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28.衝動
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誰か嘘だと言ってほしかった。あの人にこれを知られたことを。
生まれたときからついて回る忌むべき獣の耳。亜人の証。たったこれだけで、差別を受けなければいけない理不尽な人生。全てが悲しくて苦しくて、明るい光が差さない日陰の人生は、これが原因だった。
人間と少し違う形をしているだけで、朝起きてから夜眠るまで管理される。辛い労働を強いられる者、望まない性を強要される者。何一つ自分で決めることはできなくて、何一つ欲しいものが手に入らなくて、泣いても叫んでも媚びてみても誰も耳を傾けてくれない。
自由を手にすることは勿論、夢見ることもできなかった。
だから奴隷を解放した煌華の町が、新天地だと思った。ここで新しく、誰が名づけたのか分からない蒼星という名を捨てて、生きていきたかった。
何も望まない。ただ穏やかに静かに、平坦で良いから生きることを楽しみたかった。一つの命を持つものとして。
だから、亜人だと知られることが怖かった。まだ根深い差別はこの街でも消えてはいない。表立って差別をすることがないだけで、蔓延る悪習はなくならない。それが怖くて耳を隠し黒い蘭を隠してきた。
センに出会い人柄を知り、愛情という大きな翼の下で、ようやく手にした日常は誰にも脅かされることなく、繰り返されていた。
だけどあの人に出会って、今まで自分が抱いたことがない感情を知った。切なく温かく泣きたくなるくらい深いそれは、同時に恐怖を隠していた。
知られたくない。こんな汚く醜い姿を。あの人に嫌われたくない。あの人に似合う存在になりたいけれどなれない自分の姿が、ますます嫌いになった。
どうして亜人なんだろう。夜寝る前に必ず考えた。今までも頭から離れたことはなかったけれど、あの人に会って一層考えるようになって、苦しかった。
こんな想い、捨てればきっと楽になる。誰かを好きになってしまうからこんなことになるんだ。分かっているけど、捨てることなんてできなかった自分が、かわいそうで愛しかった。
誰も抱き締めてくれなかったこの身体を、センに抱き締められて温められ、そしてアマネが微笑んでくれるだけで花開くように感情が息吹いた。
近くにいるだけで満足しなければいけない。これで良いんだ。時々あの人に会えるなら、それで幸せだ。あの人がこのさき誰かと時間を分け合うようになっても、それを見ることはきっと辛いだろう。けどこの気持ちを捨ててしまえる勇気もなかったから、それなら傷でさえ抱いて生きていくことが、僕らしいじゃないか。
泣きながらそんなことを考えて、少しでも前を向いていたかったのに。
知られてしまったから、もうこれ以上あの人の近くにいることはできない。
亜人とは分かり合えない。言われた言葉が無数の棘になり心を嬲る。
いっそ。消えてしまえたら――――楽になるのかな。そんな勇気もまた、自分にはないくせに考えて、自己嫌悪が大きくなった。
まだ夜明けにほんの少し届かない時間。星が廻りその輝きを朝陽に溶け込ませようかと薄れさせている。
ソウは泣き腫らした目でぼんやりと、味気ない古い床を見るともなしに見ていた。感じるのは自分の呼吸くらいで、祭りも終わり喧騒も遠ざかった路地には、鳥の声すら聞こえない。今日も鮮やかな青空が広がるのだろうか、澄んだ空気がひやりと隙間風として入り込んだ。
獣の耳も黒い蘭も隠さなくていいので、ふわりと花の芳香を含んだ空気の流れを繊細な耳に感じる。人間よりも聴覚がいいそれは、しかし何も聞こえなかった。
思考が麻痺してなにもかもを拒絶している。誰の声も、自分の泣いている声でさえも遠くに聞こえて苦しさだけが増幅する。きっとどこか壊れてしまったのかもしれないが、そんなことはどうでもいいと、ソウは思った。
