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19.変局
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道を挟んだ家の呼び鈴を鳴らすのに、これほど緊張したこともなかった。
夕暮れが完全に終わり、夜が滲んでくる時間。ソウはアマネの家の前にいた。
涼やかな音が小さく鼓膜に届いた。それから少しして、目の前の扉が開かれる。
「どなただろうか」
低い声と共に姿を現したのは、金色の髪に深緑の瞳を持った男。見上げなければいけない長身は、穏やかな表情の中、光を閉ざした瞳を空ろげに動かした。
「あ、あの……」
すんなりと言葉が出なかった。家を出る前にあれほど考えていた挨拶も、いざアマネを目の前にすると、思考の外に流れ出てしまった。唇が震えてきて、何を言えば良いのかも分からないまま、ソウは亜麻色の瞳でアマネを見上げる。
時間をおいて会った分、馬鹿みたいに想いが溢れて来たのを感じた。しなやかに伸びた手足もソウとは違って男らしい容貌も、こんなに美しく愛しく見えるものなのか。
一瞬でも瞳を逸らしたくない。逸らしてしまえばもう見ることができなくなる。焼き付けるようにソウの目が見つめていると、ふと視線を下に落としながらアマネは微笑んだ。子供のように邪気のない、ソウが心奪われてしまったその表情で名を呼ぶ。
「ソウ? 元気になったのか?」
声も嬉しそうに弾んだアマネは、手を差し伸べようとしたがふと思いとどまった。大きな掌はソウに触れることなく下ろされていく。以前に触れられることが怖いと言っていたことを思い出したのだろう。思わずその手に触れたくなって、しかし自分が言ったことがそれを遠ざけたことを理解しているソウの手も、中途半端に持ち上げられたまま空を掴んだ。
「はい。あの……ご心配頂き申し訳ありませんでした」
センから一度アマネに会ったこと、そして病気で寝込んでいると説明したと聞いていたので、ソウは深く頭を下げて詫びた。嘘がどんどん重なっていく。
それが苦しかった。だが全て自分が悪いのだ。
亜人だから。それをアマネに知られたくなくて嘘をついたことも自分のせいだ。本当のことを話せない、話したくない気持ちが膨らみ続けて苦しい。眉間に皺を刻みながら頭を上げたソウに、アマネは溢れんばかりに笑みを浮かべた。
「そうか。それはよかった。ここに来ることも負担になっていたのなら申し訳ないと思っていたんだ。ソウのことも考えずに無茶なことを言っていたのではないだろうか」
気遣うように眉根を下げたアマネに、ソウは慌てて首を横に振った。
「そんなことはありません。アマネ様にはお世話になってばかりで、こちらこそ申し訳ない気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました」
「俺は何もしていない。ソウに本を読んでもらってる怠け者だ」
気軽な様子でアマネは笑った。勉強に付き合っているのはカグラなのだからと言い、自分はお茶を入れて待っているだけだと。
「アマネ様が、お茶を淹れてくださるのも……とても嬉しかったです。それに私が本を読むのも、聞いてくださるのがアマネ様だったから……」
最近はそれほどでもなかったが、正直読み聞かせを始めた頃はひどかったと思う。緊張していたこともあって、たどたどしく、読めない箇所もあった。それを笑ったり呆れたりすることなく、アマネは付き合ってくれた。子供が読むような内容の本でも、楽しそうに付き合ってくれたあのなんでもない時間が、ソウにとっては宝物のように大切だ。
何かを語り合ったわけでもないし、互いのことはまだまだ知りえていないだろうけれど、身体の中から安心して穏やかに感じたのはアマネだけではなかった。ソウもまた、アマネが纏う雰囲気や分かち合う時間に癒されていた。惨めな嫉妬心でさえ忘れてしまえるほどそこには癒しがあって落ち着けた。
だけど、もうそれはなくなる。
ソウは長い睫毛を伏せがちにして、手にした糸を差し出した。
