君の瞳が映す華

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1.解放

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    星の輝きが満ちる夜。
 世界が時の流れを数え始めて1154年目の年の暮れのこと。
 とある町の大きな屋敷の片隅。豪華な離れの中で、しなやかな手足を拘束された美しき亜人が、寝台の上で苦しげな吐息を零した。
 白くきめ細かい肌には痛々しくも妖艶な血が滴り、長めの亜麻色の髪が汗で額や背中に張り付き、薄い肉付きの肢体が震える。その様子は、まるで生まれ堕ちた天使のように見えた。
 髪と同じ亜麻色の瞳がどこを見るともなしに空を彷徨い、闇の中に広がる蝋燭の明かりをぼんやりと捕らえた。その瞳は涙を湛え、瞬きをした拍子にほろりと零れる。
 それを見ていた人間は、無垢な頬に流れたその雫に甘やかな味を想像し、無意識のうちに下卑た笑いを浮かべて舌なめずりをした。
「蒼星そうせい。お前は何もかもが美しいな」
 しなやかに伸びた手足を堪能するように、その上に人間の視線が這う。一糸纏わぬ緩やかな双丘から腰まわり、肩甲骨の浮いた背中。まろやかな肩。赤い雫の跡がまさに毛細血管のごとく見える白い身体が、その声にひくりと反応した。しかし声を出すことはなかった。代わりにわずかだが呻くような音だけが部屋の中を満たした。
「聞こえているのだろう? お前の大きな耳で私の声が聞こえないはずがなかろう」
 人間はくつくつと喉の奥で笑う。それから髪の間で見え隠れする、亜人の項に彫りこまれた黒い蘭の刺青を、無骨な指でなでた。それがおぞましく、亜人は更に身体を強張らせて緊張を露わにした。
「蒼星? 返事をしてみろ。おまえの主人は誰だ?」
 からかう中に情欲を隠した恐ろしい声。それを人の形とは異なる大きな獣の耳、鼓膜に受け止めることだけでも、死にたくなるほどに嫌悪感を伴う。しかし主人の命令は絶対だった。奥歯をかみ締めて息をつめ、罵倒したくなる感情を押し殺すと、蒼星と呼ばれた亜人は綺麗な形をした唇から声を発した。また、涙がほろりと零れた。
「はい。ご主人様……私が、心からお仕えする、主人は、あなた……です」
 心にもないことを言葉にしなくてはいけない。涙が続けて頬を伝った。人間よりも勝る嗅覚には吐き気を促すほどに焚かれた香も、蒼星の感情を逆なでする。普段なら泣いて暴れて、喉が焼ききれるのではないかというほどに抵抗を見せる蒼星だが、今日はそれを我慢した。いや、我慢できたのだ。
 今日でこのおぞましい夜が終わるから。
 亜人の運命を大きく変える時が迫っているからだ。それを糧に、振るってしまいたい拳をぎゅうと握り締めた。自らを痛めつける爪が掌に食い込むのも、痛くはなかった。
 人間は満足げに眉を上げたが、その蒼星の行動を不審がる素振りを見せた。首をかしげて無骨な掌で、女子かと見紛う滑らかな、何も纏っていない尻を撫でる。その感触は人間からすると極上の絹よりも滑らかで淫猥で、蒼星からすればおぞましい以外にない。
「今日のお前は、いつもと違うな?」
「そ、そんなことはありません……今日は、少し……香が、強く感じますので……」
 気付かれてしまってはいけない。蒼星の中に緊張が走る。艶を帯びた亜麻色の瞳を人間へと向ける。その長い睫毛の下の瞳を受け止めた人間は少し考えたようだが、部屋を蔓延る香に思考能力を低下させているのは確かだった。妙に焦点の合わない澱んだ目で蒼星を見つめたが、それ以上は追求しなかった。その代わりというように、棘のついた鞭で蒼星のしなやかな身体をおもむろに打った。空気を切る音とともにそれが打ち付けられ、白い身体が跳ね上がり悲鳴が上がる。
 先ほどから何度も打ち付けられた傷の上に、鞭が更に新しい傷を作る。焼けているような灼熱感と痛みに一瞬意識がとびそうになったが、失う前に新しく鞭を打ちつけられて、気を失うこともできない。