壊れるならそれもいい。もうどうでも良い。
センが聞いたら泣いてしまうだろう事をぼんやりと思い、寝台に座り込んだまま視線を巡らせた。
カーテンの隙間から、窓の外が見える。その硝子に、自分の顔の半分が輪郭を映していた。明かりがないから鮮明とは言えないけど、それでもはっきりと見えるのは頭にある異質なくらい大きなものだった。
虚ろな目がそれを見つめ、白い顔が薄く微笑んだ。いつも滲むように微笑む口許が、歪んだ弧を描く。感情のない笑みはソウを作り物のように見せた。
アマネに亜人だと知られてから数日。ソウは家から一歩も出ず、誰とも会わない日を過ごしていた。元々怪我のために出れなかったということもあるが、センにすら会いたくなくて、毎度作ってくれる食事も扉の前に置いてもらうということを繰り返していた。センはソウに焦らせるつもりはなく色々考えることもあるだろうと、できるだけそっとしてくれる。それに甘えた。
だが空腹も感じるし、湯浴みも促されればする。毎日着替えを用意され、朝には顔を洗い食事を運ばれ、人形のようにそれを受け入れている。食べると吐いてしまうことが多いが、少ない量でも消化されるそれによって、生きることはできる。ソウが好きな果物や野菜を、センはいつも用意してくれていた。
ミカゲによって殴られた傷も腫れも、首のあざも殆ど消えた。身体は代謝を繰り返し、生きている。心がそれについていかないだけだ。ソウの身体も回りも確実に日々を繰り返しているというのに。
昼夜を問わず呆れるほどに溢れる涙を、ソウは一人拭う。ただ一人のことを想い、自分の身の上を憎み、途方にくれて泣いているうちに疲れて眠ってしまうのだが。
想う相手であるアマネは、毎日店を訪れソウに謝りたいと頭を下げていることを、センから聞き知っているが、ソウはそれを断っていた。
一体何を謝るというのか。ソウには分からなかった。会えばあのときの事を思い出してまた混乱しそうだったのと、歯止めの利かなくなった気持ちが何を言うのか分からなくて怖かった。
アマネを責めたいのか、それとも愛しいと伝えたいのか、自分で自分が分からなかった。
「アマネ様……」
名を口にして、ソウは立ち上がった。ふわりと視界が揺れて思わず呻くと膝を折った。膝が震えて力が入らない。眠っても休息にならない眠りは逆に体力を消耗しているように感じる。震える下肢に何とか力をこめて立ち上がると、ゆっくりと窓際に身を寄せた。センが少し前に飾ってくれた花は瑞々しく咲いている。凛とした花は、今の自分とは正反対のように思えた。
細い指でカーテンを開けると、硝子にはっきりと映りこんだ自分の影に、ソウは息を呑んだ。
肩を覆う長さの亜麻色の髪は乱れ、まるで、影だけ見ると本当の獣のようだ。
「醜い……これが、僕なんだ……」
いくら他人が褒めれくれても、ソウは自分の容姿が嫌いだった。整っているとも思わないし、美しいとも思わない。これのおかげでこんな目に合ったのだと、思っているくらいだ。亜人という種族に囚われているソウには、影ですら醜く憎らしかった。
「これさえ……なければ、これ……耳が、なければ……」
誰もいない部屋で、ソウは溢れる涙を抑えることなく繰り返した。震える手を持ち上げて硝子に映った影、その耳に触れる。冷たく硬い感触が指先に返ってきた。硝子に映る耳に触れるはずもないのに、爪を立てそこを掴もうとした。
「これが、いけないんだ。こんなものがあるから、亜人だから……人間じゃ、ない、から……ど、うして、亜人なんかに……」
嗚咽がこみ上げてソウの喉が引きつった。感情のうねりが身体を突き動かす。怒りと悲しみとで気がふれそうだった。
ふらつく身体に力を入れ、細く頼りない手で拳を作り、ソウは大きく振り上げるとそれを思い切り影に向かって叩き付けた。