「これは、お礼です。受け取ってください」
「え?」
受け取れと言われ、アマネが再び手を持ち上げた。そこにソウは買ってきた糸を置く。そのときソウの細い指先が一瞬だけアマネの掌に触れた。それだけで鼓動が弾んでしまい、火傷でもしそうな感覚に咄嗟に手を引いた。
きっとあれ以上触れてしまったら、ここで終わろうとしている気持ちが消し飛んでしまうだろう。目に映るアマネの顔がうっすらと滲んでくるのを懸命に堪えながら、ソウは一歩後ろに下がった。
「アマネ様とカグラ様のおかげで、文字も読めるようになりました。もう……これ以上は、お二人に迷惑をかけるわけには参りません。ですから……あの、もう今日から……」
そこまでやっとの思いで口にして、言葉がつまった。口許を押さえて我慢するようにソウは呼吸を詰めてやり過ごす。
こんな言葉だけで自分の気持ちが片付くはずなんかないのは分かっている。でもそれをどうにかしなければいけないのだから、ここで引いてはいけないのだ。乱れる思考を必死にかき集め、ソウは顔を上げると微笑んだ。見えていないだろうけれど、アマネに何度も泣き顔を見せるわけにはいかない。
「小さくて、お客様もあまり来ない店ですけど、センだけに任せるわけにはいきません。店番も大事な仕事のうちですので、今までどおり働きます。これから、あまり会うことはないのかもしれませんが、アマネ様も……身体には、気をつけてくださいね……」
これだけ近くにいても、外出することがあまりないアマネと、同じくしないソウだと、会うことは極端になくなる。近くて遠いこの妙な距離は、やはり濁流の大河が間にあるように思う。せっかく架かっていた本という橋も飲み込んで壊してしまうような流れは、ソウのアマネへの特別な感情だろうか。これもきっと自分が悪いのだ。
どうしても零れてしまった涙を拭い、ソウはそのままアマネに背を向けた。
「おい、ソウ!?」
砂利道を踏みしめるソウの足音で、一方的に言われっぱなしだったアマネが我に帰ったように目を瞬き、離れた気配を頼りに一歩踏み出した。だがそれから先に足を踏み出すにはアマネの視界は暗すぎた。
「じゃあ、私は戻りますね。アマネ様、カグラ様が心配されるでしょうから家の中にお戻りください」
振り返りながらソウは笑って言い、そのまま離れる。後ろ髪を引かれる思いを知ったのはこれがはじめてだ。また、アマネから新しい感情を学んだ。
ソウはそのまま、センの店の前を通り過ぎた。泣いた顔で戻ればまた心配をかけてしまう。少し散歩でもして帰れば気もまぎれるだろうと思ったからだ。
今日の昼間に買ってもらった白い装束は、夜の闇の中でも仄明るい光を纏ったように目立った。花の刺繍が静かに撫でていく風に咲き誇り、ソウの容姿を艶やかに飾り立てた。
その美麗な外見が苦痛に歪んでいなければきっと、天使そのものだっただろう。
口許を手で隠したまま、ソウは声を堪えていた。力なく歩く脚が重くて仕方がない。身体の中に鉛の塊でもあるのだろうか。踏み出す足がよろめき躓きそうになる。
やはりあの人が好きなのだ。ほんの短い時間でも、会えば感情が昂るのは必然だった。カグラが責めようとも、センが認めてくれなくても、消えることがない忌まわしい黒い蘭よりもはっきりと、刻印として感情はソウの中にある。鮮やか過ぎて見ることすら憚れるような神聖な感情だ。
この姿を映してくれない瞳に、アマネの心に、少しでも自分がいたのだろうか。それすら確かめることができなくて、諦めることができない気持ちの行き場がなくなって、ソウはただ足を動かして離れることしかできなかった。
細い路地は入り組んでいる。立ち並ぶ家々からは明かりが漏れ、時折楽しそうに笑う声、誰かを呼ぶ声が聞こえる。街は夜を通して祭りの気配を滲ませているので、いつもより騒がしい。でも一人歩くソウは、時々すれ違う者に涙を見られないように俯いて、ただ歩いた。