 人間は蒼星を抱くことはできない。本来はそのために買い付けたはずなのに。蒼星がこの屋敷に来たのはまだ年端もいかない頃だった。幼くしてもその美貌は際立ち、大きな耳さえなければ、また女性であれば帝の寵愛も受けられたのではないかというほどの容貌をしていた。だが、亜人に生まれ堕ちたために、その人生は奴隷という選択肢しかなかった。この国では昔から人間が頂点で、亜人と言われる種族は人間の下で生きていくしかなかったからだ。
 両親は早くに亡くなり、前の主人が子供は働き手として不十分だという考えだったので、仲買人に渡された。蒼星を受け取ったそれは、あまりの美貌にその日のうちに蒼星の項に黒い蘭の彫り物を施した。労働用ではなく、伽を専門にした奴隷として売り出そうとした。
そのおかげで蒼星には高い値がつき、今の主人に引き取られた。彫りの意味を知らなかった蒼星に、人間は最初は優しかった。他の奴隷たちとは別に部屋を与えられて、毎日身を清めてもらい、最低限でも温かな食事と寝床を与えられた。自分は何のためにここに売られてきたのか蒼星が知るまでは、まるで養子としてもらわれてきたのではないかと勘違いするほどだった。
 とびきりの金と時間をかけて肌を磨かれ、礼儀を教えられ、なに不自由なく育てられた蒼星が、本来の自分に科せられた役目を知ったのは二年ほど前、17歳になったときだった。自分より後から入ってきた同じ亜人が、主人に犯されたことを人づてに聞いたのだった。蒼星よりもいくつか年が上だった亜人もまた美しかった。蒼星にも優しく、見目麗しい青年は主人から受けた屈辱に絶えられずに一度の伽の後、主人に刃を突き立て処刑された。そのときの傷が元で、人間は不能になってしまったことは蒼星にとってよかったのかもしれないが、しかし今こうして狂気にも似た感情をぶつけられることも、蒼星を苦しめている。自分が少しばかり他の亜人より際立った外見で生まれてしまったから、こんな目に合っているのだと、かすれる意識の中でぼんやりと思った。
 性的に不能になってしまった人間は、亜人に対してますます嫌悪の感情を持つようになった。それは次第に暴力へと変化していき、蒼星の身体が大人になると、伽ではなく痛めつけることで快感を求めるようになった。労働を目的とした亜人でも、ここまで痛めつけられることはないだろうというほどに、蒼星に対しての暴力は激しさを増していく。人間よりも体力があり、回復も早いことが、それの狂気を更にかき立てた。
 奴隷に関しては最低限の法律が存在する。罪を犯した者以外は肉体的処罰はしてはいけない――はずだった。人間に比べれば処罰の対象項目も多いし、正直理不尽であることも多々あるが、サディスティックな趣向を持つこの人間のやることは常軌を逸脱している。血と涙に濡れる亜人が許しを請うのを何よりも愉しむ、下劣な感性を、蒼星は心の底から呪った。


 やがて嵐のような屈辱の時間が終わった。人間の方が香の効果でどろどろに意識を落としてしまい、何時しか何もかもを忘れて眠ってしまうからだ。蒼星が寝ている寝台から少し離れた、同じ部屋の中のもう一つの寝台に、人間は満足そうに倒れこむと瞬く間に鼾をかきはじめた。寝台から垂れ下がる、薄い斜幕の間から見える人間。贅沢をしみ込ませた脂肪まみれのなさけない身体がごろりと倒れ、それから深い眠りに落ちて行くのを、何とか意識をつなぎとめて蒼星は見守る。今日だけは堕ちてはいけない。いつも解放された安堵から来る墜落に抗い、亜麻色の瞳をじっと憎い人間へと向ける。うつ伏せになり、手足を解放された全身に走る痛みにも抗い、自分の血で汚れた寝台のシーツを握り締めながら。あと少し、あと少しだ。
