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30.環境
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貧困に直面する地域の治安は、ソウが考えるよりも悪かった。小競り合いから大きな喧嘩まで一日一度はあり、衛生的にとても良いとはいえない環境では、怪我や病気も多かった。
そして性を商売にする者も多かったから、そのテの病気も多いらしいと、二週間も近くなるとソウは理解した。実際薬屋をしているシンキの家には、毎日誰かかしらがやってきては診てもらっていた。
そしてシンキもシュリも、この街の出身ではなく条例以降流れ込んできたのだと、シュリが教えてくれた。シュリは地方から父親に連れられて来たのだが、この街に来てすぐ父親が亡くなり、天涯孤独になりここで暮らすようになったという。まだ15歳ながらに色々なことをしてきたようで、あどけなく笑う顔と、あの初めて会ったときに見た妖艶な雰囲気を考えると、ソウがセンと共にくらして来た間に少年は苦渋を嘗めたのだろうかと胸が痛んだ。
「今はお客さん選んでるし、気をつければ怖いことなんてないよ。気持ちいいことも嫌いじゃないしね」
ソウからすれば一体何を言ってるんだと思うほど明るく、シュリは笑って言う。まだ身体も完成していない少年からそんな言葉が出てきたことが驚きだし、それを笑えるシュリが、堪らなく切なく見えた。生きるためにどんなことでもしなくてはいけないことは分かっているつもりだが、できればそんな姿は見たくないと心底思う。
シュリはソウを気にかけて、できるだけ一緒にいてくれているようだ。家はこの近所だというのにシンキに怒られながらも入り浸り、片手で過ごさなければいけなかったソウの世話をしてくれた。
「ソウの色って綺麗だねぇ」
「え?」
湯浴みを一緒に終えて、シュリは薄い装束を着込みながらほんわりと笑った。こうしていると本当に子供にしか見えないほどあどけなかった。
「僕の色って白いじゃない? だからソウの色の方がきれいだなぁって」
「……あぁ、耳……」
シンキ以外の住人は亜人ばかりのここで、ソウは大嫌いなそれを隠すことをやめた。アマネに知られてしまった今、誰に見られても大差などないのだからと思うし、ここにはそれほど多くの人間はいないのだから必要ないとも思った。あの時、切り落とそうとした耳もすっかり治っている。
そして掌もかなり良くなって、包帯を巻かなくても良くなった。まだいくつかの深い傷はふさがりきってはいないけど、それでも日常生活をする上で支障はない。
なのにシュリは、まるでソウとの時間を楽しむように世話を焼いてくれる。正直シンキのことをまだ苦手だと思っているので、シュリがいてくれるほうがソウにとってもありがたいので、甘えている状態だった。
ソウが苦手だと思うシンキは、一体何時に起きて何時に眠っているのだろうと思うくらい、不規則な生活をしていた。
二階建てこの家で、ソウは階下の部屋を割り当ててもらった。ほかの部屋に入ることはなく、台所と間借りしている部屋と、そして居間と風呂や洗面、トイレだけをソウは利用している。
食事はいつの間にかシンキが用意してくれている。文句を言いながらもシュリの分まで用意している所を見ると悪い人ではないと思うのだが、ソウはシンキを見ていると落ち着かなくなってくるので、あまり上手く話せなかった。人見知りに加えて、情けないくらいあの人を思い出すから、緊張がいつまでも解けなかった。
金色の髪に深緑の瞳――思い出さないはずはなかった。シンキを見るたびに甘く疼く心の奥の傷。
震えてしまうほどあの人に会いたくなって、泣きたくなる。あの声で名を呼んでほしい。笑いかけてほしい。夢まで見るほどソウは溺れきっているから、わずかなきっかけで感情が湧き上がる。顔の造作は似ていないけれど、シンキはアマネと共通する色を持っている。それだけで充分だった。
「シンキさんも褒めてたよ、ソウのこと」
「褒めてた?」
アマネに対する深い想いに囚われそうになっていたソウに、不意にかけられた言葉は意外なものだった。脱衣所を出て居間に戻る廊下で、シュリはにこにこと笑った。
「綺麗だって。亜人なのがもったいないくらい綺麗だって言ってた。僕もそれは同感かなぁ」