大きな通りから一本奥まった路地を歩き続けるうちに、ようやく涙がひいてきて、ソウは視線を持ち上げた。雲がない夜空は星の瞬きを湛えている。ひんやりとした風が勢い良く吹き上げて、ソウの纏っている装束が大きく揺れた。肌寒くてふるりと震えたその肩を、突然強い力で掴まれたソウが、驚いて力がこめられた方向を振り返った。
「久しぶりだな。蒼星」
振り返った先の手の主は、懐かしさすら覚える名でソウを呼んだ。ソウがいくらか視線を持ち上げないといけない高さにある顔に、ソウは信じられないものを見たように目を見開き、同時に心臓を掴みあげられたように硬直した。
鈍い金色の髪にそれとは真逆の太陽のような黄金の瞳がそこにあった。頭にあるのは黒い獣の耳。そして背後に見える黒い尻尾。体格のいいその男は、じっと黄金の目でソウを見つめ、口許に笑みを浮かべていた。
「ミ、カゲ……」
なぜこんな所にこの男が。ミカゲと呼んだ男は三年前までソウがいた屋敷の、同じ亜人で奴隷だ。ミカゲを見つめるソウの脳裏に、あの記憶が甦ってくる。
虐げられて苦しかったこと。辱められて痛めつけられたこと。人間のあざ笑う声に素肌を這うおぞましい感触。誰にも心を開かなかった、あのときの震える自分が目の前に溢れてきて、あまりの恐怖に装束に隠された脚ががくがくと震え始めた。
「ど……して……」
どうしてここにいるのだと問いたかった。しかしそれよりも早く、ミカゲがソウの細く頼りない両の肩に手をかけて力いっぱい押した。道幅の広くないそこで、ソウは後ろにあった煉瓦造りの壁に背中を押し当てるしかできなかった。実際叩きつけるように加えられた力のおかげで、頭をぶつけてしまった。
「いッ……」
衝撃が脳を揺らしたかと思った。痛みとくらりとした感覚に思わず目を閉じて耐えた。脚から力が抜けそうになったが何とかそれを堪えて瞼を持ち上げると、覆いかぶさるように見つめてくるミカゲの顔がすぐそこにあった。
「ずいぶん色艶が良くなったじゃないか。ここの暮らしは安泰のようだなぁ」
からかうようにミカゲは笑った。それは記憶にあるミカゲよりも陰惨で、歪な弧を描く口許がソウを良く思っていないことを表していた。
両肩におかれていたミカゲの手がぎりっと骨を掴みかかる。元々肉付きの薄いソウは食い込んでくる痛みにますます顔を歪めて呻いた。
「ど……して、ミカゲが……」
「俺か?」
痛みに耐えながらソウは何とか言葉を押し出した。黄金の瞳が楽しそうに笑みの形に変わる。それはあまりにも見ていて恐ろしく感じた。まるで獲物を見つけて歓喜する獣のようだった。
「お前がいなくなってからご主人が大層荒れてなぁ。俺たち労働者にも八つ当たりでたいがいなことをしてくれたぜ?」
クスクスとミカゲの口から笑いが零れた。至近距離だった顔が更にソウの白い顔に近づいてくる。唇さえ触れそうなミカゲの顔が薄暗い夜の中で更に笑った。
「お前のせいで、俺たちがどれだけ苦渋を嘗めさせられたか教えてやろうと思ってな。お前を探してたんだよ」
「な……」
瞬間、ソウの中で吹き上がったのは連れ戻されるという恐怖だ。またあの屋敷に戻るのか。ミカゲの瞳を見返しながら、亜麻色の瞳が限界まで開かれた。
ミカゲはそんな反応が堪らなく嬉しいのか、また笑いを零した。だがふと歪な笑みをしまい込み、ミカゲは妖しく光を湛えた瞳を眇めた。
「蒼星。お前……本当に綺麗になったなぁ。こんなに綺麗な奴は他に見たことがない……」
「なに……言って……」
肩の痛みが更に強くなった気がした。亜人は人間に比べると力が強い。だが骨格自体は亜人も人間も大差がないと聞いている。骨が軋むように小さな音を立て始めたのを感じたソウは、このままではいけないと思い痺れた両腕を持ち上げてミカゲを何とか離そうとした。ミカゲの瞳の中に浮かぶ色にも、恐怖を覚えたからだ。
まるであの人間を思い出す。屋敷で権力を振りかざし横暴だったかつての主人。劣情を燈した不快な瞳。下卑た笑み。今のミカゲはまさにその人間と同じ顔をしていた。
「はな、して……」
震える手でミカゲの胸あたりを押し返そうとしたとき、ミカゲがソウの肩から手を離してそのまま頬から頭に手を持ってくると、そのまま掴みあげた。
「ひッ……!」