静寂に包まれ明るくなり始めた時間に、硝子の砕け散る音が咆哮のように響いた。二階にある部屋の硝子は派手な音と共に外に飛び散り、地面に破片を落とす。
その音に、隣で休んでいたセンが飛び起きる音が聞こえた。壁をはさんだ向こう側で、センがソウの名を呼んだ。
ソウは自分で割った硝子の音に、弾かれたように手を伸ばした。木枠に残った鋭利なその破片を、血にまみれた手で掴み引き抜く。加減を知らない掴み方に、掌に硝子が刺さって痛みを感じた。だがそれも気にならないのか表情を変えない白い顔は、開いている手で獣の耳を掴んで引っ張った。
「これがあるから、駄目なんだ……こんなもの、いらない……」
滴る血が鮮やかな花弁を思わせる。手にした硝子をじっと見下ろした亜麻色の瞳の中に、狂暴な光が滲んだ。
そうか、もっと早くこうしていればよかったんだ。ソウはうっすらと艶やかに微笑んだ。陶酔した笑みを浮かべながら硝子を耳にあてがい、押し当てるとまるで弦楽器を奏でるようにゆっくりと引きおろした。
皮膚の薄い耳が、わずかだがさくりと切れる感覚に身震いした。不思議と痛みは感じなかった。
「ソウッ!?」
センが扉を押しやり部屋に駆け込んできたが、ソウはそれに気付かないまま更に硝子で耳を削ぎ落とそうとした。
「ソウ!! 何してるんだいッ。やめなさい!!」
センは壊れた窓の前で奇行に及んでいるソウに、心臓が止まりそうなほど驚愕した。自分で自分の耳を切るなんて、普段穏やかなソウからは信じられない行為だった。それこそ気がふれたように、センは泣きながらソウから硝子の破片を奪おうとする。
そんなことをしても何も変わらない。自分が傷つくだけだ。壊れたように流れてくる涙で視界が滲む。背の低いセンは両手をあげてソウの腕を掴んで下ろそうとしたが、亜人であるが故の強靭な力がソウの感情の昂りによって解放されているのか、女であるセンの力が弱いからか、ビクともしなかった。
「こんなことしてなんになるのッ!? お願いだからやめておくれ!!」
「……分からないよ……」
見上げるソウの顔は穏やかなほどだった。耳から流れ出た血が亜麻色の髪を濡らし、頬に流れる。俯いた拍子に前髪を伝ったそれが、向かいあうセンの視界を落ちて行く。
ソウは耳から両手を離して、センを見下ろした。潤みを帯びた瞳は、涙を湛えて冷たい色を燈していた。
「センには……分からない」
「……ソウ?」
「センは人間だから、僕のことなんて、僕たちのことなんて、本当は分からないよ。僕が、どれだけ僕を嫌いか……どれだけ、にんげん、に……なり、たいか……」
目を閉じてソウは搾り出す言葉を必死で止めようとしたが、もう止まらなかった。こんなことをセンに言いたいんじゃない。やめろ。センには感謝しているし愛しているんだ。僕の家族じゃないか。言っちゃいけないんだ。
だが、もう止まらなかった。
「センには僕の気持ちはわからない!! センは人間だから亜人の苦しみも悲しみも理解できないんだッ!!」
叫ぶようにソウは言葉を放っていた。苦しくて眩暈がして、言った後に大きくふらついた。それを支えてくれたセンの手を、ソウは更に撥ね退けた。
違う、その手を取りたいのに。また抱き締めてほしいのに。
支離滅裂だった。心で思うことと行動が伴わずに、混乱した。センから後ずさりながらも、決してセンに言ってはいけない言葉を投げつけた。理性が利かなかった。
そんなソウを、センは驚き、悲しそうに見るだけだった。だがその中に決してソウを責めようとはしない深い愛情があった。それがありがたいのに、ソウはますます頑なになってセンから離れた。目に血が流れ込み、視界を赤く染めた。
身体の痛みより心が痛かった。肩で大きく息をして、泣きながらセンを責めるソウは扉の前で立ち止まる。自分を見返して泣いているセンに、ソウは投げつけた言葉を思い返し嗚咽を漏らした。謝りたいが、言葉が出なかった。長く沈黙が二人の間をたゆたった。