邪気のない笑顔でシュリは言ったが、ソウには嬉しくない言葉だった。人間であるシンキからそんなことを言われても、正直奴隷だった頃を思い出すだけで複雑になる。値踏みするような視線が大嫌いだった。
ふと、アマネは見えないことで、ソウの外見を気にしなかった。それがソウにはうれしかったのかもしれないと思った。どんな小さなことでも呆れるくらいアマネにつながってしまう自分が滑稽で、思わず自虐的な笑みが浮かぶ。
「ソウ?」
不思議そうな顔でシュリは亜麻色の瞳を見上げた。
「ううん。なんでもないよ。人間は……きれいなものが好きなんだね」
見かけに関して自分では思わないけれど、散々言われてきたことで、自分の容姿は価値があるらしいことは知っている。それがソウに歪な笑みを深めさせた。
「なんで人間? 今シンキさんの話をしてたんだよ?」
「シンキさんは、人間でしょう?」
「へ?」
ソウが首を傾げて問うと、シュリは更に首をかしげた。意味が分からないように目を瞬く少年に、ソウもキョトンとした。
「シンキさんは亜人だよ?」
「は……?」
「正確には、亜人と人間の間。耳も尻尾も何もないけど、シンキさんは亜人なんだって。人間が嫌いで、亜人のほうが好きだっていつも言ってる」
シュリの言葉はソウには衝撃的だった。亜人と人間の間という意味があまりよく分からなかった。
性的目的の女性の亜人もたくさんいることは知っていた。しかし亜人と人間の間では妊娠する可能性はゼロに等しいと言われるほど稀なことで、今まで生きてきてそんな話を聞いたこともなかったし、もちろんそんな存在を見たこともなかった。
「うそ、でしょう?」
「えー、こんなことでシンキさんが嘘言うかなぁ? 聞いてみたら? シンキさん隠し事しない人だから話してくれると思うし」
動揺しているソウに、シュリは簡単にそんなことを言って笑った。しかし赤の他人で、たいして親しくないのに居候させてもらっているソウが、そんな込み入ったことを聞いてもいいのかと思う。驚きすぎて言葉をなくしたソウにかまわず、シュリは居間に入るなりテーブルの上に置いてあった瑞々しい果物を目にすると喜んでそれを摘んだ。
シンキはいつもこうして何かしらの果物や飲み物を用意してくれているときが多い。見た目は粗雑で怖い印象のシンキなのに細やかな心配りをしてくれ、それがソウにシンキとはどんな人物なのかをという思いを深くさせる。
「ソウは食べないの?」
はしたなく装束が乱れるのもかまわず、シュリはソファの上で胡坐を組みおいしそうに果物を食べる。そんな姿を見ていると、ここが治安の良くない地域であることや、シュリの身の上、自分のことも忘れてしまいそうになるほどだ。
「じゃあ、もらおうかな……」
そう言って、居間の扉を閉めようとしたとき、何かがわずかに聞こえた気がして、ソウは後ろを振り返った。しかし薄暗い廊下があるだけで、特に誰の姿もない。
なんだろう?人の声が聞こえた気がしたのにと、ソウはシュリに適当な理由をつけて再び廊下に出た。
耳を澄ませてみると、それはどこかの扉の中から聞こえているようだった。音を立てないようにゆっくりと声がする扉に歩く。一歩不踏み出すたびに声はうっすらとしたものから確実にはっきりとした。
ソウは緊張したまま扉の前に立つ。そしてしばらく耳に神経を集中させていると、声がなんであるかを理解して大きく目を見開いた。
最初は泣いているのかと思った。シンキの声ではないことは分かっていたが、誰かが泣いているのだとばかり思っていた。しかしそうではなく、艶やかな吐息と喘ぎが扉の向こうからはっきりと鼓膜を打った。
声は女性のものだった。シンキの名を呼び、そして悦楽に溺れる嬌声が零れる。寝台の軋む音と、何かを打ち付けるような音。いくらそういったことに疎いソウであっても、中で何が行われているのかくらいは容易に想像できた。
途端、怖くて全身が硬直した。性に対して嫌悪感が大きなソウには、耳を塞ぎたくなるくらい怖いと感じた。なぜあんなことをするのだろう。あんなことの何が楽しいのだろう。信じられなくて、そんなことをするシンキが汚らわしいものに思えた。