目を見張ったソウが声を上げようとしたが、その唇がミカゲのそれに塞がれて外に漏れることはなかった。
夕暮れが完全に終わり、夜が滲んでくる時間。ソウはアマネの家の前にいた。
涼やかな音が小さく鼓膜に届いた。それから少しして、目の前の扉が開かれる。
「どなただろうか」
低い声と共に姿を現したのは、金色の髪に深緑の瞳を持った男。見上げなければいけない長身は、穏やかな表情の中、光を閉ざした瞳を空ろげに動かした。
「あ、あの……」
すんなりと言葉が出なかった。家を出る前にあれほど考えていた挨拶も、いざアマネを目の前にすると、思考の外に流れ出てしまった。唇が震えてきて、何を言えば良いのかも分からないまま、ソウは亜麻色の瞳でアマネを見上げる。
時間をおいて会った分、馬鹿みたいに想いが溢れて来たのを感じた。しなやかに伸びた手足もソウとは違って男らしい容貌も、こんなに美しく愛しく見えるものなのか。
一瞬でも瞳を逸らしたくない。逸らしてしまえばもう見ることができなくなる。焼き付けるようにソウの目が見つめていると、ふと視線を下に落としながらアマネは微笑んだ。子供のように邪気のない、ソウが心奪われてしまったその表情で名を呼ぶ。
「ソウ? 元気になったのか?」
声も嬉しそうに弾んだアマネは、手を差し伸べようとしたがふと思いとどまった。大きな掌はソウに触れることなく下ろされていく。以前に触れられることが怖いと言っていたことを思い出したのだろう。思わずその手に触れたくなって、しかし自分が言ったことがそれを遠ざけたことを理解しているソウの手も、中途半端に持ち上げられたまま空を掴んだ。
「はい。あの……ご心配頂き申し訳ありませんでした」
センから一度アマネに会ったこと、そして病気で寝込んでいると説明したと聞いていたので、ソウは深く頭を下げて詫びた。嘘がどんどん重なっていく。
それが苦しかった。だが全て自分が悪いのだ。
亜人だから。それをアマネに知られたくなくて嘘をついたことも自分のせいだ。本当のことを話せない、話したくない気持ちが膨らみ続けて苦しい。眉間に皺を刻みながら頭を上げたソウに、アマネは溢れんばかりに笑みを浮かべた。
「そうか。それはよかった。ここに来ることも負担になっていたのなら申し訳ないと思っていたんだ。ソウのことも考えずに無茶なことを言っていたのではないだろうか」
気遣うように眉根を下げたアマネに、ソウは慌てて首を横に振った。
「そんなことはありません。アマネ様にはお世話になってばかりで、こちらこそ申し訳ない気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました」
「俺は何もしていない。ソウに本を読んでもらってる怠け者だ」
気軽な様子でアマネは笑った。勉強に付き合っているのはカグラなのだからと言い、自分はお茶を入れて待っているだけだと。
「アマネ様が、お茶を淹れてくださるのも……とても嬉しかったです。それに私が本を読むのも、聞いてくださるのがアマネ様だったから……」
最近はそれほどでもなかったが、正直読み聞かせを始めた頃はひどかったと思う。緊張していたこともあって、たどたどしく、読めない箇所もあった。それを笑ったり呆れたりすることなく、アマネは付き合ってくれた。子供が読むような内容の本でも、楽しそうに付き合ってくれたあのなんでもない時間が、ソウにとっては宝物のように大切だ。
何かを語り合ったわけでもないし、互いのことはまだまだ知りえていないだろうけれど、身体の中から安心して穏やかに感じたのはアマネだけではなかった。ソウもまた、アマネが纏う雰囲気や分かち合う時間に癒されていた。惨めな嫉妬心でさえ忘れてしまえるほどそこには癒しがあって落ち着けた。
だけど、もうそれはなくなる。
ソウは長い睫毛を伏せがちにして、手にした糸を差し出した。
「これは、お礼です。受け取ってください」
「え?」
受け取れと言われ、アマネが再び手を持ち上げた。そこにソウは買ってきた糸を置く。そのときソウの細い指先が一瞬だけアマネの掌に触れた。それだけで鼓動が弾んでしまい、火傷でもしそうな感覚に咄嗟に手を引いた。
