコリス?」 

 
 ハイドラの案じるような声が聞こえるが応える余裕はない。

 目の奥から熱風が渦巻いてくる。まるで体の中で火事が起きているように。

 髪で隠れていない方の瞳が、倒れる婚約者を映した瞬間熱くて痛くて堪らなくなった。

 この苦しみを、私は知っている。燃える花園で焼かれた時の痛みだ。

 嗚呼、悪霊令嬢(リコリス)が怒っているのか。

 自分の手料理を台無しにされたから? それとも婚約者を傷つけられたから?

 わからない、ただ目の前が赤くなる。


「……アヤナ・ゾディアック」


 震える唇で罪人の名を呼んだ。こちらを振り向いた彼女の顔が恐怖と驚きに染まるのがわかった。

 楽しいと、意識の花園で誰かが笑う。


「ちょ、なによそれぇ、まるで邪が……」

「うふふ、そのマフィンは貴女に差し上げるわぁ」


 欠片すら残さず召し上がって頂戴。

 言い終えた瞬間、アヤナが呆けた表情になりルシウスの手から取り落ちたマフィンを掴み上げる。

 大きめのそれを躊躇いなく口一杯に詰め込んだ刹那、彼女が声にならない悲鳴を上げるのを見た。

 焼けた鉄板に丸裸で放り投げられた人間のように紫の魔女は床に倒れもがき続ける。

 失敗作の惚れ薬の味に悶絶しているのだろう。けれどルシウスのように気を失うことはなかった。

 それはきっと私がマフィンを食べきるように命じたからだ。

 そのことに気付いたのは「ノルマ」をこなした彼女が泡を吹いて気絶した後だった。
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