「ソウ……引っ越そうか……」
破ったのは、センだった。目をきつく閉じて感情を宥めようとしていたソウは、その言葉に顔を上げる。
「あんたがアマネ様の傍にいることが辛いなら、私はこの街を出ても良いと思ってるよ。あんた一人じゃ、この街から出たらまた奴隷にされるかもしれないけど、私と一緒だと、うちの子だって切り抜けることができるだろう?」
辛い言葉をぶつけられてセンも驚いたが、それくらいで薄れる愛情ではなかった。ソウのことを考え、何が一番なのかと数日前から考えていたが、今思い浮かぶのはここを離れることしかなかった。穏やかに微笑んでセンはソウに一歩近づく。だがソウの身体が見てわかるほどに強張った。
「ソウ?」
「……駄目だよ。センにそんなことさせられない。散々、今までも迷惑をかけてきたのは僕なのに。これ以上……」
「迷惑なんてあるものか。今更水くさいこと言ってるねぇ」
できるだけいつものようにセンは笑った。この子が本当にそれを望むなら、センは引越しだって厭わないつもりだ。
だがソウはそこまでしてくれるセンに、感謝よりも申し訳なさのほうが大きかった。この街で築いてきた関係を全て投げ出してまで、自分についてきてもらうわけにはいかない。恩返しもできていないのに迷惑しかかけることができなくて、しかも今まで人間から与えられて溢れた感情をぶつけてしまった。センに嫌われても仕方がないことを言ったのに。
「僕が、出て行く」
ソウは真っ直ぐにセンを見返して言った。自分に何が出来るかと、瞬間的にこれしかなかった。
「え……」
「僕が出て行けば、アマネ様を困らせることも、センを困らせることもしないですむから。僕が、この家から出て行くよ」
掌から硝子が落ち、尖った音をたてて床で砕けた。ソウは寝台の上にあった黒い布を手早く頭に巻き上着を手にすると、センが止めるのも聞かず、愛情のつまったレンガ造りの建物を飛び出した――外は陽射しが溢れようとしていた。
生まれたときからついて回る忌むべき獣の耳。亜人の証。たったこれだけで、差別を受けなければいけない理不尽な人生。全てが悲しくて苦しくて、明るい光が差さない日陰の人生は、これが原因だった。
人間と少し違う形をしているだけで、朝起きてから夜眠るまで管理される。辛い労働を強いられる者、望まない性を強要される者。何一つ自分で決めることはできなくて、何一つ欲しいものが手に入らなくて、泣いても叫んでも媚びてみても誰も耳を傾けてくれない。
自由を手にすることは勿論、夢見ることもできなかった。
だから奴隷を解放した煌華の町が、新天地だと思った。ここで新しく、誰が名づけたのか分からない蒼星という名を捨てて、生きていきたかった。
何も望まない。ただ穏やかに静かに、平坦で良いから生きることを楽しみたかった。一つの命を持つものとして。
だから、亜人だと知られることが怖かった。まだ根深い差別はこの街でも消えてはいない。表立って差別をすることがないだけで、蔓延る悪習はなくならない。それが怖くて耳を隠し黒い蘭を隠してきた。
センに出会い人柄を知り、愛情という大きな翼の下で、ようやく手にした日常は誰にも脅かされることなく、繰り返されていた。
だけどあの人に出会って、今まで自分が抱いたことがない感情を知った。切なく温かく泣きたくなるくらい深いそれは、同時に恐怖を隠していた。
知られたくない。こんな汚く醜い姿を。あの人に嫌われたくない。あの人に似合う存在になりたいけれどなれない自分の姿が、ますます嫌いになった。
どうして亜人なんだろう。夜寝る前に必ず考えた。今までも頭から離れたことはなかったけれど、あの人に会って一層考えるようになって、苦しかった。
こんな想い、捨てればきっと楽になる。誰かを好きになってしまうからこんなことになるんだ。分かっているけど、捨てることなんてできなかった自分が、かわいそうで愛しかった。