きっとあれ以上触れてしまったら、ここで終わろうとしている気持ちが消し飛んでしまうだろう。目に映るアマネの顔がうっすらと滲んでくるのを懸命に堪えながら、ソウは一歩後ろに下がった。
「アマネ様とカグラ様のおかげで、文字も読めるようになりました。もう……これ以上は、お二人に迷惑をかけるわけには参りません。ですから……あの、もう今日から……」
そこまでやっとの思いで口にして、言葉がつまった。口許を押さえて我慢するようにソウは呼吸を詰めてやり過ごす。
こんな言葉だけで自分の気持ちが片付くはずなんかないのは分かっている。でもそれをどうにかしなければいけないのだから、ここで引いてはいけないのだ。乱れる思考を必死にかき集め、ソウは顔を上げると微笑んだ。見えていないだろうけれど、アマネに何度も泣き顔を見せるわけにはいかない。
「小さくて、お客様もあまり来ない店ですけど、センだけに任せるわけにはいきません。店番も大事な仕事のうちですので、今までどおり働きます。これから、あまり会うことはないのかもしれませんが、アマネ様も……身体には、気をつけてくださいね……」
これだけ近くにいても、外出することがあまりないアマネと、同じくしないソウだと、会うことは極端になくなる。近くて遠いこの妙な距離は、やはり濁流の大河が間にあるように思う。せっかく架かっていた本という橋も飲み込んで壊してしまうような流れは、ソウのアマネへの特別な感情だろうか。これもきっと自分が悪いのだ。
どうしても零れてしまった涙を拭い、ソウはそのままアマネに背を向けた。
「おい、ソウ!?」
砂利道を踏みしめるソウの足音で、一方的に言われっぱなしだったアマネが我に帰ったように目を瞬き、離れた気配を頼りに一歩踏み出した。だがそれから先に足を踏み出すにはアマネの視界は暗すぎた。
「じゃあ、私は戻りますね。アマネ様、カグラ様が心配されるでしょうから家の中にお戻りください」
振り返りながらソウは笑って言い、そのまま離れる。後ろ髪を引かれる思いを知ったのはこれがはじめてだ。また、アマネから新しい感情を学んだ。
ソウはそのまま、センの店の前を通り過ぎた。泣いた顔で戻ればまた心配をかけてしまう。少し散歩でもして帰れば気もまぎれるだろうと思ったからだ。
今日の昼間に買ってもらった白い装束は、夜の闇の中でも仄明るい光を纏ったように目立った。花の刺繍が静かに撫でていく風に咲き誇り、ソウの容姿を艶やかに飾り立てた。
その美麗な外見が苦痛に歪んでいなければきっと、天使そのものだっただろう。
口許を手で隠したまま、ソウは声を堪えていた。力なく歩く脚が重くて仕方がない。身体の中に鉛の塊でもあるのだろうか。踏み出す足がよろめき躓きそうになる。
やはりあの人が好きなのだ。ほんの短い時間でも、会えば感情が昂るのは必然だった。カグラが責めようとも、センが認めてくれなくても、消えることがない忌まわしい黒い蘭よりもはっきりと、刻印として感情はソウの中にある。鮮やか過ぎて見ることすら憚れるような神聖な感情だ。
この姿を映してくれない瞳に、アマネの心に、少しでも自分がいたのだろうか。それすら確かめることができなくて、諦めることができない気持ちの行き場がなくなって、ソウはただ足を動かして離れることしかできなかった。
細い路地は入り組んでいる。立ち並ぶ家々からは明かりが漏れ、時折楽しそうに笑う声、誰かを呼ぶ声が聞こえる。街は夜を通して祭りの気配を滲ませているので、いつもより騒がしい。でも一人歩くソウは、時々すれ違う者に涙を見られないように俯いて、ただ歩いた。
大きな通りから一本奥まった路地を歩き続けるうちに、ようやく涙がひいてきて、ソウは視線を持ち上げた。雲がない夜空は星の瞬きを湛えている。ひんやりとした風が勢い良く吹き上げて、ソウの纏っている装束が大きく揺れた。肌寒くてふるりと震えたその肩を、突然強い力で掴まれたソウが、驚いて力がこめられた方向を振り返った。
「久しぶりだな。蒼星」