胸が苦しくなって、その場に思わずしゃがみ込んだ。ここにいてはいけないと思うが、どうにも脚が動いてくれない。知りたくない。聞きたくない。怖くて怖くて涙が零れそうになって、息をつめて堪えた。それでも耳を両手で塞ぎ、何とか立ち上がってふらつきながら居間へと身体を向けたとき。一際高く中の女性が啼いた。
あんなことをするなんて。ソウにとっては過去の記憶とミカゲのことを思い出させることで悦んでいる声が堪らなく不快だった。
それをしているシンキも、ソウには理解できなかった。
ふらつきながら、ソウは居間へと入る。ソファの上には相変わらず寛いだシュリがいて、満足そうにころりと横たわっていた。テーブルの上の器にはソウのためにと残しておいてくれた果物があるが、とてもじゃないが食べる気にはならなかった。
「ソウ? どうかした?」
顔色の悪いソウに、シュリが気付き声をかけてくる。ソウは横たわっているシュリの下、床に腰を下ろしながら小さく首を振った。
「でも……なんか泣きそうな顔してるよ?」
「なんでもないよ……シュリ、ありがとうね」
あんなものを聞いてしまったなんて、とても言えるわけがなかった。鼓膜に染み付いたように取れなくて吐き気までしてくる。
奴隷として生きて散々な目には合ったが、ソウ自身の身体はまだそういったことを経験したことはない。勿論自分で自分を慰めるなどの行為もしたことがなかった。
誰もがあんなことをすること、ソウが本来買われた理由、を知らないではないが、どうしても嫌悪感が大きく、受け入れることなんてできないし、初めて人を好きになったばかりのソウにはあまりにも敷居の高いことのように思えた。愛情を交わすことで幸せになる方法の一つとして身体を交わすことが、ソウには理解できないのかもしれない。
これが――。たとえばアマネとなら、受け入れられるのだろうか。普段なら絶対考えないことを混乱した思考は考える。
アマネに抱き締められることがどんなものなのか。ソウはたったそれだけを考えることが恥ずかしくて頬が熱くなることを抑えられなかった。そんな状態でその先を想像することなんてできようはずもなく、考えたことに自己嫌悪になって泣きそうな顔になって俯く。心臓が鼓動を強く刻んだ。
自分は一体何をしているんだ。こんなことでアマネを思い出すなんて。あの人を汚してはいけない。あの人は、とても大切でとても愛しいのに。
「ソウ? ほんとにどうしたの?」
「えッ……あ、あの……あの……」
腹ばいになってソウを覗き込んでくるシュリに、ソウは現実に引き戻されたように息を呑んだ。考えていたことがあまりにもいかがわしく、見透かされることなんてないのだろうけど慌ててしまって言葉が出なかった。赤くなってうろたえているソウを、不思議そうな顔でシュリは眺めていたが、何かに気付くと少し意地悪く笑った。
「もしかして、シンキさんのところに誰か来てた?」
「え……?」
「やっぱり? ってことはソウ見たの!?」
楽しいものを見つけたかのようにシュリは身を乗り出してソウに言う。
「み、見てない! ほんとに見てないからっ」
「……じゃあ、聞いちゃったとか?」
あどけない笑みに艶を滲ませてシュリは微笑んだ。長い睫毛の下の黒い瞳が、その奥にからかいをちらちらと見せている。自分よりも年が下のシュリにいいように遊ばれて、ソウは恥ずかしさのあまり目に涙を貯めた。
「へぇ。聞いたんだ。今日はどっちだった? 男? 女?」
「……は?」
女だったけど、今日はってどういうことだろう。キョトンとしたソウにシュリはなんでもないように説明した。
シンキには決まった相手がなく、男でも女でもどちらでも構わない性分らしい。そしてそれは商売なのだとも言った。
最下層の地域の者は、薬を買うこともままならない。だからシンキは金ではなく対価を、相手が払えるものでもらうようにしているらしい。
お金だったり食べ物だったり家具や衣服だったり、そして身体だったり。ただしそれは亜人に限られるのだが。
まっとうな金儲けの相手は人間で、シンキは人間相手に、時には法外な値段で薬を売ることがある。その代わりどんなに非合法な薬でも言われれば作るのだが。
「シンキさんは、人間が嫌いだからねぇ。そのかわり亜人には優しい」
シュリはそう言って、呆然としているソウの頭を撫でた。俯いたソウのうなじには黒い蘭がはっきりと見えた。それを黒い瞳で見つめながらシュリは続ける。
「ソウはさ、蘭があるから上物だったんだよね」