誰も抱き締めてくれなかったこの身体を、センに抱き締められて温められ、そしてアマネが微笑んでくれるだけで花開くように感情が息吹いた。
近くにいるだけで満足しなければいけない。これで良いんだ。時々あの人に会えるなら、それで幸せだ。あの人がこのさき誰かと時間を分け合うようになっても、それを見ることはきっと辛いだろう。けどこの気持ちを捨ててしまえる勇気もなかったから、それなら傷でさえ抱いて生きていくことが、僕らしいじゃないか。
泣きながらそんなことを考えて、少しでも前を向いていたかったのに。
知られてしまったから、もうこれ以上あの人の近くにいることはできない。
亜人とは分かり合えない。言われた言葉が無数の棘になり心を嬲る。
いっそ。消えてしまえたら――――楽になるのかな。そんな勇気もまた、自分にはないくせに考えて、自己嫌悪が大きくなった。
まだ夜明けにほんの少し届かない時間。星が廻りその輝きを朝陽に溶け込ませようかと薄れさせている。
ソウは泣き腫らした目でぼんやりと、味気ない古い床を見るともなしに見ていた。感じるのは自分の呼吸くらいで、祭りも終わり喧騒も遠ざかった路地には、鳥の声すら聞こえない。今日も鮮やかな青空が広がるのだろうか、澄んだ空気がひやりと隙間風として入り込んだ。
獣の耳も黒い蘭も隠さなくていいので、ふわりと花の芳香を含んだ空気の流れを繊細な耳に感じる。人間よりも聴覚がいいそれは、しかし何も聞こえなかった。
思考が麻痺してなにもかもを拒絶している。誰の声も、自分の泣いている声でさえも遠くに聞こえて苦しさだけが増幅する。きっとどこか壊れてしまったのかもしれないが、そんなことはどうでもいいと、ソウは思った。
壊れるならそれもいい。もうどうでも良い。
センが聞いたら泣いてしまうだろう事をぼんやりと思い、寝台に座り込んだまま視線を巡らせた。
カーテンの隙間から、窓の外が見える。その硝子に、自分の顔の半分が輪郭を映していた。明かりがないから鮮明とは言えないけど、それでもはっきりと見えるのは頭にある異質なくらい大きなものだった。
虚ろな目がそれを見つめ、白い顔が薄く微笑んだ。いつも滲むように微笑む口許が、歪んだ弧を描く。感情のない笑みはソウを作り物のように見せた。
アマネに亜人だと知られてから数日。ソウは家から一歩も出ず、誰とも会わない日を過ごしていた。元々怪我のために出れなかったということもあるが、センにすら会いたくなくて、毎度作ってくれる食事も扉の前に置いてもらうということを繰り返していた。センはソウに焦らせるつもりはなく色々考えることもあるだろうと、できるだけそっとしてくれる。それに甘えた。
だが空腹も感じるし、湯浴みも促されればする。毎日着替えを用意され、朝には顔を洗い食事を運ばれ、人形のようにそれを受け入れている。食べると吐いてしまうことが多いが、少ない量でも消化されるそれによって、生きることはできる。ソウが好きな果物や野菜を、センはいつも用意してくれていた。
ミカゲによって殴られた傷も腫れも、首のあざも殆ど消えた。身体は代謝を繰り返し、生きている。心がそれについていかないだけだ。ソウの身体も回りも確実に日々を繰り返しているというのに。
昼夜を問わず呆れるほどに溢れる涙を、ソウは一人拭う。ただ一人のことを想い、自分の身の上を憎み、途方にくれて泣いているうちに疲れて眠ってしまうのだが。
想う相手であるアマネは、毎日店を訪れソウに謝りたいと頭を下げていることを、センから聞き知っているが、ソウはそれを断っていた。
一体何を謝るというのか。ソウには分からなかった。会えばあのときの事を思い出してまた混乱しそうだったのと、歯止めの利かなくなった気持ちが何を言うのか分からなくて怖かった。
