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御曹司のやんごとなき恋愛事情.86

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 昨日まではたとえ顔を合わせることがなくても、このビルのどこかに俊介がいた。

 そう思うだけで、優子の心はときめいていた。

 しかし、今日から短くて三年、長ければどれくらいになるか分からないが、俊介はこのビルに・・・、いや日本にいないのだ。

 あらためて感じる虚しさに、心が壊れそうになる。



 会社は、俊介がいないこと以外何も変わらない。

 だから、放っておいても優子がやるべきことは山積みで、ボーッとしている暇などないのが唯一の救いだ。

 自分の心がいつ壊れてしまうのか分からない。

 でも取りあえず今は目の前の仕事をこなすしかない。

 優子はこれまで俊介を自分から突き放すたび何度も味わってきた寂しさを思い出す。

 その度に、優子を救ってくれたのはやはり仕事だった。



 俊介が出発しておよそ一ヶ月が経った。

 そんな生活にようやく慣れて来たと思った頃、栗本から電話が入った。

 日本の時刻が夜の九時だから、ニューヨークは朝の八時だ。

 仕事前だというのに、何か急ぎの用だろうか。



『お久しぶりです、佐竹さん』

『久しぶり、どう、元気にやってる』

 あんなにモヤモヤしていたくせに、いざ本人と言葉を交わせば、そんな気配など微塵も感じさせない自分の姑息さが嫌だ。

『ええ・・・、元気は元気なんですけど・・・。その、副社長のことなんですが』

『何か問題でも?』

 話が込み入りそうだったので、優子は皆がいるフロアから、使われていない別室へと移動した。



『ええ・・・、それが・・・、まあ、ある程度は予想してたんですけど、まさかこんなに早いとは・・・』

『早い・・・?いったい何のこと・・・』

『佐竹さんなら、いちいち説明しなくても分かると思いますが・・・』

 優子の頭に浮かんだのは俊介が自分のことを求めている、それだけだった。

 しかし同時にまさか、という思いも湧き上がる。

 日本を発つ直前の俊介の決意は固く、こんなすぐにその決意が揺らぐことなどとても想像できなかったから。



『・・・いえ、分かりません』

『そうですか・・・。恐らく分かってらっしゃると思いますが、ご自分からは言い出しにくいものですよね』

 栗本の言い方は少し意地が悪い。

 自分たちの味方なのか敵なのか分からなくなる雰囲気を漂わせている。



『・・・勿体つけないで、用件を言ってちょうだい。こっちはまだ仕事中なんだから』

 優子はつい感情的になってしまった。

『すみません、副社長が・・・、あまりに変わらないので、つい・・・』

『変わらないって・・・。もう、そういう抽象的な言い方じゃなくて具体的に言ってくれない?』

 栗本は優子が少しキレそうになっているというのに、電話の向こうでクスクスと笑っている。



『やっぱり我慢できないとおっしゃって・・・。来週の三連休におひとりで一度日本に帰るそうです』

『日本に!まだそちらに行って一ヶ月しか経ってないのに?』

『そうなんですよ。もう少し持つと思ったんですけどね・・・。私もまだまだ副社長のことがよく分かってなかったんですね』

 栗本は珍しく少しだけ落ち込んでいるようだ。



『で、私に直接連絡というのは・・・』

『それ、言わないといけませんか?』

 やっぱり栗本は意地悪だ・・・。

 俊介が一ヶ月もしないうちに、自分のことを求めて日本に戻ってくるということが、優子にとってどれほど嬉しいことか栗本は十分に理解しているのだから。
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