「……そうなのかな。自分じゃ分からないよ」
「まあそれもそうだね。勝手に彫られたんだし。僕は星だから労働用だったんだ」
「……うん」
「お父さんが一生懸命働いて、それでも怒られて殴られてたのを覚えてる。こんなところ嫌だ、逃げようって……僕を連れてこの街に来てさ、それであっけなく死んじゃったんだ。だから僕はここにいるけど、シンキさんがいなかったら僕は死んでたかな……」
シュリはソウの考えていることを理解しているようだった。ソウが性に関して否定的な感情を持つきっかけになったことはさすがに分からないようだが、シンキに対して、もしかしたら初日にシュリがけしかけたことを否定する感情を持っていると、あどけない少年は感じていた。
「ここでは生きるために何でもしなくちゃいけないの。身体を売ることだって、明日を迎えるために必要なら僕はする。ソウは……そんなこといけないことだって思うかもしれないけどね」
「そ、そんなこと……」
ない、とは言いきれなかった。悲しく苦しい思いがソウの中に沸きあがる。分かっているけれど、それでも頑なにそれを拒んでいるソウは、ない、とは言えなかった。
そんなソウを見て、シュリは悲しそうに微笑んだ。
「だからソウは、できるだけ早くここから出て行かなくちゃいけないよ。ソウみたいに綺麗な人はここでは生きていけない。シンキさんも言ってた。綺麗なのは見た目だけじゃないって。だからソウをここに置いてるんだよ。シンキさん……悪い人じゃないよ」
言いながら無邪気に微笑んだシュリに、ソウは何も言い返せなかった。
ここではどんなことでも甘んじて受け入れなければ生きていけないのだ。シンキがしていることもシュリがしていることも、ここでは必然なんだよ。そう言われているような気がした。
ぬくぬくとセンの愛情の下で暮らしてきてソウにとは、いろいろと考え方が違う。それを考えるうちに、環境の大切さと人とのつながりの大切さを感じた。
会いたいな。
愛しい人の顔が浮かぶ。家族と最愛の人は、今頃どうしているだろうか。こみ上げる気持ちが涙に代わる。
シュリはそれ以上何も言わず、ソウの頭を母親がするように撫でてくれていた。
そして性を商売にする者も多かったから、そのテの病気も多いらしいと、二週間も近くなるとソウは理解した。実際薬屋をしているシンキの家には、毎日誰かかしらがやってきては診てもらっていた。
そしてシンキもシュリも、この街の出身ではなく条例以降流れ込んできたのだと、シュリが教えてくれた。シュリは地方から父親に連れられて来たのだが、この街に来てすぐ父親が亡くなり、天涯孤独になりここで暮らすようになったという。まだ15歳ながらに色々なことをしてきたようで、あどけなく笑う顔と、あの初めて会ったときに見た妖艶な雰囲気を考えると、ソウがセンと共にくらして来た間に少年は苦渋を嘗めたのだろうかと胸が痛んだ。
「今はお客さん選んでるし、気をつければ怖いことなんてないよ。気持ちいいことも嫌いじゃないしね」
ソウからすれば一体何を言ってるんだと思うほど明るく、シュリは笑って言う。まだ身体も完成していない少年からそんな言葉が出てきたことが驚きだし、それを笑えるシュリが、堪らなく切なく見えた。生きるためにどんなことでもしなくてはいけないことは分かっているつもりだが、できればそんな姿は見たくないと心底思う。
シュリはソウを気にかけて、できるだけ一緒にいてくれているようだ。家はこの近所だというのにシンキに怒られながらも入り浸り、片手で過ごさなければいけなかったソウの世話をしてくれた。
「ソウの色って綺麗だねぇ」
「え?」
湯浴みを一緒に終えて、シュリは薄い装束を着込みながらほんわりと笑った。こうしていると本当に子供にしか見えないほどあどけなかった。
「僕の色って白いじゃない? だからソウの色の方がきれいだなぁって」
「……あぁ、耳……」
シンキ以外の住人は亜人ばかりのここで、ソウは大嫌いなそれを隠すことをやめた。アマネに知られてしまった今、誰に見られても大差などないのだからと思うし、ここにはそれほど多くの人間はいないのだから必要ないとも思った。あの時、切り落とそうとした耳もすっかり治っている。
そして掌もかなり良くなって、包帯を巻かなくても良くなった。まだいくつかの深い傷はふさがりきってはいないけど、それでも日常生活をする上で支障はない。