アマネを責めたいのか、それとも愛しいと伝えたいのか、自分で自分が分からなかった。
「アマネ様……」
名を口にして、ソウは立ち上がった。ふわりと視界が揺れて思わず呻くと膝を折った。膝が震えて力が入らない。眠っても休息にならない眠りは逆に体力を消耗しているように感じる。震える下肢に何とか力をこめて立ち上がると、ゆっくりと窓際に身を寄せた。センが少し前に飾ってくれた花は瑞々しく咲いている。凛とした花は、今の自分とは正反対のように思えた。
細い指でカーテンを開けると、硝子にはっきりと映りこんだ自分の影に、ソウは息を呑んだ。
肩を覆う長さの亜麻色の髪は乱れ、まるで、影だけ見ると本当の獣のようだ。
「醜い……これが、僕なんだ……」
いくら他人が褒めれくれても、ソウは自分の容姿が嫌いだった。整っているとも思わないし、美しいとも思わない。これのおかげでこんな目に合ったのだと、思っているくらいだ。亜人という種族に囚われているソウには、影ですら醜く憎らしかった。
「これさえ……なければ、これ……耳が、なければ……」
誰もいない部屋で、ソウは溢れる涙を抑えることなく繰り返した。震える手を持ち上げて硝子に映った影、その耳に触れる。冷たく硬い感触が指先に返ってきた。硝子に映る耳に触れるはずもないのに、爪を立てそこを掴もうとした。
「これが、いけないんだ。こんなものがあるから、亜人だから……人間じゃ、ない、から……ど、うして、亜人なんかに……」
嗚咽がこみ上げてソウの喉が引きつった。感情のうねりが身体を突き動かす。怒りと悲しみとで気がふれそうだった。
ふらつく身体に力を入れ、細く頼りない手で拳を作り、ソウは大きく振り上げるとそれを思い切り影に向かって叩き付けた。
静寂に包まれ明るくなり始めた時間に、硝子の砕け散る音が咆哮のように響いた。二階にある部屋の硝子は派手な音と共に外に飛び散り、地面に破片を落とす。
その音に、隣で休んでいたセンが飛び起きる音が聞こえた。壁をはさんだ向こう側で、センがソウの名を呼んだ。
ソウは自分で割った硝子の音に、弾かれたように手を伸ばした。木枠に残った鋭利なその破片を、血にまみれた手で掴み引き抜く。加減を知らない掴み方に、掌に硝子が刺さって痛みを感じた。だがそれも気にならないのか表情を変えない白い顔は、開いている手で獣の耳を掴んで引っ張った。
「これがあるから、駄目なんだ……こんなもの、いらない……」
滴る血が鮮やかな花弁を思わせる。手にした硝子をじっと見下ろした亜麻色の瞳の中に、狂暴な光が滲んだ。
そうか、もっと早くこうしていればよかったんだ。ソウはうっすらと艶やかに微笑んだ。陶酔した笑みを浮かべながら硝子を耳にあてがい、押し当てるとまるで弦楽器を奏でるようにゆっくりと引きおろした。
皮膚の薄い耳が、わずかだがさくりと切れる感覚に身震いした。不思議と痛みは感じなかった。
「ソウッ!?」
センが扉を押しやり部屋に駆け込んできたが、ソウはそれに気付かないまま更に硝子で耳を削ぎ落とそうとした。
「ソウ!! 何してるんだいッ。やめなさい!!」
センは壊れた窓の前で奇行に及んでいるソウに、心臓が止まりそうなほど驚愕した。自分で自分の耳を切るなんて、普段穏やかなソウからは信じられない行為だった。それこそ気がふれたように、センは泣きながらソウから硝子の破片を奪おうとする。
そんなことをしても何も変わらない。自分が傷つくだけだ。壊れたように流れてくる涙で視界が滲む。背の低いセンは両手をあげてソウの腕を掴んで下ろそうとしたが、亜人であるが故の強靭な力がソウの感情の昂りによって解放されているのか、女であるセンの力が弱いからか、ビクともしなかった。
「こんなことしてなんになるのッ!? お願いだからやめておくれ!!」
「……分からないよ……」
見上げるソウの顔は穏やかなほどだった。耳から流れ出た血が亜麻色の髪を濡らし、頬に流れる。俯いた拍子に前髪を伝ったそれが、向かいあうセンの視界を落ちて行く。