 いくらか時間が経ち、夜がますます深くなってくる。起きている人間の方が少なくなってきた時間であることを、大きな窓から見える月の位置で確認した蒼星は、ゆっくりとした動作で寝台を軋ませて起き上がった。高価なシーツが乾いた赤黒いもので汚れている。夜風が緩やかに吹き抜けるので、蒼星が流した汗も涙も血もすっかり乾いてしまっていたが、その跡が残っているのだと思うと不快だった。生乾きの傷からは少し触ると血が滲む。できるだけそれらを触らないように、無造作に投げ捨てられていた自分の服で、肌をなぞり少しでも穢れをはらうように清めた。全身が緊張していたので強張り上手く動かない。震える手でなんとか膝下までの長衣をまとい腰紐を締める。白い肌に刻印のように刻まれた傷は、それでいくらか隠すことができた。早くここから出たい。心はそう思う。
 しかし蒼星の瞳が何かを探すように巡らされた。傷よりもなによりも、隠さなくてはいけないものがあるからだ。趣味の悪い調度品の並んだ大きな部屋の中で、それはあっさりと見つかった。淫靡な香が満たされた部屋の中を早く出たくて仕方がない。しかしまだ香も効いているし、痛みのせいですんなりと動かない。何とか立ち上がって、ゆるりとした動作でそれを手に取った。大きく長い、身に纏う絹を。
 それは蒼星のものではなく、先ほどまで鞭を振りかざしていた人間のものだった。感情の読めない蒼星の瞳がそれをじっと見下ろしていたが、やがて壁に取り付けられている大きな鏡の前に行くと、それを頭に巻きつけ始めた。髪を、亜人であると一目で分かる大きな耳を隠すように。そして首にも巻く。自分で見ることは普段はできない、しかし見るものが見れば自分が何のために使われるのか分かるうなじの刺青。艶やかに咲き誇る蘭。忌まわしき呪いでしかないそれを髪の毛で覆い、更に上から隠すと、整った目許から口許しか見えなくなっていた。
「こうすると、人間と変わらない……」
 亜人にもいくつかの変貌を遂げたものがいる。蒼星のように耳だけを残したもの。それに加えて尻尾があるもの。そして歩行を含めて振る舞いは人間であるが、容貌から体毛まで獣であるもの。それぞれに進化した亜人の中でも、蒼星は人間に近い。いっそのこと耳さえなければ。そう思ってしまうことも多かった。嘆いても変わらない現実を日々考えずにはいられなかった。
 だからこそ、今日なのだ。
 亜麻色の瞳に決意を滲ませて、蒼星は鏡に背を向けた。そのまま一度だけ、寝台の上で眠りこけている人間に瞳を置く。二度と会うこともないだろう、会うもんかと、心の中で呟くと、質素なサンダルを履き部屋を後にした。
 亜人は身体の造りが人間よりも強固だ。列柱回廊を音もなく走りぬけ、構造を知り尽くしている屋敷の中を抜ける。亜人も人間も眠っている時間は静かで、夜目が利く蒼星の瞳に影すら映ることはなかった。建物を抜け庭を抜けると、邸宅らしい大きく立派な門があった。それは蒼星の身長よりも高く、しっかりした足場もないために飛び越えるのは困難だろう。と人間が考えて作ったものだった。しかし蒼星には難なく越えられるものでしかなった。今までこの門を、敷地を離れなかったのは、ただ亜人が主人に逆らっては生きていけない現実があったからだ。
 じっと、亜麻色の瞳で門を見上げている蒼星の、粗末な服が夜風に揺れる。何度かゆれ動いた瞳を一度地面に落として、蒼星は大きく呼吸を繰り返した。
 痛む身体は、屋敷の中を走っただけで悲鳴を上げた。この状態でどこまでいけるのか分からない。目的の街までたどり着くのかも分からない。月の出ている間に、少しでも動かなければ。日中暑さの厳しいこの国では移動時間も限られている。
 もし、見つかれば。その後の自分の命すらないのかもしれない。
「でも……」
 引き締めた唇からぽつりと零れた。だらりと下げていた両手で、鉄の門を握る。長い睫毛の下の瞳が、空を見上げると無数の星が視界に映った。それから再び唇を引き締めた。両手に力を入れ、かろうじて足場となるだろう門の細工の箇所に細い足先を引っ掛けると、渾身の力をこめて地面を蹴った。
 ひらりと、蒼星の身体が宙を舞った。
 自由を手に入れたい。それだけが蒼星の願いだった。
 蒼星の暮らしていた町より東へ50キロほどの街。この国で都の次に大きなそこでは、今日、奴隷解放の条例が施行される。
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