なのにシュリは、まるでソウとの時間を楽しむように世話を焼いてくれる。正直シンキのことをまだ苦手だと思っているので、シュリがいてくれるほうがソウにとってもありがたいので、甘えている状態だった。
ソウが苦手だと思うシンキは、一体何時に起きて何時に眠っているのだろうと思うくらい、不規則な生活をしていた。
二階建てこの家で、ソウは階下の部屋を割り当ててもらった。ほかの部屋に入ることはなく、台所と間借りしている部屋と、そして居間と風呂や洗面、トイレだけをソウは利用している。
食事はいつの間にかシンキが用意してくれている。文句を言いながらもシュリの分まで用意している所を見ると悪い人ではないと思うのだが、ソウはシンキを見ていると落ち着かなくなってくるので、あまり上手く話せなかった。人見知りに加えて、情けないくらいあの人を思い出すから、緊張がいつまでも解けなかった。
金色の髪に深緑の瞳――思い出さないはずはなかった。シンキを見るたびに甘く疼く心の奥の傷。
震えてしまうほどあの人に会いたくなって、泣きたくなる。あの声で名を呼んでほしい。笑いかけてほしい。夢まで見るほどソウは溺れきっているから、わずかなきっかけで感情が湧き上がる。顔の造作は似ていないけれど、シンキはアマネと共通する色を持っている。それだけで充分だった。
「シンキさんも褒めてたよ、ソウのこと」
「褒めてた?」
アマネに対する深い想いに囚われそうになっていたソウに、不意にかけられた言葉は意外なものだった。脱衣所を出て居間に戻る廊下で、シュリはにこにこと笑った。
「綺麗だって。亜人なのがもったいないくらい綺麗だって言ってた。僕もそれは同感かなぁ」
邪気のない笑顔でシュリは言ったが、ソウには嬉しくない言葉だった。人間であるシンキからそんなことを言われても、正直奴隷だった頃を思い出すだけで複雑になる。値踏みするような視線が大嫌いだった。
ふと、アマネは見えないことで、ソウの外見を気にしなかった。それがソウにはうれしかったのかもしれないと思った。どんな小さなことでも呆れるくらいアマネにつながってしまう自分が滑稽で、思わず自虐的な笑みが浮かぶ。
「ソウ?」
不思議そうな顔でシュリは亜麻色の瞳を見上げた。
「ううん。なんでもないよ。人間は……きれいなものが好きなんだね」
見かけに関して自分では思わないけれど、散々言われてきたことで、自分の容姿は価値があるらしいことは知っている。それがソウに歪な笑みを深めさせた。
「なんで人間? 今シンキさんの話をしてたんだよ?」
「シンキさんは、人間でしょう?」
「へ?」
ソウが首を傾げて問うと、シュリは更に首をかしげた。意味が分からないように目を瞬く少年に、ソウもキョトンとした。
「シンキさんは亜人だよ?」
「は……?」
「正確には、亜人と人間の間。耳も尻尾も何もないけど、シンキさんは亜人なんだって。人間が嫌いで、亜人のほうが好きだっていつも言ってる」
シュリの言葉はソウには衝撃的だった。亜人と人間の間という意味があまりよく分からなかった。
性的目的の女性の亜人もたくさんいることは知っていた。しかし亜人と人間の間では妊娠する可能性はゼロに等しいと言われるほど稀なことで、今まで生きてきてそんな話を聞いたこともなかったし、もちろんそんな存在を見たこともなかった。
「うそ、でしょう?」
「えー、こんなことでシンキさんが嘘言うかなぁ? 聞いてみたら? シンキさん隠し事しない人だから話してくれると思うし」
動揺しているソウに、シュリは簡単にそんなことを言って笑った。しかし赤の他人で、たいして親しくないのに居候させてもらっているソウが、そんな込み入ったことを聞いてもいいのかと思う。驚きすぎて言葉をなくしたソウにかまわず、シュリは居間に入るなりテーブルの上に置いてあった瑞々しい果物を目にすると喜んでそれを摘んだ。
シンキはいつもこうして何かしらの果物や飲み物を用意してくれているときが多い。見た目は粗雑で怖い印象のシンキなのに細やかな心配りをしてくれ、それがソウにシンキとはどんな人物なのかをという思いを深くさせる。
「ソウは食べないの?」
はしたなく装束が乱れるのもかまわず、シュリはソファの上で胡坐を組みおいしそうに果物を食べる。そんな姿を見ていると、ここが治安の良くない地域であることや、シュリの身の上、自分のことも忘れてしまいそうになるほどだ。