ソウは耳から両手を離して、センを見下ろした。潤みを帯びた瞳は、涙を湛えて冷たい色を燈していた。
「センには……分からない」
「……ソウ?」
「センは人間だから、僕のことなんて、僕たちのことなんて、本当は分からないよ。僕が、どれだけ僕を嫌いか……どれだけ、にんげん、に……なり、たいか……」
目を閉じてソウは搾り出す言葉を必死で止めようとしたが、もう止まらなかった。こんなことをセンに言いたいんじゃない。やめろ。センには感謝しているし愛しているんだ。僕の家族じゃないか。言っちゃいけないんだ。
だが、もう止まらなかった。
「センには僕の気持ちはわからない!! センは人間だから亜人の苦しみも悲しみも理解できないんだッ!!」
叫ぶようにソウは言葉を放っていた。苦しくて眩暈がして、言った後に大きくふらついた。それを支えてくれたセンの手を、ソウは更に撥ね退けた。
違う、その手を取りたいのに。また抱き締めてほしいのに。
支離滅裂だった。心で思うことと行動が伴わずに、混乱した。センから後ずさりながらも、決してセンに言ってはいけない言葉を投げつけた。理性が利かなかった。
そんなソウを、センは驚き、悲しそうに見るだけだった。だがその中に決してソウを責めようとはしない深い愛情があった。それがありがたいのに、ソウはますます頑なになってセンから離れた。目に血が流れ込み、視界を赤く染めた。
身体の痛みより心が痛かった。肩で大きく息をして、泣きながらセンを責めるソウは扉の前で立ち止まる。自分を見返して泣いているセンに、ソウは投げつけた言葉を思い返し嗚咽を漏らした。謝りたいが、言葉が出なかった。長く沈黙が二人の間をたゆたった。
「ソウ……引っ越そうか……」
破ったのは、センだった。目をきつく閉じて感情を宥めようとしていたソウは、その言葉に顔を上げる。
「あんたがアマネ様の傍にいることが辛いなら、私はこの街を出ても良いと思ってるよ。あんた一人じゃ、この街から出たらまた奴隷にされるかもしれないけど、私と一緒だと、うちの子だって切り抜けることができるだろう?」
辛い言葉をぶつけられてセンも驚いたが、それくらいで薄れる愛情ではなかった。ソウのことを考え、何が一番なのかと数日前から考えていたが、今思い浮かぶのはここを離れることしかなかった。穏やかに微笑んでセンはソウに一歩近づく。だがソウの身体が見てわかるほどに強張った。
「ソウ?」
「……駄目だよ。センにそんなことさせられない。散々、今までも迷惑をかけてきたのは僕なのに。これ以上……」
「迷惑なんてあるものか。今更水くさいこと言ってるねぇ」
できるだけいつものようにセンは笑った。この子が本当にそれを望むなら、センは引越しだって厭わないつもりだ。
だがソウはそこまでしてくれるセンに、感謝よりも申し訳なさのほうが大きかった。この街で築いてきた関係を全て投げ出してまで、自分についてきてもらうわけにはいかない。恩返しもできていないのに迷惑しかかけることができなくて、しかも今まで人間から与えられて溢れた感情をぶつけてしまった。センに嫌われても仕方がないことを言ったのに。
「僕が、出て行く」
ソウは真っ直ぐにセンを見返して言った。自分に何が出来るかと、瞬間的にこれしかなかった。
「え……」
「僕が出て行けば、アマネ様を困らせることも、センを困らせることもしないですむから。僕が、この家から出て行くよ」
掌から硝子が落ち、尖った音をたてて床で砕けた。ソウは寝台の上にあった黒い布を手早く頭に巻き上着を手にすると、センが止めるのも聞かず、愛情のつまったレンガ造りの建物を飛び出した――外は陽射しが溢れようとしていた。
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