振り返った先の手の主は、懐かしさすら覚える名でソウを呼んだ。ソウがいくらか視線を持ち上げないといけない高さにある顔に、ソウは信じられないものを見たように目を見開き、同時に心臓を掴みあげられたように硬直した。
鈍い金色の髪にそれとは真逆の太陽のような黄金の瞳がそこにあった。頭にあるのは黒い獣の耳。そして背後に見える黒い尻尾。体格のいいその男は、じっと黄金の目でソウを見つめ、口許に笑みを浮かべていた。
「ミ、カゲ……」
なぜこんな所にこの男が。ミカゲと呼んだ男は三年前までソウがいた屋敷の、同じ亜人で奴隷だ。ミカゲを見つめるソウの脳裏に、あの記憶が甦ってくる。
虐げられて苦しかったこと。辱められて痛めつけられたこと。人間のあざ笑う声に素肌を這うおぞましい感触。誰にも心を開かなかった、あのときの震える自分が目の前に溢れてきて、あまりの恐怖に装束に隠された脚ががくがくと震え始めた。
「ど……して……」
どうしてここにいるのだと問いたかった。しかしそれよりも早く、ミカゲがソウの細く頼りない両の肩に手をかけて力いっぱい押した。道幅の広くないそこで、ソウは後ろにあった煉瓦造りの壁に背中を押し当てるしかできなかった。実際叩きつけるように加えられた力のおかげで、頭をぶつけてしまった。
「いッ……」
衝撃が脳を揺らしたかと思った。痛みとくらりとした感覚に思わず目を閉じて耐えた。脚から力が抜けそうになったが何とかそれを堪えて瞼を持ち上げると、覆いかぶさるように見つめてくるミカゲの顔がすぐそこにあった。
「ずいぶん色艶が良くなったじゃないか。ここの暮らしは安泰のようだなぁ」
からかうようにミカゲは笑った。それは記憶にあるミカゲよりも陰惨で、歪な弧を描く口許がソウを良く思っていないことを表していた。
両肩におかれていたミカゲの手がぎりっと骨を掴みかかる。元々肉付きの薄いソウは食い込んでくる痛みにますます顔を歪めて呻いた。
「ど……して、ミカゲが……」
「俺か?」
痛みに耐えながらソウは何とか言葉を押し出した。黄金の瞳が楽しそうに笑みの形に変わる。それはあまりにも見ていて恐ろしく感じた。まるで獲物を見つけて歓喜する獣のようだった。
「お前がいなくなってからご主人が大層荒れてなぁ。俺たち労働者にも八つ当たりでたいがいなことをしてくれたぜ?」
クスクスとミカゲの口から笑いが零れた。至近距離だった顔が更にソウの白い顔に近づいてくる。唇さえ触れそうなミカゲの顔が薄暗い夜の中で更に笑った。
「お前のせいで、俺たちがどれだけ苦渋を嘗めさせられたか教えてやろうと思ってな。お前を探してたんだよ」
「な……」
瞬間、ソウの中で吹き上がったのは連れ戻されるという恐怖だ。またあの屋敷に戻るのか。ミカゲの瞳を見返しながら、亜麻色の瞳が限界まで開かれた。
ミカゲはそんな反応が堪らなく嬉しいのか、また笑いを零した。だがふと歪な笑みをしまい込み、ミカゲは妖しく光を湛えた瞳を眇めた。
「蒼星。お前……本当に綺麗になったなぁ。こんなに綺麗な奴は他に見たことがない……」
「なに……言って……」
肩の痛みが更に強くなった気がした。亜人は人間に比べると力が強い。だが骨格自体は亜人も人間も大差がないと聞いている。骨が軋むように小さな音を立て始めたのを感じたソウは、このままではいけないと思い痺れた両腕を持ち上げてミカゲを何とか離そうとした。ミカゲの瞳の中に浮かぶ色にも、恐怖を覚えたからだ。
まるであの人間を思い出す。屋敷で権力を振りかざし横暴だったかつての主人。劣情を燈した不快な瞳。下卑た笑み。今のミカゲはまさにその人間と同じ顔をしていた。
「はな、して……」
震える手でミカゲの胸あたりを押し返そうとしたとき、ミカゲがソウの肩から手を離してそのまま頬から頭に手を持ってくると、そのまま掴みあげた。
「ひッ……!」
目を見張ったソウが声を上げようとしたが、その唇がミカゲのそれに塞がれて外に漏れることはなかった。
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