「じゃあ、もらおうかな……」
そう言って、居間の扉を閉めようとしたとき、何かがわずかに聞こえた気がして、ソウは後ろを振り返った。しかし薄暗い廊下があるだけで、特に誰の姿もない。
なんだろう?人の声が聞こえた気がしたのにと、ソウはシュリに適当な理由をつけて再び廊下に出た。
耳を澄ませてみると、それはどこかの扉の中から聞こえているようだった。音を立てないようにゆっくりと声がする扉に歩く。一歩不踏み出すたびに声はうっすらとしたものから確実にはっきりとした。
ソウは緊張したまま扉の前に立つ。そしてしばらく耳に神経を集中させていると、声がなんであるかを理解して大きく目を見開いた。
最初は泣いているのかと思った。シンキの声ではないことは分かっていたが、誰かが泣いているのだとばかり思っていた。しかしそうではなく、艶やかな吐息と喘ぎが扉の向こうからはっきりと鼓膜を打った。
声は女性のものだった。シンキの名を呼び、そして悦楽に溺れる嬌声が零れる。寝台の軋む音と、何かを打ち付けるような音。いくらそういったことに疎いソウであっても、中で何が行われているのかくらいは容易に想像できた。
途端、怖くて全身が硬直した。性に対して嫌悪感が大きなソウには、耳を塞ぎたくなるくらい怖いと感じた。なぜあんなことをするのだろう。あんなことの何が楽しいのだろう。信じられなくて、そんなことをするシンキが汚らわしいものに思えた。
胸が苦しくなって、その場に思わずしゃがみ込んだ。ここにいてはいけないと思うが、どうにも脚が動いてくれない。知りたくない。聞きたくない。怖くて怖くて涙が零れそうになって、息をつめて堪えた。それでも耳を両手で塞ぎ、何とか立ち上がってふらつきながら居間へと身体を向けたとき。一際高く中の女性が啼いた。
あんなことをするなんて。ソウにとっては過去の記憶とミカゲのことを思い出させることで悦んでいる声が堪らなく不快だった。
それをしているシンキも、ソウには理解できなかった。
ふらつきながら、ソウは居間へと入る。ソファの上には相変わらず寛いだシュリがいて、満足そうにころりと横たわっていた。テーブルの上の器にはソウのためにと残しておいてくれた果物があるが、とてもじゃないが食べる気にはならなかった。
「ソウ? どうかした?」
顔色の悪いソウに、シュリが気付き声をかけてくる。ソウは横たわっているシュリの下、床に腰を下ろしながら小さく首を振った。
「でも……なんか泣きそうな顔してるよ?」
「なんでもないよ……シュリ、ありがとうね」
あんなものを聞いてしまったなんて、とても言えるわけがなかった。鼓膜に染み付いたように取れなくて吐き気までしてくる。
奴隷として生きて散々な目には合ったが、ソウ自身の身体はまだそういったことを経験したことはない。勿論自分で自分を慰めるなどの行為もしたことがなかった。
誰もがあんなことをすること、ソウが本来買われた理由、を知らないではないが、どうしても嫌悪感が大きく、受け入れることなんてできないし、初めて人を好きになったばかりのソウにはあまりにも敷居の高いことのように思えた。愛情を交わすことで幸せになる方法の一つとして身体を交わすことが、ソウには理解できないのかもしれない。
これが――。たとえばアマネとなら、受け入れられるのだろうか。普段なら絶対考えないことを混乱した思考は考える。
アマネに抱き締められることがどんなものなのか。ソウはたったそれだけを考えることが恥ずかしくて頬が熱くなることを抑えられなかった。そんな状態でその先を想像することなんてできようはずもなく、考えたことに自己嫌悪になって泣きそうな顔になって俯く。心臓が鼓動を強く刻んだ。
自分は一体何をしているんだ。こんなことでアマネを思い出すなんて。あの人を汚してはいけない。あの人は、とても大切でとても愛しいのに。
「ソウ? ほんとにどうしたの?」
「えッ……あ、あの……あの……」
腹ばいになってソウを覗き込んでくるシュリに、ソウは現実に引き戻されたように息を呑んだ。考えていたことがあまりにもいかがわしく、見透かされることなんてないのだろうけど慌ててしまって言葉が出なかった。赤くなってうろたえているソウを、不思議そうな顔でシュリは眺めていたが、何かに気付くと少し意地悪く笑った。
「もしかして、シンキさんのところに誰か来てた?」
「え……?」
「やっぱり? ってことはソウ見たの!?」
楽しいものを見つけたかのようにシュリは身を乗り出してソウに言う。
「み、見てない! ほんとに見てないからっ」
「……じゃあ、聞いちゃったとか?」
あどけない笑みに艶を滲ませてシュリは微笑んだ。長い睫毛の下の黒い瞳が、その奥にからかいをちらちらと見せている。自分よりも年が下のシュリにいいように遊ばれて、ソウは恥ずかしさのあまり目に涙を貯めた。
「へぇ。聞いたんだ。今日はどっちだった? 男? 女?」
「……は?」
女だったけど、今日はってどういうことだろう。キョトンとしたソウにシュリはなんでもないように説明した。
シンキには決まった相手がなく、男でも女でもどちらでも構わない性分らしい。そしてそれは商売なのだとも言った。
最下層の地域の者は、薬を買うこともままならない。だからシンキは金ではなく対価を、相手が払えるものでもらうようにしているらしい。
お金だったり食べ物だったり家具や衣服だったり、そして身体だったり。ただしそれは亜人に限られるのだが。
まっとうな金儲けの相手は人間で、シンキは人間相手に、時には法外な値段で薬を売ることがある。その代わりどんなに非合法な薬でも言われれば作るのだが。
「シンキさんは、人間が嫌いだからねぇ。そのかわり亜人には優しい」
シュリはそう言って、呆然としているソウの頭を撫でた。俯いたソウのうなじには黒い蘭がはっきりと見えた。それを黒い瞳で見つめながらシュリは続ける。
「ソウはさ、蘭があるから上物だったんだよね」
「……そうなのかな。自分じゃ分からないよ」
「まあそれもそうだね。勝手に彫られたんだし。僕は星だから労働用だったんだ」
「……うん」
「お父さんが一生懸命働いて、それでも怒られて殴られてたのを覚えてる。こんなところ嫌だ、逃げようって……僕を連れてこの街に来てさ、それであっけなく死んじゃったんだ。だから僕はここにいるけど、シンキさんがいなかったら僕は死んでたかな……」
シュリはソウの考えていることを理解しているようだった。ソウが性に関して否定的な感情を持つきっかけになったことはさすがに分からないようだが、シンキに対して、もしかしたら初日にシュリがけしかけたことを否定する感情を持っていると、あどけない少年は感じていた。
「ここでは生きるために何でもしなくちゃいけないの。身体を売ることだって、明日を迎えるために必要なら僕はする。ソウは……そんなこといけないことだって思うかもしれないけどね」
「そ、そんなこと……」
ない、とは言いきれなかった。悲しく苦しい思いがソウの中に沸きあがる。分かっているけれど、それでも頑なにそれを拒んでいるソウは、ない、とは言えなかった。
そんなソウを見て、シュリは悲しそうに微笑んだ。
「だからソウは、できるだけ早くここから出て行かなくちゃいけないよ。ソウみたいに綺麗な人はここでは生きていけない。シンキさんも言ってた。綺麗なのは見た目だけじゃないって。だからソウをここに置いてるんだよ。シンキさん……悪い人じゃないよ」
言いながら無邪気に微笑んだシュリに、ソウは何も言い返せなかった。
ここではどんなことでも甘んじて受け入れなければ生きていけないのだ。シンキがしていることもシュリがしていることも、ここでは必然なんだよ。そう言われているような気がした。
ぬくぬくとセンの愛情の下で暮らしてきてソウにとは、いろいろと考え方が違う。それを考えるうちに、環境の大切さと人とのつながりの大切さを感じた。
会いたいな。
愛しい人の顔が浮かぶ。家族と最愛の人は、今頃どうしているだろうか。こみ上げる気持ちが涙に代わる。
シュリはそれ以上何も言わず、ソウの頭を母親がするように撫でてくれていた。
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《芦崎鷹》瀬川の親友。幼い頃から天才バイオリニストとして有名指揮者の父と演奏旅行にまわる。朱鷺と知り合い、弟のように可愛がる。母は声楽家。
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